16.マルクスの逆襲


 

主題の本を読んだ。(三田誠広著、集英社発行)

「実は、日本はマルクス主義国家だったのだ」と三田氏は言う。私がこれに類する発言を耳にするのは、これが3回目である。前2回のことについては、この随筆の中で言及している。2. アエロフロート機内にて)しかし今回は単に風聞として聞き流すには、インパクトが強すぎる。それだけ三田氏の活字に力があったと言うことだ。三田氏はその理由を次のように説明している。(P.137140抜粋)

   

               NZ・テアナウ湖−1

1.      敗戦による財閥の解体、農地解放、インフレ等の結果、日本には資産家がいなくなった。つまり貧富の格差がなくなって、すべてが大貧民ということになった。敗戦という過酷な出来事は、実は「革命」と同じ効果があったといえるのかもしれない。

2.      だが、日本にプロレタリアート独裁は存在しない。あるのはファシズムの時代の統制経済を担った官僚機構だ。つまり、国家主導によるインフラ整備という、社会主義と同じシステムで、日本の戦後復興はスタートしたことになる。

3.      敗戦によって日本はゼロから出発したから、その段階ではアジアの開発途上国と同列に並んでいたのだが、官僚も国民も、せめて戦前のレベルに戻りたいという具体的なビジョンが描けたから、当面の貧しさに耐え、持続的に努力することができた。

4.      幸運にも、絶妙のタイミングで朝鮮戦争が起こり、外需が増大して、日本の経済は加速度的な高度成長を遂げることになる。

5.      国民はまだ大貧民のままで消費を抑制している。余った資産のすべてがさらなるインフラ整備に投入された。製鉄や造船などの従来の基幹産業に加えて、石油化学工業という、まったく新しい分野への投資が実現した。ナイロンなど石油から生産される新たな繊維産業が発展していく。基幹産業の整備で鉄やプラスチックの供給が可能となり、ここから家電やエレクトロニクスの分野でも産業が成長していく。

6.      ここまでの展開を見ると、戦後日本の経済成長は、まさに社会主義と同様の統制経済によって成立したことが見えてくるだろう。

7.      実は、日本はマルクス主義国家だったのだ。だからマルクスの予言のように、資本主義国家を追い越すような高度経済成長が実現した。

8.      マルクスがまちがっていなかったことのまぎれもない証拠が、日本の経済成長だということもできる。「マルクスの夢は日本で実現されたのだ」

   

              NZ・テアナウ湖−2

そして最後に三田氏は、読者に向かって次のように呼びかける:

「今からでも遅くはない。団結しようではないか。そして、新しいコミュニティーを築くために、一歩を踏み出すのだ。ゲバ棒を持つ必要はないし、過剰に禁欲的になることもないが、金銭の魔力に惑わされずに、一人一人が良識を持ち、自分にできることを少しずつ始める。まずは家族を大切にすることだ。仲間と楽しくやることも大切だ。そして郷土や、この国のため、自分にできることはないかと考えてみる。そこから、この国の未来が開ける。マルクスの逆襲が、これから始まるのだ」(P.202203)と。

日本はマルクス主義国家だったのか?

マルクスは共産主義革命後の具体的な青写真は提示しなかったが、かつての日本に存在した社会は、本当に理想的なマルクス主義の国家であったのであろうか。

私はそうは思わない。たまたま、経済成長が目覚ましく、貧富の格差が小さく、疎外感を感じて生きる人も少なく、国民総中流意識で過ごせた時代があった。後から振り返ってみたら、あの時代が理想的な社会主義社会だったのではないかと、それを失ってみて初めて気が付いた。あたかも、健康な時はそれが当たり前に思っていたが、病気になって健康を失った時、初めて健康の大切さに気が付くように。それは全くマルクス主義とは関係のない社会なのだ。

その証拠に、当時、少しでもマルクスをかじっていたものが、「今がマルクス主義国家なのだ」と認識していた者は全く居なかったし、逆にあの時代を変革しようとあの手この手で画策していたのである。共産党しかり、社会党しかり、日教組しかり。今の教育界の悲惨な状態は、その多くの責任は日教組にあると言うべきだろう。当時の圧倒的多数の国民が、マルクスの説いた共産主義革命や、プロレタリアート独裁を排除したからこそ実現した社会であったのだ。

また、当時の日本をマルクス主義国家だとすれば「マルクス主義社会が成立する前」ではなく「マルクス主義社会が成立した後」にバブルが発生し崩壊し、恐慌に陥っている。社会主義の後にバブルが発生すると言うことは、全くマルクスの想定外であり、マルクス主義社会であるならば、経済は成長し続けなければならない。このことからも、日本の社会は、マルクスとは何ら関係のない社会であったことがわかる。それは、たまたま幾つかの偶然が重なって絶妙なバランスの上に存在した「混合経済」であったのだ。

