1130日(土)

AM6:30、起床。買い置きの菓子パンで朝食。食べきれなかった分は、ホステルの夜勤の青年にあげた。しばらくポメラを叩く。


AM10:00
、ホステルの主人に挨拶をした後、我々は追加の10ユーロを支払い、プライベートバスでアルバニア共和国のティラナへ出発。段々と標高が上がってきている。時々、霧で視界が悪くなる。走っている道路は、綺麗に整備されており揺れは殆どない。


        

ホステルの主人に別れの挨拶


車内は音楽が流れている。その曲の中には、アラビア風のリズムと、イスラムの祈りを感じる。そして、一曲が長い。楽しめる音楽に出会ったら、
CDを買って行きたいのだが、残念ながら、そう言う曲には出会わなかった。


AM11:30
、途中の休憩所で、早めのランチ。私は、パンにチキンと野菜を挟んだケ
バブと、コーヒー、ヨーグルトを注文。3ユーロ也。


PM0:05
、出発。

PM0:20、国境の税関によるパスポートチェック。

PM1:05、7km程の長いトンネルを抜けた後は、川を左右にしながら、山道を下っている。


PM2:30
、ティラナ国際空港を通過。山の中腹には霞が水平にたなびいており、遠くには雪山がその頭を見せている。

PM3:00、ホステルに到着後、部屋割りをする。広くはないがホテル並の快適さを感じる。その後、メールの送受信。このところ、送受信がスムーズにできている。


PM4:20
、小雨が降り、薄暗くなってきた中、市内見学に出発。此処アルバニアでは、ユーロが使えないと言うので、またまた両替を行う。リーダーが「中国通貨の元を持っているか」と言うので、ポシェットから100元を取り出してみせると、それを1500アルメニア・レクと、取り替えてくれた。


    

スカンデルベルグ広場の夜景(ティラナ)


    

国立歴史博物館のモザイク画


    

イスラム寺院(ジャミーア・エトヘム・ベウト)と時計塔


それが妥当なものであるかどうかは、判断できない。そして、
600マセドニア・ディナールを両替所で交換すると、1200レクをくれた。これで、2700レクが手元に来たのだが、どの程度の価値があるものやら皆目分からない。


カナダ人研究者にそのことを話すと、調べてみましょうと言って、スマートフォンを取り出した。間もなく「
26USドルですね」と言う答えが出た。


と言うことは、
2700レクが約2600円だから、おおよそ「1レク=1円」と考えられる。すると、リーダーが交換してくれた1500アルメニアは、まずまずのレートであったことが分かる。


PM5:20
、カフェにて。カプチーノを1杯。150レク。酒を飲まない私は、この時間の間が持たなくて困る。


PM7:00
、ホステルに帰着。ポメラ・タイム。

PM8:00、若者は、これから夕食に繰り出す。何時に帰るのやら。私は、ランチで大きなケバブを食べたから、夕食は抜くことにした。


PM9:30
、シャワーを浴びるが、段々ぬるくなってきたので、諦めて切り上げる。

PM11:30、就寝。


12
1日(日)


AM7:30
、起床。コーヒーでも飲もうと思って、キッチンに降りていくと、宿の女性スタッフが一人一人に朝食の用意をしていた。思いも寄らなかったので嬉しいサプライズだ。それに、メニューがしっかりしている。


クリーム入りのクロワッサン、フレッシュ・オレンジジュース、ゆで卵、エスプレッソ、紅茶。ゆで卵の黄身が固まりすぎず、しっとりしていて美味しかった。エスプレッソは、専用のメーカーがあり、久しぶりに味わったが美味しく思った。


    

ホステルの朝食


    

エスプレッソ専用メーカー


ただ、入れ物がオチョコを少し大きくした位の、小さな物であった。フランス人のシリルも美味しいと言って飲んでいたが、フランスでは普通のコーヒー茶碗並の大きさで、飲むこともあるそうだ。


どちらにしても、エスプレッソは濃すぎて、砂糖無しでは飲めそうもない。私は、ベトナムでのコーヒーを思い出し、世界には色々なコーヒーの飲み方があることに感心した次第である。


