6.ロンドン(その2)
9月26日(土)晴れ
AM8:00から朝食。「B&Bの特徴は、朝食が充実している事である」とガイドブックに書かれている。それだけに期待もしていた。食堂に下りていくと、夫婦らしい年配のカップルが2組、食事中だ。今日は此処のB&Bは、満室である。とは言っても、5〜6部屋しかないのだが。殆どの人は車で来ている。50才代から70才代の人達である。
さて食事の方だが、確かにイギリスの典型的な朝食内容で、今までに何度か食べたのと同じ内容であった。後は質の問題だ。ベーコン、ハム、目玉焼き、シリアル、トースト、牛乳、ジュース、紅茶、コーヒー。どれも美味しかったが、ベーコンの塩加減が強すぎて、2枚出されたが1枚しか食べられなかった。
そして、食卓に着いたときに、「飲み物は?」と聞かれたので「紅茶をお願いします」と言っておいた。ところがその紅茶が出てこない。幾ら待っても、出てくる雰囲気が無いので「すみませんが、紅茶を下さい」と声を掛けると「OK」と軽快な返事。
そして自分のテーブルの上を見ると、まだふたを開けてない、ステンレス製の小さなポットがあることに気が付いた。砂糖の入れ物とよく似ているが、注ぎ口が付いている。「もしや?」と思ってふたを取ってみると、紅茶が入っていたのである!
「それにしても、いつの間に持って来たのだろう?」私は気が付かなかったのである。ともあれ、それをカップに注いで一口飲んだ。既に飲みやすい温度になっていた。その直後に新しい紅茶が運ばれてきた。今度は陶磁器のポットに入れて。ポットに二つも飲みきれないので、両方からカップに1杯ずつ飲んでその場を繕った。
AM10:00のチェックアウトまでは時間があるので、その間パソコンを叩く。ワイヤレス・インターネットのパスワードも、部屋に置いてある、ファイルの中に示されていたので、千葉の自宅へ日記を添付してメールを送った。
荷物を整理してから、オヤジさんにお願いに行った。「お願いが3つあります。1つは、荷物を12時半まで置かして下さい。二つ目は、12時半にタクシーを呼んでもらいたい。最後に、このボトルに水を下さい」と。最初、オヤジさんは「何事だろう」と緊張したようであったが、内容が分かると、笑顔で了解してくれた。
PM1:35分発の列車までは時間があるので、チェスターの城壁内を歩く事にした。城壁内は、ほぼ中央に、東西南北のメインストリートが走り、初めての旅行者にも歩きやすい。昔の造りはなるべく残しながら、その中に現代のブランド店が並ぶ、ショッピング街もある。
チェスターの街並み
メインストリートが交差した町の中央は「ザ・クロス」(The Cross)と呼ばれる。そこを中心に四方に広がる家並みの、2階バルコニー部分が歩道になり、ショッピングアーケードになっている。これは「ザ・ロウズ」(The Rows:街路)と呼ばれ、城壁に黒い木枠の建物が映えて美しい。
ザ・ロウズ
ザ・クロスに来た時、7〜8人の壮年男女が、路上に立って賛美歌を歌っていた。近くにはベンチがあったので、少し休憩する事にした。80歳位の、ふくよかな顔立ちのおばあさんも座って聞いていて、時々一緒に口ずさんでいる。
ザ・クロスにて
そのお婆さんに「近くにお住まいですか?」と声を掛けると「そうです。この近くに住んでいます」「チェスターの町は魅力的な街ですね」「そうです。歴史のある街ですよ」「此処には、よく来られるんですか?」「毎週土曜日には来ています。ここに来るのが楽しみなんです」と。こんな話をしていると、今まで賛美歌を歌っていた内の一人の男性が寄ってきて、キリストを賛美する話を始めた。
私は「キリスト教にも興味があるが、現在は仏教徒です」と言うと、「これを差し上げますから読んでみて下さい」と言って持って来たのは、日本語版の新約聖書。(日本聖書刊行会発行、2004年度版)。「荷物になるから要りません」とも言えず、そのまま頂いた次第。チェスターに来て日本語版の新約聖書を頂くとは思わなかった。
市内の、チェスター大聖堂や、ショッピング街を見て歩き、まだ少し早い時間だったが、12時過ぎにB&Bへ戻った。オヤジは、「もう帰りの準備は出来たのかい?」と言う。私が「準備は出来ているが、タクシーはまだ来ないでしょう」と言うと、「俺が乗せていくよ」と言って、自分の車を出し、駅まで送ってくれた。
その道々、「お宅のB&Bは、とても良い所にありますね。営業を始めてから何年ぐらいになりますか?」と聞くと「俺は始めてから3日目だ。オーナーが旅行に出かけたので、手伝っているんだ」と言うではないか。「なーるほど」これで謎が解けた。なんとなく言葉が少なく、フレンドリーさに欠けて、自信の無い接待振りの謎が。でも「駅まで送ってくれたことで、全部帳消しにしてあげよう」と言う気持ちになりました!
