1.チェコ

 

 

準備段階

 

今回の旅行は、次女の旅行のお付き合い。次女が「ヨーロッパへ初めて旅行したい」と言うので、「地域によっては付き合ってもいいよ」と応じた次第。次女が日程の都合を最優先に決めたのが、「中欧4カ国9日間」のパッケージツアー。主催旅行会社のHISに申し込むと、キャンセル待ちになりますが、宜しいでしょうか?」との事。丁度1ヶ月前になってキャンセルが発生し、希望が叶う事になった。

 

旅程を見ると、ウィーンではオペラ「魔笛」の観賞が含まれていた。私がオペラを鑑賞したのは、まだ新婚時代に、ミラノ・スカラ座が東京に引越し公演をした時の1回だけである。その時は、リカルド・ムーティ指揮によるプッチーニ作曲「ラ・ボエーム」で、舞台芸術の見事さに感動したことが忘れられない。今回の「魔笛」は、その序曲と、2,3のアリアについては聞き知っているが、全体のストーリーは知らないままである。

 

そこで予習の為に図書館から、漫画の「魔笛」(音楽之友社)と、DVDの魔笛を借りて来た。漫画で描かれた薄い絵本が、初心者の私には分かり易く、全体のストーリーを理解するのには好都合であった。その上でDVDを観ると、一つ一つの場面が手に取るように理解できたのである。「漫画と言って決して侮れないな」と思った次第。これで「魔笛」の予習はばっちりだ。

 

久しぶりのパッケージツアーで、個人旅行と違うので日記を書くことはしないで置こうかとも考えたが、両者の間にどういう違いが出てくるか、書いて見なければ分からない。そして、パッケージツアーは、苦労が少ない分、印象に残る事も少なく、時間の経過と共に記憶から消えてしまう事が早い。これらを考えて書き留める事にした。

 

 

1030日(土)

 

今夕、台風16が関東に上陸か?と言う状況での出発。

AM11:00、妻の運転でJR佐倉駅へ。AM11:17佐倉発の快速電車で成田エアーポートへ。電車の中は空席がまばらにあり、私と次女は離れ離れに座った。私の隣の女性は「ネスレの研修でバングラデッシュから来ました。日本では色々な事に感動しました」と言っていた。

 

AM12:00HISの受付カウンターで、フライトのチケットをもらい、チェックインカウンターへ。その後、チェコ・コルナとハンガリー・フォリントの両替を少々。手荷物検査と出国審査を通過して15番ゲートへ。PM1:30フライトの予定が、機材の到着遅れと、出発の順番待ちで、PM2:30のフライトになってしまった。オランダのアムステルダム空港での乗り継ぎ時間が2時間しかないのに、1時間も出発が遅れて大丈夫かしら?

 

台風の影響か、外は風雨が強くなっている。かなり強引だなと思われる空模様の中、飛行機は飛び立った。案の定、機体は上下左右にかなり揺れている。次女は「少し気分が悪くなってきた」と言う。飛行機は成田から新潟上空を通過して、ロシアの上空に差し掛かるまで、40分から50分間ほど揺れ続けていた。

 

私の隣に座っているのは、28歳位の青年。機内では、時間も十分にあったので、様々な事に話が及んだ。彼は大学院を卒業後A社に入り、インクジェットの開発部門で働いている。今回の旅行は仕事を兼ねて、ベネルックス3国を自転車で観光すると言い、折りたたみ式の自転車(14万円)を持参している。これは彼の海外旅行のスタイルだ。その自転車は通勤用にも使用しており、自慢の優れものらしい。既にイギリスや中欧にも旅行しており、最近身近に接した青年の中では、飛び切り優秀で、恵まれた境遇に居るように思えた。

 

私が「自宅ではお宅の会社のプリンターを使用しているが、インク代が高すぎると思う」と言うと「僕もそう思います、プリンターを安く売って、インク代で儲けると言った詐欺みたいな商売です」と、あっさりと認めていた。純正品と摸造品との違いや、プリンターを使わなくてもインクは減っていく等の事についても語ってくれた。

 

機内食は全部で3回。2回目はニッシンのカップラーメン。私はお腹が空いていなかったので、カップラーメンは遠慮したが、両脇に座っている次女と青年はさすがに食欲旺盛だ。但し、配られたカップラーメンは、水分が殆ど無くなる位まで麺が吸収しており、「不思議な食感だ」と言っていた。前後に配られた機内食は、質量共にまずまずでした。