YPT
スタッフのジョセフに「この後、何処に行くの?」と聞くと「フィリピンのマニラに行く。台風で被害にあった学校を修復するボランティアである。期間は1ヶ月位、ボランティアの人数は100人ぐらいになるが、その中心グループ、及び中心者は、YPTのスタッフである」と言う。


YPTは、そんなにお金があるのか?」と聞くと、「お金はないが、ネットワークがあるので、必要なお金は集まってくる」と言う。当初、「フィリピンに遊びに行く」と言っていたはずのジョセフが、急遽、ボランティアに変わっていた。船長が本職のジョセフは、いくつもの顔を持っている。


AM8:30
、市内の散策に出かける。昨日午後の散策時は、日が暮れていて、写真が取りにくかったので、同じコースをもう一度歩くことに。

1、イスラム寺院と時計塔

    


2、スカンデルベルク広場(アルバニア国旗とスカンデルベルク像)

    


3、国際文化センター

    


4、ゾグー
1世大通り

    


5、街の東にダイト山

    


AM9:30
、私は今夕、列車でフェリー乗り場のドーレスへ向かう。その列車の乗車駅を確認に行った。ホステルのスタッフに聞くと、ホステルからもそれほど遠くない所にあるという。私は慎重に方角を間違えないように歩いて行った。


近くまで来ているはずの所で、何度も聞いて確認するが、駅が見当たらない。同じ所を行ったり来たりしていると、やっと親切な女性に出会って、同行してくれた。その結果、駅は建て直しの為にクローズドであった。


これでは何度その前を歩いていても分からない訳である。列車を利用する人が少ないこともあって、確実な情報が少ないのである。私は、この間にバスの発着場所を確認できていたので、今夕は、バスで行くことにする。


AM10:30
、ホステルに帰着。しばしポメラを叩く。同行者の一人、グンミが「今朝、アルバニアを本拠地とするベッレ・エアー(Belle Air)が倒産して、その航空機は全てキャンセルになっている。デンマークから来ていた仲間が、被害を被ったそうだ」と話してくれた。


デンマーク人は、他のチケットを買い直して帰ったそうだ。
15人のメンバーは、次々と帰路に就いていく。私だけが今夜のフェリーで、イタリアに渡る旅程を決めていたので、最後まで残る客になる。


PM0:30
、残っていたグンミ君を誘って昼食。イタリア料理店でパスタと野菜サラダ。440レク(400円)也。まずまずのお味でした。


この後、今回旅行した、バルカン半島の地図を求めて書店探し。運良く3軒目で購入できた。
700レク(700円)也。


今日のティラナの最高気温は
17℃まで上がっている。一昨日のブラッドの村では、マイナス3℃であったから、気温差が20℃である。体が、だるく感じる原因だと思う。


PM1:40
、スタッフのギャレス(リーダー)と、マルコ(ロシア語通訳)が、出発。

PM2:00、アイスランドのグンミが出発。とうとう、独りぼっちになってしまった。


PM4:10
、もっとユックリしていても良いのだが、する事もないし、ドーレスの港は、初めて行く所でもあるので、行った先でユックリしようと思い、美味しい朝食が印象に残ったホステルを早めに出発。


PM4:15
、歩いてバス停に到着。発車までは、まだ時間がある為、バスにはまだ2人しか乗って居なかった。しかし、4時半の発車時には、さらっと満杯になっていた。


PM4:30
、発車すると車掌が運賃を徴収に来た。私は、料金の見当が付かないので、ポケットから、あるだけの現地通貨を出して見せた。車掌はその中から、コインを1、2個取り上げただけであったので、100円か200円で済んだのだと思う。


PM5:20
、ドーレス港着。機械による自動チェックインを試みるが、機械が受け付けない。受付で理由を聞くと「時間的に早すぎるからだ」と言われた。フェリーの出発は、午後11時だから、確かに早いと思う。


