5.オアフ島(その2) 4月17日(土) 今日は、オアフ島へ移動する日だ。AM10:30にタクシーでヒロ空港に向かう。呼んだタクシーは、一昨日に「キラウエア火山ツアー」に参加した時と同じ、フィリッピン人のおばさん運転手。「日本人はフィリッピンに比べたら経済的に豊かで、ハイテクの技術も進んでおり、国民性も良いと思う。それなのになぜ自殺者が多いのか」と不思議がっている。 私は「私にも良く分からないのだが、全てが出来上がってしまうと、目標を失い、希望をなくしてしまう事も有るのではないか。我々の青春時代はまだハングリー精神があったが、今の若い人にはそれが少ないと思う」と言うような話をしながら空港へ。料金の表示は19ドルだったので、20ドルを渡して降りた。 AM11:00、モクレレ航空(Mokulele Airlines)のカウンターで搭乗手続きをする。例によってこちらの国内線は、預ける荷物1個につき10ドルの料金を払う。しかし、プリンターが作動せず、領収書が出てこない。結局手書きの領収書を貰う事になった。万事のんびりしていて、プリンターが動かなくともあわてる風でもない。どこか沖縄の県民性に似ているなと感じた。 ヒロが晴れたのは、3泊4日の内、今日だけである。本当に雨が多かった。島の反対側に位置するコナは、あんなに乾燥しているのに。山を挟むと天候は全く別であることを今回も認識させられた。従って、「ハワイの天候は」と問われても、一言で答えるのは不可能である。ヒロからはホノルル行きだけが1時間に1本の割合で飛んでいる。殆どがハワイアン航空である。 AM12:35、飛行機は定刻に離陸。4人×12列=48席の小型ジェット機。ヒロからホノルルまでの所要時間は45分。止っているかと思うほど揺れが少なかった。マウイ島の上空を飛んでいる時は、一週間ほど前に歩いた標高3000mのハレアカラ山の火口が、雲の上に顔を出し、その姿がはっきりと見えて、感慨深かった。 モクレレ航空の小型ジェット機 マウイ島は「もともとは2つの島だったが、ハレアカラ火山の爆発で流れ出た溶岩で繋がり、一つになった」と言う事も、上空からはっきりと見て取れた。繋がっている所は低く、極端に狭くなっているから、すぐにそれと分かる。マウイ島から船で30分ほどの距離に有る、ラナイ島(Lanai)や、モロカイ島(Molokai)も良く見えた。 機内サービスで「ホットコーヒー」をお願いしたら、「冷たい物しかありません。しかも全部有料です」と言う。結局、大半の人がそうしたように、私も何も頼まなかった。此処までサービスを削った飛行機に乗ったのは始めてである。 AM13:20、ホノルル着。大きなバッグが有るのでタクシーでユースホステルへ。33ドル也。PM2:00、日本から来た時に泊まったユースホステル(YHA Honolulu University)に再び帰ってきた。が、受付は閉まっていて誰も居ない。「勝手知ったる他人の家」よろしく、談話室へ行って荷物を降ろす。お腹も空いてきたので昼食がてらスーパーへ買い物に。 YHAホノルル・ユニバーシティ−3 これも先刻承知の日本食が豊富な「ニジヤ」さん。これから5日間の食料の事も考えて、あれこれと買い物籠に入れると結構な量になった。締めて45ドル。やはり日本食にこだわると、高くつくと思う。この店内で、まず塩鮭の入った弁当を電子レンジでチンしてもらって食べる。その後、買った食糧をYHAまで運んだ。それでもまだ4時前だったので受付は開いていない。
