4.
ハンガリー 11月4日(木)午後 PM12:40、ブラチスラヴァの半日観光を終えて、ハンガリーへ。車中、添乗員のTさんからハンガリーの歴史が語られた。 「東西の交通の要所に位置するハンガリーは、昔から波乱に富んだ歴史を織りなしてきた。 896年、騎馬遊牧民族であったマジャル民族(ハンガリー人の自称)が、紀元5世紀頃、ウラル山脈あたりから西への移動を始め、カルパチア盆地(現在のハンガリー)を征服した。 955年、アウグスブルクの近くでドイツ皇帝オットーの軍隊に敗北し、指揮官のブルチューたちが処刑された。 1000年、その息子のイシュトヴァーンは、マジャル人内部の異教徒との戦いに勝ち、キリスト教を国教とし、神聖ローマ帝国のオットー2世の後押しで、ハンガリー王国の初代国王の地位についた。カトリック教会では死後聖人として列せられている。 1526年、オスマン朝に敗北し、イスラム化が進む。 1686年、ハプスブルク軍がオスマン朝を破り、ハンガリーを支配。 1848年、ハプスブルクからの独立戦争に敗北。 第1次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー君主国は瓦解した。待望の独立を達成したハンガリーだが、敗戦国として国土の71%を失った。 第2次世界大戦でも三国同盟側に立ち、戦争末期のブダペストではドイツ軍とソ連軍が交戦し、町は焦土と化し、この時の夥しい弾痕が未だに残っている。 1949年、選挙後、「ハンガリー人民共和国憲法」を採択し、社会主義体制の道を歩み出す。 1956年、自由を求めて武装蜂起(ハンガリー動乱)するも、ソ連の武力介入で失敗。 1989年、ベルリンの壁崩壊時に果たしたハンガリーの役割は大きかった。東ドイツ市民は西ドイツへの亡命を求めて、ハンガリーやチェコ・スロヴァキアに殺到したのである。 一方、ハンガリーの名物は、香辛料のパプリカ、フォアグラ(ガチョウや鴨の肝臓)、貴腐ワイン等である」と。此処までがTさんの説明である。 PM2:20、トイレ休憩。550フォリント(約275円)のアイスクリームを買って、1000フォリントのハンガリー紙幣で支払った。フォリントの金額は数字を半分にすると日本円の金額に近い。 我々のバスは間もなく発車。人の姿が見えない、片道1車線の田舎道を何処までも走る。左の車窓に、時々ドナウ川が見え隠れしている。今回の日程表から移動日だけの走行距離を合計してみると、3日間で768kmになった。これは東京から岡山までの距離732kmより少し長い事が判る。かなりの強行軍であるが、オーストラリアでのアドベンチャー・ツアーでは、1日に800km走った事もあるから、それに比べたらまだ易しい行程だ。
屈曲するドナウ川 PM4:00、ヴィシェグラード(Visegrad)に到着。此処からは「ドナウの曲がり角」を一望出来るというが、既に太陽は西に傾き始めており、逆光にカメラを向ける事になった。果たしてどんな映像が取れているやら。この地方を「ドナウベント」と言うがそれはドナウ川の曲がり角(ベント:BEND)という意味だとTさんが教えてくれた。
13世紀に築かれた要塞 ガイドブックによると、15世紀のこの辺は、「地上の楽園」とうたわれる程の栄華を誇り、王宮跡や、標高315mの山頂には、13世紀に築かれた要塞もあるようだが、今回は何も見ることなく、ドナウ川のカーブをカメラに収めて終わり。この間、ほんの10分間でした!! ドナウ川は、ドイツのシュヴァルツヴァルト(黒い森)に水源を持ち、東に向かって流れて来るが、この地域で大きく南に曲がってブダペストを流れる。セルビア辺りで再び東に進路を取り、最後は黒海に流れ込む。全長2860kmの、ヨーロッパではヴォルガ川に次いで2番目に長い川である。今回の旅行でウィーン、ブラチスラヴァ、ブダペストと3ヶ国の首都を訪問するが、何れもドナウ川沿いの町である。