7月16日(月)天水 AM6:00、起床。朝食は自前のバナナとリンゴ。若干の時間をポメラに当てる。 今回のユースホステルは、周囲14Kmの、西安城壁の内側にあった。なかなか趣のある風景で、出来ればもう少し見て歩きたいと思う。今回の旅では、兵馬俑の見学だけしかできなかったが、数千年の歴史を持ち、13代の皇帝が政治を司った西安は、さすがにその深みを感じる。 日本では京都がそれに当たるが、時間的、空間的な規模は比較にならない。満足するまで見学するには1ヶ月が必要だとガイドブックにある。何時かチャンスがあったらもう一度訪問したい。 AM8:00、トラック・バスで出発。今日も長距離の移動である。トラック・バスの中では、皆がぐったりとして眠っている。 AM10:10、トイレ休憩。小雨。昨日の猛暑が一転して涼しくなった。半袖、半ズボンでトラック・バスに乗っていても寒く感じ、上から長ズボンを重ね着した。因みにこのトラック・バスには空調設備は付いていない。 PM1:00、ランチタイム。カップヌードルと饅頭で10元。それに持参のリンゴ。昼食は3日連続でカップヌードルだ。妻に怒られそうだが、他に適当な物がないのが実状である。 PM1:30、出発。トンネルが多くなって来た。山沿いの地域に入り、高度も上がってきたのだ。数キロのトンネルが、次々に現れる。気温が下がって来た。20℃位だろうか。 PM3:00、天水に到着。駐車場から荷物はホテルの人に運んでもらい、我々は麦積山石窟の見学に行く。一般の見学料は40元、私はシニア割引で無料。有り難い。ここからバッテリーカーに分乗して石窟の近くまで行く。8元。 世界遺産になっているだけあって、見応えがある。入り口はさながら山形県の山寺を想起させるが、少し上がるとそこは断崖絶壁である。よくもこんな所に数百もの石窟を掘り仏像を彫刻したものである。当時は如何に仏教が隆盛していたかをしのばせる遺産ではある。宗教建築・彫刻は、どの宗教にあっても想像を遙かに超えるものがあるが、ここもその一つである。 麦積山石窟@(天水) 絶壁に作られた足場を上って見学するのだが、高所恐怖症の人には少々困難を伴うであろう。一緒に上っていたオーストラリア人のマークは途中で引き返してしまった。妻のジョアンナは大きなカメラを構えて写真を撮りまくっている。私は最高所まで見学して下りてきた。 麦積山石窟B(天水) 麦積山石窟C(天水) PM5:30、ハプニングはホテルへの帰着途中で起きた。私が下りの坂道を歩いている時に、小さなコンクリートの盛り上がりに躓いて、スッテンころりん!足元を見ていなかった事、足が上がっていなかった事が原因であろう。垂直の崖から下りて来て、ほっとした気の緩みが、あったかも知れない。 左足の膝小僧、左手の肘、右手親指、右の手の平、その他を擦りむいてしまった。下り坂のコンクリートであったため、勢いが付いてかなりの出血を見てしまった。不幸中の幸いに、骨折したり、顔を打って眼鏡を壊したり、手に持っていたスマホが壊れることはなかった。 すぐに手当をしたいが、傷口に砂や土が付いているので、ホテルに着いてから傷口を洗い、その後に手当をすることにした。 PM6:30、ホテルで消毒液を貰い、傷口の小さいところはバンドエイドを張り、傷口の大きい左足の膝は何もしないで乾くのを待つことにした。相部屋のスコットが手当をしてくれたのだが、持っている道具といい、手当の仕方といい、何処となく普通の人より慣れているように見受けられた。 彼にその様に言うと、彼は「スコットランドで兵役を16歳から24歳まで、8年間勤め上げた。最初の4年間は義務で、後半の4年間はボランティアだ。アフリカでの訓練や、アフガニスタンでの実戦(8ヶ月間)も経験している。