ハワイ大学通り−2 談話室へ行くと、日本人が3人で談笑中であった。 伊藤さん:「ラスベガスからの帰路に立ち寄った。ハワイには何度も来ているが、ユースホステルは初めてだ。59歳。関西在住。在日韓国人。国籍が無いから税金を納めているのに 選挙権が無い」と言う。 「国籍は取れないのですか?」と聞くと「取る事は簡単ですが、何故か取っていません。多分、いじめられた国の国籍なんか取るものか、と言う感情的な問題でしょう」と自己分析をしてみせる。「日本では韓国人。韓国に行くと韓国語が話せないから韓国人と認められない。本当は何処の国の人間なのだろうと自問する事が有る」と言う。 林君:アメリカ公認会計士の受験にハワイへ来た。カリフォルニア大学及び、北海道大学・大学院を卒業。29歳。台湾国籍。「家庭では中国語だったので、日本語、英語、中国語が出来る」と言う。 高崎さん:この秋からニューヨーク州立大学に入学の為、ハワイ大学で英語の勉強中。18歳。福岡県から毎年200万円の奨学金(返済不要)が約束されている。「父親の事は嫌いです」とはっきり言う娘さんだ。利発そうな娘さんからそんな言葉を聞くと、男としては寂しい気持ちになる。気になったのでその理由を聞いてみたが、ハッキリはしなかった。ただ、母親と一緒になって父親を批判しているように思えた。 年配者は小休止の為に、若い人はキャリア・アップの為にハワイへ。 4月18日(日) 午前中は久しぶりに洗濯。午後からマノア・ヴァリー(Manoa Valley)を目指すが見事に失敗。「6番線のバスに乗り、終点で降りればよい」と聞いていたので、6番線に乗った処までは良かったのだが、「バス停の終点」が分からずに、何時の間にか元のところへ戻って来ていた。私の思い込みでは、終点では全員が下りて、しばらく停車し、折り返してくるものと考えていた。 しかし、実際には折り返すのではなく、そのまま別のルートを回って帰ってくるようになっていた。だから全員が降りることも無く、折り返すために暫く止ることも無かったのである。あらかじめ運転手に行き先を告げて置けばよかったのだが、その必要も無いだろうと高を括っていたのがいけなかった。日を改めて再挑戦することにしよう。 PM3:00過ぎにホステルへ戻ると、前日の日本人3人が談話室で懇談中。話の成り行きで、これから伊藤さんのレンタカーでドライブに行くことに。最初に行ったのは、アラ・モアナ・ビーチ(Ala Moana Beach)。ワイキキ・ビーチの隣に有るのだが、現地の人が多く、日本人は見当たらなかった。浜辺が広い割に人の数が少なく、ゆったりしている。 アラ・モアナ・ビーチ 次に目指したのは、サンセット・ビーチ(Sunset Beach)。しかし実際に行き着いた所はカワイロア・ビーチ(Kawailoa Beach)。地元の若者が馬蹄鉄無げをしたり、ウィンドサーフィンやカイトサーフィンをしたりして楽しんでいる。私には寒く感じる風も、サーファーには理想的な風のように見えた。 カワイロア・ビーチ ホステルに戻って夕食を取っていると、年配の婦人が自分で料理した物を皿に盛り付けて、談話室に入って来た。話しかけると「72歳のアメリカ人。ユースホステルの良さは自炊が出来る事です。私は外食が好きではありません。それに色々な国の人と気軽にお話が出来る事が良いです」と言う。 見ると大きな皿に、ステーキと丸ごとのジャガイモが乗っていた。別のボウル(どんぶりではない)には、野菜サラダがたっぷり。大変な食欲だ。それにレストランで出てくるような、ステーキとジャガイモには、見ていてよだれが出そうであった。「20分もあれば外食の4分の1の値段で出来るのよ。しかも健康に良い物が」と言う。私は、おばあさんの言動に感心するばかり。いつか私も挑戦してみようと思う。 4月19日(月) 今朝PM6:30頃、同室のアメリカ人少年が突然嘔吐しだした。2段ベッドの上からそのまま床に吐いている。きっと前夜の食べ物が悪かったのであろう。私は持参していた正露丸を分けてあげた。