19.トマ・ピケティの『21世紀の資本』を読んで


本書のゲラを校正している最中に、予約していたトマ・ピケティの『21世紀の資本』(山形浩生他訳、みすず書房、2014年)が手に入った。最近、新聞に書評が載り、世界中で大変な評判になっている本だと言う。ともかく、一読してみようと言う事だ。手にしてから1週間。私なりの読後感を書いてみたい。ピケティ分析は広範囲に及んでいるので、様々な観点から、様々な感想や議論が出てこようが、此処では、マルクスの資本論に関連した事に絞っている。

しかし、『21世紀の資本』はマルクスの資本論にはほとんど言及していない。正確に言うと、700頁余りの大作の中に、僅かに3箇所に出てくるだけである。

1.無限蓄積の原理(p.814

2.利潤率の低下(p.56

3.再び利潤率の低下(p.236 39

少しだけ引用してみる。

1.無限蓄積の原理(p.814

「たしかに共産主義革命は起こったが、でもそれは産業革命がほとんど起きていない、ヨーロッパの最後進国だったロシアで生じたものであり、ほとんどのヨーロッパ先進国は他の社会民主主義的な方向性へと向かった」

「マルクスはおそらく、1848年(共産党宣言を発表)に自分の結論を決めてしまっており、その結論を正当化するように研究を進めたのだ。マルクスは一目見てわかる通り、すさまじい政治的な熱意を持って書いたので、拙速な断言をいろいろやってしまった」(傍線とカッコ内引用者、以下同じ)

「さらに、資本の私的所有権が完全に廃止された社会(つまり共産主義社会)が、どんなふうに政治的、経済的にまとめられるのか、という問題についてはほとんど考えなかった。これは、何とも言いようがないほど複雑な問題であり、そのむずかしさは資本の私的所有権が廃止された国家(ロシア)で実施された、悲劇的な全体主義実験を見てもわかる」

「こうした制約にもかかわらず、マルクスの分析はいくつかの点で、いまだに有意義なものだ。まず、出発点(いわゆる資本の本源的蓄積)となる問題は重要だ。

もっと重要な事として、マルクスが提案した無限蓄積の原理(資本主義的蓄積の一般法則)には重要な洞察が含まれており、これは19世紀と同じく21世紀の研究でも有効である。

特に、1980年代から1990年代以来、ヨーロッパの富裕国や日本で実現された、極めて高い水準の民間財産水準は、マルクス主義の論理をそのまま反映したものだ」

2.利潤率の低下(p.56

「資本収益率は多くの経済理論で中心的な概念となる。特にマルクス主義の分析は利潤率がだんだん低下すると強調する。この歴史的な予想は全くまちがっていたが、おもしろい直感がここには含まれている」

3.再び利潤率の低下(p.236 39

「マルクスにとって『ブルジョワが墓穴を掘るおもなメカニズムは、私がはじめに無限蓄積の原理と称したものに起因するメカニズムだ。資本家たちがかつてない量の資本を蓄積したことが、結局は否応なく収益率(すなわち資本収益)を低下させ、最終的には投資家自身の転落を招くということになる。マルクスは数学的モデルを使わなかったし、かれの散文は必ずしもわかりやすくなかったので、マルクスの考えについては断言しにくい」

この様に、ピケティはマルクスを批判しつつもマルクスの考え方に一定の理解を示している。そして、「必ず共産主義社会になる」と言う歴史的な予想は間違いだったと言いつつ、「利潤率の傾向的低落の法則」の正否については断定を避けている。

マルクスの資本論は、資本家と労働者の対立、即ち資本家による剰余価値の搾取を基本に論じているが、ピケティは、所得階級を上流、中流、下流と3段階に区分して、上流階級と下流階級との所得格差を論じている。マルクスの時代は中流階級が存在しなかったのか、中流階級には言及していない。逆に、ピケティは剰余価値論には全く言及していない。

さて、マルクスとピケティは偶然、互いに2つの法則を資本主義経済の中に発見している。

マルクス

その1:資本主義的蓄積の一般法則(不変資本の相対的増大と可変資本の相対的減少)

その2:利潤率の傾向的低下の法則(P= mC

マルクスが発見した2つの法則については、本書の後編「資本論分析」で検証し、結論としてそれが誤っていた事を証明した。ピケティの2つの法則は如何であろうか。

ピケティ

その1:資本主義の第1基本法則(α=r×β)p.5660

ここで、

r=資本収益率(資本所得÷投資された資本価値)例えば5%

β=資本国民所得(資本は国民所得の何年分蓄積されているか)例えば600

α=資本所得÷国民所得(国民所得における資本所得のシェア)例えば30

国民所得=資本所得+労働所得

従って、第1基本法則(α=r×β)は次のように置き換えられる。

資本所得÷国民所得=(資本所得÷資本)×(資本÷国民所得)

この式は純粋な会計上の恒等式だから(右辺は左辺を変形させたものだから、右辺の分母子を資本で約せば左辺と同じになる)証明は不要である。従って、歴史上のあらゆる時点のあらゆる社会に当てはまる。

この式の意義は、資本主義システムを分析するための三つの最重要概念の間にある、単純で明確な関係を表現した事にある。その三つの最重要概念とは、上記の繰り返しになるが次のようである。

資本所得比率(β)

所得の中の資本シェア(α)

