12月1日(土) 土曜日定例の大連行き。私も幾らか元気になってきたので、皆と出かけることにした。しかし、夕べの冷え込みでマイクロバスのエンジンがかからず、若い人たちが後ろから押してエンジンをスタートさせた。こういう光景は昔の日本ではよく見かけたが、あまりにも珍しかったので思わずシャッターを押してしまった。ガソリンではなく重油を使っているから、余計エンジンが掛かりにくかったのだろう。
大連ではいつもの新華書店で、文法書、地図、DVD等を購入。133元也。その後、旧ロシア人街に行って若干のお土産をゲット。345元也。帰国まであと1ヶ月を切ると、そういう気分になってくるものだ。 12月2日(日) 今週の予習と昨日購入したDVD「カサブランカ」「戦争と平和」を少しずつ観賞する。古い映画であるにも関わらず、見やすい映像と中国語の音声入りで、15元は安い買い物でした。 12月3日(月) 朝から大雪。時々吹雪いている。こんな時に限って全館暖房が壊れてしまっている。大事な時に役に立たない事は中国の得意芸だ。
2時間目の授業中に、一昨日買ってきた遼寧省の地図を常先生に見せたら、自分の故郷の話になった。彼女は鞍山の隣町(海城市)の出身で、高校は鞍山であった。家から通えないこともないが、学校近くの高層マンションにある、同級生の家に下宿していた。そのマンションに隣接して、終戦まで日本人が住んでいた、100件程からなる住宅地があるという。 「私の父が旧満鉄の技師で、私は鞍山で生まれた」と言う事と、彼女が語るその地域の歴史がすっかり重なってきた。今では現役時代に指導的立場にいた中国人の退職者達が住む、高級住宅地になっていると言う。その地域の名前を「台町」と言う事も教えてくれた。 授業終了後、インターネットで「鞍山、台町」と入力して検索してみると、誰かのブログにその住宅地の写真が出てきた。そこには、その住宅地の生い立ちが書かれ、アンケートを募集しているブログであった。つまり、ここの住宅を今住んでいる人に、払い下げることへの賛否を問うものである。 国家の発展に貢献してきた人だから、払い下げても良いと言う人と、既に十分な報酬を得ているのだから、その必要は無いと言う意見の人が掲載されている。 ブログの内容はともかく、私は今日まで全く予期してなかった展開に、ビックリしている。私が鞍山の出身であることは、ここに来たときにも話しており、常先生も認識していたと思う。しかし話題がこのような展開にならなかったのは、機根が熟していなかったと考えるべきであろうか。 一昨日の土曜日に、大連で購入した僅か8元の薄っぺらな地図が縁となって、思わぬ展開となったのである。再び鞍山に行くことはないであろうと思っていたが、こうなったら話は別である。帰国前に行ってくることにしよう。 12月4日(火) 今週も1日2時間の授業でお願いしている。3時間になると予習がキツくなるからである。 12月5日(水) 鞍山市台町の位置をインターネットの地図で確認できた。「鞍山駅からタクシーで10分位の所です」と常先生が言っていた通り、駅からの直線距離では2Kmも無いくらいの所である。近くには大きな公園があり、立派なホテルも建っている。 12月6日(木) 教材はいよいよ最終段階に来ている。ほとんど忘れてしまっているが、5冊のテキストを終えると、何となく「やったな」と言う気持ちには成る。 12月7日(金) しつこいヘルペスがやっと治った。やはり発症から2週間かかった。 DVD映画「カサブランカ」を中国語の音声と日本語の字幕で観賞。ドイツのナチス軍とフランスのレジスタンスを背景とした中でのロマンス。古い映画で白黒の映像だが、何度見てもはらはらします。 12月8日(土) 朝からの大雪で、恒例の大連行きは中止になった。私は近所の按摩(100元)と散髪(15元)に行ってきた。ヘルペスが治ったら今度は腰痛だ。5ヶ月も滞在すると、持病が一通り出るのだろうか。 DVD映画「戦争と平和」を、昨日の「カサブランカ」と同様に、中国語の音声と日本語の字幕で観賞。トルストイ原作で3時間半の超大作だが、少しも飽きさせないのは見事な出来映えと言うしかあるまい。 ナポレオンの、勢いのあるモスクワ侵攻と、冬将軍に遭遇して、悲惨を極めた退却シーンを背景とした中に、多くの人間模様がちりばめられている。45年ほど昔の学生時代に、分厚い翻訳本を読んだことを覚えているが、今回の映画の方が余程楽しめた。 12月9日(日) 日がな一日、中国語の予習に当てる。