3.スコットランド



96日(日)曇り


AM5時。時差の関係でこれ以上寝ておれない。AM7時にはYHAを出発するつもりなので、丁度良い目覚めだ。6時半までパソコンに向かい、荷物を整えて7時にチェックアウト。アールスコート駅で、キングス・クロス駅までの片道切符を買ったが、4ポンド(約600円)もした。これがロンドンの初乗り運賃である。一日乗り放題でも5.60ポンドなのに。為替が円高に振れているからまだ良いのだ。為替が1ポンド250円の時は、初乗り運賃が1000円と言うのは、大げさな話ではなかったのだ。


ビクトリア駅で乗り換える為に、プラットフォームで待っていると、ガヤガヤと元気な大阪弁が聞こえてきた。女子大生5人のグループで、3週間の短期留学。私と同じキングス・クロス駅で降りたので、「今日はどちらへ行くんですか」と聞くと、「この駅で記念撮影です。小説ハリーポターに出てくる駅だから」と言っていた。ハリーポターの人気は大したものだ。


AM800にキングス・クロス駅に到着。エジンバラ駅(Edinburgh)行きの列車は、時刻通りのAM9:00の発車と電光板に出ている。しかしまだプラットフォームの番号が掲示されていない。私は待合室で腹ごしらえをする事に。菓子パンとコーヒーで4ポンド。


AM840、プラットフォームの番号が2番と掲示された。改札を通るも係りは誰も居ない。そう言えばガイドブックに書いてあったっけ。乗車の時は何のチェックも無いが、車内検札で乗り越しが分かると多額の罰金が科されると。2時間ほど走った処で、車内検札がありました。


列車は13両編成。私の指定座席はD車両の43A。テーブルを挟んで向かい合わせの席だ。既に30歳代の男性が座ってパソコンを叩いている。ここで仕事をしているのだろうか、なんとなく声を掛けにくい。隣のテーブルには50歳ぐらいの男性が一人で新聞を読んでいる。座席は思ったより狭い。飛行機のエコノミークラスの座席と同じくらいではなかろうか。暫く黙って外の景色を楽しむことに。どんなに見渡してみても山が見えない。何処までもなだらかな丘陵だ。


発車してから小一時間過ぎた所で、元気な女学生4人組が乗ってきた。どうやら隣のテーブルが指定席らしい。一人で座っていたオヤジさんが私達のテーブルに移って、隣の席を明け渡した。同時に4人の女学生による快活な懇談が始まった。十分大きな声なのに早すぎて殆ど聞き取れない。暫くはBGMとして耳を慣らすしかない。


間も無くオヤジさんが下車して行った。向かいに座ってパソコンを操作している青年に「随分忙しそうですね」と声を掛けると「インターネットをやっているだけだよ。此処ではワイヤレスの設備が整っているのだ。スピードは遅いけどね」と言う。「私のパソコンでも出来ますか?」と聞くと「出来るよ。みてあげるから」と言う。走っている列車の中から、日本の家族宛にメールができました!!お陰で退屈しないで済みそうだ。


暫くするとこの青年が下車して行った。すると隣の4人組少女の一人が、「そちらに座って良いですか」と言う。「どうぞ」と言うと、私の前に来るや、いきなり足を上げて横になってしまった。大分雰囲気に慣れてきたとは言え、ずいぶんマナーが悪いと思うが、イギリスでは普通なのだろうか。


彼女らは、「17歳。来年エジンバラ大学に進学希望を出す為、これから下見に行くのだ」と言う。更に4人とも、日本に3週間のホームステイをしており、日本語を少々操れる。一人は日本語を3年間勉強したと言い、一人は慶応大学に語学留学をした事があると言う。なかなかの親日家グループであった。話の内容には学校での授業の内容か、政治、経済、地理、歴史等の単語が聞き取れた。案外まじめな連中なのかも。


                   

     女子高生−1               女子高生−2


あと15分ぐらいで目的地のエジンバラ駅に着くという所で、信号トラブルが発生。もう2時間近くストップしたままだ。今日中に着けば良いので心配はしていないが、鉄道先進国と言われているイギリスにしてこの有様だ。私は一旦片付けたパソコンを取り出して書いている次第。文字通り、リアルタイムの旅行記である。


結局、4時間遅れでエジンバラに到着。駅舎は荘厳な雰囲気で、歴史を感じさせる、たたずまいだ。駅の周りを見ただけで、「来てよかった」と言う気になる。まず、近くで案内役をしている制服を着た女性に、住所と宿舎名の書かれた紙片を見せながら、ホステルへの行きかたを尋ねる。「歩いて行くのですか?」「その積りです」「15分ぐらいかかりますよ」とやり取りした後、更に途中で45人に聞きながらも、徒歩で無事、本日の宿にたどり着いた。


途中で何度も写真を撮りたくなったが、なんせ、大きな荷物を抱えて坂道を登っているもので、その余裕が無い。町全体が硬くて大きな石で建造された、巨大な城砦を思わせる。宿舎もそんな町の中にたたずむ、石造りの大きな宿だ。今日は、150人の旅行者で満室のようである。


  

             

              エジンバラ−1


受付に行くと、メキシコ人風の40歳代と思われる女性が取り仕切っていた。宿帳に住所、氏名、Eメールアドレス等を記入し、更に10ポンドのデポジットを払って、部屋のキーを貰う。迷路のような通路を歩いて、やっと自分の部屋にたどり着く。大きな建物の中を、小さく仕切って沢山の部屋を作っているから、ドアも沢山開け閉めしなければならない。


