5月26日(火)

AM4:20、起床。頭痛がある。

AM5:00、朝食。食欲無し。ヨーグルトとコーヒーでおしまい。持参の正露丸を3錠飲み、妻に日記を送る。ホテルのロビーへ来ると、写真家が勝手に撮った写真が並んでいた。1枚20ディルハムで売っていた。私のスナップ写真もあったので、1枚購入。

AM6:00、出発。今日は、再びジブラルタル海峡を渡って、スペインへ戻る。フェリーの時間帯に合わせるために早朝の出発となった。車窓の景色は、日本の景色と殆ど変わらない。

AM12:00、パスポートチェックを経て乗船。ここで、私はガイドのイネスに質問した。「我々は、ジブラルタル海峡を渡っているが、何処にもジブラルタルの文字がない。ある本では、ジブラルタルと言う狭い岩山の半島だけが、未だにイギリス領となっていると書いてあるし?」

「その通りです。歴史的な経緯があって、地中海に面したスペインの極一部だけが(そこがジブラルタルと言うのだが)イギリス領になっております。我々はそこを通らずにジブラルタル海峡を渡っております」と言う事で、イギリスの名も、ジブラルタルの名も出てこないわけだ。つまり、ジブラルタルとジブラルタル海峡は別のものなのだ。

船中で、余ったモロッコの通貨をユーロに両替。率は驚くほど悪いが、持っていても使いそうもないのでやむを得ない。300ディルハムが23ユーロである。まともな所なら25ユーロは下らないだろう。

フェリーの客室で同席していたのは、ドミニカ出身のアメリカ人女性、22歳。「母親は40歳、父親は42歳。今回のツアー参加者は老人ばかりでつまらなかった。もう2度とコスモスは利用したくない」と不満を漏らしていた。確かに年齢層が違いすぎるので、彼女の気持ちも分かる。しかし、年齢制限のないツアーは、どんな年齢の人が参加してくるのか、事前に分からないのが難点である。

PM1:45、大型バスも乗せてフェリーがモロッコの港、タンジール(Tangier)を離岸。快晴のジブラルタル海峡では、対岸のスペインが見えている。かなり迂回して正味45分間の船旅だから、最も狭いところなら30分位の所要時間ではないかしら。
 

     
          モロッコのタンジール(
Tangier)港

PM2:30(現地時間、PM3:30)、スペインの港、アルヘシラス(Algeciras)に到着。
 

     
      フェリーから、バスが出て来るのを待つ
(アルヘシラス港)

PM4:30、フェリーから、バスが出て来るのを待って出発。15分ほど走ったところで、バスが停車。ここからは、ジブラルタル半島の岩山が見えるし、対岸のモロッコもよく見えると言う事で、イネスが配慮してくれたのだと思う。
 

     
      ジブラルタル半島の岩山が見える(アルヘシラス付近から)
 

     
       対岸のモロッコも見えている(アルヘシラス付近から)

車窓からの風景は、右手に地中海、左手にマラガ山が見えている。この辺の地中海沿岸は、コスタ・デル・ソル(costa del sol 太陽の海岸)と言われる、リゾート地、別荘地で、海岸沿いは勿論、山の中腹にまでマンション群が林立している。
 

     
            コスタ・デル・ソル(車窓)

PM6:30、マラガのホテル、トリップ・アルメダ(Tryp Alameda Sol Melia S.A)に到着。今朝の6時に出発してから、時差を調整しても10時間半の道程であった。

PM7:00、疲れは限界に達していたが、友人の鈴木さんが大好きなマラガは、どんな町なのか探索に出かけた。30分ほど歩いて港まで来てみたが、特筆すべきものには出会わなかった。たぶん、鈴木さんが気に入っているのは、町の中心部ではなく郊外なのだろう。
  

