6月15日(水) ニューアーク〜ワシントン AM5:30、起床。ホテルのロビーでインターネットを立ち上げて、自宅へ日記を送る。まだ誰も居ないだろうと思っていたら、すでに宿泊客の動きがある。フライトの早い人が前泊していたのだろうか。
AM6:30、朝食。クロワッサン、マフィン、ホットミルク、リンゴ、合計10ドル。マフィンは、ずしりと重量感があり、少し甘かったが、残すのがもったいなくて全部食べた。 AM7:30、集合時間になったので、ロビーに降りていったが、ツアーガイドがまだ来ていない。見覚えのある青年が居たので近付いて行くと、やはりそうであった。昨日までニューヨークの同じユース・ホステルにおり、何度か同じツアーに参加した男である。オランダから来ており、名前をヨハン・ホウザ(Johan Geuze)と言う。彼と話している中で、オランダ、ネザランド、ダッチの違いを教えてもらった。「オランダ(Holland)はネザランド(Netherland)の一部、ネザランドは正式な国名、ダッチ(Dutch)は、人や会社に用いる」と言う具合に。
もう一人、「もしかしたら日本人かな」と思う女性がツアー客の中にいた。お互いに目線が会って、挨拶すると彼女は韓国人であった。「国家公務員で、2年間の国費留学中の旅行」だという。随分恵まれた人も居るものだ。「夫は韓国におり、夏休みには帰国します」と言っていた。 AM8:00、ガイドの女性が、予約していた寝袋を持ってきた。45ドル也。広げてみてはいないが、がっちりした物のようだ。帰国するときには持って帰る事ができるだろうか。続いて、改めて所定の用紙に名前、パスポートナンバー、保険証の番号を記入させられた。 AM9:00、いよいよ出発の時になって分かったのであるが、我々のグループには老若併せて10人ぐらいは居るのだろうと予想していたら、私と同年輩のシニア・グループと、若者たちのヤング・グループに分かれた。シニア・グループはたったの4人。ヤング・グループは13人の募集制限一杯。これがそれぞれ13人乗りのバンに乗って出発したのである。 ヤング・グループは21日間、シニア・グループは25日間。料金にも大分差があったと思う。私が申し込んで断られたのがヤング・グループで、年齢制限がない方を勧められたのだが、要するにシニア・グループであったわけだ。シニア・グループの行程は、ヤングに比べ幾分か緩く、寝泊まりも、必ずしも毎日がテントに寝袋ではない。主催者の方もよく考えていると思う。私も結果的には、これで良かったと思う。いつまでも元気なつもりで居ても、体の老化は誤魔化せない。 我々4人の内訳はマレー系と欧州系のオーストラリア人男性二人と、ロンドン近郊から来た婦人それに小生。きわめて少人数のグループである。どんな珍道中が待っているやら。ちなみに、オーストラリア人二人の話は、何とも聞き取りにくいし、ロンドンからの婦人の発音は思い切りブリティッシュだ。ただ彼らの間では何ら問題はないようだ。私が拙い英語で話し出すと、みんなが熱心に聞いてくれるが、彼らの会話に割って入る事は努力を要する。 車は高速道路(Interstate)95号線を南下している。今日の宿泊地であるワシントンD.C.(District of Columbia)を目指して、約400kmを走る。高速道路の風景は、日本のそれと大して違わない。変化があるのは時折渡る川の景色である。さすがにどの川幅も広いなと思った。ニュー・ジャージー州(New Jersey)から、デラウエア州(Delaware)を通って、メリーランド州(Maryland)に入ってきた。 PM1:00、大きな川を3本ほど渡って来た所の休憩所で昼食。ファーストフード店が数軒あるだけで、どの店もガランとしていて客が少ない。我々はその中の、サブウエイ(SUB WAY)に入り、銘々で注文した。私はサンドウィッチ、バナナ、リンゴで6ドル也。他の人は大きな容器に一杯のベジタブル・サラダを食べていた。注文の仕方も慣れているようだ。 PM3:00、バージニア州(Virginia)のアーリントン郡(Arlington County)に入ってきた。此処は、ワシントンD.C.からポトマック川を西に渡った対岸に位置している。最初に目にしたのは、ペンタゴン(Pentagon 五角形の意)だ。アメリカ国防総省の通称で、建物が正五角形であることから言う。2001年の9.11の時、ハイジャック機が此処に激突して多くの人が犠牲になった。 PM3:30、ペンタゴンは車窓のみで、最初に車から降りて見学したのは、アーリントン国立墓地(Arlington National