PM8:00
、フランク永井とテレサテンを聞いて時間をつぶし、再度チェックインを試みると、今度は巧く行った。


PM9:00
、売店で、サンドイッチとコーヒーを買って、腹ごしらえ。300レク(300円)也。

PM10:00、フェリーが接岸し、多くの人と車が降りてきた。下船した乗客は、税関でパスポートチェックのために、並んでいる。


PM10:50
、入国審査を受ける人は居なくなったが、大型バス、大型トラックは、フェリーからの下船が続いている。


PM12:00
、私は、他の乗客の後に付いて、フェリーの乗り口に並んだ。此処でも一人一人のパスポートと乗船券を確認している。私の番が来て、乗船券を見せると「あなたの乗る船はこれではなく、次の船である」と言う。


    

フェリーの乗り口に並ぶ


「この船だって予定より1時間以上遅れているのに、更に後の船になるとは、どういう事だろうか?」と、疑問を持ったが、あれだけはっきり言われると、疑問を呈しにくい。


私は、私と同様の指示を受けた人々と、待合室に戻ってきた。「待ちくたびれる」とはこう言う時に使う言葉であろうか。


12月2日(月)


長い長い一日が始まった。

AM1:30、我々を積み残した船がやっと出航した。

AM2:00、我々を乗せるであろう、次の船が着岸し、下船が始まった。我々は何時、何をすればよいのか、何の説明もない。人々の動きを見て、推測するしかない。


    

我々の船が着岸


AM5:00
、我々はやっと乗船した。この間、何度も居眠りしては目を覚まし、最後は長椅子で横になって寝ていた。乗船すると、皆が受付の前に並んでいた。私も並んで様子を見ていると、客は乗船券とパスポートを受付のおばさんに渡して、個室の鍵をもらっている。


    

フェリーに乗船


私も同様に、チケットとパスポートを受付のおばさんに渡すと、それを突き返して、「あんたはあっちへ行きなさい」と言うゼスチュアーである。指示された方向に行ってみると、通路の両側には、ずらっと個室が並んでいた。


私は「鍵を渡されなかったが、此処にある個室の何処に入ればいいのだろう?」と思いながら、適当に部屋を開けようと試みるが、やっぱり開かない。すると一人の人が、「ずっと奥の方だよ」とのゼスチュアーである。


私は、大きなトランクを押したり引いたりしながら、奥まで行くと、そこは食堂で閉まっていた。上にあがる階段を登ってみると、そこは大部屋になっていて、すでに何人かがソファーで横になっていた。


「なるほど、私の居場所はこの大部屋なのか」と理解した次第。そう言えば、私のチケットには、「デッキ」と印字されていた。それが何を意味するのか理解できないで居たのだが、やっと合点がいったのである。


と言うのも、私がこのフェリーを予約した時は、既に部屋のクラスを選択する余地がなかったのだ。ただ「デッキ」のクラスだけが空いていたのである。私はそれがどう言うものか分からないまま、予約するしか方法がなかったのである。「もしかしたら、ベッド付きの個室になっているのかな」と言う淡い期待もあったが、甘かった。


私が大部屋にたどり着いた時には、4台あった3人掛けのソファーは既に占領されており、2人掛け用のソファーが1台空いているだけであった。そこが、これから9時間の私の居場所になったのである。


船内は、インターネットは使えず、若干残っていたアルバニア通貨も使えなかった。飲食物の価格の表示は、ユーロだけである。私は、夜食とも朝食とも言えない食事をとるべく、サンドイッチと牛乳を注文した。5ユーロ也。アルバニアとイタリアの間を航行している船の中で、アルバニアの通貨が、使えない事は誠に不便である。


売店のお兄さんに、「この船は何時に着くだろうか?」と訪ねると、「私の予想では、午前7時に出航して、午後3時頃に到着すると思います」と言う。


イタリアのバーリ港に着いた後、ローマへ行くのに、余裕を持って5時間の乗り換え時間を取っていたのだが、8時間も遅れたのでは、列車に間に合うはずがない。


明日の午後の飛行機で、ローマから帰国の途に着くべく予約を取ってあるから、なんとしても、今日中には、ローマまで行っておきたい。そこまで考えて、後はなるようになるだろうと、出たとこ勝負で行くことに決めた。