1日中頑張っても幾らも進まないが、「これだけやったのだから、何時かは芽が出るだろう」と言う確信に近いものはある。 12月10日(月) 朝食時に、間もなく帰国するアメリカ人女子学生に彼女の故郷について聞くと「私の住んでいる村の総人口は52人で、その内、小さな子供は4人、うちの家族だけで10人居ります」と答えてくれた。どうやら両親は牧場の中で、医者を生業としているらしい。浅黒く日焼けした明るい学生である。 1時間目の授業中に鞍山行きの話をすると、安先生が話を前に前にと進めてくれた。インターネットで列車の予約をしてくれ、電話でホテルの予約をしてくれた。中国独自のインターネットのサイトに、中国語で入っていかないと、列車の予約は出来ない。ヤフーの日本語、或いは英語の検索サイトでは無理なようだ。 そしてカードで決済する段になって、私の持っているVISAカードは使えないことが分かった。使えるカードは沢山登録されているのだが、全部中国の銀行が発行しているカードである。安先生は自分のカードで決済し、私が安先生に現金を払う、と言う方法を採ってくれた。 予約したホテルも、一流のホテルと思われる所であるが、インターネットでの予約は出来ず、電話で予約してもらった。かくして、安先生のお陰で、あっと言う間に、鞍山行きが現実のものと成ったのであるが、外国人旅行者にとって、中国は極めて不便である。大げさに言えば、未だに門戸が開放されていない「鎖国状態」である。 昼食後、インターネットで予約した列車の切符を受け取りに、旅順駅までバスで行って来た。駅の窓口にプリンターで印刷した予約表を差し出すと、50歳代と思われる男性駅員は「これは何だ?」と言う顔つきで、しばらく眺めた後、列車の予約表であることを理解したらしく、パソコンの端末に向かった。しかし、なかなか予約された画面が表示されない。 「ちょっと待て」と言い残して奥から女性職員を呼んできた。パスポートNOを入力すべき所に、中国のVISAのNOを打ち込んでいた事に気が付いて一件落着。無事に列車の切符を入手できたのである。 列車は、今月運行を開始したばかりの高速鉄道で、片道93元也。鞍山までの所要時間は、1時間40分。夏になると更に速くなるそうだ。 尚、私が見に行くところは鞍山市「台町」と言うところであるが、現在の中国語では「町」と言う字は使われていない。従って「町」と言う地名なり人名が出てくると、それは日本に縁のある土地であり、或いは人である事が分かるそうだ。 12月11日(火) 鞍山に行くと言うと必ず「寒いから暖かくして行くように」と言われる。念のためインターネットで今日の鞍山の気温を見ると、最低気温は−16℃になっている。私としては未体験ゾーンである。ほんの2泊3日の小旅行ではあるが、夏に日本から履いて来たスニーカーでは不注意過ぎると思い、暖かそうな靴を買いに旅順のスーパーマーケットまで行ってきた。格安物で129元也。 12月12日(水) 腰痛だと思っていたのは、どうやら「座骨神経痛」らしい。ネットを見ての自己判断である。寒くなると発症し、ここ数年、痛みが大きく成ってきた様に思う。何とか改善出来ないものだろうか。 明日の鞍山行きにあたり、大連まではタクシーで行くつもりでいたが、通常は150元の所を「雪道だから200元頂きます」と言っているそうだ。タクシーよりバスの方が時間がかかるが、安全で安いのでバスで行くことにした。 12月13日(木) 今朝、1時限目の開始前、院長さんが大連駅まで学院の車を出してくれると言う。そんな有り難いことはない。お言葉に甘えて即決だ。4ヶ月前に瀋陽に行った時は、出発の日の朝になって、予約の車をキャンセルされると言う憂き目を味わったが、今日は逆になった。良きにつけ悪しきにつけ、行き当たりばったりの、出たとこ勝負が日常である。 10時に宿舎を出れば良いので、それまで授業を受ける。鞍山の台町を教えてくれた常先生の授業だ。大半は雑談であったが、その中に幾つかの有意義な話もあった。 AM10:15、宿舎を出発。部屋にいると、それだけで汗ばむような厚着をしている。天気は曇り。気温は零度ぐらいか。昨日より幾分暖かい。 AM11:30、大連駅着。荷物のチェックを受けて待合室へ。午後1時発の列車を電光掲示板で確認してから、待合室内のコンビニで菓子パンとジュースを購入。10元也。 PM0:40、乗車開始。各車両の乗車口には、制服姿の女性が立っていて乗車券のチェックをしている。乗車券のチェックはこれで3回目だ。待合室に入る時、ホームに出る時、そして今回。列車内の感じは日本の新幹線と大差なかった。