Cemetery)である。約250万uの大きな墓地で、国民的英雄や、アメリカ建国以来30万以上の人が此処に埋葬されている。ハワイのパンチボールにある墓地と同じような雰囲気である。
此処の特別区域には1963年、遊説中のダラスで46歳の若さで暗殺された、第35代大統領ジョン・F・ケネディ一家の墓地(Gravesite of John Fitzgerald
Kennedy)がある。ジャックリーヌの墓石がケネディの墓石と並んでいる事に、違和感がないでも無いが、アメリカ人にとっては、それほど抵抗感無く受け入れることが出来たのであろう。周知のように、彼女は大統領の死後、オナシス氏と結婚し、後に離婚している。
同行者の一人が、「此処は戦争犠牲者の墓と言うよりも、ミリタリー(Military:軍人、将校)のための墓だな」と言っていたのが印象に残った。無名戦士の墓前(Tomb of Unknowns)では衛兵の交代式が、仰々しく行われていた。この墓地には我々のツアーガイドの叔父も埋葬されていると言う。 PM5:00、コロンビア特別区(District of Columbia)、つまり首都のワシントンD.C.に入り、本日の宿ホテル・ハリントン(Hotel Harington)に荷を降ろした。夕食までしばらく休憩を取ることに。
PM7:00、ホテルに併設されたイタリアン・レストランで夕食。あまり食欲が湧かないが、スパゲッティなら食べれそうだと思って、量の少なそうな「ベジタブル・ラザーニア」をオーダーした。出てきたのは確かに、野菜とラザーニアを炒め込んだ物であったが、私の予想していた量より大分多かった。味付けも濃すぎて口に合わず、半分も食べないでオシマイ。15ドル也。 PM8:30、今日はこれでお開きかなと思ったらとんでもない!これからが本番でした。薄暗くなったワシントンの町を3時間も連れて歩かれました!次にその主な物を列挙してみよう。 1、
ワシントン記念塔(Washington Monument) 2、
トーマス・ジェファーソン記念館(Thomas Jefferson Memorial) 3、ポトマック河畔の桜の木 4、 フランクリン・ルーズベルト像(Franklin D. Roosevelt Memorial)
5、 リンカーン記念堂(Lincoln Memorial)
6、 第2次世界大戦記念噴水(World War U Memorial)
どこをどう歩いたのかさっぱり分からないが、歴代大統領のメモリアル、独立戦争や第二次世界大戦等の勝利の記念碑を見て回った。京都を観光すると、寺と神社のオンパレードであるが、ワシントンでの観光は、メモリアルだらけ。「古代ローマの町も、このようであったか」と想像させられた。 7月4日の独立記念日には、全国で盛大な催し物が繰り広げられると言うが、歴史が浅く、多民族国家をまとめて行くには、極めて有効な行事となるのであろう。数少ないチャンスを大げさに盛り上げる事が大事だ。そんなことを考えながらアメリカのテレビを見ると、大げさな表現の割に内容が乏しいと思う。 それにこれだけの多民族だと価値観も多様であろうから、複雑なことを言っても伝わらない。そこで大統領の演説も最大公約的な話にならざるを得ない。 リンカーン・メモリアルを歩いている時、今朝分かれたばかりのヤング・グループに遭遇した。彼らは「これから18km郊外のキャンプ場に行って、テントで寝るのだ」と言っていた。