 

  

        アムステルダム・スキポール空港(オランダ)

 

11時間半のフライトを経て、10月31日、AM2:00(現地時間:10月30日、PM7:00)に、約500人の乗客を乗せた、KLMオランダ航空862便は、アムステルダムのスキポール空港に安着。引き続き、現地時間PM8:00発のプラハ行きに乗り換え。乗り換え時間が1時間しかない為、トイレ時間も取れず、大急ぎであった。

 

  

            プラハ・ルズィニェ空港(チェコ)

 

1時間半のフライトでPM9:30プラハ(Praha)に安着。日本時間では午前4時半になっているため、殆ど朦朧状態。機内で配られた小さなケーキにも手を付ける元気が無かった。機内放送ではプラーク(Prague)と言っていたが、これは英語の発音だ。日本では現地の発音で覚えられている。

 

プラハ・ルズィニェ(Praha-Ruzyne)空港のターンテーブルの周りで、飛行機に積んだ荷物が出てくるのを待ったが、我々のグループの中で、二人分が出てこなかった。添乗員の交渉で明日には届くようだが。逆に、受取人の無いトランクが3個在った。アムステルダム空港での載せ替えで間違えたのであろうか。

 

PM10:10、貸し切りバスで空港発。PM10:30、ホテル着。久しぶりに泊まる豪華なホテルだ。クラウン・プラザ・プラーク(CROWNE PLAZA PRAGUE)と書いてある。気温については随分心配していたが、外気も思ったほど寒くは無く、つまりオーバーコートを取り出して着る必要は無く、ホテルの中も快適な温度である。

 

部屋に入ったのはPM11:00を回っており、日本時間では午前6時だ。とりあえずシャワーを浴びて寝ることに。長い1日でした。なお、電源プラグはSEタイプでCタイプより幾分差込口が太いようだ。Cタイプでも使用可能なのかもしれない。

 

 

1031日(日) 天気晴れ、最高気温10

 

  

        クラウン・プラザ・プラーク(プラハのホテル)

 

  

            ホテル前を走るトラム

 

時差の関係でAM4:00には目が覚めてしまい、パソコンで日記を書いている。

AM7:30からバイキングスタイルの朝食。スープ、種々のパン、ヨーグルト、コーヒー、ジュース、フルーツ、ハム、どれも此れも皆美味しかった。あまり期待していなかったので嬉しい誤算でした。添乗員のTさん(実名はご遠慮しますとの事)に話すと「最初のホテルが良いと、これから先のホテルが心配です」と笑顔で言っていた。

 

AM9:30、ホテルを出発。今日(10月の最終日曜日の午前2時)から冬時間になり、時計の針を1時間遅らせる。日本との時差は8時間になった。現地の日本人ガイドは、細谷さんと言い40歳代か?プラハに住んで14年になると言う。この街が事の他、気に入っているようである。「ベルリンの壁が崩壊する前は、自由な観光が出来ず、役人が案内する所だけしか行けなかった」と言う。

 

プラハ市の外れにあるホテルから、専用のバスに乗ってモルダウ川Moldau:ドイツ語、現地語ではヴルタヴァ川Vltavaと言う)を渡ると市街に入る。プラハの中心街は、大きくカーブして流れる、モルダウ川に囲まれるようにして発展している。此処に旧市街とその周りに広がる新市街がある。

 

我々は細谷さんの案内で、街を歩いている。彼の担当は昼食時間までの半日。その間に街の要所を見て回るということで、密度の高い内容の説明が続き、メモを取るのが精一杯で、自分達が街の何処に居るのか、地図で確認しながら歩く余裕は無かった。そんな中で、印象に残っている所を、思い出すままに書いてみよう。

 

  

                火薬塔

 

1、火薬塔Mihulka Powder Tower

旧市街広場から東に500m程の所にある。くすんだ黒が印象的なゴシック様式(12世紀~15世紀)のこの建物は、もともとは1475年に建てられ、旧市街を守っていた城壁にあった門の一つ。17世紀に火薬倉庫として利用されていたのでこう呼ばれる様になった。塔の高さは65m

 

 

  

            観光用馬車(旧市街広場)

 