私が座った2等座席は、通路を挟んで2列と3列の合計5列。 乗車券のチェック 過去最高の厚着をして列車に乗ったものだから、暑くて気分が悪くなりかけ、あわてて上着を脱いだ。間もなく、バスのガイドと飛行機のキャビン・アテンダントの中間位の制服を着た女性が回って来て、棚の荷物が落ちないようにチェックしている。中国語と英語で停車駅を案内する車内放送があった。 PM1:00、列車は何の合図もなく定刻に発車。しかし、外の景色を見ていなければ、動き出したことに気が付かないくらい静かである。静かでゆっくりなまま30分ぐらい走っている。何時になったら高速になるのかと疑問が沸いてきた頃、いくらかスピードがアップした。しかしまだ時速100Kmにも成ってはいないであろう。 時計を見ると、既に発車してから50分経過している。私がポメラを取り出して叩いていると、隣の女性(40歳位)が覗き込んで、韓国語か日本語かと聞いてきた。「日本語です」と言うと興味深そうにしばらく見ていた。漢字の部分は意味を類推できるらしく、私がリアルタイムの旅日記を書いていることが分かるらしい。彼女はアパレル会社の社員で、今日は出張の帰りだという。 車内検察の女性が回って来た。私の切符を見て「鞍山西駅着は14時48分ですよ」と教えてくれた。あらかじめ分かっていても、こういう一言は嬉しいものである。これで乗車券のチェックは4回目だ。つまみ物をカートに乗せた車内販売が現れたのも、日本の新幹線と同様である。 PM2:10、最初の駅(鲅鱼圈站ba yu quan zhan)に到着。結局スピードは出ずじまい?そう感じないだけで結構出ていたのだろうか?次の鞍山駅までの間は、新幹線並のスピードが出ていたようだ。 PM2:48、定刻に鞍山西駅に到着。ホームに降りるとさすがに寒い。しかし中国の高速鉄道を写真に収めるべくシャッターチャンスを伺う。走り去る列車の後ろ姿を捕らえたつもりだが、果たして写り具合は如何に?
列車を見送り、ホッとしたところで帽子を車内に置き忘れたことに気づいた。「しまった、これからが大事な物なのに。マフラーと、コートはしっかり持って降りたのだが、帽子までは気が回らなかった。 降りる時はカメラの方に気を取られて、膝においていた帽子のことはすっかり忘れていたのだ。座席から立ち上がる時に、下に落としたに違いない。安いものだから金額的な痛みは少ないが、この3日間は無いと本当に困ると思う。 駅舎の外に出ると、どんよりと曇った空の下に、寒々とした雪景色が広がっていた。駅舎だけは真新しいが、周りには何も見当たらない。ただ各人が乗り付けてきたであろう、多くの乗用車だけが目に飛び込んできた。その中からタクシーを見つけ出して合図をするが、乗せたいのか乗せたくないのか、運転手の態度がはっきりしない。 真新しい鞍山西駅 寒々とした雪景色 あらかじめ用意しておいた、行き先のホテル名を書いたメモを見せると、急に笑顔になってドアを開けてくれた。広い道を20分位走ってホテル「鞍鋼東山賓館」に到着。25元也。ここは想像していた通り、昔の日本人街・台町のすぐ隣に位置していた。 ホテルから見た大通り PM4:00、チェックインを済ませてから、台町の周辺を歩いてみた。辺りはもう薄暗く、台町の印象もブログで見た以上の物では無かった。周囲は1km位であろうか。確かに比較的小ぎれいな家と、建て替えた方が良さそうな家が、混在して建っていた。 その一角に、これもブログで見たコーヒー店があったので入ってみた。若い人たちで経営されていた。コーヒー(38元也)を頼みながら、鞍山へ来た目的を話すと、少し興味を示してくれた。言葉は中国語2割、英語8割と言うところか。英語のできる人がいると、どうしてもその方が話しやすい。 しかし、2カ国語を使っても、言いたいことの1割しか言えていない。親切な店長は新聞社に電話をし「鞍山での出生地を探している日本人が此処にいるのだが」と言って、私の宿泊しているホテルの部屋番号を伝言していた。「後から電話が行くかもしれません」と言う。 PM5:00、ホテルへ戻り夕飯へ。1階フロントの対面にある中華料理のレストランに入る。客はまだ誰もいない。メニューを見るが、一人で食べれそうな物が見当たらない。例によって「何か麺類はありませんか」と訪ねると、若いウエイトレスが一種のウドンを紹介してくれた。12元也。 しばらく待たされて出てきたのは、トマトケチャップ味の、素ウドンと言うところだ。「ホテルのレストランで、素ウドン一つ食べて出てくる野郎は、そんなに居るまい」とは思うが、ほかに食べたい物がなければ止むを得ない。