我らシニア・グループは、古いながらも町中のホテルで、快適である。 今夜の見学で、唯一ほっとしたのは、ポトマック河畔の桜の木を見た時である。多分私が希望を言わなければ、そこへは行かなかったか、行っても素通りしたのではないか。ポトマック河畔の桜のいわれを話してあげたら、興味を持ってくれた。残念ながら、あたりは真っ暗で、桜の木があることを確認することしか出来なかった。 PM11:40、ホテルへ戻り、シャワーを浴びてベッドへ崩れ込む。 6月16日(木) ワシントン AM8:00、起床。インターネットで妻にメールを送った後、買い置きのバナナとリンゴの朝食。今日の予定は、夕食まで自由行動である。私のおおざっぱな見学予定を、ホワイトハウス、ポトマック河畔、博物館、国会議事堂に決めた。 AM9:40、ホワイトハウス(White
House)を目指す。この町では一般の観光客に混じって、修学旅行スタイルで、多くの学生が訪れている。ホワイトハウスの周りは警察の数もおびただしく、あちこちに立ち入り制限箇所がある。大統領は「篭の鳥」状態で、我々は檻の中のパンダを見に行くような光景か。
この後、ポトマック河畔の桜の木を見に行く。昨夜も行った場所だが、暗くて周りの様子がつかめなかったから。ワシントン記念塔を通り抜けてかなり歩かねばならないが、私の足は自然とそちらに向かっている。桜は自分にとって特別な存在だ。ポトマック河畔の桜は特別美しいと聞いているからなおさらである。この世の最期に何を見たいかと聞かれれば「桜」と言うかもしれない。
ポトマック河畔の大きな池はタイダル・ベイスン(Tidal
Basin)「潮流の溜め池」と名付けられており、そこに架かる大きな橋を渡っていく。池の岸辺は桜で埋め尽くされてる。 近くに仏塔があると地図に書いてあるので探してみたが、見あたらない。公園の職員に尋ねると、「日本から来たのですね」と言って、快く案内してくれた。それは高さ2mほどの桜の木に隠れる様な、かわいい仏塔(Pagoda)であった。
職員の話では「この一帯は今でこそ整備されて綺麗になっていますが、昔は夏になると決まって洪水で水浸しになり、マラリアやコレラが発生する汚く不潔な所でした。大統領も夏になると此処から避難するほどでした」と話してくれた。 タイダル・ベイスンとポトマック川の間はフランクリン・ルーズベルトの記念公園になっており、ルーズベルト大統領の像が置かれている。タイダル・ベイスンの南岸にはトーマス・ジェファーソンの記念館がある。私は数枚の写真を撮って、次を目指した。
途中の休憩所や屋台でサンドウィッチやホットドッグをかじって、昼食に代える。ワシントン・モニュメントと国会議事堂に挟まれた約1kmの間には、アメリカ史博物館、自然史博物館、芸術博物館、アメリカン・インディアン博物館、宇宙博物館等が建ち並んでおり、それらの総称をスミソニアン博物館(Smithsonian
Museum)と言う。 私はそれらの中から、ホロコースト博物館と自然史博物館に行った。入館料は無料だがセキュリティー・チェックは空港並であった。館内にはそれなりの物が陳列されているのだが、大概の物は本やテレビを通してすでに知っており、想像を超える物には出会わなかった。 最後に目指したのは、美しい姿の国会議事堂(United States
Capitol)である。遠くから何度も見かけたが、写真に収めたくて近くまで歩いて行った次第。