AM7:00
、我々の船は、8時間遅れで出航した。8時間遅れで唯一良かった点を上げれば、夜中の航行が昼間になり、外の景色が見られることである。私は早速、屋上の甲板に出てみた。


天気は曇り、雲間から太陽の光が薄く差し込んでいるが、頭上からは小雨が落ちてくる。風が強く、船の揺れはかなり大きい。数枚の写真を撮った後、下の甲板に降りていくと、船員と出会った。


    

ドーレス港(アルバニア)


彼はフィリピン人で、以前は日本にも航海していた。今は此処、ヨーロッパを仕事場にしている。私が「随分船が遅れたね!」と言うと「天気が悪くて、当局から足止めされ、バーリ港を出航できなかったのです」と言う。そう言うことだったのか。


船会社からは何の説明もなかったし、アルバニア側の天気は、それほど悪くなかったし、我々は、まさに蛇の生殺し状態で待たされていたのである。フィリピン人船員の一言で、私は、疑問の大半が解決した。


そう言われてみると、今日の天候はそれほど悪くはないのに、波が高く、いつもより船の横揺れが大きい。船内を歩いている人を見ると、真っ直ぐに歩けないで居るし、一本足の椅子が、勝手にぐるぐる回っている。


    

船の横揺れが大きい


AM10:00
、下を向いてポメラを叩いていると、気分が悪くなりそうなので、それを止めた。殆どの人は、ただ横になっている。甲板にでてみると、360度殆ど何も見えないが、アルバニア側の山が、うっすらとその陰影を残している。


私は、牛乳とエスプレッソを買い、残っていたサンドイッチを食す。小さな窓からは、水平線が上下するのが見えている。その上下幅の大小によって、船の揺れの大きさが分かる。船が大きく傾くと、水平線が窓からはみ出して見えなくなってしまう。


AM11:00
、とうとう360度何も見えなくなった。船の揺れも更に大きくなったように感じる。曇り空の海は、何処までも鉛色一色である。美しいという光景は何処にも見当たらない。


PM1:00
360度、何も見えない状態が続いている。大海に出ると、海は何処も同じである。ただ広いだけ。アドリア海には特別な景色があるのかと、期待をしていたが、そう言う物はなかった。ただ私は、昔から此処を行き来し、交易に、戦争に往
来が絶えなかった事に、思いを馳せてみたかったのである。


    

360度、何も見えない


窓から見える水平線は、相変わらず大きく上下している。船内のテレビでは、イタリアの天気予報が流れているが、雨や曇りのマークが多く、天候は良くないようだ。そして、大きな松ノ木が、道路に倒れている映像が、写し出されていたが、これは昨日の悪天候の結果であろうか。


暇つぶしに、音楽を聴いている。さすがにフランク永井とテレサテンの歌は聞き飽きたので、今はカシオのロシア語辞典に内蔵されている「クラシック名曲
1000フレーズ」を聞いている。結構楽しめている。


PM2:40
、出航前に聞いた、売店の男性の話では「イタリアのバーリ港へは、3時頃に着くでしょう」と言っていたので、甲板に出てみたが、何処にも島影は見えない。この分だと到着は、もっと遅くなるのではないだろうか。


    

島影は何処にも見えない


遅れているからと言って、船のスピードを速めることはないようだ。むしろ、波が高い分、遅くなっているかもしれない。ただ、トイレの掃除は、もう始まっている。


PM3:45
、甲板に出ると、イタリアの陸影がうっすらと見えてきた。天気が良ければ、もっとはっきり見えるのだろうが。やはり着岸は4時過ぎになりそうだ。今日中に、ローマのホテルまで行くことが出来るであろうか?

PM4:15、バーリの港が見えてきた!