私の部屋は5階のF室で、男性だけの6人部屋。部屋には台湾から来た30歳ぐらいの青年が居て、シャワーを浴びて戻ったところであった。「日本から来ました。明日からのバックパッカー・ツアーに参加します」と言うと、パッと明るい笑顔になって「私も同じバックパッカー・ツアーに参加します。転職を考えており、その間を使って3ヶ月間のヨーロッパ旅行を実施中です」となかなかフレンドリーだ。


「それにしても随分狭い部屋だね」と私が言うと「それでも此処はいい方です。昨晩は此処の予約が取れずに別の宿に泊まったのですが、ひどい所でした。ロッカーはないし、インターネットは有料だし」と言う。列車の4時間遅れもあって昼食を取っていなかったので、私は空腹を感じていた。「夕食はどうしますか」と聞くと、「食料はスーパーで買って来ました。外食は何処も高いですから」と言って、近くのスーパーを教えてくれた。


町の通りに出て、ブラブラ散策し、スーパーに行って若干の食料を購入。部屋に戻ってくると間も無く、70歳前後と思しき男性が入室。「ウェールズから来て、エジンバラ近辺を歩いている。今日は何処そこ、明日は何処そこ」と非常に精力的だ。「失礼ですが、お幾つですか?」と聞くと「58歳です」と言う。頭は禿げているし、伸びているあご髭は白いし、既にリタイアしたと本人が言っていたし、60歳はトウニ過ぎているだろうと思っていたら、私より5歳も若かったとは!元気なはずだ。


 

             

               58才です!


時刻はまだPM8:00だが、十分に疲れて眠い。シャワーを浴びて、取り合えず寝ることにする。2段ベッドの下段が私の寝床であるが、天井が低くて体を起こせない。何度も頭をぶつけながら横になる。寝てしまえば天井の低さは気にならない。気が付くとベッドの横が出窓になっていて、そこに、はずした眼鏡を置く事が出来た。出窓を閉めようとウインドウを降ろしたがキチンと閉まらない。1Cm程開きっぱなしだ。冷たい外の空気が少し気になるが、眠って仕舞えばZ Z Z



97日(月)


例によってAM5:00に目が覚める。同部屋の人は皆眠っているので、すばやく身支度をして談話室へ。受付でワイヤレス・インターネットのコード番号を貰い、トライしてみると簡単に繋がった。無料でインターネットが出来るとは有り難い!


30歳位の受付で夜勤中の男性に、声を掛けると「自分はニュージーランドの生まれだが、半年前からこちらに来て働いている。これからは、数ヶ月単位で働きながら世界を巡るつもりだ」と言う。若い人の特権だ。


AM6:00になると3人の若い女性がチェックアウトに現れた。これから飛行機でスイスに行くと言う。7時から軽い朝食取る。買い置きのシリアル、牛乳、バナナ、リンゴである。ニュージーランドで覚えた朝食のスタイルであるが、慣れたのは日本に帰ってからである。日本で売られているシリアルは、日本人の口に合うように作られていて、食べやすい様に思う。


AM8:45から、いよいよバックパッカー・ツアーの受付だ。3日コースと5日コースがあり、吾人は5日コースに参加。5日コースには29人が参加している。その内、男性が10名。私がダントツの高齢者。他は30歳の前半止まりだ。小型バスが満席だ。道路は綺麗に舗装されているのにお尻が痛い。原因は私のお尻の肉が薄くなっているのと、車のクッションが悪いからである。


 

          

               エジンバラ城


運転手兼ガイドは、35歳位の元気でユーモアに溢れた男である。随所に笑い声があがるが、小生には何がおかしいのか殆ど理解できない。しかし豊富なジェスチュアーで、なんとなく雰囲気は察する事が出来る。


出発前に、運転手から本日の行程が説明された。その時「セント・アンドリュース・ゴルフ・コース(St.Andrews)」の名前が出てきたので、そこへ行ってくれるのかと思い、昼食の休憩まで、ずっと楽しみにしていたのに、とうとう寄る事は無かった。どうやらその近くを通ると言う事だったらしい。道路標識には。セント・アンドリュースの文字が何度か見えていたから。


最初に寄ったのは、ダンケルド(Dunkeld)の西2Kmに位置する「ハーミテージ(Hermitage)森林公園」だ。私は「ハ−ミテージ」の名称に興味を持った。ニュージーランドのマウントクックに在る、有名なホテルと同名だからだ。運転手にその関係性を尋ねると、「スコットランドから沢山の人が、ニュージーランドに渡っているから、関係があるかもしれない」と言う。


          

              運転手兼ガイド


此処の森林公園で印象的だったのは、とても苔(こけ)が多い事である。屋久島ほどではないが、至るとことに苔むした木々や石が見られた。それだけ雨量が多いと言う事だろう。


           

                苔むした木


スコットランドから移民した人が多い事で有名なのが、カナダ東部にあるノヴァスコシア(Novascotia)だ。英語で言うとニュー・スコットランド(New Scotland)と言う意味らしい。「赤毛のアン」の舞台になっているのは、その近くのプリンス・エドワード島(Prince Edward Island)だ。作者のルーシー・モンゴメリーの先祖は、スコットランドからの移民かもしれない。(松本侑子著・「赤毛のアンへの旅」によると、当たり!ルーシー・モンゴメリーは、「新婚旅行で家系の祖国スコットランドを訪れた」と。)