給料は貰いながら、使うことはないから貯まる一方で、そういう意味では悪くない。だから今こうしてシルクロードの旅に参加できている」と。 PM7:00、ホテルの中庭で夕食。うどんを1杯。10元。ツアーリーダーのニンカは、2年前までトーカン・トラベルで働いていたと言う。「私も4年前にトーカン・トラベルで南米の旅行をした」と言うと、ツアーリーダーの名前は?と聞かれた。「名前は覚えていないが、背の高いカナダ人女性だ」と言うと、「それなら、ジェーンだ」と言っていた。(正しくはハイディでした) PM8:00、入室。シャワー。 PM10:00、就寝。 7月17日(火)天水 AM6:00、起床。昨夜は鼾をかいていたらしく、ドイツ人のフーゴに起こされて注意された。こういう事もあろうかと心配はしていたが、相部屋で旅行するからにはある程度覚悟はしなければなるまい。現にフーゴだってこの3日間の相部屋の間に結構鼾をかいており、私は耳栓をして寝ているくらいだ。自分の鼾は聞くことが出来ないから、気を付けようがない事が問題なのだ。 AM7:00、ホテルの中庭で中国式の朝食。お粥、味のない大きな饅頭、どれも油で炒めた4品のピクルズ、ゆで卵。味はともかく、朝食の量としては十分である。 AM8:30、近所にある国立公園・仙人崖へ出かける。行く人は少なく、私とセブギの2人だけだ。タクシー、路線バス、バッテリーカーを乗り継いで仙人崖の登山口へ。 国立公園・仙人崖(天水) AM9:00、登山を開始するも、急傾斜の長い階段に息切れ。 AM9:45、私は頂上まで登ることを諦め、セブギと分かれて来た道を戻ることに。待合い所でボトル水を1本、3元。 AM10:15、セブギが戻ってきて合流。「頂上には何があったの?」と聞くと、「何もありませんでした」と言って数枚の写真を見せてくれた。確かに、これならわざわざ頂上まで行く必要は感じられない。多くのメンバーが来なかったが、それが正解でした。昨日の麦積山石窟とは比べようもなく貧弱な国立公園である。 帰りは此処からまずバッテリーカーの溜まり場まで戻る。バッテリーカーで5元。そこからは白いヴァンに乗って戻るようにと張さんに言われていた。ところがしばらく待っていてもそのヴァンが現れない。 AM10:50、しびれを切らしたセブギがとった行動が、私のスマホで張さんと連絡を取ることであった。私のスマホに中国のシムカードが入ったことを知っている彼女は、それで張さんと電話が出来るはずだと思い付いたらしい。セブギがメモしていた張さんの電話番号に掛けてみると、見事に繋がった。 張さんの指示は「近くのバス停まで歩いてバスで帰るように」との事。私たち2人はバッテリーカーの、係りの誘導でバス停に向かった。15分ほど歩いていると、待っていたヴァンが反対方向へ走り去って行った。 本来ならこのヴァンに乗って戻る予定であったのに。何時来るか分からないバスを待つべきか、戻って、通り過ぎたヴァンに乗るべきか、ここでセブギが再び張さんの指示を仰いだ。新規に購入したシムカードがこんな形で役に立つとは想定外であった。 張さんの返事は「戻ってヴァンに乗るように」との事。不案内で心細いところを、行ったり来たりで疲労はピークに達している。 AM11:20、ヴァンに乗って、今朝、バスに乗車したところまで戻る。8元。 AM11:35、徒歩で、我らの大型トラック・バスが駐車している場所まで戻る。セブギは更にホテルまで戻ってパッキングをしなければならないが、私はパッキングを済ませて来ているので、荷物と他のメンバーが来るまで、此処で待つことにした。もう歩きたくなかった。 此処で偶然、私は小さく目立たないクリニックを見つけた。