駅に着くと、大勢の着飾った男女が駅の方から歩いてくる。「結婚式でもあるのかしら。それにしても大勢だな」と思って、近くに居た男性に聞いた。「今日は何かイベントがあるんですか?綺麗な女性が沢山居ますが」と。すると「午後からテレビでも放映される、チェスター競馬があります」と言うではないか。
それを聞いて私は合点がいった。「イギリスの競馬場は、大事な社交場である」と何かで読んだ事を思い出したのである。そう言えば昨日、城壁の上を歩いていた時、綺麗に整備された競馬場を間近に見たのだ。沢山の大きなテントが張ってあり、数人の男が無線機を持って、行ったり来たりしていたのは、今日の準備をしていたのに違いない。
それにしても女性の装いが、これ以上は考えられないほど派手な事。ファッションショーから、そのまま出てきたような衣装である。両脇は普通の長さなのに、お尻の部分だけが、極端に短くなったデザインのスカート。胸が殆ど露出していて、思わず「おー!」と息を飲ませる人。
綺麗なスカートの中から、練馬大根を3倍にしても足りないような、太い足を出して気取って歩いている人。皆、皆高いハイヒールだ。列車の発車時間まで、イギリスの場外馬場を堪能させて頂きました。チェスターは思い出に残る街になりそうだ。
チェスターからロンドンまでは約2時間。対面に座っていた50歳ぐらいの女性は、とても話しかけにくい雰囲気だった。そこで私は、チェスター駅で購入して、車内に持ち込んでいた、サンドイッチとコーヒーを食した後は、専らパソコンを叩いて過ごした。
隣の座席の下には大きな犬がいたが、良く訓練されていると見えて、実に行儀が良かった。介助犬なのか、単なるペットなのかは解らない。私がサンドイッチを食べていても、少しも欲しそうな態度を見せないし、飼い主の言う事は良く理解しているようであった。列車の中で、しかも間近に長時間、犬と一緒に居たのは初めての経験である。
行儀の良いワンちゃん
PM3:38ロンドンのユーストン駅(Euston)着。久しぶりに人の多いロンドンだ。取り敢えずYHAにチェックインして荷物を降ろしたい。地下鉄の駅で切符を買う。初乗りが4ポンド。約600円である。非常に高いと思う。ノーザン(Northern)線とセントラル(Central)線を乗り継いで、YHAのあるホランド・パーク駅(Holland Park)まで来た。
駅員にYHAの住所を示して、行き方を教えてもらう。歩けど歩けどYHAが見当たらない。通り過ぎたわけではないと思うが、時々通りすがりの人に確認する。15分も歩いたろうか、やっとYHAロンドン・ホランド・パーク(London Holland Park)に到着。受付で、「駅から結構遠いですね」と言うと「そうなんですよ」と言って否定しなかった。
その分、静かな公園のそばで、環境は良さそうである。日本からロンドンに来た時に泊まったYHAは、地下鉄で2駅離れた別の所であった。そこは駅から近く、交通の便は良かったが、部屋やキッチンのスペースが狭く、長期滞在には向かないと思い、ネットで書き込みを参考にして、こちらを予約したのである。
まずシャワーを浴び、洗濯をして、夕食を取る事に。ここのYHAには専属のコックさんが居て料理を作ってくれる。メニューは5コースほどあり、値段も異なる。今夜はチキンとポテトをオーダーした。ポテトは、「好みに応じて、如何様にも料理します」と言うので「スチームで蒸かして欲しい」と頼んだ。6.50ポンド(約1000円)也。
出て来たのは、今までで一番美味しかった。特にチキンの料理は、今まで食べた事が無い位美味しかった。コックさんに料理法を尋ねると「肉を半分に切って、色々な物をつめ、それを焼いたのだ」と言っていた。外側はカリカリ、中はジューシーと言う奴で、幸せを感じる位でした。