その理想的な国家も瞬く間に、大きな債務を抱え、今や瀕死の状態である。船長の舵取りが間違うと、船は座礁する。国家もまたしかり。日本の社会は官僚によって復興し、同じ官僚によって崩壊の危機に直面している。その過程は、ソ連が初期の段階では、急速に経済的発展を遂げて、アメリカをも追い抜こうとする勢いであったのが、いつの間にか失速して、ついに崩壊してしまった事を、思い出さずには居られない。

   

              NZ・マウントクック

アーノルド・トインビーが「将来実現するであろう混合経済を見て、ある人は共産主義経済と言い、ある人は資本主義経済という時代が来るであろう」と予言している。

混合経済とは、「自由が制限された資本主義経済」もしくは、「自由に満ちた社会主義経済」と私は考える。

「自由が制限された資本主義経済」のイメージは:

1.税制を見直し、所得の再分配により、貧富の格差を小さくする。

2.金融資本に対する規制を強化し、投機的な運用が出来ないようにする。

自由に満ちた社会主義経済のイメージは:

1.プロレタリアート独裁ではない。

2.言論の自由が保障されている。

同じものを見てある人は資本主義経済と言い、また別の人は社会主義経済という。戦後の日本の経済体制がまさにそれであったのだが、しかし、マルクス主義とは全く関係のない、むしろマルクス主義の対極から生まれた経済体制である。マルクス主義とは似て非なるものである。

  

             NZ・ミルフォードサウンド

三田氏は次のようにも言っている。

「わたしはこの本を、マルクス主義の宣伝のために書いているわけではない。といって、マルクスの批判のために書いているわけでもない。貧富の格差をなくし、大貧民を救済するのが、マルクスの理念であった。その理念そのものが間違っていたとは、わたしは思わない。ただ理念を実現するための方法論にまちがいがあったのだろう。つまりマルクスには、何かが欠けていたのだ」(P.35)と。

そう言いながら、「方法論のまちがい」には最後まで言及することなく終わっているのは残念であった。しからば方法論の間違いとは何であったのか。ここで私はその結論だけを述べておきたい。

@     生産過剰と価格の高騰によるバブルの崩壊は、経済恐慌に行き着く。これは、資本主義経済にとって、ほとんど不可避の問題である。この現象と、剰余価値論を巧みに組み合わせて、共産主義革命を正当化した。しかし、真実は、剰余価値論に普遍性が無く、共産主義社会への蓋然性はあっても、必然性はないのである。

A     プロレタリア独裁とは、マルクス主義において共産主義にいたる過渡期に必要である   といわれた政治形態である(「ゴータ綱領批判」)。しかし、プロレタリア独裁を正当化することにより、独裁者の出現を容易ならしめる環境を醸成した。そして、この独裁によって他者の言論を封殺し、従わないものを文字通り死に追いやってしまった。これがマルクス主義における最大の汚点であろう。

B     やがて革命の正義に疑問を感じるようになり、労働意欲が減退してくる。平等を唯一の理想に掲げるマルクス主義社会では、労働の意欲をかきたてる、競争の原理も働かない為、マルクスが理想とした「豊で平等な社会」ではなく、「貧しくて平等な社会」に陥っていく。

   

                NZ・ミラー湖

されば、資本主義社会の分析において、マルクスは、搾取論、剰余価値論等を編み出した。しかしこの理論は、当てはまる時と当てはまらない時があって普遍性がない。マルクスの時代はこの理論が当てはまり、資本主義経済では、あたかも例外のない法則のように見えたのである(これは理論的誤りになる)。

そこで共産主義革命を正当化して、労働者を扇動し、革命後はプロレタリア独裁を正当化したのである。これが、マルクス主義における方法論の誤りといえるであろう。

資本論には論理的に欠陥があるものの(もっとも、論理的欠点があることは、まだ多くの人には共有されていない)、マルクスの平等理念には共感できるところが多い為、資本主義社会が恐慌に陥って、行き詰まったり、貧富の格差が大きくなって不満を感じる貧困層が増大したりするたびに、マルクス主義が息を吹き返してくる。将来もまたそうなるであろう。

しかし、これらの誤りをきちんと清算することなく、マルキシズムの復権を待望するような軽々しい発言は慎みたい。逆に我々は、そろそろ「マルクスの呪縛」から解き放たれて良いのではないだろうか。

マルクスの犯した間違いは何ら解決されないままで、「マルクスの逆襲」を認めることは、飛躍のしすぎではないか。それではまた今までのマルクス主義者と同じまちがいを繰り返すだけであろう。

   

               NZ・クイーンズタウン


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