昼食は、ピットロッコリー(Pitlochry)の町で、台湾人、中国人と同行した。中国人女性は、フランスに3年間留学中だが、経済状況が悪いので帰国するかどうか、将来を決めかねていると言う。私と同部屋の台湾人青年(31歳)は、携帯電話関係のエンジニアをしていたが、仕事がきつすぎるので転職を考えていると言う。


昼食後は、スコッチウィスキーの製造工場の見学へ。トマーチン(TOMATIN)というメーカーだが、どの位有名なのか分からない。かつて、日本でも同様の工場見学をした事があり、特段目新しい事は無かった。(トマーチンはスコットランド最大級の蒸留所であるが、1980年代の不況により危機にさらされ、宝酒造と大倉商事が共同出資して危機を救った。日本企業が所有する最初の蒸留所となったのがこのトマーチンである。)


その後、有史以前(3〜4千年前)のストーンサークル型の共同墓地跡(Balnuaran of Clava)を見て、古戦場跡に向かった。


 

              

               古代の共同墓地跡


ここはカロデンの戦い(Battle of Culloden)として有名な戦場だ。日本で言うと関が原のようなものか。1746年に起こった、ジャコバイト(Jacobite)による最後の組織的抵抗で、イギリス軍との戦いに敗れ、ジャコバイト運動は、ほぼ鎮圧された。


ジャコバイトとは、1688年イギリスで起こった名誉革命の反革命勢力の通称である。彼らは追放されたスチュアート朝のジェームズ2世及びその直系男子を正当な国王として、その復位を支持し、政権を動揺させた。ジャコバイトの語源はジェームズのラテン名(Jacobus)である。


スコットランドは、イングランドに併合されるまで、随分と戦いを繰り返したようで、いたるところに、その勇ましい戦いぶりが残されており、展示物や絵画、城壁等として残されている。


本日最後の観光は、ネス湖である。一時なぞの怪物・ネッシーが存在すると言う、うわさで有名になった湖である。英語ならLake Nessと言うところだろうが、スコットランドではLoch Ness(ロコ・ネス)と言う。スコットランドには沢山の湖が点在しているが、皆Loch何々と呼ばれている。こんなところにもスコットランド人の意地を見る思いがする。


しかし私が今回のツアーで驚いたのは、この寒風が吹く中を、10人ほどの男女がネス湖へ飛び込んで行った事である。到着前から何やらガヤガヤしていたのは、この事だったのだ。私は運転手の話が聞き取れず、聞き逃していたのだが、到着するや我先に水着になって飛び込んで行ったのである。私は信じられない思いで、あっけに取られていた。日本でも、雪が降っている時にフンドシ一つで水に入る寒中水泳が無い訳ではないが。


              

                 ネス湖


その後、今夜の宿泊地であるインバネス(Inverness)へむかった。ここは、ハイランドの首都である。伝統的なスコットランドの地理では、ダンバートン(Dumbarton)とストーンへヴン(Stone haven)を結ぶ直線的なハイランド境界断層を境に、南東方面の低地地方、ローランド(Lowland)と、北西方面の高地地方、ハイランド(Highland)に分けられる。


我々29名の一団は、一つのホステルに泊まった。私の部屋は男性6人の部屋である。二段ベッドの上段があてがわれた。ロッカーも無い狭い部屋で、窓はきちんと閉まらないが、寝心地は悪くない。一人13.50ポンド(約2000円)だ。スーパーで買い置きの食事を取り、シャワーを浴びてPM1000に就寝。



98日(火)


AM6:30に洗顔を済ませて談話室へ行くと、2人の熟年夫人が談話中。挨拶をすると「よく眠れましたか」と言う。「昨晩は10時に寝ましたので十分です」と言うと「今までずっと熟睡できたなんて羨ましいわ。私は23時間しか眠れないの」と言う。「日本の京都と東京に行った事があるの、数年前の4月だったけど雪が降って寒かったわ」と。


「桜は見られましたか」と言うと「残念ながら見てないのよ。あなたのパソコンで日本の桜が見られますか」と言うので、インターネットに繋いで有名な桜を10件ほど見せてあげた。奈良のお寺が出てきた時は「この風景の所には行ったことがある」と言って大変喜んでくれた。


           

               桜を見たかったわ!


シリアルの朝食を済ませて、9時半出発。最初に立ち寄ったのは、ロージーの滝(Rogie Falls)。日光の「竜頭の滝」に似た、流れの激しい川だ。流れの一点に注目した後、目をゆっくり川下の方に移動させると、岩が登って行くように見えるところがある。目の錯覚であろうが面白い現象だ。時折、鮭が飛び跳ねている。産卵の為、古巣へ戻って行くのであろう。


          

                ロージーの滝


坂道を登ってバスまで戻ってきたら、汗をびっしょりかいてしまった。このままでは風邪を引いてしまうので、トイレに行って下着を脱いだ。気温、天候の移り変わりが激しい。こんなにも変化が激しいとは想像していなかった。此処から30分も走ったら、一転にわかに掻き曇り、激しい雨と風の嵐になった。バスは風にハンドルを取られて時々、対向車線にはみ出している。