このYHAには、日本人の青年男女が沢山泊まっていた。琉球大学生・経営学部の2人はゼミの一環として、芸術家を目指す大阪の男性、夏休みを利用して、ヨーロッパを1ヶ月間、旅行中の九州の学生、国際協力関係のNPO法人から、経理の研修に派遣されて来た男性、交換留学で1年間、滞在中の女子学生2人等である。期せずして夕食後、懇談と相成った次第。
今夜からの5泊は、男性だけの10人部屋。今までで最大のドーミトリー(Dormitory:共同寝室)である。しかし、寝てしまえばそれ程気にならない。それより、トイレ、シャワーが広く、食事が美味しい事が嬉しい。
9月27日(日)晴れ
美味しい朝食をたっぷり頂いた後、今日はまず、オプショナルツアーとして予約した、明日の「ストーンヘンジ」(Stonehenge)と、明後日の「コッツウォルズ」(Cotswolds)行きの、待ち合わせ場所を確認する。その後、大英博物館へ行く予定である。
ストーンヘンジ・ツアーの待ち合わせ場所は、ロンドンで初めての宿泊所であったYHAアールスコートを利用した時の、地下鉄
コッツウオルズ・ツアーの待ち合わせ場所は、ロンドン三越前である。地下鉄ピカデリー・サーカス(Piccadilly Circus)が最寄りの駅だ。三越の地下1階に、予約したマイバスセンターがあり、JTBの看板があった。そこを確認後、すぐ近くの聖ジェームス・パーク(St. James’s Park)を散策し、バッキンガム宮殿(Buckingham Palace)まで歩いた。
バッキンガム宮殿の通り
そして地下鉄を乗り継いで大英博物館へ。大英博物館内の図書館にカール・マルクスは通って資本論を書いた。その図書館に行ってみたかったのである。大英博物館の玄関で、案内人兼警備係のような人にその旨を告げると「現在はそこで別の展示が行われており、図書館を見ることが出来ません。この展示は数年続きます」と、なんとも残念な返事。意気消沈して宿舎に戻りベッドに潜り込む。午前10時にYHAを出て、午後2時過ぎまで、4時間余りほっつき歩いた事もあり、へとへとであった。
大英博物館内の閲覧室
YHA内の夕食を食べていると、数十人の女子学生が食堂に入ってきた。年齢に大分開きがありそうだ。私は、引率者らしき人に、「どういうグループですか」と聞くと「スポーツ、音楽関係の交流でオーストラリアから来ました。年齢は10代と20代です」との事。又々オーストラリア人である。そう言えば、昨日はイギリス国内から、数十人の男子学生が来ていた。ここのYHAは、学生の団体に良く使われているようだ。
9月28日(月)晴れ
今日はストーンヘンジ(Stonehenge)とバース(Bath)の観光だ。9時の待ち合わせだが、少し早めに出掛けたために、30分早く到着。おまけにバスが20分も遅れてきたので、長時間、朝の路上に立っていたことになる。
日本語ガイドの付いたツアーは65ポンドであったが、YHAで、扱っていたツアーは、日本語ガイド無しで49ポンドと安かったので、こちらに予約していた。ストーンヘンジ(6.50ポンド)、バース博物館(10.25ポンド)の入場料込みだから高くは無いと思う。
2時間足らずバスを走らせて、ストーンヘンジに着いた。日本語による解説が聞けるヘッドホンを借りて、石のまわりを歩く。解説は何処までも、推測の話だから説得力に欠けるが、不思議な遺跡ではある。11:00から12:00まで1時間ほど見学し、みやげ物店を見た後、バースへ向かった。
ストーンヘンジ
ガイドブックでは、古代ローマ時代に造られ、1880年に再発見された、温泉の写真が掲載されており、それを見るだけのツアーかと思ったら、バースの街全体が魅力に満ちた街であった。温泉の方は、現在「ローマン・バス博物館」(Roman Baths Museum)として一般公開されている。
ローマン・バス博物館
大小二つの温泉があり、大きい方(グレート・バス)は、長さ25m、幅約12mで水泳プール並の大きさ。小さい方(キングズ・バス)は、今でも46℃の湯が1日に117万リットル湧き出している。グレートバスに流れ込む湯に手を入れてみたら、40℃位の丁度良い湯加減であった。