支払いの時に「領収書は要りますか」と聞いてきたので「要りません」と答えた。 PM5:40、自分の部屋に入って、ポメラを叩く。室内は全館暖房の温湯が管の中を流れており、管に触れてみると、旅順の宿舎のそれより余程暖かく感じた。おそらく室内は20℃以上あると思う。零下の外から入ってくると、その温度差に体が付いていけない。着ているものを一枚一枚と脱ぎ捨て、最後は下着姿になる。しばらくそのままで居ると今度は寒くなり再び着ていく。これが鞍山に来て初めての夜の一こまである。 一段落してテレビをつけると、「南京虐殺75年記念」と称して、記録されていた惨たらしい映像を、これでもかと言うくらい長時間に渡って映し出していた。日本では見たことのない映像である。 我々戦後生まれの世代は、事実を知らされていないから、「南京虐殺は無かったのだ」と誰かが言えば、「そうなのか」と思い、「何の罪もない庶民が、30万人も殺されたのだ」と中国が言えば「本当にそんなに沢山の人を殺したのだろうか?」と心が揺れる。 しかし、この映像を見る限り、数の大小は問題ではない。「100人切り」とか「試し切り」とか言いながら多くの罪のない民を虐殺したことは確かなようだ。それも笑いながら、面白がって。平和な時には想像も出来ないことを、戦争になると平気でやれる。「戦争は人をここまで変えるのか」と今更のように驚く。 今日の映像は記録映像だから特別な印象を与えられたが、中国のテレビは、毎日、幾つかのチャンネルで「抗日戦争」のドラマを放映している。どれも「日本兵が中国人庶民を虐待していて、助けに立ち上がった青年が犠牲になる」と言う構図である。現代の中国共産党の政治的政策ではあろうが、これほど毎日放映されると、ウンザリすると言うのも本音である。 12月14日(金) AM6:30、起床。 AM8:00、朝食。昨晩のレストランでの中華料理がメインのバイキング。品数も豊富でとても食べきれない。美味しそうなものから少しずつ取り揃える。いい気分で食べ終わる頃、同じ丸テーブルで食べていた50代後半の女性が、私よりも先に食べ終わった。次の瞬間私は自分の目を疑った。 その女がテーブルに座ったまま、髪を櫛削り始めたのだ。丹念に何度も櫛削った後、今度は自分の肩に落ちたフケを払い落とし、櫛に絡んだ髪の毛を摘み落としているのだ!大きめの丸テーブルの対面に座っていたので、直接の被害はないとは言え、気持ちの良いものではない。今の中国では、一流レストランでの公衆のマナーがこのレベルである。 AM9:30、ホテルを出発。タイミング良くタクシーが来たので昨日喫茶店でメモした新聞社「鞍山日報社」を目指した。受付に行くと「昨日電話をくれた人ですか」と言う。「そうです」と言うと、「しばらくお待ちください」と言われて待っていると別室へ案内された。 そこはお世辞にも綺麗とは言えない所で、刑務所の取調室(お世話になったことはないが)の方が、まだ綺麗ではなかろうかと思える部屋であった。しかし新聞社の後方部隊はどこもこんなものだろうと思う自分も居た。
台町に日本人が住んでいたとは言え、日本人が住んでいたのは、そこに限ったことではなさそうである。父が「満鉄の技師であった」とは言っても、どういう職種だったのか、どういう肩書きだったのか、母親が生きていた時なら、簡単に分かったであろうに、今となっては手がかりが少なすぎる。何で母親から父のことを聞かなかったのであろうか。 少し残念であるが、若い時は未来のことにばかりに関心が向いて、過去のことを考えるゆとりがなかったとも言える。そして私が生まれて間もなく、病気で夫を亡くした母親は、戦後再婚していた為、それ以前のことは、敢えて話そうとはしなかったように思う。 私自身も、高校入学に当たって取り寄せた戸籍謄本を見て、父親が養父であると知った時、大きなショックを受けて、勉強に集中できなくなったことを覚えている。その状況を脱出する方法が「過去のことは考えまい」と言うことであった。そういうことで、私から昔の母のことを聞くこともなかったのである。 心の奥にしまい込んだものも、縁に触れると外に出てくる。今でも「どうしても自分の出生地を知りたい」と言う強い気持ちがあるわけではない。ただ何となく周りから押されて、今此処に来ているような気持ちである。 中国語の勉強を始めたことも、英会話サークルの中心者に、強く勧められたことがきっかけだし、鞍山に来たのも常先生から聞いた台町の話が縁になっているし、現在こうやって新聞社にいるのも、昨日の喫茶店の店主の親切が因になっている。