彼は「高校を卒業したばかりの18歳。これから10年間はサーファーとして、世界を巡り歩く予定。費用はサーファーのコーチをしたりして稼ぐ。自分の父親もそうだった。」と言う。 AM9:10、昨日行き方が分からずに失敗した、マノア渓谷のハイキングに再挑戦すべく出かけた。昨日と同じバス停で待つ事40分。「おかしいな?時刻表ではこの時間帯には20分おきに来る予定だが。反対方向のバスは20分おきに通過して行くのに」と思いながら、もう一度時刻表を見ると、週末とウィークデイの時刻表が微妙に変わっていた! 昨日(日曜日)通過していた6番の路線が、今日(月曜日)は、ハワイ大学をぐるりと回り、私が待っているバス停は通らない事に気が付いたのである。あわてて路線図を見ながら、次のバス亭を探して歩く。交差点を左に右に2回も曲がって見つけた停留所は、反対方向のバス停しかなかった。 事情が飲み込めないまま、そこで暫く待っていると、男女の二人連れがやって来た。「マノア渓谷に行きたいのですが」と尋ねると「それなら5番線ですね。此処から2停留所行った所に5番線の乗り場があります」と言う。「6番線で行けると聞いてきましたが」と言うと、「6番線で2停留所行くと、二股に分かれます。マノア渓谷に行くのは5番線です。6番線で2停留所行った所で5番線に乗り換えても良いですが」と言う。 私は礼を言って、そこから少し離れた6番線の停留所へ向かった。間も無く6番線のバスが来た。運転手に「マノア渓谷に行きたいのですが」と言うと「2停留所先で5番線に乗り換えてください」と言う。先ほどの二人連れの説明が正しかったのだ。こんな事は誰も教えてくれないし、観光案内書にも書いてなかったと思う。 今から考えれば、昨日の失敗は当然の出来事であった。2停留所走った所で、運転手が「5番線はそこの交差点を渡った、あそこの停留所に来るから」と教えてくれた。教えられた所でバスを待っていると、地元のおばさんが来た。「マノア渓谷に行きます」と話しかけると「私は近くの小学校で、1対1の授業が必要な子供に教えているの。マノア渓谷は良い所ですよ。楽しんで来て下さい」と言ってくれた。 程なく5番線のバスが来た。「マノア渓谷に行きたいのですが」と言うと「OK。降りる駅に着いたら教えます」と日系人と思われる女性運転手が言う。これでやっと目的地に行けそうである。目的のバス停に着くと運転手が「此処で下りて真っ直ぐ歩いてください。すぐに登山道入り口があります」と教えてくれた。何人かが同じ所で下りた。皆マノア渓谷を目指す人だ。 登山道の入り口まで来ると其処からは登山道があり、三々五々のハイカーが歩いているので道に迷う事もなさそうだ。それにしても此処まで来るのに何と多くの「無駄と失敗」を重ねた事か。人生を振り返ってみれば、「無駄や失敗を重ねた分だけ財産になっている」と言えなくも無い。ならば今回の失敗も一つの財産になるわけだ。人生は前向きに考える事にしよう! マノア渓谷−1 AM10:30、登山口のバス停に到着。登山道は、東京の高尾山と秋川渓谷を思わせるような雰囲気であった。行き止まりのマノア滝(Manoa Falls)までは40分。かなりの急勾配だが危険性は無い。既に下山してくる人も多い。日本人の団体さん、ヨーロッパ人のグループやファミリー、老若男女と行き交い、挨拶を交わす。 マノア渓谷−2 AM11:10、マノア滝に到着。ワイキキから登山口まではバスで15分。こんな近くに渓谷と滝が有るとは思わなかった。高低さ60mで見応えの有る滝でした。