キングズ・バスのある部屋には、入場できず、湯に手をつけることは出来なかった。しかし、様々な遺跡の展示品から、ローマ時代の生活の一部を知る事が出来て、遠い昔に思いを馳せ、ロマンを掻き立てる。そしてイタリアのポンペイの遺跡を重ね合わせると、ローマ時代の生活が、思いの外、豊かであったことを想像させるのである。
バースの街全体は、今でこそ少し古ぼけて、あちこちの改修を余儀なくされているが、この街の全盛期は、さぞかし繁栄していたであろうと思わせる。その代表的なものが、ロイヤル・クレッセント(Royal Crescent)と言う、見事な半円形の建物の存在である。バースは丘陵の斜面に出来た街であるが、その丘を登っていくと、それが現れる。
ロイヤル・クレッセント
1774年に完成して、上流階級の人々の別荘として使われていたようだが、今でも立派に住宅やホテルとして機能している。ロイヤル・クレッセントを目指して歩いていると、途中にある一軒の住宅で、工事が行われていた。「何の工事ですか」と聞くと「ガス管の取替え工事だよ」と言う。石造りの建物は修理が大変そうだ。
帰りの集合場所である、ローマン・バス博物館の前に戻ってくると、一人の青年がギターの路上演奏を行っていた。曲は「アルハンブラの思い出」。旅先での弦楽器の演奏は、心に染みる。私は彼から一枚のCDを購入した。
集合時間を20分過ぎても戻ってこないカップルが居た。ガイドがしきりに本社と連絡を取っている。もう二人を置いて発車しようとした時に、電話が入り、近くに居ることが分かった。バスは25分遅れで帰路に着いた。殆どの人が夕食を取り終えた、PM7:30頃YHAに戻り、まだ残っていた、チキンとポテト料理を食べて、シャワーを浴びた。
9月29日(火)晴れ
早起きしなくてはならない朝に限って寝坊する。今日のツアーは、ピカデリー・サーカスの三越前にAM7:45集合だからAM6:00に起きようと思っていた。途中で何度も起きてしまい、5時半に目覚めた時は、「後30分あるから、もう一休みだ」と横になった。しかし、次に目覚めたのはAM6:30であった。
顔だけ洗い、用意してあった朝食用弁当を、受付で受け取ってAM6:50にYHAを飛び出した。交差点に差し掛かった時、青信号だったので、左右を確認せずに、そのまま駆け込んだら、左側から自転車の男が全速力で突っ込んで来た。運良く衝突は免れたが、もしぶつかっていれば、ツアーどころではなかった。冷や汗物でした。
AM7:10、地下鉄
地下鉄に乗ると、車内放送に耳を集中する。駅の名前は聞き取りやすい方だと思うが、ハイドパーク・コーナー(Hyde Park Corner)の発音は、どんなに耳を澄ましても「ハイ・パー・コーナー」としか聞こえなかった。文字を見ているから見当は付くが、耳だけではとても聞き取れないと思う。
ピカデリー・サーカス駅(Piccadilly Circus)にはAM7:30に到着。三越は目の前だから、どこかで髭を剃りたいと、後ろを振り返ると、何か見覚えのある広場であった。そこがピカデリー・サーカスであったのだ。確かに6差路になっており、中央にはエロスの像があった。ピカデリー・サーカスは、地下鉄ピカデリー・サーカスの真上に有った。
ピカデリー・サーカス
髭だけ剃って三越前に行くと、20人ほどの日本人が集まっていた。まだ出発時間のAM8:00には時間があるので、ベンチに弁当を広げて朝食だ。この弁当については、私が「明日はAM7:00前に出かけるので、朝食が食べられないのですが」とコックさんに言ったら「受付にその旨言っといてくれ、きちんと用意しておくから」と言われていたのである。
紙手提げの中には、クロワッサン2個、バター、ジャム、ジュース、リンゴ、クッキーが入っていた。今のYHAは、食事については申し分なくやってくれる。ここまで用意してあるとは思わなかった。感謝!
