5月18日(月) AM6:45、起床。 AM7:30、朝食。昨夜のファドに続いて混雑したホテルでの朝食。ナイフを探すのも一苦労で、こんな雰囲気では落ち着いて、料理を味わうことは無理である。 AM8:30、リスボンの市内見学に出発。リスボンにはローマと同じように7つの丘があり、至る所が坂になっている。いくつかのケーブルカーや1974年に造られた大きな吊り橋もあり、そういう意味では、アメリカのサンフランシスコにも似ていると言われている。 リスボンを語るには、イスラムに征服されたり、スペインの統治下にあったりの歴史も大事であるが、1755年の大地震を語らずには終われないようだ。その後のリスボンは8割方が再建されたものであるからだ。そのためか、リスボンの町は、その地形を利用して美しく整備されていると思う。特徴的には「青色でデザインされたセラミックタイル(アズレージョ)」の使用が目に付く。 町を下ったところに海が見えてくる、と誰もが思うらしい。実際に私もそのように思ったのだが、正確にはこれはテホ川(Rio Tejo)である。つまり、向こう岸が見えないくらい川幅が広いのである。 AM9:30、川沿いの公園で下車し、しばしの自由時間。まず、ベレンの塔(Belem Tower)をカメラに収める。これは16世紀にマヌエル1世によってバスコ・ダ・ガマの世界一周の偉業を記念して造られた物で、テホ川に出入りする船を監視する事が目的の要塞である。近くのジェロニモス修道院と共に世界遺産に登録されている。
次に、ここに到着する直前に車窓から目撃した「発見者達の記念碑Monument to the
Discoveries」(通称:航海の像)を写真に収めたくてそちらへ向かった。ところが歩いて行くには時間が足りず、朝の逆光線の中で遠くから撮影して戻ってくるのが精一杯であった。 AM10:00、ところが、バスに戻って次に向かったのが、その「発見者達の記念碑」がある広場であった。わざわざ時間を気にしながら、やっと逆光線の中で撮影してきた私の努力は、全く無駄に終わってしまった。しかし、撮りたい写真が撮れて、ハッピーな気分になれたのだから良しとしよう。
ポルトガルに於いて、バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama、1460〜1524年)の存在は大きく、銅像、記念館、橋の名前等、色々なところにその名前が出てくる。アフリカの喜望峰を回り、インドのカルカッタに行き着いたのは、1498年のことであり、豊富な香辛料を母国にもたらした。そして、その後の後輩たちが、東南アジア、マカオを足がかりにして、1543年、日本の種子島に鉄砲を伝来させたことは周知の通りである。 AM10:45、次に見学したのは、ジェロニモス修道院(Jeronimos Monastery)と言う巨大な建造物であった。中に入って見学する時間はなかったので、中庭に鈴なりになっていた美味しそうなビワを写してきた。
AM11:30、一旦ホテルに戻り、 AM11:45、オプショナルで、リスボン郊外の見学へ出発する。 AM12:40、海岸の町、カスカイス(Cascais)に到着し、自由昼食となる。私は街路の客引きに勧められて、鰯料理を注文。出て来たのは、太って脂が乗った鰯4匹と、茹でただけのジャガイモ。鰯の新鮮で自然の塩味が、味付けをしていないジャガイモと調和してとても美味しかった。7ユーロ。
海岸に行くと、ビーチには、強い日差しの下で甲羅干しにいそしむ人が大勢居り、沖合には沢山の釣り船が浮かんでいた。岸辺には澄んだ海水の中で、小魚が泳いでいるのが見えた。「ポルトガルのリビエラ」と言うだけあって美しい漁師町であった。
PM2:40、シントラ(Sintra)に到着。ここには世界遺産に登録されている中世の国立宮殿(14世紀に建設されたシントラ宮殿)が残っている。それは、イスラムの影響が強かった時代の建築物で、中の壁画を見るとそれがよく分かる。中国の焼き物も展示されており、当時から中国との交流があったことを物語っている。シントラ宮殿から見える、岩山の上に造られたムーア人の要塞は、8〜9世紀頃にムーア人により造られた山城で、現在は廃墟になっている。 ユーラシア大陸最西端のロカ岬までは、ここからバスで約40分の道程である。