私はただ示された方向へ歩いているだけ。そんな気分でもある。 今回は、鞍山まで来て此処の空気を吸い、冷たい風に触れたことで良しとしよう。取材は、私にとっては2時間の中国語のレッスンを受けているようであった。いよいよ話が通じなくなると筆談になったが、教室外での中国語の実践は初めてである。取材が終わるとカメラ撮影と相成った。何に使うのか分からないが、鞍山のランドマークを背景にポーズを取らされ、数枚の写真が撮られた。 はい!ポーズ! それも、若いカメラマンが持参したカメラのバッテリーが切れて、私のカメラで代用するというおまけ付きである。新聞社に戻って、今写した写真を私のメモリーから社のパソコンに移して一件落着。すでに12時半を回っていた。 私はその後、昨日、列車に置き忘れた帽子の代替を購入し(40元也)、新華書店でDVDの映画「ハミルトン夫人」を一枚購入し(20元也)、更にスーパーで若干の食料を仕入れて(15元也)ホテルに戻った。 PM2:00、自室で腹ごしらえをして休憩を取り再び外出した。此処のホテルは主楼と、1号館から4号館までの建物からなっている。私が泊まっている主楼は、敷地内の一番手前にあって一番古い。奥へ行くほど新しく、宿泊料も高くなっている。敷地内を奥まで歩いてみたが、今の時期は雪に覆われていて、ただ寒々とした雰囲気を漂わせているだけであった。青葉のある時の敷地内は、美しいだろうと想像できた。 ホテル東山賓館(主楼) ホテル東山賓館(敷地内) 更に、昨日も歩いた台町をもう一度歩いてみた。昨日は気が付かなかったが、この台町の一角に「老人公園」があり、老人の憩いの場所になっている。老人公園の名称は地図にも出てくるが、台町の名前は地図上には出てこない。 老人公園 この辺りを歩けば、どこかに「台町」の表示があるのではないかと思って探しているのだが、とうとう見当たらなかった。私にとっては不思議なことである。そしてこの一角の家家は、いずれも鉄格子や金網で高い塀を巡らし、外部からの接触を拒んでいるように見えた。 台町-1 台町-2 台町-3 PM6:00、夕食。中華料理を一人で食べることは難しい。今日も、昨日のように素ウドンだけでも良いのだが、いくら私でも二日続けてそれでは気が引ける。美味しそうな酸辣湯と白菜の餃子を頼んだ。 出てきたのは、5人分もあろうかと思うほどの、大どんぶりに一杯の酸辣湯と、何とか食べ切れそうな量の餃子であった。がんばって食べたが、酸辣湯は半分以上残してしまった。お味の方はまずまずで32元也は、リーズナブルでした。 12月15日(土) AM6:30、起床。 AM8:00、朝食。昨日と同じホテルのレストランで、中華を中心としたバイキング。私はトーストとコーヒーを選択。隣の席に昨日と同じおばさんが居て、食後、昨日と同じことをやっていた。 AM9:30、チェックアウト。フロントで昨日からの疑問をぶつけてみた。 「台町とはどの辺の地域を言うのですか?」 「此処も台町です」 「でも、どこにも台町の文字がありませんね」 「台町は昔の地名で、今は東賓街と言う地名に変わっております」 これで謎が一つ解けた。聞いてみて良かった。 しかし、こうやって徐々に昔の日本の痕跡が消えていくのだ。特に開発が進んでいる今日の中国では、消えていくスピードが速まっていると考えられる。 チェックインの時に800元払って、今364元返金されたので、2泊の料金は436元となる。1泊218元は予想より大分安かった。 さて今日の半日はどうやって過ごそうか?とりあえずタクシーで鞍山駅に行ってみることに。4ヶ月前に見たホームの印象は、寂れた様子であったが駅舎の外は、寒いにもかかわらず大勢の人が行き交い賑わっていた。駅舎は切符売り場と待合室の入り口が完全に分離されていて、切符が無いと待合室には入れない。 待合室の隣に小さな雑貨店があって、張り紙に「地図」と書いてある。どんな地図があるのか見せてもらうと、ホテルで買った地図(10元也)と同じ様なものであったが、新しいだけに高速鉄道の線路と鞍山西駅が書き込まれていた。記念に購入。5元也。 駅前を歩いていると、この寒い中、新聞を売っているおばさんに声をかけられた。「私は日本人で新聞は読めません」と言うと、すぐに了解したらしく売りつけることをあきらめた。しかし、新聞のタイトルを見ると、昨日取材を受けた鞍山日報社のタブロイド版である「千山晩報」と書いてある。 これも何かの縁だろうと思って、おばさんに「一部ください」と言うと、笑顔で一部取り出した。