     
               夕暮れのマラガ市内

引き返す道で、浅草(ASAKUSA)と書いた寿司店があったので覗いてみた。客は誰もおらず、流行っていそうな感じはしなかったが、「寿司」に釣られて席に座った。案の定、日本人は居らず韓国人の経営であった。

にぎり寿司と味噌汁を注文。「韓国人の寿司店ならこんなものか。でもこれでは流行ることは期待できないよ」と思いながら食べた。18.5ユーロ。スーパーに寄り、リンゴを2個購入。0.9ユーロ。

PM9:00、ホテルに帰着。メールをチェックし、入浴。モロッコと違い、安心して入浴できた。

PM11:15、就寝。

5月27日(水)

AM6:10、起床。

AM7:00、朝食。

AM8:00、出発。

AM9:30、アルハンブラ宮殿に到着。入場券を渡され、現地ガイドの案内で、宮殿内へ。宮殿の敷地は、南北に約200m、東西に700m程の細長い台地である。最盛期には2000人が宮殿内に住んでいたと言う。ゆっくりと約3時間に渡って宮殿内部を見学したが、写真や映像で見るほどの感動はなかった。それらは、カメラアングルや日光の加減から、最も良い条件の時に写しているのだと思う。

13世紀の初めのグラナダ(Granada)地方では、ムハンマド1世がイスラム・ナスル王朝を成立させた。その息子ムハンマド2世の時代から、アルハンブラの丘で宮殿建設が本格化され、東方のシェラネバダ山脈を源流とするダーロ川(Darro)からの水路を設け、堅固な城壁を初めとする宮殿施設の拡張や庭園の造園などが行われた。

王朝とアルハンブラ(Alhambra)の宮殿は、ほぼ100年後の14世紀の後半にその絶頂期を迎え、さらに宮殿はその後も100年以上にわたり、歴代の王による拡張と整備が続けられてきた。しかし、キリスト教徒によるレコンキスタ運動(国土回復運動)の抵抗は激しく、ナスル王朝は、イベリア半島中央部にあったカスティーリア王国イサベラ1世と、アラゴン王国フェルナンド2世の、キリスト教徒合同軍による攻撃を受け、1492年、イスラム王朝は陥落した。

これをもってレコンキスタ運動は完遂となり、1493年、時を合わせるかのようにコロンブスが新大陸を発見し、スペインへ帰国した。

さて、今日の見学で私の印象に残った点が2つある。1つ目は、アルハンブラ宮殿の噴水等に使われている豊富な水は、シェラネバダ山脈(Siera nevada)から引いていると言う事。ゴルドバの南東に聳えるシェラネバダ山脈の名を聞いたのは、中学生以来だと思うが、頂上付近は今日も雪をかぶっていた。

もう1つは、アメリカの外交官で歴史家の、ワシントン・アービング(Washington Irving 17831859年)によって書かれた「アルハンブラ物語」が1832年に出版されるまでは、この宮殿は、外部の人には知られていなかった。それどころか、ここはホームレスの住処となっていた、と言う点である。

ペルーのマチュピチュがアメリカの歴史学者、ハイラム・ビンガム(Hiram Bingham 18751956年))によって、世界に広く知られるようになったことと似ている。江間章子氏による翻訳本が販売されていたので購入した。9ユーロ。

帰国後に判明したのだが、私が購入したのは1832年出版の初版本の翻訳で、アービングは約20年後の1851年に再販本を出版していた。再販本は、ボリュームが約2倍になっており、こちらも岩波文庫から翻訳本が出ていた。

ワシントン・アービングについては、聞いたことがある名前だと思ったが、それは、私が退職した直後に参加した、「英字新聞を読む会」でのテキストに、彼の作品「スケッチブック the Sketch Book」が使われていたからであった。著名な作家である。

PM1:00、沢山の写真をカメラに収めて宮殿の見学が終わった。記念にフランシスコ・タレガ作曲の「アルハンブラの思い出」が入ったクラシックギターのCDを1枚購入。12ユーロ。
 