PM2:00、4時間余り歩いてホテルに戻って来た。シャワーを浴びた後、ロビーの売店で牛乳を買って飲んだ。咽が渇いていたので美味しかった。2ドル也。それから、明日からのキャンプに備え、2度目の洗濯をする。洗濯と乾燥で2ドル也。安くて助かる。 部屋に戻ると掃除のおばさんが、掃除を終えるところであった。「ドミニカから来て14年になる。ドミニカは良い所だから一度行ってみたらいい」と言っていた。人柄の良さがにじみ出ているような60歳前後のおばさんだ。チップを2ドルあげた。 PM6:30、しばらく日記を書いた後、皆で夕食に出かけた。今晩は私の希望で中華料理を食べに行くという。タクシーに乗ること15分ほど。予約をしてあったようで、店に入るとすぐにテーブルに通された。店の看板には「請茶」と書かれている。ガイドが、どういう意味かと私に聞くので、勉強したての中国語の知識をひねりだして「どうぞお茶を召し上がって下さい。または、ようこそ、お茶の店に、と言う意味です」と答えた。 店内には沢山の種類のお茶が陳列されており、この中から選ぶのは容易ではないと思った。私は無難なところでジャスミン茶を希望した。味はまずまずという所で、自宅で飲み慣れた物の方が美味しく感じた。隣のオーストラリア人は、真っ赤なハイビスカスのお茶を飲んでいた。少し飲ませてもらったがショッパかった。 料理はセットメニューの中から各自が選択する。内容がよく分からないまま注文して、出てきたものを見ると、中華料理と言うよりも、松花堂弁当のようであった。キュウリの漬け物や酢の物があり、私は白米のお代わりまでして、そこそこ美味しく頂けたが、他の人の口には合ったかどうか疑問だ。28ドル也。 皆で料理の注文を検討している時、一人の若い女性が来て我々のツアーガイドと懐かしそうにハグしている。昔ホンジュラスでのボランティアに参加した時の友人だという。さっさと我々のテーブルに座ったところを見ると、予めガイドが呼んでいたらしい。テーブルにも6人分の準備がされていた。
With Britta’s friend 彼女は、此処ワシントンD.C.で、日本で言うジャイカ(JICA)の様な仕事に就いて2年になる。落ち着いた聡明そうな女性で、たちまち談話の中心になっていた。 PM9:00、食事が終わると彼女の案内で、夜のワシントンを歩きながらホテルへ向かう。ポトマック河畔に建っている大きなマンションを指さして、「あれがウォーターゲート(Watergate)だ」と言う。1972年、このビルの6階の民主党全国委員会に盗聴器が仕掛けられ、ウォーターゲート事件が発生した。ニクソン大統領がスキャンダルに巻き込まれて、辞任に追い込まれた物件だ。名前から推測して、ダムのようなものを想像していたのだが、貸事務所ビルだと知ってびっくり。
途中から地下鉄に案内され、短い区間だがワシントンの地下鉄も体験できた。駅も車体も綺麗でした。運賃は2.20ドル也。我々が先に地下鉄を降り、彼女は先の駅まで乗って行った。
PM10:00、ホテルへ戻ってシャワーを浴び、PM11:00に就寝。 6月17日(金) ワシントン〜バージニア AM6:00、起床。昨夜は雷雨であったが、今朝は晴れている。時々雨に降られるが、ラッキーなことに、夜であったり、ホテルで休んでいる時だったりで、観光には影響なし。洗面後しばらく日記を書く。 AM8:00、ホテルのレストランで朝食。中学生ぐらいの集団が食事をしていた。隣で食事中の紳士に声をかけると「パナマから来たドクターで、ビルゲイツ・ファウンデーションから何らかの賞を受けるために来ました」と言う。その道で功績のあった人に違いない。「数十年前、麻薬の取引で捕まった大統領がいましたよね」「ノリエガ大統領ですね。よくご存じで。彼はパナマ建国の立役者です」「今は元気にしていますか」「フランスの監獄に入っています」と、落ちが付いたところで食事が終わった。氏は今流行のIPadでメールを書いていた。 AM9:00、ホテルを出発。今日は高速道路66号線から81号線に入る。アパラチア山脈(Appalachian