2860kmの距離は、日本の地理で言うと、北海道の知床岬から沖縄までの距離になる。 一方、チェコのプラハ、チェスキー・ブジェヨヴィツェ、チェスキー・クルムロフの町を流れていたのはモルダウ川(ヴァルタヴァ川)である。こちらの水源はドイツとの国境に近いチェコ側の山(ボヘミアの森)で、しばらくはドナウ川と同じく東に向かって流れているが、チェスキー・クルムロフの辺りで北に進路を変えて、首都プラハを貫流。やがてドイツに入るとエルベ川に合流し、ハンブルグ付近で北海に注いでいる。したがって、モルダウ川とドナウ川が交わる事はない。 ここで、ドナウベントについて少々: ドナウ川を俯瞰すると、ドナウベントと呼ばれる地域でほぼ直角に「南」へ曲がっている。しかし、我々がヴィシェグラードで、バスから降りて見たドナウ川は、太陽の位置からして、どう見てもドナウの流れは西から来て「北」へ向かっていた。ガイドブックには「ドナウ川がほぼ直角に曲がって流れる景勝の地ヴィシェグラード」と紹介されているだけで、南北のどちらに曲がっているとは書かれていない。 私はその疑問を解く為に、グーグル・アースをクリックした。すると確かにドナウ川は、西から来て南に曲がっているのだが、それは大きく俯瞰した場合に言える事で、ドナウベントの辺りをクローズアップして細かく見ると、部分的には、北に曲がっている所があった。我々が立っていた高台は、丁度そんな場所であった様だ。自分の立ち位置とドナウの流れが、イメージと逆になっていたので混乱したのである。これで私の疑問は解消したのであるが、もしもこの解釈が間違っていたら、どなたか教えて下さい。
石畳のメインストリート(センテンドレ) PM4:45、センテンドレ(Szentendre)着。石畳の古い街並みを歩くが、通りの両脇に建っている家は、全部お土産屋さん。何カ所か覗いてみるが、似た様な物ばかり。日本人客が多いらしく、片言の日本語での接客だ。ある店員の前掛けには、日本語で商品の説明が書かれていた。我々はドナウ川近くの、メインストリートを歩いている様だが、暗くて何処を歩いているのか判らない。
中央広場(センテンドレ) ガイドブックには、「旧市街には7つの教会と15以上の美術館やギャラリーがひしめき、週末ともなればブダペスト市民も繰り出して大にぎわいとなる」と書かれているが、今回は何処にも行かずに、薄暗くなった小道を歩くだけ。PM5:30、ブダペストへ向かう車上の人となった。 PM6:15、バスはブダペスト(Budapest)のホテル、メルキュール・コロナ(Mercure Korona)に到着。このホテルは6叉路の一角に建っている。複雑な交差点を目にしただけで、一人で出歩く事に不安を感じた。チェックインして小休止した後、夕食会場へ向かう。
流しの演奏 PM7:15、夕食開始。メニューは、スープ、白身魚のフライ、生野菜。オプションの紅茶が2ユーロ。食事をしていると、流しの演奏が始まった。バイオリン、アコーディオン、ギターの奏者である。誰もが聞いた事のあるハンガリー民謡、ヨハン・シュトラウスのワルツ、日本の歌謡曲等を、顔のそばで演奏している。 誰があげたのか、バイオリン線には早速チップがこれ見よがしに挟まれている。私も気分が良くなって、1000フォリント(約500円)あげた。これが呼び水となったのか、皆さんがチップをあげていた。