料金を聞くと5毛(1元の半分で約7円)だと言う。私が一元を渡すと、5毛のお釣りを呉れようとするので「結構です」と言うと、5日前の古新聞を一部足してくれた。 凍えるような寒空の中で、1部7円の新聞を売っているおばさんが居た。こんなおばさんの笑顔に会えただけでも、今回鞍山に来て良かったと思う。もしかしたら、私はこれを契機に中国語の新聞を読むようになるかも知れない。 宛もないまま駅前の大きなビルを覗いてみた。中に入ると外の寒さに比べ、なんと暖かいことか。これでは暖房費が大変だろうなと他人事ながら心配する。一階は有名ブランド品の店、二階は大型スーパーの店であった。 鞍山駅前のビル内 ビル内のベンチで暖を取りながら一休みし、再び外へ出て駅前の雑踏の中へ。道路沿いに沢山の屋台が並び、防寒服に身を固めたおばさん達が元気に商売をしている。その逞しい姿は神々しくさえある。 駅前の屋台-1 駅前の屋台-2 そろそろ帰りの時間を考える時が来た。到着した日に立ち寄った喫茶店に行って、昨日の報告をしたいと思い、最後の時間をその店に当てることにした。店に行くと皆が覚えていて、笑顔で歓迎してくれた。 店のマスターは出かけて留守であったが、目元涼やかな女店員が、明るく昨日の取材のことを聞いてきた。最後に、互いに記念写真を取り合って店を後にした。皆が喜んでくれて、行って良かったと思う。久しぶりに美味しく感じた日式炭火コーヒーが28元也。 台町の喫茶店 喫茶店の女店員と PM0:30、後は帰るだけだ。鞍山西駅までタクシーで。23元也。4ヶ月前に此処を通過したときに見えた煙突は、鞍山駅の西側にあって、今日も大量の煙を出していた。 鞍山西駅 PM1:41、列車は定刻に発車。来るときに停車した途中の駅には止まらず、直接大連駅へ。途中、この高速鉄道のために建設された大連北駅を通過。 PM3:22、列車は大連駅に定刻に到着。初めての一人旅が無事終了。 PM4:30、大連で京劇を観賞中のアメリカ人学生達と合流。 PM5:00、宿舎のマイクロバスで皆と一緒に夕食会場へ。と言う話だったが、実際は、宿舎へ帰る途中のマクドナルド店で、ハンバーグの立ち食い!最初の話は何処から出た話なんだか、少し期待していただけにがっかりだ。 PM7:30、宿舎着。 12月16日(日) 鞍山で購入したDVD「ハミルトン夫人」の観賞。いつもの通り、中国語の音声と日本語の字幕で。この映画もナポレオンと英国海軍の戦いを背景としたドラマである。出自は貧しいがその美貌故、次々と男を乗り換えながら、セレブを手に入れる。 彼女の絶頂期は、ナポレオン軍と戦って勝利を導いたイギリス海軍の提督、ホレーション・ネルソンとのダブル不倫時代だ。しかし、男が死んで居なくなると無一文になり、最後は盗みの罪で投獄される、と言う女性の一代記である。何時の時代にもある話だが、共感を誘うものではない。 午前中、アメリカ人学生の内、5人が帰国の途へ。 アメリカ人学生、5人が帰国 午後の時間は明日からの予習に充てる。 12月17日(月) 昨日の総選挙は自民党の圧勝に終わる。小選挙区制のしからしむるところではあるが、この制度を強引に導入した小沢一郎のグループが惨敗した事も、先見の明がなかったと言うべきか、皮肉なことではある。「策に走る者は、策に溺れる」とは名言である。 鞍山への小旅行を報告しながら、2時間の授業を終えた。 12月18日(火) 4ヶ月半にわたって勉強してきたテキスト「中国語会話301文」が終了した。予習を中心にやってきたので、時間だけはたっぷり掛かっている。もう少し「効率の良い方法はないものか」と何時も考えているが、名案は思いつかなかった。語学は愚直にやるしかないようだ。 同じ日の今日、テキスト「中国語・口語速成」の予習も終わった。残りの日を使って、このテキストの講義も終了させたい。どの位、身に付いたかは兎も角、「テキストを最後まで学習し終えた」と言う満足感だけは持って帰れる。 12月19日(水) インターネットの掲示板に「鞍山の台町について教えてください」と書いた時に、情報を寄せて頂いた方に、鞍山旅行記を送った。以下はその返事のメールである。 江島様 寒い中、旧日本人街(台町)への旅、本当にお疲れ様で御座いました。詳細内容は、主人と一緒に読ませて頂き、旅の貴重な体験を間接に受けることができました。主人は、江島さんの一人旅への関心が高かったようです。 言語が100%通じない、反日感情が余韻を引く中、一人でお出かけになられたこと大変驚いておりました。主人は、2007年度私が天津で仕事を始めた当初からずっと、こちらに滞在しておりますが、日本語ができる私がいるせいか?私がいることに頼り過ぎというか?一度も一人で出かけたことはありません。