マノアの滝 AM11:45、登山口まで戻ってくると、相部屋の伊藤さんがレンタカーで、付近の様子を見に来た所に偶然出くわし、「ホステルに帰るなら、乗って行きませんか」と声を掛けてくれた。私は、「帰りのバス代に必要な小銭を何処で作ろうか」と悩んでいた事も有り、タイミングの良さにビックリすると同時に、大変嬉しかった。来る時の苦労に比べ、帰りの何と楽だった事か。ほんの10分ほどでホステルに到着。いい汗を流す事が出来ました。 昼寝の後、談話室でパソコンを打っていると、伊藤さんが「相部屋のサーファーが病院に行くと言っていますので、車に乗せていこうと思います。一緒に来てもらえませんか」と言う。私は「良いですよ」と言って車に乗った。今朝の嘔吐の後も頭痛が治らずに居たらしく、少年は足元がふらついて、いささか元気が無い。ホステルの人に病院名「クィーンズ・メディカル・センター(Queen's Medical Center)」と住所を教えてもらい、いざ出発。 クイーンズ・メディカル・センター 伊藤さんは、車に付いているナビゲーションを使いこなせないながら、素晴らしい土地感で、目的の病院へ到着。玄関で病院の職員が「緊急の方ですか?」と言うので「そうです」と言うと、車椅子を用意して診察室へ案内してくれた。間も無く医者の問診が始まり、「両親の事、アルコールやドラッグはやってないか、あなたたちの関係性は」等と聞かれながら、血圧や体温が測定されていた。 この後、彼は一人で奥の治療室へ連れて行かれ、我々連れ添いの二人は、待合室で待機しているように言われた。彼には尿検査や、リンゲルの注射が行われているようであった。1時間ほど待った後で、「後どれくらいの時間が掛かりますか」と受付で聞くと、「2,3時間掛かります」と言う。彼にはタクシーで帰ってもらう事にして、我々はホステルへ引き上げた。 深夜の2時ごろ彼が帰ってきた。「具合はどうですか」と聞くと、すっかり元気になっていて「どうやら風邪だったようです。大変お世話になり感謝しています」と言っていた。ひとまず安堵した事でした。 4月20日(火) 今日は相部屋の伊藤さんが帰国した。私はダイヤモンド・ヘッド(Diamond Head)へ、ハイキングに行く。AM10:20、ホステルを出て4番線のバスに乗る。途中のワイキキで22番線に乗り換えてダイヤモンド・ヘッドの登山口まで行く予定。ところがバス停の表示を見ると、「22番線は火曜日には運転しません」と書いてある。今日は紛れも無く火曜日である。ハワイの「ザ・バス(The Bus)」は気紛れだ。曜日によって同じ路線でも、運転コースが変わる。私は代わりに24番線に乗ってダイヤモンド・ヘッドを目指す。 ダイヤモンド・ヘッド登山口 AM11:30、バスがダイヤモンド・ヘッドの登山口に着く。多くの人が此処で降りる。ハイキングコースは間違いようが無い位、整備されている。我々はワイキキ方面からのダイヤモンド・ヘッドの姿を写真で見慣れているが、それは外輪山の一部を見ていたことが分かった。ハイキングコースを登っていくと大きな火口にたどり着く。 ダイヤモンド・ヘッド火口 一方の外輪山にはトンネルが開けられていて我々はそのカハラ・トンネル(Kahala Tunnel)を通って火口にはいる。火口の底を歩いて外輪山の対面、つまりワイキキ・ビーチ側の火口の内側を登る。山道入り口から山頂までの距離は1.3km。火口底面から山頂までの高さは171m(標高は232m)ある。 ダイヤモンド・ヘッド(カハラ・トンネル) また、「ダイヤモンド・ヘッド」の名前は、1700年代に、西欧の探検家や商人たちが、この山を訪れて噴火口壁面の岩石の中に、光る方解石の結晶を見つけ、ダイヤモンドと見誤ったことに由来している。そして、ダイヤモンド・ヘッドは軍事上の要塞としての役割も大きく、太平洋戦争前には、全部で5箇所の砲台が造られたと言う。 ダイヤモンド・ヘッド(頂上目指して) PM0:30、頂上に到着。ワイキキ・ビーチが小さく見える。