バスの運転手とお別れ PM8:30、夕食終了。ホテルへ。プラハからブダペストまでの4日間、安全運転をしてくれたバスの運転手とも、ここでお別れである。名残を惜しんで記念撮影をする人も居た。 私は部屋に入って、インターネットを繋ごうと思ったが、有料(2時間、6ユーロ)だったので止めた。 PM9:30、シャワーを浴びて就寝。 PM12:00、寒くて目を覚ます。上掛けではなく、その上にあったカバーだけを掛けて、寝ていた事に気付いたのでした。 11月5日(金) 晴れ 21℃ AM5:30、起床。パソコンに向かう時間が、殆ど取れない日が続いていて、日記は3日分たまっている。 AM7:15、朝食。洋食のバイキング。色々な種類のパンも置いてあるが、私は5,6種類のシリアルをミックスして食べる事が一番美味しく感じる。 AM9:00、ホテル発。ブダペストの観光へ。今日の現地ガイドは「アンコー」さん。「夫は日本人で大学の教授。中央ヨーロッパの歴史を研究している。給料は高くないが休暇が多く、1年の半分を日本で、後の半分をブダペストで過ごしている。アンコーさん自身も英語の教師であったが、報酬の良いガイドに転職した。仕事が忙しくて夫ほど、頻繁に日本へは行けない」と言っていた。日本語が上手で、冗談やギャグを連発してくる。 もともとブダペストは3つの独立した町であった。 1.ローマ時代の遺跡が点在するオーブダ(Obuda:旧ブダの意) 2.13世紀以来王宮が築かれ、一時は中欧最大の都として栄えたブダ(Buda)、 3.商業を中心に発展したペスト(Pest) この3市が合併され、現在のブダペストとなったのは1873年。その少し前の1849年、ドナウ川西側のブダと東側のペストは、10年の歳月をかけて完成したくさり橋によって初めて結ばれた。このくさり橋は、両市の統合を願う貴族政治家「セ−チェニ公」の尽力で完成したもので、正式には「セーチェニ公のくさり橋」と言う。橋のたもとにはそれぞれ2頭のライオン像が、橋の見張りを仰せつかっている。
英雄広場(ブダペスト) 我々は、まず現地ガイドのアンコーさんの案内で、アンドラーシ通り(Andrassy)を走って、英雄広場(Heroes’ Square)へ向かう。このアンドラーシ通りそのものが「19世紀の姿をそのまま残している」という理由で、世界遺産に登録されている。いぶし銀のような街並みはパリや、ウィーンに似ているが、更に重厚さを感じさせる。
アンドラーシ通り−1 この通りには、聖イシュトヴァーン大聖堂、英雄広場、セーチェニ温泉、音楽家のリスト広場や、リスト音楽院(音楽アカデミー)がある。通りの名前の由来は、建設を推進したアンドラーシ首相である。パリのシャンゼリゼ通りを模したプラタナスの並木道で、セーチェニ鎖橋のたもとからペスト地区の市民公園までの通りをアンドラーシ通りと言う。地下にユーラシア大陸初の地下鉄が走っている。 1896年に開かれた万国博覧会は、ハンガリー建国1000年を記念して開催されたが、同時にこの年、博覧会の会場を結ぶ為に地下鉄も開通した。これはロンドンに次いで世界で2番目に古い地下鉄である。更に町の整備が急ピッチで行われ、国立オペラ劇場、聖イシュトヴァーン大聖堂、国会議事堂など、今に残る主要な建物は、この時期に建てられた物である。 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を描いた映画の監督を務める、女優のアンジェリーナ・ジョリーが、家族を連れてハンガリーへ移住。現在アンジェリーナと夫のブラッド・ピットは6人の子供たちとハンガリーの首都ブダペストに家を借り、4人の子供たちは早速地元の学校に通い始めたことも伝えられている。
聖イシュトヴァーン大聖堂−1
聖イシュトヴァーン大聖堂−2
聖イシュトヴァーン大聖堂−3 聖イシュトヴァーン大聖堂(St.Stephen’s Basilica) ハンガリー国会議事堂と並んで、96mとブダペストで最も高い建造物である。1851年に着工し、54年後の1905年に完成した。この遅滞の大半は、完成したにもかかわらず、手がつけられないほどに崩壊し、一から作り直すことになった1868年のドームの倒壊が起因していると考えられている。 AM10:00、デューティー・フリーの土産物屋に立ち寄る。