2、旧市街広場Old Town Square

プラハの心臓部とも言える広場。11世紀頃、教会や商人達の住居などが建てられる様になって、この広場が次第に形づくられていったと言う。以後、この場所は数々の歴史的事件の舞台となった。広場を取り囲む建物群にはゴシック様式(1315世紀)ルネサンス様式(1517世紀)、バロック様式(1719世紀)など、時代の異なる建築物が混在しており、広場を美しく彩っている。また、広場の北寄りに堂々と建つのはチェコの英雄ヤン・フス像で、この広場のシンボルである。

 

  

           正面にヤン・フス像(旧市街広場)

 

3、ヤン・フス像Statue of Jan Hus

ヤン・フスは15世紀のチェコにおける宗教改革の先駆者。本職はカレル大学の総長だった。敬虔なキリスト教徒だったフスはローマ教会の堕落を激しく批判した為、異端として1415年に火あぶりの刑に処せられた。旧市街広場のフスの像は、没後500年に作られた。

 

  

            ティーン教会(旧市街広場)

 

4、ティーン教会Church of Our Lady before Tyn

旧市街広場の東側に立つ、2本の塔がひときわ目を引くゴシック様式の教会。1135年に、創建され、現在の姿は1365年に改築されたもの。2本の塔は高さ80m。正式な名称は「ティーン(税関)の前の聖母マリア教会。15世紀前半には、フス派の本拠地として機能していた。

 

  

          聖ミクラーシュ教会(旧市街広場)

 

5、聖ミクラーシュ教会Church of St. Nicholas

ティーン教会とは対角にあたる旧市街広場の角にある。白壁のバロック様式(16世紀~19世紀)の教会。現在はフス派の教会となっている。

 

  

           左の建物が旧市庁舎(旧市街広場)

 

6、旧市庁舎Old Town Hall

旧市街広場を挟んでティーン教会と向かい合う様にして建つ、塔のある建物。塔の下部にある天文時計が有名。

 

  

               天文時計

 

7、天文時計Astronomical Clock

15世紀に作られ、当時のままの姿で今も動いている。縦に二つの円が並んでおり、それぞれ当時の宇宙観(天動説)に基づいた天体の動きと時間を表している。この時計を特に有名にしているのが、カラクリ人形の仕掛けである。毎正時が近くなると大勢の人々が、この仕掛けを見に時計の前に集まって来る。

 

  

            土産物店のボヘミアングラス

 

8、土産物店Gift Shop

この後、土産物店に寄った。ここにはボヘミアングラスを初め、高級な土産物が並んでいた。私は「ボヘミアン」という言葉に強く引かれ、ガイドの細谷さんに聞いた。「ボヘミアとはどの辺の地域を指していますか?」「チェコの西側一帯を言い、プラハがその中心地です」と言う。ならば自分たちは今ボヘミアの中心地に居るわけだ。しかし、この説明だけではボヘミアと言う概念を説明仕切れてない様に思ったので、帰国後調べる事にした。

 

  

              カレル通り

 

9、カレル通りCharles Street

旧市街広場からカレル橋までの細く曲がりくねった道。

 

  

               カレル橋-1

 

  

              カレル橋-2

 

  

               カレル橋-3 

 

       

         聖フランシスコ・ザビエル像(カレル橋)

 

10、カレル橋Charles Bridge

モルダウ川に掛かるプラハ最古の橋。カレル4世の命によって1357年に着工し、60年近く掛けて完成した、ゴシック様式の美しい橋だ。全長約520m、幅は約10mの大きな橋で、両側の欄干には聖人像が並んでいる。その中に、日本でもなじみの深い聖フランシスコ・ザビエルの像がある。

 

  

             プラハ城へ登る階段-1

 

  

              プラハ城へ登る階段-2

 

  

             プラハ城外側の広場

 

  

               プラハ城の門

 

11、プラハ城Prague Castle

モルダウ川西岸、小高い丘からプラハ市街を見下ろす歴代王の居城。名実ともにプラハのシンボル。9世紀半ばに建築が始まって、14世紀のカレル4世治世に現在の威容が整う。城壁に囲まれた広大な敷地には、旧王宮、宮殿、教会、修道院などが建つ。この門の脇には衛兵が直立不動で立っている。

 

  

           ヴラディスラフ・ホール(旧王宮内)

 