見晴らしは良いが、なんと言っても重要な軍事拠点としての位置づけが大きく、無条件で浮かれた気分にはなれない。此処から太平洋に睨みを利かしているのだから。帰りは途中の屋台でホットドッグを買って頬張った。 ダイアモンド・ヘッドからワイキキ・ビーチを望む 帰りはアラモアナ・ショッピング・センターでコナ・コーヒーとチョコレートをお土産に購入。コナ・コーヒーには等級があり、実の中に豆が一粒しかない小粒の「ピーベリー(Peaberry)」が最高級だと言う。日本に帰る日が近くなった事を実感する。夕食は、ステーキと丸ごとのジャガイモに挑戦。スーパー「ニジヤ」で食材を購入して帰宅。 ステーキは、フライパンにオイルをたらし、包丁で叩いた肉を、塩コショウで味をつけて焼く。ジャガイモは、電子レンジで2分おき位にひっくり返し、箸が通るようになるまで続ける。やってみたら意外と簡単。味も合格点!旅行中の料理のレパートリーが一つ増えました。 4月21日(水) 朝食の仕度をしていたら、インド人夫妻が、キッチンで朝食の準備中。高校生の姪を連れて3人で旅行中だ。男性の英語はインド人独特の訛りが有るが、高校生の英語の発音は綺麗だ。よく喋る活発な子で、「インド西部のグジャラート(Gujarat)に住んでいます。両親は芸術家で、自分も建築関係のデザイナーを目指したい」と言っていた。 談話室に来ると二人の中年女性が、横になってヨガに勤しんでいた。シアトルから来た友人同士だという。一人は「25年前の筑波の科学万博の時に、インテルのデモンストレーションの担当で、2年間日本に来ていた。筑波は、何も無い田舎だった。お陰で日本のあちこちを旅行できた」と言う。私が「今はJRの筑波エクスプレスが開通し、筑波はすっかり発展しましたよ」と言うと、驚いていた。 彼女が「美味しい日本茶が有るからご馳走しましょう」と言って持ってきたのは玄米茶であった。確かに美味しかった。次に持ってきたのは、大きなパパイヤ2個を半分にカットした物、つまり4ピースを大皿に乗せてきた。全部一人で食べるのかなと思って見ていると「一つどうですか」と言う。これも有り難く頂いた。パパイヤは半分でも多い位なのに、2個も食べようとは、彼女たちの食べる量には本当に目を見張るしかない。 今日はハワイ旅行最後の日。特に予定は無かったが、ホステルにジッとしているのも勿体無いから、出かける事にする。「犬も歩けば」の精神だ。AM9:00、まずバスで「ダウンタウン」を目指す。ハワイ州庁舎前で降り、写真を撮りながらイオラニ宮殿(Iolani Palace)、カメハメハ大王像へと歩く。 イオラニ宮殿 イオラニ宮殿は、1882年にハワイ王朝7代目の王「カラカウア」によって建てられ、その後王位を継承したリリウオカラニ女王(カラカウアの妹)が1893年に、白人が起こしたクーデターにより、退位させられるまでの11年間、公邸として使用された。イオラニとは、「天国の鷹」の意味である。 イオラニ宮殿の庭 ダウンタウンは、ワイキキからバスで10分位しか離れていないのに、雰囲気は全く異なる。歩いている人は、男も女も、官庁街、ビジネス街に相応しく、革の靴と、黒の長ズボンに半そでシャツ。ワイキキのサンダルで水着姿とは程遠い装いである。 ダウンタウンの高層街 そのまま歩を進めると、ハワイ・パシフィック・ユニバーシティに出くわす。こちらは私立の大学。そして中華街に入る。世界中何処にでも有る中華街だ。「美味しそうなお店があったら食べて行こうかな」とも考えていたのだが、昼食の時間には、まだ早かったので、結局歩くだけで終わった。 中華街 12時近く迄歩き、テイクアウトの寿司を一箱買って、イオラニ宮殿の庭で食べた。小鳥が寄ってきたのでご飯粒を少し、ばらまいてやった。 AM12:20、パンチボウル(Punchbowl)の丘を目指す。