フォアグラの缶詰、カロチャ刺繍(カロチャの町や周辺の村で生まれた色鮮やかな刺繍)、貴腐ワインとして有名なトーカイ・ワイン、高級磁器等、高級品がずらりと並んでいる。次女はお土産様にカロチャ刺繍を数枚購入し、小生はブダペスト訪問の記念に、女性歌手のCDを1枚購入。帰国後に聴いてみるとそれは、ジプシーの哀愁が漂うメロディーであった。 フォアグラは、味見様に小さなサイコロ状にカットして置いてあったので、摘んで食べてみたが、なんとも表現する事が難しい食感と味である。もう一度しっかり味わってみたいと思って、翌日のブダペスト空港で一缶買って帰国し、ソテーにして食べてみたが、印象は変わらなかった。珍味という事だが、今世で再びお目に掛かれなくとも、心残りは無い程の物である。 現地ガイドのアンコーさんは、「ハンガリー語の他に、日本語、英語、ロシア語が話せる。だから色々な国の人を案内するが、日本人が一番やり易い。その次は、アメリカ育ちの中国人とシンガポール人。他の東南アジアの人はやりにくい。それは、ガイドの話を聞かずに勝手にお喋りして、写真ばかり撮っている。そして時間を守らないからです」と言っていた。今日はこの時期としては異常に気温が高く、21℃もあった。
王宮の丘から見るドナウ川対岸の国会議事堂−1
王宮の丘から見るドナウ川対岸の国会議事堂−2
王宮の丘から見るドナウ川対岸の国会議事堂−3 AM10:30、我々はバスに乗って、ドナウ川西側のブダ地区へ。その高台には王宮の丘があり、そこからドナウ川の対岸に見える、国会議事堂の威容は感動的である。我々がそこで見学した物を幾つか紹介しよう。
マーチャーシュ教会−1
マーチャーシュ教会−2 1.マーチャーシュ教会(Matthias Church) 原形は1255〜69年、ハンガリー中興の祖であるベーラ4世のもと、ゴシック様式で建立された。教会の名は、1470年にマーチャーシュ王の命で高さ88mの尖塔が増築されたことに由来する。現在の塔は高さ80mで、マーチャーシュ王が建てた物より8m低い。歴代の王の戴冠式がここで行われた。この教会は、1541年にブダがオスマン朝に占領されると真っ先にモスクに改装された。 1686年のオスマン朝撤退後、この教会は直ぐにカトリックの教会に戻った。その後も修復や増改築を行い現在に至っている。美しいステンドグラスは19世紀の物であるが、それが大戦後まで残ったのは、窓からはずして地下に隠していたからだと言う。この教会は音響効果に優れている事でも知られ、定期的にパイプオルガンによるコンサートが開かれる。 我々は入場料を払って中に入ったが、修復工事中であった。今ハンガリーでは多くの歴史的建造物が修復中のようだが、「お金がないから、なかなか進まない」、とはアンコーさんの話。「世界遺産に指定されたアンドラーシ通りの建物は、修復するより建て替えた方が安くできるのですが」と言っていた。
聖イシュトヴァーンの騎馬像 2.聖イシュトヴァーンの騎馬像 ブダペストに来たら「聖イシュトヴァーン」の名前だけは覚えて帰らねばならない。ハンガリー人にとっての彼の存在は偉大で、日本人の我々には、彼に相当する日本人は思い浮かばない。ハンガリーのキリスト教の十字架は、ダブルクロスで横の棒が2本になっている。これはハンガリー建国の父であるイシュトヴァーンが、国王であると共に、この国の大司教であることを示している。