資本収益率(r

その2:資本主義の第2基本法則(β=sgp.173179

ここで、

β=資本国民所得(資本は国民所得の何年分蓄積されているか)例えば600

s=貯蓄率、例えば12

g=成長率、例えば2

国民所得の総成長率=1人当たりの成長率+人口増加率

従って、第2基本法則(β=sg)は次のように置き換えられる。

資本÷国民所得=貯蓄率÷成長率

2基本法則の意味は、たくさん蓄えて、ゆっくり成長する国は、長期的には、(所得に比べて)莫大な資本ストックを蓄積し、それが社会構造と富の分配に大きな影響を与える。

但し、この法則が成立するには次の3つの前提条件があるとピケティは言う。

@    「この法則は、漸近的、つまり長期的(数十年)に見た場合のみ有効。また、この法則は動的プロセスの結果であり、経済が向かう均衡状態を表しているが、この均衡状態が完全に実現することはない」

A    「第2法則が有効なのは、人間が蓄積できる資本に注目した場合だけである。国民資本の相当部分が、純粋な天然資源(例えば豊富な産油国)なら、βは貯蓄の恩恵を全く受けなくても、非常に高くなる」

B    「第2法則が有効なのは、資産価格が平均で見て、消費者物価と同じように推移する場合だけ。不動産や株の価格が他の物価より急速に上昇すると、国民資本の市場価値と、国民所得の年間フロートの比率βは、新たな貯蓄が加わらなくても非常に高くなりかねない。しかし、価格変動が長期的にならされるなら、2法則は必ず成り立つ」

「第2法則は、世界大戦や1929年の危機(極度のショックの例とされる出来事)を説明できないし、資本所得比率に対する短期的ショックも説明できない。だが、ショックや危機の影響が無くなった時に、資本/所得比率が長期的に向かう潜在的な均衡水準は教えてくれるのだ」

ピケティの第1法則は単に会計的な公式であるから、資本主義に特有の法則と言うものではない。ましてや、彼が発見した法則でもない。第2法則は、前提条件が満たされた時にのみ成立するものだから、かなり限定的であり、慎重に運用しなければならない。前提条件@では、「この均衡状態が完全に実現することはない」と言い、前提条件Bでは「第2法則は必ず成り立つ」と言っている事に矛盾を感じるが、これは数字が常に動いているから、左右の数字が完全に一致することはないが、「限りなく一致に近づいて行く」と言う事であろう。

実は、ピケティの『21世紀の資本』で特筆すべきは、上記の2つの法則よりも、むしろ「基本的不等式:r g」である。(P.2730

ここで、rgは以下のようである。

r =資本収益率

g =その経済の成長率、つまり所得や産出の年間増加率

ピケティはこの基本的不等式を、論理的必然ではなく、歴史的事実と考えている。それ故、この不等式には「法則」の称号が与えられていない。しかし、ピケティは歴史の中からこの「基本的不等式r g」を発見し、発見した後は、この不等式を使って資本主義社会における「格差の拡大する傾向性」を論じている。

世界の趨勢として、高度成長期にgの値は大きくなり、安定期に入るとgの値は小さくなる。また、二つの大戦が有った時、資本が減少してrは小さくなった。だから、戦後の一時期この不等式が通常とは逆のrgとなる事が有った。しかし、特別な時期を過ぎると、不等式はいつもrgである。

日本人が総中流と言われた高度成長時代、つまり、日本にこそ理想的な社会主義があるとロシア人に言わしめた時代、日本は富裕層の資産への課税率が高かったため、格差が小さく成長率も高かったのだとピケティは言う。

富(stock)と所得(flow)の2面から格差の推移を観察すると、資本主義社会では、所得に累進課税を課すだけでは、格差は広がるだけであり、格差を広げない為には、富にも累進課税を課すべきである。と言うのがピケティの主張である。

21世紀の資本」に関しては、多くの関心が寄せられ、既にいくつかの問題点が指摘されている。例えば、結論に都合のよいデータを使っている。推論の方法に誤りがある等である。しかしピケティは、それらの幾つかを認めつつも、結果は変わらないと言う。

彼は格差拡大の傾向を強調してその対策として、資産課税を提唱している。しかしこれは、政治的な要因も多く孕んでいるため、その傾向性を表示するだけで、後は読者の判断にゆだねると言う、穏健な論調を展開している。従って、「共産主義の到来が必然である」かの如く説いたマルクスの資本論ほどのインパクトは無いが、しばらくの間は、注目されて行くであろう。

格差問題をテーマとして論じれば、どうしても富裕層より、貧困層に味方する論調になってしまう事はやむを得ないが、本書でも随所にそういう部分が出てくる。

例えば、スーパー経営者(スーパーの経営者ではなく、大企業のCEO等の事)が得る高額報酬は、リーズナブルであるか?

ハーバード大学で学ぶ両親の平均所得は、米国の所得階層でトップ2%に入っている。これは、教育の機会均等、能力主義と言う建前に合致していると言えるのか?等である。私が読後に感じる心地よさは、ピケティが「社会正義とは何か」を問題提起した事と無縁ではない。

格差問題は富裕層には耳の痛い話で、あまり話題にしたくないかもしれない。しかし、歴史をひもとけば、格差は資本主義時代に限らず、封建時代も、奴隷制時代も、必ず自明のものであった。その格差を無くそうとしたのが共産主義であるが、それは悲劇的な全体主義の実験に終わってしまった。人間に欲望という本能がある限り、残念ながら格差は無くなりそうもないのである。                    (20151月)



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