遠くに見える小高い山の中腹で、人家も無いのに煙が舞い上がっている。近付いて良く見ると、滝の水が落ちてくる祭に、強風によって舞い上げられている飛沫であった。一方、ゲアロッホ(Gairloch)の海岸では、波が吹き上げられて、水蒸気が立ち上っている。バスの外へ出ると身体ごと飛ばされそうである。このように、一日に何度も晴れと嵐がやってくる。


           

               ゲアロッホ海岸


スコットランドで行われるゴルフ、例えばセント・アンドリュース(St.Andrews)で行われる「ジ・オープン(The Open)」をテレビで見ていると、必ず強い風の話が出てくる。どんなに一流の選手でも、この風に翻弄されて、勝負にならないことがある。その風がこれなんだなと思いを巡らす。私なら、こんな風の中では、とてもゴルフをする気にはなれない。


その土地の風は、そこへ行ってみないと実感できない。テレビではどうしても分からない事である。私が旅行をしたいのは、その土地に吹いている風を味わいたい為のようだ。風の強さ、風の匂い、風の温度、風の色、そして全体としての風景。おっと、今パソコンを叩いていて気が付いたが、風景と言う字の中にチャンと風があるではないか!やっぱり風なんだね。その土地の風の景色が風景なんだよ。「その土地の風に吹かれたくてやって来る。」それが私流の旅だ。


PM0:35、アラプール(Ullapool)港に着く。昼食の時間だ。ガイドは盛んにフィッシュ&チップスを薦める。魚が新鮮だから美味しいと。ニュージーランドで食して以来だが、挑戦することに。タラの一種の魚をフライにしたのと、ポテトフライだ。特に代わり映えはしないが、鮮度は確かであった。量が多すぎて食べきれないので、台湾人の相棒に半分プレゼント。5.45ポンド(約840円)であった。


           

                アラプール港


出発前から気になる人がいた。元同僚のジャンボ鶴田君に似た風貌なのだ。立ち居振る舞いは男性的であるが、女性の様でもある。話しかけると「大学で化学を教えていた」と言う。プロフェッサだ。後ほど女性であることに確信を持つ。


午後は、つり橋を渡ってコリーシャロック渓谷(Corrieshalloch Gorge)を見に行った。「6人以上はつり橋に乗らないで」と掲示されており、橋の中ほどまで行くと、結構揺れる。往復30分ほどの道のりである。往路は、オーストラリア人で、「数年前からロンドンの金融関係の会社で働いている」という青年と話しながら。大男で体重120Kgだという。この経済不況で仕事が極端に減少したと言っていた。


           

             コリーシャロック渓谷


 

帰り道は、フランス人女性と話しながら戻ってきた。気が付くと周りに誰もいない。道に迷った事に気が付き、引き返す事に。何処で迷ったのだろう。帰りのつり橋を渡り切った所で、左右に分かれた道を完全に反対側に進んでしまったのだ。


フランス人女性は、良く見ると身体に麻痺から来る障害を持っているようで、足場の悪いところを覚束ない足取りで歩いているのと、互いの流暢ではない英語に神経が集中して、すっかり方向の事が頭から飛んでしまっていたのだ。彼女は、「新婚で、夫と二人で参加している」と言う。なんとか6分遅れでバスに戻ることが出来た。


彼女の隣に座っている夫は、なかなかハンサムな顔立ちだが、やはり、右手に麻痺があるようだ。ハンデキャップを持った人同士の夫婦であったのだ。互いに寄り添い、かばい合いながらの行動は、見ていて微笑ましい。そして何よりも、二人の目が澄んでいる事が素晴らしい。


バスが走り出すと、にわかに空が掻き曇り、嵐のようになって来た。このように天候の変化が激しいのがスコットランドの特徴なのであろう。PM3:30にコーヒータイムで、コーヒー店に立ち寄った時は、風雨が激しくて、バスから出られないような状況であった。


バスで走っていて目に留まる光景は、いたるところにむき出しの岩が有る事だ。いかにも建築用に使えそうな、四角く切り出しやすそうな形をしている。そして、逆に、建築用として使えそうな樹木が殆ど見当たらない。こういう所にもエジンバラのような堅固な石の町が出来る要因が見られると思う。


今日の最後の催し物は、帰りのバスの中で、全員の自己紹介だ。カナダ、オーストラリア、アメリカ等の英語圏から参加している、早口の人の話は残念ながら殆ど聞き取れない。逆に非英語圏である、台湾、中国、フランス、ドイツ等から参加している人の、ゆっくりした話の方が聞きやすい。


私は「既にリタイアしており63歳になる。たぶんこのツアーの最年長だと思う。インターネットでこのツアーを探して申し込もうとしたら、18才から35才までと言う年齢制限に会って拒否された。しかし他のウェッブから、年齢制限が無くて、無事申し込む事が出来た」事を話した。63歳で参加している事は、多くの人の印象に残ったようである。気のせいか、この自己紹介の後、私にくれる皆の眼差しが、ハンデキャップを持った人を見る時のように、優しく感じる。


PM6:00に本日の宿泊地、スカイ島・キリーキン村(Kyleakin)のホステルに着いた。一休みした後、スーパーで買い置いたパン、ハム、野菜サラダ、コーヒー等で夕食を済ませた。


            

               スカイ島に渡る橋



99日(水)


シリアルの朝食を取り、AM930、三日目のバックパック・ツアーの出発だ。今日は、一日中スカイ島(Skye Island)の中を巡る。30分ほど走った所の川べりで、ガイドが何やら此処スカイ島の物語を語りだした。暫くすると、体重120Kgの男が、川の流れに顔をつけ、ガイドが数をカウントしている。一人だけかと思ったら、女性も含めて次々に同じことをやっている。


   

どうやら「この川に顔をつけて7つ数えると、女性は永久に美人になれるし、男性は永久にハンサムになれる」と言う事らしい。もう全員やりましたかの声に「あと一人彼が残っている」と言って、私のほうを指差す。私がたじろいでいると、皆で「やれやれ!」とはやし立てる。この際仕方が無いかと思って、私も挑戦することに。


    ハンサムになるよ! 