漁夫の砦 3.漁夫の砦(Fishermen’ s Bastion) マーチャーシュ教会の裏側、白い石灰石で出来たとんがり屋根の5つの丸塔と、メインの高い尖塔を回廊が結び、童話に出てくるお城の様なたたずまいの建築物。ドナウ川を見下ろす古い城塞を土台にして、1905年完成。かつてこの辺りに魚の市が立っていた事や、城塞のこの場所は、ドナウの漁師組合が守っていた伝統からこの名が付いたとされる。 4.王宮(Royal Palace) 王宮は歴代の王の居城であったが、その歴史は苦難に満ちたものである。 起源は、13世紀、ベーラ4世がモンゴルの来襲に備えて築いたのが始まりである。15世紀には、マーチャーシュ1世のもと、イタリアなどから多数の職人、芸術家が集まり、王宮を中心に、ハンガリー・ルネサンスの栄華を誇った。しかし、16世紀には、オスマン帝国との戦いで王宮は壊滅してしまう。 17世紀になると、ハプスブルク家の支配下に入り、バロック様式の宮殿が新築され、18世紀には、マリア・テレジアのもとで増改築が行われた。しかし、19世紀半ばの大火災で大部分が焼失し、再び改築が行われたが、二度の世界大戦と、1956年のハンガリー動乱の際のソ連軍の攻撃により破壊されてしまう。現在見られる姿は、1980年代に修復されたものである。 5.国会議事堂(Parliament) 1885年〜1902年、ペスト側のドナウ河畔に建築された。ドームの高さは聖イシュトヴァーン大聖堂と同じ96m。これは896年にマジャル人がこの地に定住したと言う史実に基づいている。現在386人の国会議員が居るが、199人に減らそうと言う運動がある。 AM12:30、バスに乗ってホテルへ向かう途中、夥しい弾痕が残っている建物のそばを通った。これは第2次世界大戦の時、ナチスとソ連が戦った跡だと言う。ブダペストの置かれた地理的位置を再認識せざるを得なかった。ハンガリーは初めドイツに占領され、後にソ連に解放?された。
中央市場−1
中央市場−2
中央市場−3 PM1:00、ホテルへ帰着。午後は自由行動である。「まず、中央市場(Central Market)を見て、その付近で昼食にしよう」と、次女と二人でホテルを出た。歩いて10分足らずで市場に着き、中を見て回る。1階は野菜、果物、肉類の生鮮食料がほとんど。小さなステージ上で、若い男女がダンスをしているコーナーもあった。特に欲しい物も見あたらないので2階へ。
屋台形式のフードコーナー(中央市場)
中央市場前の通り そこでは屋台形式のフードコーナーに人が群がっていた。偶然通りかかった所で、ツアーの同行メンバーが、揚げパンにトッピングした物を美味しそうに食べていた。「美味しそうですね」と言うと、「美味しいですよ」との事。私達も同じ店で食べる事にした。揚げパンにチーズとサラミをトッピングして「5ユーロ」。 値段表には700フォリントと書いてあるから、3ユーロぐらいの筈だが、「ま、いいか」。そう言えば私の前の男性も大声で抗議していたっけ。そして、しつこく粘った後で、幾らか返金して貰っていた。この店は「外貨で払うと、ぼられる」と感じた。お味はマズマズでした。
ドナウ川(ブダペスト) PM3:00、食事の後、ドナウ川沿いを散策し、次女の希望でシナゴーグ(Synagogue)まで歩いて来た。ところが残念。普段は門が遅くまで開いているのに、金曜日の今日はPM1:30で閉門!諦めきれずに鎖が掛けられた扉を恨めしく見ながら、道端のベンチに座っていた。その我々の前を、制服を着た警備の男性が、ゆっくりと行ったり来たり。
シナゴーグ(ブダペスト) ここはヨーロッパ最大級のシナゴーグ(ユダヤ教会)で、1859年に完成している。第2次世界大戦中のホロコースト(Holocaust)で犠牲になった、ブダペストのユダヤ人は20万人。ハンガリー全体では60万人とも言われている。 PM3:30、気を取り直して、我々は今朝一番で訪問した英雄広場へ地下鉄で行ってみる事に。次女の先導で地下鉄の駅で切符を買い、改札機に切符を差し込んで時刻を刻印する。電車は次々に来ているので待つ事はない。英雄広場の一つ先の駅で降りた。そこには市民公園(City Park)が広がっていた。直ぐ近くにはセーチェニ温泉、動物園、遊園地等がある。自由時間の残りが少ない我々は、何処にも寄ることなく、英雄広場まで歩いて戻った。
アンドラーシ通り−2
コダーイ・ゾルターン記念博物館