Mountains)に沿って560km走り、バージニア州のキャンプ場を目指す。途中で、昨日話題になったウォーターゲートの名前の由来について調べてきたと言って、ガイドが教えてくれた。「昔、このビルが建てられた場所にポトマック川の水門があった。その名残の名称です」と。 AM10:30、巨大スーパーマーケットのウォールマート(Walmart)に立ち寄る。私はメモ帳、マーカー、リンゴ、バナナを購入。4ドル也。キャンプ用に、使い捨て枕や懐中電灯を買う人もいた。ここは住宅関連から食料品まで何でも揃っている。 AM11:30、出発。緑深いアパラチア山脈を遠く近くに眺めながら車は走る。高速道路を走っている時は、他にすることが無いので、ポメラで日記を書いている。車が揺れてキーを打ちにくいが、打てないことはない。今までのパソコン・ACERでは、車の振動でアイコンが飛んでしまい、絶対に書けなかった。おかげで重宝しています。 PM0:30、アパラチア山脈に囲まれた野外の休憩所で昼食。荷物車に積んできた食糧の中から、ハムやサラダ等でサンドウィッチを作って食べる。あとはバナナ、オレンジ、紅茶。アドヴェンチュアーにしては、充実したランチである。キュウリとオレンジが美味しかった。 隣のベンチで同じ様なランチを食べていたカップルに声をかけると「アトランタから夫婦できました。自分たちは車ですが、24歳の一人息子はアパラチア山脈のトレッキングに挑戦しているところです。これから北へ向かいます」と言っていた。
PM1:15、出発。 PM3:30、トイレ休憩。 PM5:00、バージニア州(Virginia)のウィズヴィル(Wytheville)キャンプサイトに到着。木々に囲まれた閑静なところで、既に多くのキャンピングカーが来ていた。我々のトレック・アメリカ(Trek America)の車は、どれも同じ大きさで、13人乗りのバンが荷物車を牽引して走る。バンには最大13人が乗り、荷物車にはテント、コンロ、食糧、バッグ等が積まれている。
早速テントの設営に取りかかる。オーストラリア人のポール(Paul)は、経験者らしく手際よく設営していく。他の人は見よう見まねで奮闘している。かく言う小生もテント張りは初めてのことである。オーストラリアのキャンプサイトには、パーマネント・テントが設営されており、自分で設営することはなかった。
一人用のテントは、実に簡便に出来ており、要領さえ覚えれば10分位で完成すると思う。組み立て方は次の通り。 1、なるべく平らな草むらの上にシートを敷き、 2、その上に内側の天井となるシートを広げる。 3、折り畳んで袋に収納された、軽い金属製の梁を伸ばしてシートの上に建てる。 4、この梁に下から内側の天井を引っ掛け、 5、その上には、外側の屋根をかぶせる。 6、最後にペグ(留めくぎ)を地面に打ち込んで固定する。 これで終わり。
後はビニール製のマットを敷き、寝袋に入って寝る。45ドルで買った寝袋は、きちんとしており、マイナス1度まで使えると書いてある。今日の日中は晴れで暑かったが、今は15℃位に下がってきた。簡便なだけに、好天に恵まれればよいが、風雨の強いときは、心細くなると思う。
PM7:30、テントの設営が終わって、夕食。今晩のメニューは、チキンに味噌味のペーストを塗って焼いたもの、トマト味のついたライス、サラダ。食後にミルク・ティー。キャンプにしては充実している。 PM8:30、たき火を囲んで今後のスケジュールの発表とオプションの申し込み。その時、野生のラクーン(Raccoon:アライグマ)がひょっこり出現。時には大きな熊が来ることもあると言う。真偽の程は分からない。 PM10:00、キャンプ場に設置されているシャワーを浴びて寝袋へ。地面のわずかな傾きが気になった。液状化現象で家が傾くとこうなるのかと、変なところで納得した。 6月18日(土) バージニア〜ナッシュビル AM6:00、起床。テントの収納。外側のテントは雨が降ったように濡れていた。それだけ夜露が多いと言うことだ。ペグを地面に打ち込む時は金槌でたたいて埋め込むが、引き抜くときは指で引っ張るだけで、簡単に引っこ抜けた。 初めての一人用のテントに寝た感想は?天気さえ良ければ問題ない。しかし悪天候の時は快適とは行かないのではないだろうか。 近くのテントにはファミリーで来ている人がいた。挨拶をすると「フロリダから来ました。今のフロリダは、高温高湿度で過ごしにくいので、北を目指してきました」と言っていた。 AM7:00、朝食。シリアル、パン、バナナ、オレンジ、インスタント・コーヒー。食後の食器は洗剤入りの水で洗い、水で濯ぐ。いずれもポリ容器に汲んできた少量の水である。自宅でのように水道水を流しっぱなしで洗うと言うわけには行かない。 AM8:15、出発。今日は高速道路81号線、40号線を640Km走破してテネシー州(Tennessee)のナッシュビル(Nashville)まで行く。 AM10:00、81号線沿いのグリーンヴィレ(Greenville)でトイレ休憩。