一人の女性が「写真を撮ってあげますから、あなたのカメラを貸してください」と言う。川べりに腕立て伏せの姿勢になり、流水に顔をつけた。ガイドが大きな声で、「ワン、ツー、スリー」と7つまで数えた。皆から大きな拍手が来た。川の水は、ひんやりと冷たかった。


さて、私が昨日「列車が大きく遅れたら、運賃は返金されると聞いたが、本当か?」とガイドに確認した時「それは無いだろう。なぜなら、ここイギリスでは、列車が遅れる事は特別な事ではないのだから」と言っていた事を、気にかけてくれていたようで「返金されるそうだ」言って来た。エジンバラに戻ったら、駅に行って確認してみようと思う。


今、我々はスコットランドの西にある島、スカイ島のキュウリン山地(Cullin Mountains)をマイクロバスで走っている。木々が少なく、石と岩ばかりだ。日本の北アルプスに登った時、2500mを過ぎると、背の高い木々が無くなって、背の低い高山植物だけになる。そういう風景がここでは海抜ゼロメートルから広がっている。



       

           スカイ島のキュウリン山地


早めの昼食は、島の中心地、ポートリー(Portree)の町で。私は台湾人のグループと、小さなレストランに入り、蒸したジャガイモと、ソーセージの載っている料理を頼んだ。マズマズの味であった。このところ、まともなものを食べていなかったので、久しぶりに満足感を味わった。バックパッカーで歩いていると、食事はかなり節約スタイルになり、経済的には助かるのだが。朝夕の食事は、スーパーマーケットで購入した食料で間に合わせる。それも何人かでシェアーして。



昼食後、我々はトロッターニッシュ半島(Trotternish peninsula)へ向かった。しばらく走った所で、フェアリー峡谷(Fairy Glen)の小高い山に登った。道らしい道は殆ど無く、雨でぬかるんでいた。私は下り坂で足を滑らし、バランスを崩して横転。近くにいた人が「大丈夫ですか」と、心配してくれた。幸いにもズボンのひざが泥だらけになった程度で済んだ。気を付けてはいるのだが、身体の反応が確かに鈍っている。


          

              フェアリー峡谷


ツアーに参加している一人に、オーストラリア人女性がいる。メルボルンから来た看護士、24歳の彼女は、この夏ヨーロッパを4ヶ月間旅行してきた。此処までの話はよくあることだが、私が驚いたのは、彼女がその間、ゴムのサンダルで通していると言う事だ。顔は綺麗に化粧している風だが、足元を見ると泥だらけである。このワイルドなアンバランスに、定年過ぎのおじさんは、しばし感動さえ覚えたのである。




         

  オーストラリア人看護士         ゴムのサンダルで4ヶ月間!


先のメルボルンの大火災の時は200人が亡くなり、数千人が火傷を負ったそうだが、負傷者の手当てに、てんてこ舞いだったと言う。今回の旅行は、仕事を辞めて来るつもりであったが、上司から、2月の有給休暇と、2ヶ月の半額有給休暇を提示され、メルボルンに帰ったら、元の病院に復帰する事が決まっていると言う。



職を失っている人が多い中、数少ない恵まれた境遇の人であろう。年は若く、体格が大きく、ワイルドであるが、姉御肌で、面倒見が良く、ツアーのまとめ役である。夜のパーティーは、彼女によって仕切られ、ドライバーへのお礼の提案も彼女から出されたものだ。こういう人は上司としても手放したくないであろう。



さて、このスカイ島は、昔マクドナルド一族(Clan Macdonald)が治めていたそうで、今はその名残の廃墟があちこちに見られる。



PM3:30、大きな岩(Old Man of Storr)を見ての帰り道で、一人の男性にあった。「自家用車で、スイスから一人で来ました。2000Km位走ったと思います。61歳。2月間の特別有給休暇です」という。元気一杯だ。今日も晴れと、急な雨を繰り返しているが、幸いにもツアーに大きな支障は無い。




     

                              スカイ島の絶壁


      

                Old Man of Storr



910



今朝、目が覚めた時、やけにスースー風が気になると思ったら、窓が大きく開いていた。夜遅くまで飲んで帰ってきた若者が、窓を開けて寝たのだろう。こちらは寒くて震えているのに、彼らは裸で寝ている。それだけ体感温度が異なるのか。



何時もカップルで行動している二人に話しかけると「スロバキアから来ています。まだ結婚前ですが」と言う。ツアー内もどんな人が何処から来ているか段々分かってきた。カップルで来ているのは、全部で4組。カナダのケベックからの夫婦と、台湾人の、これまた結婚前のカップル。それに先の障害者の新婚さんだ。