昨日の怪我の手当をしてもらいたくて、そこに行って傷を見せると、「今医者を呼んでくるから此処で待っていなさい」と言う。 暫く待っていると医者と英語の話せる女性が現れて、丁寧に傷を消毒し、絆創膏を貼ってくれた。傷口が化膿しないか心配だったので、大いに助かった。無料で良いと言ってくれた。 AM12:00、昼食を探す。あまり気が進まないが、複数の客が木陰で食べているのを見て、自分も頼むことにした。それは、うどん+コンニャク+寒天+刻んだキュウリ+冷やし中華の汁、と言う具合の料理で、案外食べられた。10元。 PM0:30、荷物がホテルの車で届けられ、皆も集まって来た。 PM0:45、トラック・バスが出発。 PM3:00、出発。走りながら、トラック・バスの中で考えていた事は、黄河の成り立ちである。「黄河」の字を初めて目にした中学生の頃は、「黄色にもいろいろな段階があり、どの段階の色なのだろうか」と言う素朴な疑問を持った。その疑問を今回の旅で解き明かせれば、私にとっては大きな成果である。 どうやらその解答がこの辺の地形を見て出たように思う。この辺の土地は柔らかい土砂から出来ており、至る所にいわゆる土砂崩れが発生した形跡がある。つまり、中国西部では毎日大小の土砂崩れが起きており、その土砂が川に流れ込んで黄色い水になっている。 黄河の源流 この現象は何時収束するのか?土砂がある間は続くであろうし、土砂が無くなるのは、中国と言う国が無くなった時であろう。「百年河清を待つ」とは、何年待っても事態は変わらない事の喩えであるが、黄河を見ていると、その例に重みを感じる。 現場で河を見ていると、まさに泥の河である。その泥の河を「黄河」と銘々したのは誰であろうか。「泥河」と「黄河」では、そのイメージは天地の差がある。こんな所にも命名の重要さ、命名の妙を感じる。 もっとも中国は現在に至っても、権力闘争を「文化大革命」と銘々し、その名に幻惑された世界のマスコミはそれを鵜呑みにして、毛沢東を礼賛していたのだが。政治的な命名や標語には呉々も気を付けて、その実体を知る必要がある。
PM6:00、我らのトラック・バスは、高速道路から下りた細い道をうろうろ走っている。今夜の野宿場所を物色しているのだ。決定したのは高速道路の道路沿いの空き地。そこでは老齢の男が、20頭ほどの羊を放し飼いにしていた。 初めて購入したテントを初めて張ってみた。自宅で予行練習をしていたのでスムーズに立ち上がった。現場で立ててみて感じたことは、穏やかな日はこれでよいが、風雨で荒れた日は如何であろうかと言う不安であった。 初めてのテント(蘭州)
チャックをはじめ、全体的に華奢な感じがする。3〜4人用で広さに余裕があり、荷物が多い今回の旅には、大き過ぎることはなかった。テントを張り終わったら、ポメラタイムだ。まだ日も明るい。 PM8:00、夕食。今夜の担当は、オーストラリア人夫婦のマークとジョアンナである。うどん+肉・野菜の炒め物が今夜のメニュー。ベジタリアンの為には肉を入れる前に取り分ける。大きめのプレートにマークがうどんをよそい、その上にジョアンナが炒め物を乗せて出来上がり。ワンプレートの典型的なキャンプ食だ。お味はグッドでした。どこの店で食べたものより美味しく感じた。
夕食時間に、ドライバーのジョノと若干の懇談。このトラック・バスは、トラックを購入してトラック・バスに改造した物で、改造はジョノが行った。ジョノも数年前に転職している。ツアーリーダーのニンカと同じトーカン・トラベルに居たそう。ジョノがニンカを引っ張ったようだ。