    

バーリ港(イタリア)


    

バーリ港(2)


PM5:00
、イタリアのバーリ港に下船。パスポートチェック。

PM5:25、バスに乗ること15分程で、バーリ・セントラル駅に到着。乗車券は1ユーロ也。バーリの街は、堅固な石で出来た建造物が多く、そう言う意味では、ローマ市内とあまり変わらない。昔から港町として栄えてきた事が伺える。


PM5:50
、バーリ・セントラル駅の、切符売り場に並び、乗り損なった「午後1時発の切符」に変えて、新しい切符を購入すべく準備をする。自分の番になったので、念のため、乗り損なったE-チケットを見せて、乗れなかった理由を説明した。


すると、窓口の女性が「この乗車券で次の列車に乗ってください。追加料金は8ユーロですが、それは車内で車掌に払ってください。座席は車掌が決めます」と言うではないか。私は、切符の買い換えの為に、最低でも
50ユーロは取られるだろうと、覚悟していたので、意外な話に嬉しかった。駅の外は本格的な雨が降っている。


    

バーリ・セントラル駅


PM6:25
、言われたとおり、やって来た次の列車に乗り、空いていた席に座って、車掌が来るのを待った。間もなく車掌が通りかかったので、E-チケットを見せながら、8ユーロを支払おうとすると、その話はさておいて、車掌は全く別の話をし出した。


つまり「この列車は、悪天候のため、次の駅(フォッジオ:
Foggio)までしか行かない。その後は、バスに乗り換えてベネヴェント(Benevento)駅まで行ってください。そこで更に、列車に乗り換えてローマまで行くことになります。ローマへの到着は、深夜になるでしょう」と。私の8ユーロの追加支払いの話は、どこかに飛んでしまった。


私は、余りに突然の話に、1度目は、話の内容が飲み込めなかった。2度、3度と聞き直して、やっと話の全体像がつかめてきた。つまり、この話の背景は、私たちのフェリーが遅れた理由が、悪天候であったのと、同じなのである。後で聞いた話では、昨日の悪天候で、死者も出たという。


PM7:35
、フォッジオ駅で降りる準備をしていると、私の周りに座っていた青年男女も、立ち上がって降りる支度をしていた。私が「あなた達もローマまで行くのですか?」と聞くと「そうです」と言う返事。「それじゃ、私はあなた達に付いて行くよ」と言うと「どうぞ、そうしてください」と言ってくれた。


私たちは、まず列車を降りて駅の外へ出た。雨が降る中、そこには既に、我々と同じ境遇の人々が大勢、バスが来るのを待っていた。


PM8:15
、バスが次々と来て、私はなんとかバスに乗車出来たが、顔見知りになった青年達と、はぐれてしまった。


PM10:00
、バスがベネヴェント駅に到着。列車の車掌は、「30分程、バスに乗ります」と言っていたが、実際には2時間近くも乗っていたのだ。私は、この間、すっかり眠っていた。


PM10:15
、バスから降りて、ベネヴェント駅のホームへ上がっていくと、列車が待っていた。大勢の人の後に付いて、私も列車に乗り込んだ。すると車内放送で「この列車はローマまでしか行きません。ミラノまで行く人は、別の車両に乗り換えてください」みたいなことをイタリア語で言っていた。


私が聞き取れずに、不安そうな顔をしていると、隣の女性が英語で「あなたはローマまで行くんですか?それなら、この列車で良いのですよ」と教えてくれた。私は「ありがとう」とお礼を言った。こんな時の一言は本当に有り難い。


車内では、クラッカーと、パイナップルジュース、水の入った紙袋が配られた。鉄道側の心配りであろうか。


PM12:05
、列車は、深夜のローマ・テルミニ駅に到着。私が予約したホテルは、駅から5分前後の所にあるはずだが、駅自体が大きいので、出口を間違えたら、大変なことになってしまう。


私は、先ほど、この列車がローマ行きであることを教えてくれた女性に、「あなたは、ローマにお住まいですか?」と聞くと「そうです」と言う。


これはチャンスだと思い、私のホテルの住所と地図を示して、「今夜はここに泊まるのですが、分かりますか?」と聞いてみた。彼女は、地図を見て「分かりますよ。私が教えてあげます」と言ってくれた。


彼女についてホームを出ると、ボーフレンドが出迎えに来ていた。彼女は「私のボーイフレンドです」と言うなり、彼氏に抱きついて、暑いキスを交わしている。私はすぐ側で、その光景を見せつけられていた。