此処は正式名称を「国立太平洋記念墓地(National Memorial Cemetery of the Pacific)」 と言い、第1次世界大戦以降の兵士と軍関係者、約38000人を埋葬している。太平洋戦争で日系人の地位を高めた442部隊もここに埋葬されている。 パンチボウル−入り口 ハワイ語で「休息の丘」の意味を持つ「パンチボウル」は火山活動によって出来た高台である。バス路線が良く分からないので、30分も歩けば辿り着くだろうと思って歩き出したのだが、意外と分かりにくく、1時間ほど掛かってしまった。 パンチボウル−進入路 途中で5人に道を聞いたのだが、初めの2人はでたらめを言った。私は方角ぐらい分かった上で聞いている。つまりパンチボウルは小高い丘の上に有ると言う事だ。それにも拘らず最初の2人は、海の方を指差している。私が、確認の為に更に2、3の質問をすると最初の一人は「分かりません」と言う。いい加減な事を言わずに最初から分かりませんと言って欲しい。 同じ所で聞いた2人目も、海の方を指差して「間違いない、私は今其処から来たのだから」とまで言う。この時私は「もしかしたら、本当に海の方向に有るのだろうか」と自分の確信を疑ったが、自分の感を信じて丘の方向を目指して歩いた。ガソリンスタンドの前でウロウロしていると「何か探し物ですか」と男性が声を掛けてくれた。 私は「パンチボウルへ行きたいのですが」と言うと、少し考えて丘の方を指差した。三叉路まで5分ほど歩いて、自動車修理工場に来た時、また男性に聞くと丘の方を指差して「この山の裏の方だ」と言いながら、「左右どちらから行った方がいいかな」と言う。結局右の方向を指示した。10分ほど坂道を登っていくと三叉路に出くわした。暫く立っていると、乗用車が下って来た。手を上げると怪訝そうな顔をしながら停まってくれた。 「パンチボウルに行きたいのですが」と言うと、それには答えずに、ジッと私の手元を見てから「あなた日本の方?」と言う。ドライバーは日本人だった。そして私の持っているガイドブックが、日本語である事を確認していたのだ。「この山の裏側にパンチボウルの入り口が有るので、この上の道をグルッと山に沿って歩く事になる。20,30分掛かるよ」と言う。大体の方向がつかめたのでお礼を言って歩き出す。 途中で雨が降り出した。此処、オアフ島には小さいながらも2つの山脈が有る。コオラウ山脈(Koolau Range)と、ワイアナエ山脈(Waianae Range)である。ハワイ大学は前者に近く、よく雨が降る。ワイキキは晴れているのに、ユースホステルは雨と言う事が多い。 PM1:20、パンチボウルに到着。国立の墓地と言うだけあって、まことに美しく整備が行き届いている。眼下にワイキキ・ビーチや、おびただしい数の高層ビルの林立が見渡せる。 パンチボウルの丘からワイキキを望む こちらのお墓は、日本式のカロートの上に墓石を建てた物と違い、芝生の中に石盤が置かれている(その下がどうなっているかは分からない)だけの実にシンプルな物である。従って、遠くから見ると石盤が見えず、芝生だけが生えている公園のように見える。 パンチボウルの墓石群 公園の入り口では、アメリカの国旗が半旗に掲げられて弔意を表している。インフォーメイション・センターに行くと天皇陛下と美智子妃殿下が訪問された記念の写真があり、宇宙パイロットで、チャレンジャーの爆発事故で犠牲になった、日系アメリカ人のオニヅカ(鬼塚)大佐の遺影も掲げられていた。 パンチボウル−半旗 一通り見終わって、制服姿の男性に帰りのバス停の場所を尋ねると、「其処まで送っていくよ」と、カートに乗せてパンチボウル入り口のバス停まで送ってくれた。