12、旧王宮Old Royal Palace

実際に歴代の王宮として使われていたのは16世紀まで。この中のヴラディスラフ・ホールは、14931503年にかけて造られ、長さ62m、幅16m、高さ13m。完成当時ヨーロッパ最大のホールであり、騎士の馬上競技や戴冠式などの国家行事に使用されてきた。1934年からはここで大統領選挙が行われている。

 

肋骨状の梁が支えるアーチ型の天井が印象的で、花びらの様な幾何学模様は、ゴシック様式(1215世紀)とルネッサンス様式(1517世紀)が融合した、世界の建築史に残る物である。

 

  

               聖イジー教会

 

12、聖イジー教会Basilica of St. George

 

920年に完成したこの教会は、現存する城内最古の教会と言われている。2本の白い尖塔が目印のこの教会は、ロマネスク様式(11世紀~12世紀)の建築物の中ではプラハ屈指の美しさを誇る。

 

  

             聖ヴィート教会-1

 

  

              聖ヴィート教会-2

 

  

              聖ヴィート教会-3

 

  

               聖ヴィート教会-4

 

13、聖ヴィート大聖堂St.Vitus’s Cathedral

この大聖堂は、もともと930年に造られたロマネスク様式(1112世紀)の教会であった。幾度かの改築後、現在見られる様なゴシック様式(1215世紀)への改築工事が着手されたのは1344年。完成したのは20世紀に入ってからの事であった。

 

ゴシック」とは「ゴート族風の」という意味で、もともとは「北方の野蛮人ゴート族風に、ゴテゴテしていて醜悪極まりない」と悪い意味の言葉でしたが、今ではゴシックは悪口でも何でもなく、一つの時代様式を表す用語として定着している。

 

  

             鹿の谷(プラハ城の裏)

 

  

              裏側から観たプラハ城

 

14、プラハ城の裏側Backyard of Prague Castle

プラハ城内を見学した我々は、プラハ城の裏側へ出て来た。静かな晩秋の気配が漂っていた。

 

 

さて、土産物店に寄った時に気になり、今回の旅行で何度か耳にした、「ボヘミア」について、調べた結果は以下の通り。

 

ボヘミアBohemia

1.チェコの西武地方を言い、プラハがその中心地。

2.1315世紀の王国、15261918年はハプスブルグ家の支配下、1934年-45年はドイツの保護領。

3.因習にとらわれない作家(芸術家)のたむろする場所、因習にとらわれない生活様式。

 

 

ボヘミアンBohemian

1.ジプシーとよばれてきた少数民族ロマのこと。

2.社会の習慣に縛られず,芸術などを志して自由気ままに 生活する人。フランスでは1830年頃パリに集まった、その日暮らしの貧乏な芸術家を、総称して呼ぶ言葉になった。また、ボヘミア地方の服飾が、ドイツなど西ヨーロッパに伝わり、芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアンという言い方も生まれた。

3.ボヘミア地方の民俗的なファッション。

4.少数民族ロマのイメージや,その民族衣装の要素を取り入れたファッション。

 

 

ボヘミアン・ルックBohemian look

1.ボヘミア地方の民族的スタイル

2.ジプシー・ルックのこと(ブレードやフリル使いの派手なスカートやボレロ、ショールなどが代表的アイテム)

3.第二次世界大戦前のパリの芸術家たちをイメージさせるスタイル(スモック・ブラウスやベレー帽の絵描き風スタイルや粋で独創的なスタイル)などをさす。

 

 

ボヘミアン・クリスタルBohemian Crystal

鉛が4%以下のものが普通のガラス、10%以上でクリスタルガラスといわれる。ボヘミア地方で作られ、鉛を24%以上含んでいるものは、ボヘミアン・クリスタルと呼ばれている。 以上。

この稿を書いている時、たまたまチャゲ&飛鳥が歌う「ボヘミアン」を聞いた。 

 

PM1:00、昼食。3時間ほど歩いたので、結構疲れた。細谷さんの話では、「1万歩は歩いたでしょう」と言う。もし一人旅ならば、当然1日たっぷりかけて歩く所であろう。

 

昼食のメニューはチェコの代表的な料理で、コンソメスープ(お麩のような、パンの耳のような物と、肉片が入っている)、ローストポーク、クネドリーキ(肉のミンチボール)、ザウアークラウト(キャベツの酢漬けを甘く煮たもの)。デザートは甘いケーキ菓子。オプションで、ピルスナー・ビールの大ジョッキ(40コルナ:約200円)。