「今の職場はトーカン・トラベルに比較すると大変小さい(たった2台のトラック・バスで経営している)が、長距離ツアーを扱うので面白い。この職場は3度目で、都合10年になる。ドライバーとして路線バスの運転手になり、短距離を毎日9時から5時まで、繰り返し運転するような仕事は考えられない。家庭は持てないが、世界中に友人はいる」と話してくれた。
PM10:00、寒くなってきたので一足先にテントの中へ。昼間、汗をかいたのにシャワーを浴びることも出来ず、着替えもしないで寝袋に潜り込んだので、身体が暖まらない。加えて、すぐそばの高速道路を走る、車の警笛音や振動でなかなか寝付かれなかった。
AM1:00、小便を催して起きた。随分寝たと思ったが、まだ1時であった。身体が冷えて居たのが原因であろう。遅ればせながら下着を取り替えて再び寝た。ワイルドキャンプの現実がここにあった。
7月18日(水)蘭州
AM5:00、起床。ポメラ。 AM6:00、パッキング後、朝食。シリアル、コーヒー、ゆで卵。 AM7:00、足の怪我が早く回復することを願いながら、トラック・バスで出発。
足の怪我(トラックバス内)
AM8:30、トイレ休憩。録音を聴きながら、バッグに忍ばせてあった中国語のテキストを眺める。数年前に勉強したことを少しずつ思い出す。
AM11:00、トイレ休憩。リーダーのニンカに、「ドライバーはどのように道を覚えるのか?」と聞くと、「前任者からの引継ノートとGPSに依って運転している。しかし、国により政治状況が変わるので、毎年同じコースを走るわけではない。例えば、キャンプができなかったり、今回のように、イランに行くことを止めたりである」と言う。
AM12:00、黄河三峡着。もう少し景色の良いところを期待していたが、どうという事はない。多くのメンバーはここから船に乗って、黄河河岸に造られた石窟(炳霊寺石窟)を見学に行ったが、私は行かずにポメラタイムに当てた。もう大仏見学は十分だ。
黄河三峡(蘭州)
PM1:00、昼食。牛肉麺、8元。注文を受けてから粉の固まりをこね細く伸ばすのに、ほんの数分の早業である。それを熱湯で茹でるのに、1分ほど。全くの手作りうどんである。牛肉麺と言うが、細切れ牛肉がお印程度に入っているだけであった。
その後、ポメラを叩いていると、従業員が覗きに来て「韓国人か」と声をかけてくる。「日本人だ」と私が言うと、大変珍しそうな顔になる。時間がタップリあったおかげで、1日分の日記を書き終わった。
PM5:00、キャンプ場へ移動。場所はコンクリートの上である。今日の夕食は、私とフーゴの担当。13人分の食事は結構な量であるが、米を炊いて、それに添えるソースを作るだけだから、さほど手間は掛からない。
私が人参、タマネギ、キノコ等を刻み、フーゴが肉を刻んだ。味付けはリーダーのニンカがやってくれた。上々の出来上がりで、そこらのレストランには負けない位であった。 PM6:30、楽しく懇談しながらの夕食。係りの我々2人は、後片づけもした 夕食の支度(黄河三峡)
PM8:30、ドライバーのジョノが、簡易なシャワー設備を作ってくれたから、着替えの下着を取りにテントに入って用意していると、突然の雷雨に襲われた。シャワーどころでは無くなり、そのまま横になる。
雷の音と稲光が益々激しくなり、一向に止みそうにない。顔や肩口には雨漏りの滴がしたたり落ち、とても安眠できそうにない。
それでも、うとうとして10時半に目が覚めた時には、雷の音は遠ざかっていた。気が付くと、寝袋も一部が濡れており、まともに被れる状態ではない。寝袋を開いて、濡れたところが身体に当たらないように掛けて寝るのが精一杯であった。
7月19日(木)西寧
AM5:00、起床。昨夜の雷雨で、床に置いていた夏用の衣類や枕、寝袋がすっかり水浸しになっている。僅かにマットの上側は濡れていなかったが、下側はビショビショである。雨漏りだけではこんな状態にはならないはずだから、水はテントの下から浸透してきたに違いない。