しばらくして、一段落した彼女は、私の方に来て、先導してくれた。彼女が英語で親しげに私と話していると、彼氏が我々から離れて歩いている。それを見た彼女は、また彼氏に走り寄ってキスをしている。


どうやら、駅の出口は同じ方向であったようだ。構内から出た所で、「あの角を右に曲がって、4ブロック行った所ですよ」と教えてくれた。ここまで来れば、私も一人でホテルまで行けそうな気がした。彼女は、実に有り難い助け船であった。


PM12:30
、私は、深夜のローマ駅に近い裏通りを、大きなトランクを転がしながら歩いている。3ブロックほど進み、辺りをきょろきょろ見渡すと、今晩の宿泊所である「アストリア・ガーデン・ホテル(Astoria Garden Hotel)」の看板があった。


受付に行くと、名前を確認されて、パスポートの提示を求められた。宿泊料は前払いで予約されていたが、税金分は未払いであったようだ。受付で2ユーロを支払って鍵をもらい、個室に入った。

長い長い一日が終了した。


アルバニアのドーレスから、イタリアのローマまで、なんと長かったことか。私のローマ行きを、何とか阻止しようとしていた見えざる敵に、ついに打ち勝ったのだ。それも、昼間のアドリア海を渡り、追加の鉄道運賃を払うこともなく。完全勝利の気分である。


旅の終わりに当たって、こんなドラマが待っていたとは、誰が予想したであろうか。大げさに言えば、ローマ帝国の初代皇帝、ジュリアス・シーザーが、僻地での戦いに勝利して、ローマに凱旋した時のような気分である。


PM13:00
、熱いシャワーをたっぷりと浴びて就寝。不思議なことに、妻と出会った頃の夢を見ていた。


12月3日(火)


AM8:00
、起床。朝食。ホテルの朝食は、申し分なく美味しかった。ここのホテルは、料金(約6000円)の割には、必要で十分な設備とサービスを提供している。これ以上の設備とサービスを提供するホテルはいくらでもあるが、それは過度の贅沢であり、居心地は必ずしも良くない。駅から至近の立地と言い、チャンスがあればまた利用したいホテルである。


AM11:00
、メールの送受信と、パッキングを済ませて、ローマの街へ散策に出る。フライトの時間を考えると、長い時間は取れない。コロシアムまで行けるかどうかだ。


    

ホテル街


帰り道を忘れないように、振り返り振り返りしながら歩いている。テルミニ駅を過ぎてしばらく行くと、路上で「焼き栗」を売っていた。
15年前に、妻と来た時に食べた焼き栗が、美味しかったことを思い出し、思わず立ち止まって注文した。


    

テルミニ駅


    

焼き栗


露天商のおやじは、2、3の日本語を披露しながら、炭火で栗を暖めている。それを手製の紙コップに入れて、5ユーロ也。一粒の皮をむいて口に頬張ると、栗はまだ生焼けで冷たい。


おやじにもう一度暖めてもらったが、
15年前の味とはほど遠かった。大きさも、その時の栗と比べると、大分小さい。美味しかったらお土産にしようとも考えたが、これでは残念だが、お土産にはならない。


思わぬ所で時間を潰してしまい、とてもコロシアムまでは行けそうもない。私は、期待はずれの焼き栗を食べながら、ホテルへ戻ってきた。今日の散策はローマの空気を吸っただけで終り。


    

ローマの空気を吸っただけ


AM12:00
、ホテルを出て、歩いてテルミニ駅へ。空港までの切符を買おうと、窓口を探していると、さっと若い女性が寄ってきて「何かお手伝いしましょうか」と言う。私が「空港までの切符を買いたいのだが」と言うと、自動販売機に誘導して、パネルをタッチしてくれた。14ユーロ也。


    

テルミニ駅


「ホームは何処でしょうか?」と聞くと「
24番線です」と言って先導してくれた。しかも、大きなトランクを自ら引いて。私は2、3ユーロのチップをあげようと考えながら付いて行った。24番線ホームへ来ると、更にもう一度チケットを器械に通していた。