 

美味しく感じたのは、ピルスナー・ビール。まずまずだったのがローストポークとデザート。他の物は、お口に合いませんでした。

 

PM2:30、昼食後はフリータイム。足の向くまま歩いたのは、

 

  

             ユダヤ人地区の土産店

 

  

            シナゴーグ(ユダヤ人地区)

 

1、ユダヤ人地区

旧市街広場から北北東に10分程歩くと、そこにはユダヤ人地区があり、5つのシナゴーグと旧ユダヤ人墓地がある。狭い墓地内には12000基もの墓石が折り重なっていると言う。我々は外から覗いてみるだけで中に入る事はなかった。

 

  

             モルダウ川(プラハ)

 

  

          モルダウ川に掛かるカレル橋(プラハ) 

 

  

            カレル橋の橋塔(旧市街側)

 

2、モルダウ川沿い

ユダヤ人地区からモルダウ川へ抜け、川沿いの風景を楽しみながら歩いていると、あちこちで演奏会のチラシを渡された。近くの劇場でモーツアルトの曲を聴かせると言う内容であった。「時間があれば行ってみたいのだが」と、後ろ髪を引かれながら再びカレル橋まで歩いてきた。カレル橋は相変わらず多くの観光客で賑わっていた。

 

  

              青空市場(プラハ)

 

3、カラクリ時計塔

それからカレル通りを歩いて、旧市街広場のカラクリ時計を目指す。路地が複雑に入り組んでいて、なかなか目的地に着かない。途中で青空市場を覗いていたら、添乗員さんとバッタリ。「カラクリ時計はすぐそこですよ」と教えて貰う。PM4:00のカラクリ時計のパフォーマンスになんとか間に合ったが、パフォーマンスは数十秒で、あっけなく終わった。

 

  

           旧市庁舎の塔から見た旧市街

 

  

          旧市庁舎の塔から見た旧市街広場

 

  

          旧市庁舎の塔から見たティーン教会

 

  

         旧市庁舎の塔から見たミクラーシュ教会

 

「旧市庁舎の塔に上がるとプラハの町が一望出来る」と聞いていたので、一人100チェコ・コルナ(約500円)の入場券を買って塔の中へ。時代遅れの、ゆっくり動くエレベーターと徒歩で展望台まで上がる。360度に広がるプラハの町を、カメラに収めるべくパチリ、パチリ。うまく撮れたかしら?

 

PM5:00、あたりも大分薄暗くなってきたので、そろそろ「ホテルへ帰って夕食にしよう」と言う事になったが、此処からが大変でした。まずトラムの乗り場が分からない。午前中に細谷さんの案内で歩いて来たのだが、地図をチェックしていない為、方角さえ分からない。次女がお土産屋さんに行って、日本人スタッフに聞いているのだが、説明する方も、聞いている方も地図を持たずに話しているから、何時まで経っても埒が明かない。

 

ホテルへの帰り方は幾通りもあるから余計話がまとまらない。私も参加して聞いていると、今朝の細谷さんの説明と異なるルートを教えようとしている。私の頭の中は混乱するばかりだ。細谷さんが教えてくれたルートの帰り方を確認して、トラムの停留所へ向かった。

 

まず近くの新聞等を売っているスタンドで、チケットを購入。126コルナ(約130円)。26番線のトラムに乗って、途中で20番線のトラムに乗り換える。26番線のトラムに乗りながら、乗換駅を訪ねた。皆親切であったが、結果として1人の青年が教えてくれた駅は間違いで、一駅戻る事になった。

 

一駅戻ってから待つこと20分。やっと20番線のトラムに乗る事が出来た。ホテルの前が終点であった。迷いながら、間違えながら歩いた所だけが記憶に残ると言う事も事実である。その後夕食の食料を買い出しにスーパーへ行くも、手頃な物が見あたらず、手ぶらでホテルへ戻り、PM7:30、夕食無しでベッドへ。お疲れさま!