PM5:30、ホテルに帰着。疲れたので仮眠を取る。 PM7:40、水を買いにスーパーへ。リンゴ、ヨーグルト、クロワッサンを含めて、4.71ユーロ。 PM9:10、ポメラタイム。 PM11:30、入浴。 PM12:30、就寝。 5月19日(火) AM7:00、起床。 AM7:45、朝食。 AM8:45、ポルトガルのリスボンから、再びスペインへ入国し、セビリア(Sevilla)に向かって出発。 AM9:15、海のように広いテホ川に架かったバスコ・ダ・ガマ橋を渡っていく。今日はひたすら走り続けるバスの窓から、移り変わる景色を楽しむしかない。幸いに天気は晴れ。 AM11:10、コルクの木が植わっている所で停車。私が「コルクの木を見たい」と言っていたからかも知れない。コルクはコルク樫の樹皮のコルク組織を剥離し加工して使う。木の皮は9年に1度はがすと言う。どの木も人間の背丈位までしか皮がむかれていないのは、木の上部はコルクに使える樹皮が薄いからだそうだ。 製品になった物を見ると綺麗だから、原木も綺麗だろうと想像していたのだが、表皮は以外にゴツゴツしており、ここから綺麗な製品にするのは手間が掛かっていることを想像させる。コルクはポルトガルが全世界の52%、スペインが30%、その他は、地中海地域の国々で生産されている。
今日は、高速道路ではなく一般道を走っている。そして、車窓から見える物は、ほとんどがオリーブの木である。麓の村から山一面に至るまで、オリーブの木一色と言っても過言ではない。
道路脇に建っている電柱のてっぺんにコウノトリが巣を作り、親鳥がひな鳥に餌を与えている姿が、幾度も目撃された。不思議ではないが珍しい光景である。
PMO:45、途中の食堂で、昼食を取った。ベジタブル・スープと肉のサンドイッチを注文したが、見事にはずれ。いずれも塩辛くて半分食べるのがやっとであった。 PM1:45、出発。 PM1:54(スペイン時間、PM2:54)、国境を通過したらしい。私はその事に全く気付かなかった。道路に標識くらいあったのだろうか。 PM5:30、オリーブ畑を車窓から堪能した後、セビリアのトリップ・マカレナ・ホテル(Tryp Macarena)に到着。 PM7:30、ホテルでバイキングの夕食。
PM8:30、フラメンコの鑑賞に出発。今日のフラメンコは、バルセロナでのそれと違い、食事が付かない。つまり、食事は他の所で済ませてくる様になっている。 会場に向かう途中で、プラザ・デ・エスパーニャ(Plaza de Espanaスペイン広場)を見学した。スペイン広場と言う名はこれで3カ所目だが、ここのそれは、他の2箇所と大分趣が違う。 ここは元来、1929年の万国博覧会の会場施設として造られたものである。両翼に半円型に延びる回廊と、スペイン各県の歴史的出来事を描写した、壁面タイルの絵が特徴的である。広場というのにふさわしい広さを持っている。
PM9:15、今夜のメインイベントであるフラメンコの会場に到着。バルセロナのフラメンコと比較して、同じなのか、違うところがあるのか。それが私の関心事である。結論から言うと、違いが沢山あった。しかし、どちらが良かったかと聞かれれば「どちらも素晴らしく、甲乙付け難い」と言っておく。 バルセロナのフラメンコになくてセビリアのそれにあったもの。 1、BGMによる踊りがあった。 2、フラメンコギターの音に迫力がある。こちらの方が私のイメージしていたものである。 3、女性の衣装の中に、長い裾を引きずったような衣装があった。踊り子は器用にその裾を、ある時は足で蹴りあげ、ある時は手に抱えて踊る。 4、歌い手は、マイクを使っており、発声法もこちらの方が楽なようだ。 5、観客席は2階席もあり、200人以上収容できる。 6、踊り手は、時にカスタネットを手にしていた。音のよく出るカスタネットで、両手に持って鳴らすだけではなく、両手に持ったカスタネットを、ぶつけ合って音を出すこともあり、この時は更に大きな音が出る。男女2人ずつ、4人のカスタネットの息が合うと、カスタネットの音だけでも迫力がある。利き手には高音が出るもの、逆手には低音がでるものをつけるそうだ。 バルセロナのフラメンコにない、これだけの物がセビリアのフラメンコには付加されている。しかし、それでも甲乙付け難いのは、とどめになる「マラリア」の症状が、長いか短いかの差である。バルセロナの方は、小道具なしで、素手で勝負していた感じがする。 私の隣で見ていた黒人女性は、乗りに乗って、「オーレ!」のかけ声を連発していた。彼女の体型は横幅が私の2倍はあろうか。私がどんなに小さくなっても、椅子からはみ出されそうな勢いである。椅子に座り続けるには私も押し返すしかない。こうして、黒人女性と初めて身体をすり寄せながら座ることに。 その彼女が、私のことを「まさはる」と言った。欧米人には覚えにくい名前を、私が教えもしないのに。すると彼女は「友人に”まさはる”という日本人のハーフがいます」と言うではないか。ツアーガイドが、私のフルネームを1回だけ言ったのを覚えていたようだ。
PM11:00、フラメンコ終了。 PM11:30、ホテルに帰着。入浴。 |