リスト・フェレンツ記念博物館 大通りのアンドラーシ通りとその1本裏通りを歩きながら、コダーイ・ゾルターン(Kodaly Zoltan)記念博物館を横目に、リスト・フェレンツ(Liszt Franz)記念博物館まで戻って来た。私は疲れてきたので「ホテルへ戻って一休みしよう」と次女に提案した。地下鉄の駅に下りて行くと、男性の検察官が3人立っていた。来る時に買った切符を見せると「これは使えない、無効だ」と言う。 「1時間は有効だと聞いているが」と言うと「一方向には乗り換え自由で1時間有効だが、戻りには使えない。新しい切符を買いなさい」と言っている。何度か押し問答をしたが、検察官はその切符で乗車する事を認めてくれなかった。私は新しく切符を買う気になれず、電車に乗る事を止めて地上へ上がった。 地下鉄の出口まで来た時に、同じツアーに参加している仙台のSさん夫妻に会った。丁度「リスト記念博物館へ行っての帰りです」と言う。私は地上に出たのは良いが、疲れていたので喫茶店で一休み。元気を回復してから少し歩き、改めて地下鉄の駅へ。 窓口でホテルの最寄り駅までの切符を買おうとすると、50歳位の女性が無愛想に「そんな切符は無い」と言う。「直通では無いが、途中で乗り換えれば行けるはずだが」と言っても、取り合おうとしない。諦めて引き下がろうとしていたら、我々の後ろに並んでいた婦人が、「どうして売ってあげないの。ここで乗り換えれば行けるじゃないの」みたいな事をハンガリー語で言っている。窓口の無愛想な女性は、渋々切符を売ってくれた。 「私の言う事を、後ろに並んでいた女性が理解出来て、窓口の女性が理解出来ないとは、どういう事なのだろう」と不思議に思うばかりだ。切符を買ってホームに立っていると、切符売り場の窓がピシャリと閉まる音がした。時計を見ると丁度午後5時を指していた。いかにも公務員的な、そして社会主義時代の名残を感じる一幕ではありました。 リストの「ラ・カンパネラ」: 今回の旅行で、ブダペストの町を歩いている時、リストの名前を何度も聞いた。私の家にもリストのCDが1枚あり、一度は聞いているはずだが、印象に残っていなかった。リストの名前を聞いても彼の曲が浮かんで来ないのだ。ショパンがパリに出て来た頃、既にリストは追っかけが居るほどの、売れっ子ピアニストであったと言う。そう考えながらリストを調べていたら、「ラ・カンパネラ」に出会った。 この曲ならフジコ・ヘミングのピアノを日本武道館で聞いたし、辻井伸行がヴァン・クライバーン・コンクールで演奏したのも聞いている。私の好きなピアノ曲である。これがリストの作曲であったことに、やっと気が付いた次第。クラシックファンには笑われそうだが、これも今回の旅行で得た収穫の一つである。 PM5:20、我々は地下鉄1号線から3号線に乗り換えて、無事ホテルへ戻り一休みした。 PM6:15、これから夕食会場へ向かう。待ち合わせ場所のインターコンチネンタルホテルへは、トラムで行く事にする。ホテルの受付で行き方を教えて貰い、トラムの切符を地下鉄の切符売り場で買う。つまり切符は地下鉄と共通になっている。次女が切符を買い求めてホテルのロビーに戻って来た時、先ほど地下鉄の出口で出会った、仙台からのSさん夫妻にバッタリ。「インターコンチまで一緒に行きましょう」と言う事に。 初めてのトラムで自信無げに乗り込んだものの、4人もいれば心強い。ブダペストの夜景はまた一段と情緒を醸し出している。その素晴らしい夜景に見とれて、我々は下りるべき駅を通過してしまった。つまりドナウ川を渡る前に下りるべき所を、トラムはドナウ川の橋に差し掛かっている。こうなったら「トラムから見るドナウの夜景を存分に堪能しよう」と言う気分になった。
ドナウ川に掛かるくさり橋(ブダペスト)
ドナウ川東岸に建つ国会議事堂