 

ホテルでの有線のインターネットは使えるが、1時間150コルナ(約750円)と、使用料が高かったので止めた。

 

 

11月1日(月) 晴れ、時々曇り、最高気温15℃

 

時差が抜けず、AM4:00起床。パソコンを開いて日記を書く。

AM7:00、昨日と同じ、バイキングスタイルの朝食。一番楽しみにしていたスープが無くなっていた。今朝は中国人団体客が大勢来ていた。暫くしてから出て来たスープは昨日のスープとは全く違う、白色のスープであった。これも美味しくはあったのだが。

 

AM9:00の出発前に、次女がホテルの売店で、お土産用にクリスタルで出来た爪ヤスリを3本購入。店員が24ユーロを提示していたが、次女は20ユーロに値切って成功。なかなかやるものだ。

 

本日の観光地は2箇所。まず、チェスケー・ブディェヨヴィツェCeske Budejovice)に向かう。バスで2時間45分間の道程。車中、添乗員のTさんから、チェコに関する説明があった。

 

1.プラハの春

1968820日、ソ連軍と東欧共産主義諸国軍によって構成されるワルシャワ条約機構軍がチェコに侵攻。抵抗する市民の中には兵士たちによって射殺されたものもいた。また軍事介入に抗議する学生二人は、プラハ市内で焼身自殺を遂げた。

 

チェコにおいて「人間の顔をした社会主義」を指導していたドプチェク第一書記はモスクワに連行され、チェコにおける改革の中止を認める書類に署名を強制された。更に1969417日には、チェコ共産党の第一書記として保守派のフサークが選出され、チェコにおける自由化の動きは完全に押さえ込まれてしまった。

 

2.チェコ・スロヴァキア連邦国の連邦解消に至る経緯

ベルリンの壁崩壊後、1993年、二つの国に分離独立したのであるが、ユーゴスラビアが分離独立をめぐって内戦になった事と比較して、こちらは平和裏に成し遂げられたので、「ビロード離婚」と言う。

 

3.「我が祖国」の作曲家、スメタナ

スメタナは50歳で梅毒になって苦労したが、その後「我が祖国」を作曲した。第2楽章の「モルダウ」は、我々にも馴染みのある旋律である。

 

4.「新世界」の作曲家、ドボルザーク

功成り名を遂げたドボルザークは、晩年51歳でニューヨークに渡り、新大陸アメリカの情景を曲にしたのが「新世界」である。54歳で帰国している。

 

5.ビール醸造の歴史について

チェコはピルスナー・ビールが美味しいので有名だが、これには超軟水の水と、質の良いホップの量産が大きく影響している。ピルスナーとはチェコのビルセン地方を発祥とするビールのスタイルの一種である。日本ではラガービールがこれに相当する。有名なブランドに、バドワイザーがある。

 

一通り説明が終わると、Tさんは持参のCDで「我が祖国」と「新世界」を聞かせてくれた。長い道程を飽きないようにとの工夫が伺えて嬉しい。但しクラシック音楽の中での、私の好みのランキングから言えば、残念ながら両者ともかなり低い。トップは何と言っても、モーツァルト、ベートーベンである。

 

車窓からは、なだらかな起伏に富んだ麦畑が広々と展開されている。我々20人を乗せたバスは、晩秋のチェコの田舎の、良く整備された片道1車線上を快適に走っている。黄葉も盛りを過ぎて落ち葉が多くなっている。こちらの「こうよう」は、黄葉であって、紅葉ではない。カエデの木が見当たらず、赤く色付かないのだ。

 

AM11:00、途中のガソリンスタンドでトイレ休憩。売店の雑誌コーナーで、ふと一冊の週刊誌を手に取ると、これがモロ出しのポルノ!此処まで大胆な写真は久しぶりに見た。日本ではまだ此処までのポルノ解禁はされていないので、買って帰るわけには行かない。ポルノ比べでは日本の浮世絵といい勝負だ。

 

AM11:45チェスケー・ブディェヨヴィツェCeske Budejovice)に到着。

この街は、ボヘミア王国の勢力拡大に力を尽くしたプジェミスル・オカタル2世(Premysle Okatar Ⅱ)が、南ボヘミアの有力者ヴィートコフ家(Vitkov)に対抗すべく、1265年に王立都市を建設したのが始まりである。

 

  

            オカタル2世広場の黒塔

 

  

          マルシェ川とモルダウ川が合流

 

 