また、私も一人で出かけることには心配で、させないことも一因かもしれません。私として日記内容から印象深く残ったのは、ホテルで朝食時、とある女性の常識を超えた行動でした。一人の中国人として、恥を強く覚えると同時に、同じ女性としてどうしてそういうことができるのか?まったく理解ができません。 江島さんは、そろそろ言語研修を終え、日本に帰国されますが、中国で残りの滞在時間、健康に留意しながら、良い思い出を日本へお持ち帰られたら、嬉しく存じます。 また、今後もお時間がございましたら、お便りをお寄せください。楽しみにしております。 小山愛香里(金春玉) 12月20日(木) 4ヶ月前、瀋陽へ一緒に行き、鞍山駅のホームで記念写真を撮ってもらった、今給黎さんにも鞍山旅行記を送っていた。今日は懐かしい返事をメールで頂いた。 アメリカ人学生4人が帰国の途へ。 アメリカ人学生、4人が帰国 谷村先生と片思いのロバート 12月21日(金) 前夜から、浴室兼トイレ兼洗面所の床に、何処からともなく水が湧きだしてくる。今朝、修理の担当者に見てもらうと早速工事が始まった。それは、洗面台側の壁を壊し、中にある管を取り替えると言う、かなり大がかりな工事であった。 洗面所の大工事 つまりその管から水が漏れていたのである。まだ新しいこの建物は、外側から見るときちんと工事が成されているように見えるが、見えない部分はどんな工事がされているのか疑わねばならない。帰国まであと1週間と言う時になって、とんだハプニングである。 日本語学科専攻の大学生5人と、谷村先生の会食に、私も呼ばれて参加。その中に3年生で、日本語検定試験1級合格者の候覚君が居た。会食後、「私の鞍山旅行記を中国語に翻訳してみてくれないか」と言うと、喜んで引き受けてくれた。 12月22日(土) 最後の土曜日になるかも知れないので、一人で大連まで出かけた。まず満鉄の本社であったと言う所へ。これで3度目の訪問である。何時来ても扉が閉まっていて中に入れない。日本語教師の谷村さんは中に入ったことがあると言うので、タイミングが良ければ見学できるのであろう。期待は裏切られ、今日も見学は出来なかった。 冬空の大連駅 次は、いつもの新華書店へ。ここでDVD映画を5枚購入。例によって、音声は中国語、字幕は日本語が入っている物を探し出す。古い名作が多く、若い頃から、あまり映画は観ていなかったので、中国語の勉強がてら結構楽しめる。とは言っても、1週間後には帰国するのに5枚も買って、観終わるのかしら。 最後は、気になっていたラーメン店へ。「味千ラーメン」と書かれたその大きなラーメン店の前は、何度も歩いているのだが、食べるチャンスがなかったのである。店の中に入ると、早速中国語と日本語のメニューが出てきた。九州の豚骨ラーメンである。 ラーメン単品でも注文できるが、それに餃子やサラダ等を追加するようになっている。私はラーメンの単品を注文。19元也。こちらの物価からすると決して安くはないが、お味の方は如何に。九州ラーメンらしく高菜がトッピングされ、コクのある豚骨ラーメンは「美味い」の一言でした。 丁度昼時とあって、客席は2階まで満席状態。ここで出される餃子は、中国で一般的な水餃子ではなく、日本で普通に食べる焼き餃子であった。それらを加えるとすぐ40元前後になり、決して安い食事とは言えないが、美味しければ納得できる。お客さんは殆どが中国人であった。 宿舎に帰って夕食後、早速DVDの1枚目を観賞。「サンダカン八番娼館・望郷」。第2次世界大戦前、天草島の娘が僅かな金と引き替えにボルネオ島の娼館に売られて行った。誰も語ろうとしない話を、ボルネオ島から生きて戻った一人の老婆から聞き出して出版した、山崎朋子が原作者である。当時の貧しい日本は、南方にまで進出して食料を調達していたのだ。 この映画を観て、司馬遼太郎著の「木曜島の夜会」を思い出した。こちらはオーストラリアとニューギニアの間の海峡に浮かぶ、「木曜島」での真珠取りが背景になった話であった。どちらも貧しい日本人が生きるために、命を懸けて海を渡った実話である。読む度に、観る度に、余りの悲惨さに言葉が見つからない。 12月23日(日) DVD映画「7年目の浮気」を観賞。マリリンモンローが出演している。ニューヨークで、地下鉄の排気口の上に立ったモンローのスカートがまくれ上がるシーンは有名だが、それが、この映画に有ったことは初めて知った。 