間も無く15番線のバスが来たので、「ハワイ・ユニバーシティに行きたいのですが」と言ってドライバーに半券を渡そうとすると、それを返して寄こして「2つ先の停留所で6番線に乗り換えなさい」と言う。実に親切な運転手が居たものである。来る時に1時間ほど歩いた事も手伝って、今日一日の旅費は2.25ドルで済んだ。 パンチボウル−美しく整備されて 例によって、日本人向けスーパー「ニジヤ」の前でバスを降り、最後の一日分の食料を調達する。昨日の「電子レンジで加熱したジャガイモ」が美味しかったので、もう一度挑戦する事にした。今日は大きなジャガイモを3個購入して、二人の学生(林君、高崎さん)にもプレゼントしようと思う。 ニジヤから出ると、雨が降っていた。ホステルまでの10分間ほど、横なぐりの雨だ。不思議な事に上空は晴れている。何処から降ってくるのだろうか。この後深夜まで雨は降り続いた。 さて、大きなジャガイモ3個の方は、結構時間が必要で、ひっくり返しながら電子レンジで15分程加熱した。結果は大成功。高崎さんは、「ジャガイモは大好きです」と言って喜んでくれたが、林君は、「体調が悪い」と言って夕食は取らなかった。風邪気味で少し熱が有るようだ。 相部屋に、カリフォルニアからビジネスマンがやってきた。彼は「これからハワイ大学のロースクールに入り、3年間勉強して弁護士の資格を取りたい。そして将来は自分で起業したい」と言っていた。 4月22日(木) いよいよ日本へ帰る日だ。AM8:00、昨日出会ったばかりのインド人3人等と、別れの挨拶をして予約のタクシーに乗り込む。通常だと30〜35ドル掛かる所を、ハワイ大学生とユースホステルからの予約者は、25ドルで空港まで行ってくれるという。60歳ぐらいの恰幅の良い運転手は「日本での仕事は何を」と聞いてきた。「既にリタイアしているが、少々資本論に関するエッセイを書いたりしている」と言うと、資本主義、共産主義に関する持論を展開してくれた。おおよそ常識の範囲ではあったが。 しかし、その後の彼の話が少し気になった。「日本とアメリカの間で、核持ち込みの問題が話題になっているが、日本から防衛庁の役人が数人、お忍びでハワイにやってきて、核問題について打ち合わせをしている。如何に日・米・中の軍事力のバランスを取るかが焦点のようだ」と語った。タクシーの運転手をしていると、そんなことも見聞してしまう事があるようだ。 空港でチェックインした後、デューティー・フリー(Duty Free)の店を覗くと、コナ・コーヒーの価格はアラモアナ・ショッピング・センターの5割り増しの値段が付いていた。ショッピングセンターの値段も安いとは言えないのに。ハワイの物価は高いと言われるが、一例として、レンタカーの1日の値段がハワイは6000円、ニュージーランドは3000円という具合だ。 AM10:10、ANAの機内に入ると、お隣さんは浦安市出身の女性。「ハワイで勉強中に日系4世の男性とロマンスが芽生え、今日は1歳半になる子供を連れて夫と3人での里帰り。ハワイに住んでいる私達も、物価が高いことは身に染みています。ハワイは、物価の面では決して住みやすい処とは言えません」と言っていた。 4月23日(金) 日本の航空機と言うこともあろうが、ハワイへ行く時と同様、機内は殆どが日本人。そういう意味では、ハワイは海外とか異国という感じが少ない処である。約8時間のフライトでPM2:00、成田空港に安着。妻の運転で家路に着いた。 エピローグ ハワイから帰国して10日になる。何処の国に行ってもそうであるが、その地域の気候・文化・歴史等について、もっと深く知りたいと言う願望が強くなる。時々「定年後はやることが無くて時間を持て余している」と言う声を聞くが、私の場合は、しばらくは退屈しないで済みそうだ。 (2010年5月記) |