此処では1時間の自由散策になっているが、特に見るべきものもなく、少ない日数のツアーに、わざわざ此処を組み入れた事に疑問を感じた。四角いプジェミスル・オカタル2世広場の角に、高さ72mの黒塔が建っているのが唯一の特徴だ。私は次女と広場の裏手を流れている、マルシェ川とモルダウ川の合流する付近を歩いた。人気の少ない落ち着いた晩秋の黄葉を味わいながら。

 

帰国後に訪問記を書きながら、ネットで中欧の地図を見ていると、チェスキー・ヴディェヨヴィツェはすぐに表示されるが、この後に訪問して感動したチェスキー・クルムロフはなかなか表示されなかった。つまりチェスキー・ヴディェヨヴィツェは観光的にはさほど見るべき物は無いが、交通の要所であるらしい。ここで休憩しないと、この付近には適当な場所がないのだ。わざわざここに立ち寄った理由が分かりました。

 

  

           バドワイザー・ビールの本社

 

PM1:00バドワイザー・ビールの本社で昼食。

メニューは、スープ、チキンフライ(ハムが挟んである)とポテト、デザートのケーキ、ビール1杯付き。美味しく頂きました。

 

ビールの種類にはラガービールlager beer)ドラフトビール(draft beer)があって、下戸の私はそれをビン・ビール、生ビールと呼んでいたのだが、正確には、加熱殺菌した物をラガービールといい、加熱殺菌していない物をドラフトビールと言うらしい。英和辞典には、ドラフト(draft)とは、「液体を樽から出す事」とある。

 

  

            ホテル「オールド・イン」

 

PM2:25に発車したバスは、PM3:15チェスキー・クルムロフCesky Krumlov)のホテル「オールド・イン」(OLD INN)に到着。今夜の宿泊場所である。一旦チェックインを済ませて、PM3:45から、チェスキー・クルムロフ城内を散策しに出かけた。

 

  

           チェスキー・クルムロフ城へ

 

  

     モルダウ川に囲まれたチェスキー・クルムロフの町-1

 

  

     モルダウ川に囲まれたチェスキー・クルムロフの町-2

 

  

       チェスキー・クルムロフ城の裏手には水路もある

 

「地球の歩き方」によると、「チェスキー・クルムロフは、1992年にユネスコの世界遺産に加えられ、世界で最も美しい町のひとつである。大きく屈曲して流れるモルダウ川に優しく抱かれて、現代までその美しさを保ち続けてきたこの町は、13世紀に南ボヘミアの豪族ヴィートコフ家Vitkovによって城が築かれたのが始まり」と解説されている。

 

  

          チェスキー・クルムロフ城の庭園

 

 

  

          城館を結ぶプラシューティ橋

 

人口1万5千人の小さな町に、年間観光客は百万人に達すると言う。高台に築かれた城は、増築につぐ増築で、第4と第5の中庭の間には、プラシューティ橋がある。坂道を登りながらの見学は、回りの素晴らしい景観と相まって、どんどん高所に誘導されてしまう。しかし、中世そのままの歩きにくい石畳は、結構ハードで息切れを伴う散策となった。私は最上段にある城の庭園まで歩き、2時間ほどでホテルに戻って休んだが、「夜はライトアップされて更に美しかった」とは次女の話。

 

PM7:00、ホテルから歩いて行ける、同じ敷地内のレストランで夕食。

メニューは、ヌードル・スープ、鱒一尾とポテト、デザートはケーキ。オプションで、小生はバドワイザー(50コルネ:約250円)、次女はコーラ(40コルネ:約200円)。鱒は結構ボリュームのある大きさだが、美味しく料理されていたので完食。昼食時のビールが美味しかったので、夕食時も注文してみたのだが、身体が受け付けず、二口飲んでお仕舞い。

 

PM8:30、ホテルに戻って休む。

普段であれば、そのまま眠りに付くのだが、今夜は寝付かれなかった。それどころか段々と呼吸が苦しくなり身体が熱っぽくなって来た。最後はトイレに座って意識が朦朧となる中で脂汗をかく。暫くぶりの過呼吸症候群特有の症状である。一連の過程が終わって、ベッドに転がり込むと、何時の間にか眠ったようだ。AM3:30に目覚めた時には、殆ど気分が良くなっていた。「夕べは父のイビキで眠れなかった」とは次女の言。二人して夫々の状況で困っていたのでした。


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