三越前に居た人全員が、私と同じツアーに参加する人かと思ったら、そのうちの8人だけが私と一緒で、他の人は、行き先が別であった。途中で、日本人以外の人々が30人ほど合流した。バス内では、英語のガイドと、日本語のガイドとの2人が前の方と後ろの方で喋っている。
我々日本人は後ろの方に固まって座り、イヤホンをつけて日本語の説明を聞いている。日本語のガイドは62歳で独身のオッサン。歴史、語源に詳しく、喋りだしたら止らない。「英国では、乗り合いバスをバスと言い、観光バスをコウチ(Coach)と言う。タクシーの語源はタックス(税金)を払う人(Taxee)である。
スクール(School)の本来の意味は、レジャーである。学校は楽しくあるべきだ。オックスフォードとは、牛(OX)が浅瀬を歩いて渡れる場所(ford)と言う意味である。ヒースロウ(Heathrow)空港は、草のヒース(heath)が生い茂った所の家並み(row)が原義である」等々。
また、イギリスで客をもてなすと言う事は「客の話を聞く」と言う事であって、決してご馳走を食べさせると言う事ではない。ユートピア(utopia)は理想郷と言う意味であるが、「何処にも無いところ」が原義である。英国通貨の単位ポンドに£の記号を使うのは、てんびん、はかりの(Libra)から来ている等々、物知りなおじさんである。
イギリスの地下鉄の初乗りが4ポンド(約600円)と、日本と比べて非常に高いが、それには理由がある。つまり「機械化して人件費を削減したい為に、早くオイスター(Oyster:日本のスイカ、イコカの様なもの)に切り替えて欲しいから、現金での購入者には高くしてある」と言う事であった。何処までもイギリス擁護派の人である。「年金生活者にとっては、日本よりイギリスの方が、福祉がしっかりしていて住み易い」と言っていた。
そして「同じ日であっても、地下鉄の早朝料金は高くなっている」と。此処まで聞いた時、今朝の切符の料金が、いつもより高いと思ったのは、駅員に誤魔化されたのではなく、早朝料金だからでは?と思い至った。切符を取り出してよく見ると確かに、いつもの5.60ポンドではなく、7.20ポンドになっていた。なんとも外国人には分かりにくい料金体系ではある。
さて、今日の最初の観光地はオクスフォードである。ロンドンからバスで約1時間半。日本ではオクスフォード大学と一般に言われ、またそれが間違いではないのだが、私がイメージしていたのは、東京大学のような1つの総合大学であった。ところが、実はそうではなく、オクスフォード大学とは、39のカレッジ、図書館、教会寮などの関連施設の総称である。つまり「オクスフォードと言う小さな町が、種々の大学から成り立っている」と言った方が分かりやすいかもしれない。
オクスフォード−1 オクスフォード−2
その中の、マートン・カレッジ(Merton College)には、日本の皇太子殿下が留学されていた。クライスト・チャーチ(Christ Church)は教会のようであるが、オクスフォードでは最も大きく美しいカレッジであり、200年間で13人もの首相を輩出したと言う。また雅子様が在籍していたカレッジの前も歩いたが、名前は失念した。正直に言うと沢山のカレッジがあって、とても覚えられない。
クライスト・チャーチ−1 クライスト・チャーチ−2
次に訪問したのは、コッツウォルズ(Cotswolds)の村。この村はロンドンから西に約200Kmの所にある。昼食をしたのはこの村のバーフォード(Burford)と言う所であったそうだが、名前までは覚えられない。そこのパブで、ラザニアを10ポンド(約1500円)で食べた事だけを覚えている。
コッツウォルズ
最後は、シェークスピア(Shakespeare)生誕の地、ストラッドフォード・アポン・エイボン(Stratford-upon-Avon)を尋ねた。シェークスピアの奥さんの実家や、本人の誕生した家が残されており、中に入って見学する事が出来た。ファンには大変な事であろうが、本人の作品も読みきれて居ない私にとっては、「ああこんな物か。日本の昔の田舎と余り変わらないな」と言った位の感想である。
シェークスピアの奥さんの実家
シェークスピアの誕生した家
シェークスピアが現代文学・芸術に及ぼした影響は、計り知れない物があることは、承知しているつもりである。またその生家が残されている事も、大いに意義があると思うが、その回りに、余りにも沢山の土産物屋さんが出来たりすると、「大事なのは、彼が残した作品の方だよ」と言いたくなるのである。