見かけはそこそこ増しに見えたけど、ほとんど役に立たないテントであることが、たった2日で証明されてしまった。おお、ミゼラブル!! AM6:00、朝食の係りとして支度を始める。お湯を沸かし、スクランブル・エッグを作り、食パンを焼く。シリアルやバナナも用意する。各自が食べ終わったら、食器類の収納。こうしている間、各自は濡れたテントを柵に掛けて干したり手際よく作業を進めている。 私は朝食のかたづけが終了後、自分のテントの撤収に取りかかった。濡れて水が滴るテント、ぐっしょり水を含んだ衣類。出発時間が決められているので、そのままバッグに入れて仕舞うしかなかった。毎日が様々なハプニングで、今後どんな事が待ち受けているのか不安にもなった。 AM7:30、出発にあたり、濡れた衣類を誰も座っていないトラック・バスの後方にぶら下げて乾燥させたいと思い、ロープを張っていると、オーストラリア人のジョアンナが、「ロープに吊すよりも、座席の背もたれに掛けておく方が、日が当たって乾燥し易いわよ」とアドバイスを呉れた。 私はアドバイスに従って10枚ほどの夏物衣類を背もたれに掛けて干した。確かに、この方が乾燥が早そうだ。「とても賢いやり方ですね」と言うと、ジョアンナは「あなたの奥さんも何時も色々考えながらやっているのよ」と返してきた。
トラック・バスは峡谷の狭い道を縫いながら、進路を確認するかのように、何度も立ち往生しながら進んでいる。 祁連山脈A 祁連山脈B 祁連山脈C
AM10:30、トイレ休憩。沢山の美味しそうな果物屋が露天に並んでいて、思わずそちらへ引き込まれる。行くとメロンや西瓜を切って味見をさせてくれた。持っていける物なら買いたいが、包丁も無いし、諦めるしかなかった。 AM11:00、トラック・バスの出発前に、これからの旅程について、意見交換がなされた。選択肢が幾つかあるようだ。私は議論に参加できるほどの英語力がないし、旅程を選ぶ知識も無かったので、皆の話を見守っているだけ。10分程度で結論が出たようで、トラック・バスが出発。 AM12:40、トラック・バスが町中の道路沿いに停車してランチタイム。とりあえず皆が行きたかったのはトイレ。現地ガイドの張さんに、トイレの場所を聞いてそちらへ歩く。100mほど先の角を曲がった当たりにあると言うが、見あたらない。通行人に尋ねても要領を得ない。 そうこうしていると、ガイドの張さんが追ってきて我々を先導し、更に角を曲がっていく。50mほど歩いた所に、中国語でトイレと書いた入り口があった。そこに入っていくと親父が立っていて、「一人1元払え」と言う。我々はそれに従って用を足した。 私はこの後、通りで薬局を見つけたので、一昨日、手当をしてもらった傷の絆創膏の交換をしたいと思い、張さんと一緒に訪ねた。絆創膏を剥がすと傷口はまだ濡れていて、若干の出血もあった。男性の薬剤師はその傷口を見て、部下に道具を持ってこさせ、処置をしてくれた。30元。 丁寧に消毒をし、薬を塗ってガーゼを当て、絆創膏を長く切り取って、足と肘をぐるりと巻いた。1昨日の手当と若干違うのは、傷口に空気が通う処置をしたことであった。1日も早い回復を祈るばかりである。 南米旅行の時は、ツアー開始早々、風邪を引き、それが段々ひどくなって、結局抗生物質を現地調達し、それを飲んでやっと回復したと言う苦い経験がある。今回は、小さくはない擦り傷で苦闘している。 こんな経験は小学生以来だ。当時はコンクリート道路の上で、リヤカーを押していた時に転び、何メートルか引きずられてしまった。その晩は発熱したことを覚えている。 