     
      円形パティオ(カルロス
5世宮殿)・アルハンブラ宮殿
 

     
         アルカサバ(城塞)・アルハンブラ宮殿
 

     
      アラヤネスの中庭とコマレスの塔(アルハンブラ宮殿)
 

     
         ライオンの中庭を望む(アルハンブラ宮殿)
 

     
           ライオンの中庭(アルハンブラ宮殿)
 

     
            諸王の間(アルハンブラ宮殿)
 

     
          王女の塔の広間(アルハンブラ宮殿)
 

     
       ワシントン・アービングの部屋(アルハンブラ宮殿)
 

     
          リンダラハの中庭(アルハンブラ宮殿)
 

     
         サンタ・マリア教会(アルハンブラ宮殿)

     
             アルハンブラ宮殿を背景に

 
     
       ヘネラリーフェ・アセキアの中庭(アルハンブラ宮殿)
 

     
             アルハンブラ宮殿の庭園

PM1:30、ホテル・ドン・ホアン(Hotel Don Juan)へ到着。予約してあった昼食を取る。メインはパエリアで、お味はまずまずという所。同席にオーストラリアで会計の仕事をしている60歳のカップルが居た。日本には何度か来ていて、彼らの口から、日本の地名が沢山出てきた。

同席したもう一組のカップルは、オーストラリアで税金を徴収する公務員である。弟の娘が英語の教師として日本で働いていると言う。こうして懇談していると、何らかの関係で日本と縁のある人が多い事が分かる。

PM2:30、自室で休憩。ポメラを少々叩く。

PM4:00、グラナダの市内見学へ。まず徒歩で、カテドラル(グラナダ陥落後、1518年から建設が始まり、1704年まで工事は続けられたが塔は未完成)や、イサベル・ラ・カトリカ広場(Plaza de Isabel la Catolica)を見学。この広場の中央には、イサベル女王から指示を受けるコロンブスの像があった。
 

     
              カテドラル(グラナダ)
 

     
         イサベラとコロンブスの像(グラナダ)

次に、小さな公共の路線バスにすし詰めになって乗り、サン・ニコラス教会(Iglesia de San Nicolas)のある展望台に行った。1.2ユーロ。ここへ来て分かったのは、我々がテレビで見ていたアルハンブラ宮殿の映像は、この展望台から撮影されたものであると言う事だ。

午前の観光では、3時間も見て歩いたのに、今一つ期待していた光景が見られないと言う、わだかまりがあったが、ここへ来てそれが見事に解消された。規模の大きな物は、ある程度の距離を置いて見ないと、その美しさが分からないと言う事である。ここからは、雪をかぶったシェラネバダ山脈も良く見えた。
 

     
       サン・ニコラス展望台から見るアルハンブラ宮殿
 

     
      雪のシェラネバダ山を望む(サン・ニコラス展望台から)

此処は、アルバイシン地区(El Albayzin)と呼ばれ、グラナダ市内で最も古い地区とされる。元々はイスラム教徒の為の居住区で、白い壁と花で飾られた迷路が特徴である。アルハンブラ、王族の為の夏用の離宮であるヘネラリーフェ(El Generalife)、アルバイシンの3地区をまとめて世界文化遺産に登録されている。
 

     
        アルハンブラ宮殿から見るアルバイシン地区
 

     
         アルバイシン地区の迷路・
1(グラナダ)
 

     
          アルバイシン地区の迷路・
2(グラナダ)

皆すっかり満足して帰途に着いた。帰りは、旧市街の狭い坂道を歩いて下りた。途中のみやげ店では、各自が思い思いの物を買っていたが、私はフラメンコの踊りでデザインされたエプロンを3枚購入した。15ユーロ。それと、数日前から咳が抜けないので、抗生物質を薬局で購入。5ユーロ。広場ではフラメンコの練習をしていた。
 