これは何のためにやったのか、分からない。「はいこれで終わりです」と言うので、「ありがとう」と言って、3ユーロのチップを渡すと、不満そうな顔をして「もっと呉れるべきだ」みたいなことを言う。私は、「やっぱり、純粋な親切心でやってくれていたのではなかったのか」と、急に心が重くなってしまった。


ポケットにあるだけの小銭を出してみせると、「それを全部よこせ」と言う仕草だ。私は、忌々しく思いながらも、それを全部渡した。全部で5、6ユーロだったと思う。女が去った後、今度は男が寄ってきて、「私の切符を器械に通さなければだめだよ」と言いながら、勝手に、さっきの女がやったことと同じことをした。


そして、「チップをよこせ」と言う。私は段々腹立たしくなってきたので「冗談言うな」と言って、無視した。「ローマに行ったら、気をつけるように」と、何度も言われて来たが、ただでは帰してくれない所の様である。


PM0:22
、フィウミチノ(Fiumicino)空港行きの列車が発車。私の前にお座りになったのは、アリタリア航空のキャビンアテンダント。ナポリご出身で現在は国内とヨーロッパを飛んでいる。ハイシーズンとオフシーズンでは異なるが、月に6090時間飛ぶそうだ。


PM0:53
、空港着。

PM1:20、チェックイン。

PM2:45、荷物を預け、手荷物検査、パスポートチェックを済ませて、G9ゲートへ。早めにチェックインしたので時間が余ると思っていたのに、余分な時間は殆どなかった。チェックインしてから、ゲートにたどり着くまでが長いのである。


成田空港は、第
1ターミナルと第2ターミナルに分かれているが、ローマのフィウミチノ空港の場合は分かれていない。従って遠いゲートの場合は、一駅ぐらい、移動しなければならない。途中、空港内の電車に乗ったりもするが、歩く距離も、相当長かった。


そして、ゲート前でアンケート調査のインタビューを受けた。「ローマの印象について」のアンケートであった。私は感じたことを率直に語った。


PM3:00
、搭乗。

PM4:00、離陸。ポメラを叩いて過ごす。

PM9:10(現地時間、PM11:10)カタールのドーハ空港に着陸。


12
4日(水)


AM0:40
、ドーハ空港でトランジット後、カタール航空に搭乗。

AM1:15、離陸。私の両隣は二人とも31歳の青年。この二人の青年が対照的であった。一人は日系3世のブラジル人。長野県伊那市で所帯を持っている。母親と共に14歳の時に日本に来て以来、学校には行かず、働いている。既にマイホームを建て、高校生の娘が居る。


今回の来日に当たり、ブラジルからアメリカ合衆国経由ではなく、ドーハ経由にしたのは、ビザの関係だと言う。ブラジル人の場合、アメリカを経由するだけでも、面倒なビザの手続きが必要なのだそうだ。ブラジルでは仕事がなく、生活ができないので、日本に永住するつもりである。


もう一人は、
IT企業で働いてきた日本人男性。既婚者だが子供は居ない。仕事に疲れて3ヶ月間の休養中である。今は妻と共働きで生活費に余裕があるが、子供ができて、妻が働けなくなったら、厳しくなると言う。希望に満ちた日系3世のブラジル人と、将来に悲観的な日本人男性でした。


AM11:15
(現地時間、PM5:15)成田空港に安着。


PM6:30
、成田空港発、快速列車にて佐倉駅へ。列車内では3人の若い女性が、英語と日本語を織り交ぜて談笑している。不思議なやり取りだったので質問してみた。3人の内、1人は英語だけの話者で日本語は勉強中。他の2人は、アメリカ生活が長い日本人で、バイリンガル。


3人とも国際基督教大学の学生。「その大学は日本一英語が難しい大学ですよ」と言うと、「そうらしいですね」と澄ました顔。彼女らにとっては、「英語が難しい」と言う感覚は無いようだ。逆に、「日本語をもっと勉強しなければ」と言っていた。


PM7:00
、佐倉駅着。妻の出迎えの車で帰宅。お疲れさま!


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