かくて本日のツアーは、特に大きな感動も無く、さらりと終わった。日本人の参加者8人のうち3組はカップル。私と50歳前後の壮年が単独の参加であった。PM6:30には、YHAに帰って夕食をとることが出来た。
部屋には、イガグリ頭の中国人男性が入室していた。「19歳になったばかりです。ロンドンに来て、1年間の準備期間が終り、来月から大学へ進みます。これから5,6年はイギリスに居る事になると思います」と言う。熱心に英文の本を読んでいた。
9月30日(水)晴れ
残す所、今日1日となった。行ってみたい所をケンブリッジ(Cambridge)に決めた。朝食後、10時過ぎにYHAの受付に相談すると、インターネットでバスの予約を取ってくれ、行き方まで教えてくれた。11時にビクトリアのバス・ステーションを発車すると言う。運賃は往復で5.80ポンド(約900円)。地下鉄の1日券並の値段で安い。
地下鉄
何とか時間に間に合い、コーチは定刻の11:00に発車したが、ロンドン市内を脱出するのに1時間ほど要していた。渋滞と信号待ちが多いのである。高速道路に入ると、残りは1時間余りであった。ガイドブックでは、列車で1時間、バスで2時間の道のりと書いてあったが、1時間の差は、ロンドン市内を抜け出す時間であった。高速道路に入ると、日本の高速道路のような防音壁が無いので、遠くまで見渡せる。景色は少し異なるが、3車線の東北道を走っているような感じである。
13:40、ケンブリッジの町に着いた。こちらもオクスフォードと同じように、ケンブリッジと言う学校は無く、多くのカレッジが集まって、その総称がケンブリッジと言うわけだ。キングズ・カレッジ(King’s College)、クイーンズ・カレッジ(Queens’ College)、そして31人ものノーベル賞受賞者を排出した、トリニティ・カレッジ(Trinity College)と見て回った。
キングズ・カレッジ
トリニティ・カレッジの卒業生の中には、物理学者のニュートンや、詩人のバイロンもいる。更にエマニュエル・カレッジ(Emmanuel College)の卒業生には、アメリカに移住しハーバード大学を創設したジョン・ハーバードがいる。私は、ケンブリッジの町を見渡せる、グレート・セント・メアリ教会(Great St Mary’s Church)の塔に登ってみた。狭い螺旋階段が122段。途中で休まないと、とても一気には登れなかった。
グレート・セント・メアリ教会
町中をゆっくり流れるケム川(River of Cam)では、パンティングの船が行き交っていた。平底小船をさおで進めるパンティングは、潮来の水郷地帯を行き交う田舟に、似ているかもしれない。また、ケンブリッジの名前は、「ケム川に架かる橋」がその由来である。ロンドンの喧騒を離れて、静かな所で勉学に励める事は、貴重なひと時であろう。
ケム川のパンティング
夕刻の17:10まで、約3時間半歩いて、17時半のバスに乗ってロンドンへ帰ってきた。ロンドン市内に入ると渋滞で、バスの速度は極端に遅くなる。しかし、この晩は月夜で、月光がテムズ川沿いに輝く、紫色のロンドン・アイを照らして、各別の趣がありました。ロンドンの月が、最後の夜を、惜しんでいるように見えた。
終着駅のビクトリア・コーチ・ステ−ションに着いた時は、20:00を回っていた。YHAに戻っても夕食は終わっているので、途中の中華レストランで、スープヌードルを食す。麺は期待していた物と違っていたが、スープが美味しかった。
YHAに帰って部屋に入ると、新たに若い中国人男性が来ていた。イタリアで電子技術を勉強中との事。イタリアの大学であるが、講義は全て英語だそうだ。昨日の少年といい、中国からの留学生が目に付く。
10月1日(木)晴れ
いよいよ帰国の日だ。過ぎてしまえば早かった1ヶ月であった。朝、洗面所で髭を剃っていると、電池が急に弱くなり、寿命が来た事を注げた。使い勝手が良いとは言えないが、コンパクトで旅行には欠かせない。電池が丁度1ヶ月間持って、区切りが良かった。
フライトは夜の9時なので、夕方まで市内見学をする。地下鉄ホランド・パーク(Holland park)で、「1日券を下さい」と窓口で言うと、「5.60ポンドです」と言って、「但し、後3分間待ってください」と言う。その意味は、「後3分すると9時半になり、この安い料金のチケットが有効になります」と言う事である。それ以前に乗ると、7.20ポンドを払わねばならないのだ。早朝が何時までかは知らなかったが、帰国する日になってやっと知った次第。