     
          フラメンコの練習中(グラナダ)

PM7:30、ホテルでディナー。食欲の出ない私は果物を中心に食べる。45人のツアーメンバーのことが、だいたい分かって来たら、ツアーも終盤である。名残惜しいがそれも人生の一部であろう。

PM8:30、自室へ戻り入浴。

PM10:00、ポメラタイム。

就寝前にメールを開くと、妻から訃報の知らせが入っていた。小松秀夫氏。私の同級生の友人で、学生時代からの付き合いがあり、時々食事をした間柄である。昨年末、会食の予定を突然キャンセルしてきたので不思議に思っていた矢先であった。

PM11:30、就寝。

5月28日(木)

AM7:00、起床。

AM8:00、朝食。

AM9:00、出発。今日は、この後半のツアーの出発地点であるマドリードへ戻る。500kmの長距離移動である。前半のツアーでマドリードに入るときも、ラ・マンチャ地方を通ってきたが、今日もそのラ・マンチャを通って行く。車窓の風景は起伏の少ない平原である。そこに、オリーブの木が植えられており、時々風車が見られる。
 

     
          風車のある風景(ラ・マンチャ、車窓)

AM12:10、昼食休憩。ニュージーランドのクイーンズランドから参加している夫婦とその妻の姉の3人と同席。姉は看護婦をしていたが、今は退職。食事に注文したシーフードサラダに入っていた、すり身を取り除いているので「どうしたのか」と聞くと「繋ぎに使われている小麦がアレルギーなんです」と言う。4年前に発症したという。すり身は、私が頂いて食べた。そして「すり身」はそのまま英単語になっていた。

PM1:00、出発。車窓は大平原が続いている。ラ・マンチャは、セルバンテスの名著「ドン・キホーテ」の舞台で、どんな処だろうと興味を持っていたが、一言で言えば「何もない平原」である。

PM3:20、ホテル、NHアバスカル(NH Abascal)に到着。後半のツアーが開始されたホテルである。まずインターネットで明日のフライトの確認をする。E-チケットがあるから、おおよその事は分かっているのだが、マドリードにある、どの空港で、何番ターミナルなのかが、記載されていない。

調べていくとマドリードには、バラハス(Barajas)空港しかないようだ。しかし、ターミナルが4つもあって、エティハド航空が何番ターミナルなのかが分からない。いろいろ検索したが、それを特定できるサイトは探せなかった。

ホテルの受付の女性に聞いてみると、即座に「No.4」との答えが、確信ありげに返ってきた。私は、この断固たる応答を信用することにした。あとは、空港までの車の手配である。ツアーガイドのイネスに相談し、少々早いが、早朝6時出発で、ツアー会社手配の車を利用することに決めた。15ユーロ。

PM5:00、イネスから渡されたアンケートの記入。後半のツアーは、モロッコの観光に不満が種々あったので、その事を書いておいた。ただ、ツアーガイドのイネスやドライバーは、よく頑張っており、彼らに対しての不満はない。

PM6:00、買い置きのリンゴとパンで夕食を済ませ、残り時間は、アルハンブラ宮殿で購入した「アルハンブラ物語」を読んで、時間をつぶした。

この本を読み初めての印象は「現地ガイドがアルハンブラ宮殿で話していたことは、ほとんどが、この本に書いてある事だったのではないか」と言うことである。現地を見学した時は、沢山の部屋や庭を見ただけで、漠然としていたが、この本を読むことによって、その歴史をより深く知ることが出来そうである。

PM9:00、入浴。

PM10:00、就寝。

5月29日(金)

AM4:20、起床。

AM5:00、朝食。ホテルが簡単な朝食(フルーツ、コーヒー、ジュース、パン)を用意してくれていた。

AM6:00、アメリカのニュージャージーから参加のインド系アメリカ人の4人家族と一緒の車で出発。ガイドのイネスに「ターミナルは何番ですか」と聞かれ「4番です」と言うと「一番奥のターミナルですね」と確認された。