国別にすると、台湾、フランス、カナダ、オーストラリア、イギリス、ドイツからが複数ずつ。日本からは吾人一人である。バラエティーに富んだパーティーだ。

今日はまず、スカイ島近くのエイリアン・ドナン城(Eilean Donan Castle)と言う古城見学だ。入場料は4ポンド(約600円)。入っていくと、説明役の男性が、昔のスコットランド人武士の出で立ちで、ジェスチュアー豊かに説明を始めた。



     
  

                            エイリアン・ドナン城



「スコットランドは、古くは、スカンジナビア半島からのバイキングに侵略され、その後スペインから侵略され、最後はイングランドに併合された。スコットランドの兵士は、その都度、氏族(clan)を中心に良く戦った」と言うような事を話している。



イングランドとは別に、スコットランド人としての誇りをアピールしている様子は、今回の旅行先で度々見聞した事の一つである。5ポンド紙幣、10ポンド紙幣として、スコットランドだけに通用する紙幣を、スコットランド銀行が、いまだに印刷し発行している事も、その一つの表れであろう。城内を見学すると、壁の至る所に、覗き穴が仕掛けられており、攻防戦の熾烈さを物語っていた。



スコットランドには、多くの湖があり、同時に海岸線が複雑に入り組んでいて、湖なのか、入り江なのか分からないことが多い。英語でレイク(lake)と言えば、湖を意味するが、スコットランドではロコ(loch)と言って、湖と細長い入り江(湾)の両方の意味に使われている。したがってスコットランドはロコ(loch)に溢れている。我々が聞き知っているネス湖も、ロコ・ネス(Loch Ness)と言う。



本日の午前中は、スコットランドの形をした湖、ロコ・ガリー(Loch Garry)を見たぐらいで、我々のマイクロバスは走りに走った。交通の要所、スピーン・ブリッジ(Spean Bridge)を通り、グレン・フィナン(Glen Finnan)へ。ここは風景としては、石造りの高架橋で有名だが、最近はこの橋の上を、列車が通るシーンとして、ハリーポッターの映画で使われ、更に知られるようになった。歴史的には、ジャコバイトが1745年に、最後の旗揚げをした所として知られている。


  

                              ロコ・ガリー 


フォート・ウィリアム(Fort William)に着いたのは、PM2:00であった。そこでやっと本日の昼食。ここまで来ないと、大勢が食事を取れる町が無いのであろう。例によって、台湾人3人と一緒に、ピザ店で2個のピザを分け合って食す。一人当たり2ポンド(約300円)で済んでしまった。


昼食後、大きな峡谷、グレン・コー(Glen Coe)へ行く。ここは1692213日に起こった「グレン・コーの虐殺」で有名な所である。我々は1時間の間に、川が流れている処まで下りて行き、また戻ってくる。この間、例の女性プロフェッサ−と懇談。彼女は「現在、失業中で、これから、カリフォルニアで職を探す」と言う。


  

                             グレン・コー   


  

私が自己紹介の折に、「年齢制限に引っかかって、一度は、このツアーに参加する事を拒否された」と話した事を覚えていて「年齢制限はフェアーではないと思う。若い人たちだけの集団よりも、年配者がいてバランスが取れることもある。家族だって、核家族よりも、祖父母と一緒の家族のほうが健全だと思うわ」とのご意見を述べておられた。ちなみに彼女は50歳前後で、私と並んで年齢制限に引っかかっている者の一人だ。


途中、アピン港(Port Appin)の近くで、夕暮れのストーカー城(Carstle Stalker)を遠望して、PM5:00過ぎ、今夜のホステルがあるオーバン(Oban)に到着。このツアー最後の夜と言う事で、夕食後はパーティーだ。希望者は5ポンド払って参加する。私も参加し、カクテルをほんの少したしなむ。


  

                                ストーカー城  


  

PM10:00には部屋に戻って寝たが、多くの若者は、午前2時過ぎまで懇談したり、ゲームをしたりしていたそうな。今夜の部屋は、男女ミックスの10人部屋であったが、私は早く寝て仕舞い、皆が寝ている内に起床したので、部屋の中で懇談する事は無かった。



911


5日間のバックパック・ツアー(Backpacking Tour)も最終日だ。朝食にシリアルばかり食べて飽きてきたので、ホステルで用意してくれているトーストにした。食パンにジャムとバターを塗り、牛乳で食べる極普通の朝食。代金は50ペンス(80円)也。随分と安上がりだ。


ツアーは定刻のAM9:30にオーバンを出発してキルマーチン(Kilmartin)を目指す。最初の見学は、古い教会。その後見晴らしの良い場所まで来ると、期せずして皆で集合写真を撮ることに。オーストラリア人看護士が、皆からデジタルカメラを預かって次々と写していた。


  

                           ツアーの仲間と


昼食は、スターリング(Stirling)の町で。台湾人グループと、あちこちを見て回ったが、行きついたところは、ハンバーガー屋さん。私も久しぶりにビーフバーガーを食す。肉厚のビーフと野菜を挟んだ、ボリュームたっぷりの一品でした。


最後の見学場所は、この町外れにある、ウォリス記念碑(Wallace Monument)。小高い山の上に建てられた、高さ67mの壮大な塔で、スコットランドの独立に生涯をかけた英雄、サー・ウィリアム・ウォリス(Sir William Wallace1272年〜1305年)の記念塔である。建物の入り口で、1人の男が古武士の装いで剣を構え、記念撮影のサービスに応じていた。