PM0:15(AM11:15)、ガイドから「時間を1時間遅らせるように」との指示が出た。アメリカは広い。国内だけで4つの時間帯があり、3時間の時差があるのだ。 この頃から急に空が暗くなり雨が降ってきた。昼間だというのにまるで夜のようだ。雨足は強くなり100m先も見えなくなってきた。雷の音が頻繁になり、どうなるのだろうと心配になってくる。折よく昼食時間で近くの東屋に避難しながら、サンドウィッチとバナナ2本で空腹を満たす。食べている間中、激しい雷雨(Thunderstorm)が続いた。落雷の時はその音が山々にこだまして、迫力満点だ。
PM0:10、出発。雷雨は幾分弱くなってきた。 PM2:00、トイレ休憩。ブリューしたばかりのコーヒーを買って口にしたら、飛び上がるほど熱かった。 まだ、同行の4人の名前が分からない。初対面の時にお互いに名乗り合うのだが、聞き取りにくいのと、覚えにくいのとで、記憶できないのだ。私はあらためて、それぞれにお願いしてメモ帳に書いてもらった。 リンダ・マックブライン(Linda McBrine):ロンドン近郊在住、60歳代か?(後で59歳と分かる)、夫とは離婚しており娘が婚約中。 ポール・ラニガン(Paul Lanigan):欧州系、オーストラリア在住、65歳前後(後で62歳と判明)、この手の旅行は何度か経験済み。 アーキット・フー(Ahkit Foo):マレー系でオーストラリアのブリスベン在住。50代後半の独身。 ブリッタ・トネスン(Britta Tonnessen):運転手兼ツアーガイド。ノルウェー系アメリカ人。28歳。 PM2:30、ナッシュビルのカントリー・ミュージック博物館(Country Music
Hall of Fame)に到着。ここ、テネシー州(Tennessee)のナッシュビルはカントリー・ミュージック発祥の地として有名な所。早速博物館内へ。シニア割引で20ドルの所を18ドルで入場。チケット売場の男性は、私が日本人だと分かると、「おはようございます」とか言って、とても愛想が良かった。
此処にPM5:00まで居たのだが、私には少し長すぎた。此処の展示の中で、唯一知っているのはエルビス・プレスリー(Elvis
Presley)だけ。しかも彼は、カントリー・ミュージックではないと言う。ロックンロール(Rock and
Roll)のプレスリーが何故この博物館に展示されているのかと聞くと、「彼の曲にはカントリーの要素も含まれているから」と言う。カントリー・ミュージックが好きな人にはたまらない博物館であろうが、私にとってはそれほどエキサイティングな所ではない。なじみの曲は何曲かあるが、歌手に至っては、全く知らないからである。
テネシーと言えば若い頃から聞いてきた江利チエミが歌うテネシーワルツ(Tennessee
Waltz)が浮かんでくる。とてもメロディーの良い曲だが、どんな背景を歌ったものかは知らない。後日の宿題だ。 というわけで、ネットで調べてみると: 1950年、パティ・ペイジ(Patti
Page)の歌で大ヒットし1965年にはテネシー州の州歌となった。日本では1952年に当時14歳の江利チエミが歌って大ヒットした。歌の内容は「紹介した友人に恋人を盗られてしまった」と言う悲しい歌でした。 Tennessee Waltz テネシーワルツ (訳詞: ゆうこ) (*Refrain)