AM6:3030分程でバラハス空港の1番ターミナルに到着。アメリカ人家族はここで下車。この時、駐車場の表示に「エティハドEtihad」の文字が見えたので、もしかしたら、私の利用するターミナルも、ここの1番ターミナルではないのかなと思い、運転手にその旨を聞いてみた。

運転手は「何処まで行くのか?」と聞くので「アブダビです」と言うと「それなら4番ターミナルです」と言う。私は、言われるまま4番ターミナルまで行き、電光掲示板でフライトの確認をした。しかし、私のフライトの表示がない。

空港職員に聞くと「エティハド航空は1番ターミナルです」と言う。ホテルの受付嬢の確信ありげな返事と言い、運転手の答えと言い、彼らは何を根拠に答えていたのであろうか。私は空港の循環バスで1番ターミナルへ戻ってきた。

時間に余裕があったので、問題はなかったが、立場や責任のある人の話が、全く当てにならない事を確認させられた事件であった。荷物のエックス線検査の場で、インド系の4人家族と再会。

AM7:00、エティハド航空の職員が出勤してきて、搭乗手続きが開始された。私のフライトは午前10時なので時間はたっぷりある。パスポートチェックを済まして、お土産店を物色。

AM8:30、出発ゲートに行くと、私を手招きして呼んでいる婦人が居た。「見覚えはないが、何処かで会ったことがあるのだろうか」と自問しながら側に行くと、やはり初対面の中国人であった。

黒龍江省在住の彼女は、私を中国人だと思って呼んだらしい。英語は殆ど出来ないのに、人なつっこい人であった。「南アフリカの中国人街で、商売を6年間していたこともある」と言っていた。

AM9:00、登場開始。

AM10:30、離陸。機内は空席が多く、私の処は4人掛けに2人だけであった。飛行中は殆ど「アルハンブラ物語」を読んで過ごした。アルハンブラ宮殿はムーア人(北西アフリカに住むイスラム教徒)によって建設されたが、後にキリスト教徒に占領されたと言う歴史がある。

著者のワシントン・アービングは、在スペイン大使であった頃、ここに半年間住んでいた。当時の宮殿は「昔の光、今いずこ」と言う状態で、王族の末裔からホームレスのような人まで、種々雑多な人々が住んでいたようだ。

アービングは、好奇心旺盛にも、周りの人が反対するのを押し切って、先祖代々、此処に住んでいたという家族の世話になりながら過ごした。「アルハンブラ物語」の大半は、彼らから聞き知ったものであるが、史実、伝説を含め、今となっては貴重な資料である。

PM5:00(現地時間、PM7:00)、アブダビ空港に安着。

PM9:00、搭乗開始。

PM10:00、ポメラを叩いていると、いつの間にか離陸していた。こんなに静かな離陸は珍しいと思う。隣席の若い女性に、「今回の旅行はどちらへ?」と聞いても、顔を見つめるだけで応答がない。私はてっきり日本人だと思っていたら、日系3世のブラジル人で、日本語会話が出来ないらしい。今回は休暇で母親と一緒に日本を訪問しているところですと言う。

機内の明かりが消された。この時間帯は、なるべく眠るように努めた。

5月30日(土)

AM7:30(日本時間、PM0:30)、成田空港に安着。アブダビまでの行きは12時間かかり、アブダビからの帰りは9時間半しか掛からない。偏西風の影響で2時間半の差が出来る。

PM2:00、成田空港発のJR快速で佐倉駅へ。「アルハンブラ物語」を読了。版画によるアルハンブラの絵が、挿し絵として沢山使われているが、これらは、アービングがそこに住んでいた頃の情景だという。資料としても貴重である。

PM2:35、妻の迎えの車で久しぶりの自宅へ。

西欧旅行記、おわり

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