PM5:30エジンバラのユースホステルに帰ってきた。初めて聞くような地名の所ばっかりで、何処を走っているのかも分からない状態が多かった。日本に帰ったらゆっくりスコットランドの歴史を紐解く必要を感じている。今回のツアーの収穫と言えば、それが収穫と言えるかもしれない。


  

             エジンバラ−2


ホステルにチェックインした後、遅延による鉄道料金の返金の交渉に行く事を、相部屋のアメリカ人留学生に話した。彼は、「幸運を祈っています」と言ってくれた。エジンバラ駅で、係りのおじさんが言うには「此処では返金できません。所定の書類に記入して切符を同封し、本部宛に送ってください。数週間後に代金相当のクーポン券が贈られます」と言う。


私が「その方式では、我々旅行者には事実上、返金はされないと言う事ですね」と確認すると、「残念ながらそうなります」と言って、一応は気の毒そうな顔をしていた。決まりがそうなら諦めるしかない。


ホステルに戻ってアメリカ人留学生に報告すると「それがイギリス流のやり方だ。返金しないとは言わないが、手続きを面倒にして、事実上うやむやにしてしまう」と。つまりやり方が、したたかだと言うことだろう。確かに日本のJRなら、お客様本位とか言って、その場で返金に応じているはずだ。特急券または指定券があれば、返金の裏付け証拠としては十分なはずだから。


そういえば或る日本人大使が、彼の著書の中で「イギリスの外交はしたたかである」と書いてあった事を思い出す。例えば、「アメリカと意見が違う時、正面から反対はせずに、『中東アラブの意見はこうです』と言ってアメリカから譲歩を引き出す。そして、自分の国益を損なうことなく、対立する国家間の仲裁をしたようにして、国益を損なうことなく、尚かつ点数を上げている」と。


日本と殆ど同じぐらい小さな国が、一時は世界制覇までしたのだから、相当のずるがしこさを持ち合わせていたに違いない。日本の国民性は正直すぎるのかもしれない。そう思いながら、チャーチル首相の顔を思い浮かべると、いかにもずる賢そうな顔をしているし、東条英機の顔なんか単純なものだ。日本人のそういう所が、ある時は好まれるし、またある時は馬鹿にされるのだろう。私の小さな体験からその国の国民性から外交まで垣間見えるのは面白い。


私は自分でチケットを持っていても価値が無いから、留学生の彼に使ってもらう事にした。彼は喜んでくれた。彼は「ドキュメンタリー映画のディレクターになることを目指して、エジンバラ大学にやってきた」と言う。エジンバラ大学に優秀な先生がいるらしい。ケネディ暗殺事件や、9.11事件の様な物に興味があるらしい。「ケネディ暗殺の時のフィルムを持っている人から、そのフィルムを借りるには、高額な支払いが求められる」とも言っていた。


やがて中国人留学生が入室してきた。彼は「シンガポールの工業専門学校を卒業し、今回エジンバラの工科大学に入って、更に勉強を続ける」と言う。「日本の工業製品は本当に素晴らしい」と感心していた。この年代の中国人は、みな一人っ子でもある。二人とも2年間の留学予定で来ており、アパートが決まるまでの間、ホステルを利用しているのだと言う。


バックパック・ツアーの前日から都合6泊の間行動を共にした台湾人の彼は、名前を、楊学昌(Yang, Hsueh-Chang:ヤン、シュエー・チャン)と言った。短い間だったが、これも何かの縁だと思う。たまたま日本と台湾からやって来て、同じ部屋に泊まる事になり、同じツアーに参加したのだ。


確立から言えばこんな事は、殆ど奇跡的な巡り合わせであろう。今夜で一旦別れることになるが、互いの旅程から推測すると、この後、湖水地方のホステルで再会できるかもしれない。気持ちの優しい青年だった。彼の未来に幸運を祈りたい。



912


目が覚めるままに談話室に行くと、例のアメリカ人留学生が読書中。食堂からは何やら賑やかな歌声が聞こえてくる。パーティーでもやっているのかしら。それもそのはずだ。時計を見るとまだAM1:30だ。夕べはPM1000に寝たのだが。暫く眠れそうも無いので、パソコンを叩く事にする。


AM400にもう一度ベッドへ。そして700に起床。ロビーへ行くと相部屋の中国人留学生が日本製ソニーの大型ノートパソコンを叩きながら、朝食を取っていた。「パソコンの調子はどうですか」と声を掛けると「本当に調子が良い。全くストレスを感じないで済む」と言う。


私もホステルで用意している朝食を食べる事に。クロワッサンのパン、シリアル、ジュース、牛乳、バター、ジャム等が用意されていて、食べ放題で1.90ポンド(約300円)也。「昨日はもっと安かったな」と思いながらも、納得しながら頂く。


今日は此処エジンバラの市内観光をする事に決めたが、その前に洗濯もしたかった。受付でその旨を話すと、「この袋に入れて持ってきてください。2.50ポンド(約400円)です」と言って、大きなビニール袋を寄こした。私は自分で洗濯するつもりだったが、「洗濯しておくから、夕方取りに来なさい」と言う。


こんなサービスまでしてくれるホステルがあることは、初めて知ったのでした。滑って転んで汚れたズボン、下着、靴下、タオル等、結構な量を袋に入れてお願いした。クリーニングの出来ばえは、ズボンの汚れがすっかり落ちてはいないが、目立たない程度にはなっていて、マズマズの仕上がりだ。