さて、私が博物館訪問の記念にプレスリーのCDを1枚購入しようと物色していると、ポールが「此処よりも、ウォールマートの方が安く売っていると思うよ」と囁くので買いそびれた。本当にウォールマートで買えるのかな? PM5:00、博物館から出てきたら晴れていた。 PM5:30、ナッシュビルのキャンプ地(Nashville
KOA)に到着。大雨の後のテント張りはしんどかろうと心配していたら、今日の泊まりは小さなログハウス(Log house)。心配が杞憂に終わり、やれやれである。 我々が利用しているキャンプ場は、キャンプ・オブ・アメリカ(Camp of
America略称:K.O.A)と言う組織で運営している。Campが略称になるとKになるから不思議だが、こういう事は良くあることらしい。 PM7:00、夕食。今日はメキシコ料理だ。ガイドのブリッタが鍋をかき混ぜている。一つは、肉と野菜の入ったもの。もう一つは米と豆が入ったもの。私にとってはサンドウィッチより食べやすかった。 PM8:00、夕食後、往復10ドルのバスに乗って、ナッシュビルのダウンタウンへ。ここは地元民、観光客入り交じっての賑やかさを呈している。冷やかしで革製のブーツ店に入る。どのブーツにも刺繍が施されていて見ているだけで楽しい。
皆で入った店はカントリー・ミュージックのライブ店、ワイルドホース・サルーン(Wild horse
Saloon)。この店は毎週全国的にテレビで放送されるカントリーダンスで有名な所らしい。ステージの大音響の生演奏に合わせて、フロアでは老若男女がステップを踏んでいる。日本で昔流行ったゴーゴー喫茶のようなものか。小生にはとても入っていけず、ただ眠たいだけであった。コーラ1杯で1時間半。3ドル也。
PM11:00、キャンプ場のログハウスへ戻り、シャワーを浴びる。 PM11:30,就寝。寝袋は、袋の中に入ると暑かったので、敷き布団として利用した。 6月19日(日) ナッシュビル〜メンフィス AM6:30、起床。ログハウスに寝ていたので気が付かなかったが、昨夜は雨だったらしい。今は晴れている。 AM7:00、朝食。メロンが美味しかった。 AM8:00、メンフィス(Memphis)を目指して出発。今日の走行距離は約380Kmだ。高速道路40号線を走っていると、空がまた暗くなってきた。明るければ日記が書けるのに、こんなに暗くては無理だ。案の定、雨が降ってきた。ワイパーをフル回転させても前方が見えないほどである。こんな時、初めての道を運転するのは心細いだろうなと思う。 AM10:00、トイレ休憩に立ち寄った店で、3.7リットル入りの水を1.5ドルで、アメリカ全土のロードマップ(The 2011 ROAD
ATLAS)を10ドルで購入。B4とA3の中間ぐらいのサイズで、140頁もある大判だが、これが随分役に立った。もっと早く買えばよかった。 PM0:00、テネシー州のメンフィス・ビジター・センター(Memphis
Visitor Center)で、プレスリーのCDを購入。13ドル也。昨日の博物館では19ドルだったのに。買うのを我慢して良かった。
昼食は此処の軒先を借りて、サンドウィッチの立ち食いだ。西洋人は椅子がないところでも平気らしい。夏みかんほどもある大きなオレンジをポールが剥いている。みんなで分けて食べるのかと思いきや、そんな素振りは微塵もなく、一人で食っている。 もう一個残っていたオレンジを狙っていたら、アーキットに取られてしまった。彼は分けて呉れるだろうと期待していたら、期待はずれのようだ。たまらず、「少し呉れないか」と言うと、4分の1ほど分けて呉れた。彼らはケチとか、ガメツイとかではなく、食欲が旺盛なのだ。おばさんのリンダでも、私の5割り増しの食欲である。 PM0:30、メンフィスへ向けて出発。 PM1:30、メンフィスのグレースランド(Graceland)に到着。ここは生前エルビス・プレスリーが住んでいた所で、今は、一部のプライベート・ルームを除いて全面的に開放されている。我々はキャンプ場まで行かずに、此処の駐車場で解放され、6時迄自由時間である。 敷地内には住宅、事務所、庭園等があり、私は日本語のイヤホンガイドを聞きながら見学した。もちろん我が家とは比べるべくもないが、バカデカイ感じはしなかった。