PM1:30、私は傷口の交換でランチタイムを使ってしまい、昼食を食べずにトラック・バスに戻った。その客室へ珍しく運転手のジョノが入って来て「客室で濡れた物を干すことは止めてもらいたい。臭いが籠もって、他の乗客に迷惑するから」と注意された。 トラック・バスの持ち主の方からすれば、ごもっともな話なので、衣類はすぐに撤収した。朝方のジョアンナのアドバイスとは正反対の助言である。物事は立場により全く違って見える事の一例かもしれない。私にとっては幸いにも、撤収した衣類は半乾きにまでなっていた。 PM4:20、トイレ休憩。とは言っても、一面が野原で、用を足せるような所はない。「何処で用を足すのか?」と聞くと、運転手のジョノは「その辺で」と言う。要するに立ち小便をしてこいと言うことだ。男性はそれでよいが、さすがに女性は誰も用を足しに行かない。他人事ながら心配である。 途中、トラック・バスはあえぎ、あえぎ進んでいたが、それもそのはずで、マークが持っていた高度計によると標高3500mを表示している。私はそんなに登って来たとは予想していなかったので、少々あわてた。と言うのも私の場合、過去の経験から、標高3000mを越えると、高山病の症状が出てくるからである。 祁連山脈E 予防薬は持参しているが、今はスーツケースの中にあって取り出せない。この先、何処まで登っていくのであろうか不安になる。幸いにも、今のところ頭痛は発生していない。トラック・バスに座ったままで、歩いたりしていないからだと思う。 PM4:50、高度は3797mの表示があった。富士山頂の3776mを越えた。ここに見晴らし台があり、ソロリソロリ、トラック・バスから下りて展望台に行くと、すばらしい眺めが広がっていた。そして沢山の土産物屋と大勢の人で賑わっていた。ここは祁連山脈の一支脈である達坂山と言い、高度が高い割に観光客と見られる車の往来が頻繁である。 達坂山(門源県) 我々のトラック・バスは、ここを頂点にして、下り坂を進んで行った。海抜3200mの高原(門源県)には、牛やヤクの放牧や、黄金の菜の花畑(幅10q、長さ50qで、ほぼ淡路島と同じ面積)が広がっていた。 黄金の菜の花畑(門源県) PM6:30、2、3カ所のキャンプ場を物色した後、今夜のキャンプ場に決まったのは、高度3000mで、山裾の平原であった。今のところ頭痛はないが、心配なので高山病の薬を半カケラだけ服用した。地元の家族が珍しいものを見るように、我々のところにやって来た。西洋人には一緒に写真を撮りたいと請い、西洋人はそれに笑顔で応じている。 皆が今夜のテントを張っている。私は昨日の雷雨に懲りて、今夜はトラック・バスの中で寝るつもりであるが、テントを乾かしたいので、私も自分のテントを張った。するとまたしても雨!山の天気は変わり易いものだが、さっきまで晴れていたのに。私はあわてて自分のテントを撤収した。 PM8:00、トラック・バスの屋根に取り付けてある大きなテントの紐をほどいて開き、その下で夕食。今日の夕食の担当は、トルコ人のセブギとキャメロンの妻・アンドレアの二人である。共に若い女性だが、ソースの出来映えは、まずまずであった。 しかし、米の方が生煮え状態で硬い。グループの人は、それを表情に出さず、黙々と食べていた。雨は強弱を交えながら降り続いている。こんな中でも、若い連中の食後の談笑は活発である。 PM9:00、私は早々にトラック・バスの中へ引き上げて、ヘッドランプを頼りにポメラタイム。 PM10:30、雨の中、外では談笑が続いているが私は就寝。トラック・バスの通路にマットを敷き、そこに寝袋と枕を置いて。寒くて身体が冷えている事に代わりはないが、雨が掛からない分、安心して寝られそうだ。 |