ドナウ川の夜景(ブダペスト) ドナウ川を渡りきった最初の駅でトラムを降り、「くさり橋」方向へ行くトラムに乗り換える。適当に見当を付けて乗ったトラムは、幸いくさり橋の手前で停車した。我々4人はそこから「歩いて、くさり橋を渡る」チャンスを得た。ブダペストの中央を流れるドナウ川に浮かぶ船、ドナウ川に掛かる幾本かの橋、両岸を埋める建築物。黙って通りすぎるには、あまりにも勿体ない光景に、何度もカメラを構えたのでした。 実はトラムを降りて「くさり橋」に上がる階段の方に歩いていた時、一人の婦人が草むらの中から、低い姿勢でこちらをじっと見ていた。こんな所で何をしているのだろうと不思議に思ったが、辺りは暗いし余り気にしないで通り過ぎた。そして階段を上る時に、後から来る3人を確認しようと振り返った時、私は見てはならない物を見てしまった。 先ほどの低姿勢の婦人の、白くて大きなお尻が丸見えではないか。「そう言う事だったのか」と合点が行くのと同時に、「余程のっぴきならない状況だったのであろう」と同情もしたくなり、複雑な心境でした。次女に話すと「道理で変な臭いがすると思った」と一言。「ドナウの真珠」ブダペストには似つかわしくない情景でした。 PM7:30、夕食。メニューは、スープ、チキン、ライス、デザート、オプションでファンタ(600フォリント:約300円)。お味は「うーん!」美味しいとは言えません。
ドナウ川のクルーズ船から見た国会議事堂 PM9:30、我々20人のツアーメンバーだけの貸し切り船で、ドナウ川クルーズへ。先ほどは陸上からブダペストの夜景を堪能し、今度は船上からの夜景を楽しむ。思わず、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」を口ずさみたくなる様な気分だ。ヨハン・シュトラウスがこの曲を作った頃は、ハプスブルク家が栄え、ウィーン、ブダペスト、ブラチスラヴァ、プラハは世界中で最も繁栄していたのだろうなと、昔に思いを巡らす。 クルーズ中、今なら添乗員さんに話し掛けても迷惑にはならないと思い、質問をしてみた。「今まで仕事中に、一番困った事、トラブルにはどんな事がありますか?」「飛行機のオーバーブッキングで、ツアーメンバーの内、3人が帰れなくなった事。パスポートの紛失。セキュリティー・チェック後の、カメラ、財布等の置き忘れ。病人が出て病院へ行った事。ツアーメンバーと現地ガイドの間で口論になり、取っ組み合いになりそうになった事」と語ってくれた。何れもあり得る話で、決して他人事ではないと思いました。 PM10:30、クルーズ終了。楽しかったツアーも、全行程が終わりに近付いた。バスにてホテルへ戻る。明日はもう帰国だ。 PM11:45、シャワーを浴びて就寝。 11月6日(土) 晴れ 22℃ AM6:30、起床。 AM7:30、朝食。パソコン。次女は中央市場でお土産の買い物。
ホテル「メルキュール・コロナ」 AM10:00、ホテル「メルキュール・コロナ Mercure Korona」発、バスにてブダペストのフェリヘジ国際空港へ。 AM11:00、チェックイン。 AM11:30、セキュリティー・チェック。お土産(ホアグラ、チョコレート)を少々購入。 PM12:30、搭乗。 PM13:00、離陸。 PM15:00、アムステルダムのスキポール空港着陸。 PM16:45、搭乗。 PM18:20、離陸。飛行時間、10時間40分。その間に2回の食事と、アイスクリーム。 11月7日(日) AM5:00(日本時間PM1:00)、成田空港安着。妻の出迎えで車にて自宅へ。 エピローグ 今回、機会があって久々にパッケージツアーに参加して、個人旅行と比べて何処が違うのか考えてみた。簡単に言うと: パッケージツアーは日程が合理的に組まれているので、苦労しないで短時間に多くの所を見て回れる。しかし、海外旅行をしているのに日本人だけで固まり、現地の人と話すチャンスがないので、どうしても物足りなさを感じる。一長一短があると言う事だろう。 |