AM930発の市内観光バスに乗り込む。シニアー料金で11ポンド(1700円)也。12時間以内は乗り降り自由。イヤホンで日本語の案内が聞ける。市内をゆっくり一周するのに1時間。私はまず1週半してから、エジンバラ城に向かった。途中キルト織物や、スコッチウィスキーの土産物屋さん等が立ち並んでいる。


    

               エジンバラ城−3


私はスコッチウィスキーのケーキを1個、3ポンド(460円)で買ってほうばった。美味しかった。城の入り口まで行くと、入場券の値段が掲げられていた。市内観光一日乗り放題のバス料金よりも高額であったので、入場はやめた。この城にまつわる物語も、江戸城と同様、沢山あるようだが、後日の読書の課題としておこう。


再びバスに乗り込んで向かったのは、ホリールード公園(Holyrood Park)。標高253mほどの小高い山全体が公園になっている。その山からは市内が一望できると言う。バスから降りて辺りの様子を伺うと、登山道が全く逆の方向に、二手に分かれている。


    

               ホリールード公園 


   

土地の人らしい壮年に、どちらに行ったら良いか尋ねると、「どちらから行っても頂上は同じです。ただ勾配が違うだけです」という。見えている範囲では、彼が易しいと言う方向と、勾配の度合いが逆に見えるのだが、見えないところの傾斜の度合いが、逆になっているのだろう。


取り敢えず、登りやすそうな、左側登山道を選択して歩き始めた。朝のうちはひんやりと寒かったので、メリヤスにモモシキまで履いてきたのだが、昼になると天気は快晴、気温も上がっているようだ。回りには短パンやノースリーブの人も居る。10分も歩くと、少し汗ばんできたのでウィンドブレーカーを脱ぐ事に。


間も無く、遠くのほうからバグパイプを吹く音が聞こえてきた。何処で吹いているのか姿は見えない。山の勾配が急にきつくなってきた。やっぱり想像したとおりで、見えない所の勾配の大きさが、見えている所の勾配と逆になっていたのだ。私はこの時点で、2つの頂上のうち、高いほうを諦めて、低いほうの頂上を目指す事にした。


30分も歩いただろうか、バグパイプを吹いている男の姿が見えてきた。まだ若い、恐らく20歳代に見える。近くまで行くと、年配の女性が、岩に1畳ほどの紙を広げて、その上から一生懸命こすっている。聞くと「岩から模様を写し取っているのです」と言う。芸術作品になるものらしい。色んな芸術があるものだ。


     

              岩から芸術作品が!


「ところで、バグパイプの音は随分遠くまで聞こえるんですね」とその女性に言うと「バグパイプの原点は、昔、戦いの時に相手を脅かす事が目的であったようです」と話してくれた。道理で遠くまで響いて来たわけだ。観客は殆どいないのに、青年はしっかりとパフォーマンスを披露しながら休まずに吹き続けている。


  

             バグパイプの青年


そこへ、浅黒い顔をしたハンサムな青年が通りかかったので挨拶を交わすと「日本の方ですか?」と言う。「そうですが、あなたは?」と聞くと「ネパールです。兄がこちらで医学に従事しているもので。私もフィンランドで医学を勉強中です。将来はネパールへ帰りますが」と言う。


ネパールは大変貧しい国だと聞いているが、優秀な青年も多いのだろうなと思う。「ネパールは世界でも最も人気のある観光地ですよね」と言うと「そうなんですよ。あなたも是非来てください」と言う。エジンバラ市内にある、小高い山頂での短い出会いであった。


山を下りて少し歩くと、エリザベス女王が、避暑地として使っている別荘(ホリルード宮殿:Palace of Holyrood House)の入り口に来ていた。門をくぐると、彼女にまつわる書籍、陶器物、キャラクターグッズ等を販売する売店や、レストランがあった。もっと中に入るには入場料が必要だ。私は用だけ足して別荘を後にした。


  

             エジンバラ城−4


イングランドとスコットランドは、大きな戦争をして、一つになった歴史があるのだが、今の英国王室には婚姻により、スコットランドの血も入っているようだ。と言うより、政治的配慮により、スコットランドから配偶者を迎えたと言う事らしい。日本でも皇女和宮の話があるように、政略結婚の話は洋の東西を問わないが、特にヨーロッパにおいて多いような気がする。


まだPM2:00であるが、疲れてきたのでエジンバラの市内観光は、これで終わりにする。ホステルに戻ってチェックインだ。今日は昨日と同じ宿であるが、4人部屋を予約してある。昨日は5階の6人部屋であったが、今日は7階だ。受付が3階だから、エレベーターの無い宿で、スーツケースを持って上がる事は難儀である。出来るだけ荷物を軽くして来て良かったと思う。



  

             エジンバラ−5


7階の4人部屋に入ると、昨日の部屋とは別世界に見えるほど小奇麗な所であった。値段はたいして変わらないのだから、希望の部屋を確保するには、早めに予約するべきなのだ。私の次に入室してきたのは、イギリス人の青年。「英国歴史の研究をしている、大学の研究者。26歳」特に政治史に興味があると言う。


最後に入室してきたのは、ロンドンに住んで1年になると言う、30歳ぐらいのニュージーランド人の男女。只今婚約中で、1週間の休暇を取って、スコットランドをドライブしているところだ。男性の方は非常に背が高いので聞くと「丁度2m」だと言う。落ち着いた感じのカップルであった。


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