今日は、まずカール・マルクス(Karl Marx)が住んでいたと言う家を訪ねた。地下鉄
「この辺に、カール・マルクスの家があると思いますが」と聞くと「そこの3階に旗が出ていますが、そこがマルクスの住んでいた所です」と教えてくれた。行って見ると、壁にマルクス(MARX)の文字が。中を覗くとレストランになっていて、若い男が居た。
マルクスが住んでいた家−1
「こちらに、100年前、カール・マルクスが住んでいたようですが、中を見せて頂けますか」と言うと、いかにも戸惑ったように、「見るだけならどうぞ」と言って3階を案内してくれた。広い方の部屋は大きなテーブルに食器が並べてあり、いかにもレストランであった。
マルクスが住んでいた家−2
「手前の狭いほうも見せてください」と言うと、「私の考えているマルクスと、あなたの言っているマルクスは、違う人だと思いますよ。私は仕事があるから、下に行かなければ」等と言い出した。私もこれ以上は粘れないと思い、彼と一緒に階下へ下りていくと、店の責任者らしき男が居た。
彼は若い方の男から事の経緯を聞いて「確かに此処は、カール・マルクスが住んでいた所です。しかし今は持ち主も変わっており、彼が住んでいた痕跡は、何も残っておりません」と言っていた。そこは、ソーホー・スクエア(Soho Square)と言う小さな公園からすぐの所で、大英博物館にも歩いて15分ぐらいの所であった。マルクスは此処から大英博物館の図書館に通っていたのだ。
ソーホー・スクエア
そこから1分ほど歩いた所に、モーツアルトの住んでいた家があった。こちらは壁に銘版が貼ってあり、「ウォルフガング・アマデウス・モーツアルト(Wolfgang Amadeus Mozart)1764〜5」と書かれていた。しかし、家の住人に「中を見せてもらえないでしょうか」と尋ねると「事務所になっていて、仕事中だし、モーツアルトの痕跡は、何も残っていませんから」と言って断られてしまった。
モーツアルトが住んでいた家−1
モーツアルトが住んでいた家−2
モーツアルトの作品は、益々輝きを増しているのに、住居の方は何の痕跡も残っていないと言う。それが現実だ。将来、この家が売りに出された時に、買い戻して保存する事も考えられると思うが。
今日は、まだ時間があったので、グリニッジ(Greenwich)の天文台に行って、子午線を見てこようと決めた。地下鉄ジュビリー線(Jubilee Line)のキャナリー・ウォーフ駅(Canary Wharf)まで行き、そこから歩いて行けると思い込んでいたら、そうではなかった。
そこから別の線に乗り換えて、カテイ・サ−ク駅(Cutty Sark)まで行き、更に15分ほど坂道を登った、丘の上に子午線はあった。全体として広大な公園(Greenwich Park)になっており、公園のほぼ中央に、グリニッジ天文台はある。子午線をまたいだ自分の足を、カメラに収めてきたが、出来映えは如何に。
子午線
グリニッジ公園
YHAに荷物を取りに戻りながら、ウエストミンスター駅で途中下車。国会議事堂内を見学できると聞いたからである。しかし、本日に限り残念ながらクローズド。アンラッキーでした。時計も3時を回り、そろそろ帰国の準備が気になりだした。YHAに戻って、最後のメールをチェックし、PM4:30にYHAを出た。
ヒースロウ空港で、お土産に紅茶とチョコレートを買って、アシアナ航空の機内へ。お隣はイギリス人の母娘。母親が58歳、孫が17歳を頭に3人と言っていたから、娘は37歳前後か。「オーストラリアに孫を引き取りに行くんです」と言っていた。何か訳ありのような感じが、しないでもなかった。
機内で出された夕食は2種類で、私はその中から韓国料理のビビンバを選んだ。美味しかった。10時間半の飛行で韓国のインチョン空港に到着。そこで乗り継ぎ、約2時間のフライトで成田へ帰ってきた。預けていた手荷物が出てくる間、同じベンチに座っていた壮年に話しかけた。
「どちらまで行って来られたのですか?」「イギリスです」「では、同じ飛行機だったのですね。如何でしたか?」「9日間のツアーでしたが、イギリスは想像していたほど、良い国とは思えなかった。見るべき所はいくつもないし。良い生活をしているのは女王様だけで、庶民の暮らしは、それ程良いとは思えなかった。大して美味いモノも食ってないようだし。」「でも、定年後はイギリスの方が暮らしやすい、と言う人も居ましたよ。」と話している内に、荷物が出てきた。妻と娘が迎えに来てくれていた。
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