Graceland―4 Graceland―5(Grave) ただ、広い公道を渡った敷地には、オープンカー(Open
car)とプライベート・ジェット機が2機展示されており、往時の大物ぶりを見せつけられた。
ここまで書いてきて、ポメラ本体の記憶容量が満杯になったようだ。旅程の約3分の1(13日目)の所である。持参のチップを挿入して書き続けることにする。 このジェット機には、娘のリサ・マリー(Lisa
Marie)と愛犬の名前が付けられていた。中を見学できたが、いわゆる「空飛ぶ応接室」と言う感じだ。10人ほどで懇談できるような椅子とテーブルが備え付けてあり、隣の部屋はプレスリーの寝室になっていて、キングサイズのベッドが置いてあった。
プレスリーは確かに偉大なスターであった。やること成すことが大評判となり、売上額や観客動員数の記録を塗り変えていった。それにしても42歳の若さで、心臓発作で死んでしまうとは。普通の人の一生以上を生きてしまったのであろう。 その栄光の始まりが、町のスタジオに4ドルの自費を払って自分の声を録音したのが、第3者に認められた事だと言う。彼の好きなロゴにTCBと言う文字があったという。「Take Care of
Business:やるべき事をきちんとやる」と言う意味だそうだ。 敷地内には沢山のパビリオンがあり、それぞれに異なった名前が付けられているが、どこに入ってもビデオが流れ、お土産が売られていて、似たり寄ったりであった。因みに、メンフィス・ビジター・センターで買った、13ドルのプレスリーのCDは21ドルで売られていた。 敷地内にはヒット曲の一つである「ハートブレイク・ホテル:Heartbreak
Hotel」の名が付いたホテルもあった。この中も勿論プレスリー一色でデコレイトされているらしい。ファンにはたまらない一夜になるであろう。
我々はそこに隣接したキャンプ場で、テントを張って寝る。そこには大型観光バスよりも大きな、キャンピングカーが何台も来ている。中はさぞかし豪華であろうと想像するばかり。 PM4:00、キャンプ場を目指して一人で歩いていると、向こうから歩いてきたヤング・グループの女性リーダーが、私に気が付いて、「そこまで行くから私の車に乗りなさい」と言う。ちらちらと2回しか見かけていないはずなのに、よく覚えているものだ。感心するやら、嬉しいやらである。 我々の車の所に来てみると、もう1台同じ会社の車、トレック・アメリカ(Trek
America)が停まっていた。聞くと「シカゴから5人で来た。ロスまで14日間でルート66を走ると」言う。今夜はこの3グループがそれぞれテントを張って寝る。ガイドに「おたくは何台車を持っているの?」と聞くと「繁忙期にはレンタル車を含めて150〜200台の車が走っています」と言う。本社はロンドンだが、アメリカにはロス・アンジェルス、ニューヨーク、シカゴの3か所に拠点があるそうだ。 PM6:00、バーベキューの夕食。と言っても、他のグループのおじさんが、近くの店で出来合いを買って、テイクアウトしてきたものだ。お味はキャンプ場ですから良しとしよう。 PM7:00、夕食後、ヤング達と懇談。「ワシントンでテントを張った夜、ものすごい雷雨に遭いびっくりしました。でも濡れることはありませでした。今日は、ここに来る途中の川で、ラフティングを楽しみました」と、我々シニア・グループが体験しないことを語ってくれた。 メンフィスと聞いて思い出すのは、小泉元首相が辞任直前の2006年に、ブッシュ米大統領夫妻と共にグレースランドを訪問して話題を振りまいた件と、ノーベル平和賞受賞者のマーチン・ルーサー・キング牧師(Martin Luther King, Jr.)が、1968年に暗殺されたのが、このメンフィスであった事である。 PM10:00、就寝。お天気でほっとしています。 |