この撮影の2週間後、腹を立てた夫から離婚されたことも知りました。このシーンが離婚の原因とは、今を生きる私には、想像も出来ない。この程度のお色気シーンで離婚なら、現代映画は撮影する度に離婚騒動になりそうだ。 この映画の背景は、暑い夏のニューヨーク。妻子を避暑地に送り出し、疲れた中年の男が一人で仕事に励んでいる。マンションの1階に住む男の、2階の部屋にモンローのような女性が引っ越してきたら?男の妄想を掻き立てるのに十分なキャストではある。映画は妄想と現実を織り交ぜながらコミカルに作られていた。 DVD映画の2本目は「怪傑ゾロ」。アラン・ドロン主演の娯楽アクション映画。若い頃に観た、アラン・ドロン主演の「太陽は知っている」は、最後のどんでん返しのイメージが、脳裏に強く残っている。しかし、今回の作品は、「平凡な正義の味方を演じたもの」と言うだけで、印象に残る物がない。アラン・ドロンがマスクをかぶると、男前も消えてしまい残念である。 午後から明日の予習。本日の大連の最高気温(最低気温ではない)はマイナス11℃と発表された。 12月24日(月) 帰国便の飛行機のリコンファームで「変更なし」と確認された。 初級終了後に使用する中級のテキストを見せてもらった。「初級で学習したことを織り交ぜながら、少しずつレベルを揚げていく」と言うような構成になっていた。螺旋階段を登っていくようなイメージである。色々な学習方法が有るとは思うが、「急がば回れ」で、愚直に予習復習を重ねて行くことが、結局一番効率が良いのかも知れない。 先週の金曜日に頼んであった鞍山旅行記の中国語翻訳が出来てきた。候覚君は、忙しい中でよくやってくれたと思う。ただ、チェックしてみると、誤解や翻訳漏れが散見された。後日、若干の修正を頼む。 12月25日(火) DVD映画「泥棒成金」観賞。ケーリー・グラント、グレース・ケリーと言う2人の美男美女が主演。ヒッチコック監督の推理物語である。最後に真犯人の顔を見た時は、その意外さにドッキリさせられた。 最近は此処中国でもクリスマスを楽しむように成って来た。勿論、商業ベースに乗せられての盛り上がりであるが、大きな店に行くとジングルベルの曲が流れている。変わったところでは、クリスマスイブには綺麗に包装したリンゴをお互いに贈り合うと言うことだ。 なぜリンゴかというと、中国語では、クリスマスイブを「平安夜 ping an ye」と言い、リンゴを「ピン果 ping
guo」と言う。つまり、一文字目が両方とも「ping」と発音が同じで、韻を踏んでおり、平和を意味しているのだそうだ。語呂合わせも此処まで来れば言うこともないが、リンゴを贈りあって楽しめるのなら、それも有りかと思いましょう。 12月26日(水) 候覚君が来てくれて、翻訳の修正と朗読をしてくれた。録音しておいて、後で何度も聞くつもりである。彼は自分から「私の発音には若干の訛があります」と言っていたが、今の私にはそれほど問題にはならないと思う。 中国での最後の洗濯をする。とは言っても洗濯機に衣類と石鹸を入れてスイッチを押すだけ。脱水が終わった衣類を自室で干すのだが、乾燥している為か一晩で殆ど乾いてしまう。 DVD映画「ウォータールー・ブリッジ」日本語題名「哀愁」を観賞。第1次世界大戦下のロンドンで、空襲の際にウォータールー橋で運命的に出会った青年将校ロイ(ロバート・テイラー)と、踊り子のマイラ(ビビアン・リー)のすれ違い悲恋を描いた古典的名作。 1953年に日本で制作された「君の名は」(岸恵子、佐田啓二主演)は、この映画のウォータールー橋を数寄屋橋に置き換えて製作されたリメイク版である。土曜日に買った5枚のDVD映画を5日間で観てしまった。中国に来てから観た映画は全部で12作になった。1枚15元だから、娯楽としても安いものである。 12月27日(木) 夕食時に、日本語教師の谷村さんから、学生の作文を添削した物を見せてもらった。殆ど日本語になっていない作文から、大分ましな日本語まで様々である。その一つ一つの文章が赤ペンで添削してある。この地道で細かい作業を見て「私には日本語教師は務まらないだろう」と思った。 私の授業は、後1日を残して予定の範囲を終了した。明日は個人的に学習した、自前のテキスト「中国語短文会話800」の中から質問をする時間にしたい。短文800の内、470までは一通り目を通してあるが、後330の短文が残っている。 これをまともに調べたのでは、とても一晩では終わらない。しかし、帰る前に疑問点だけでも解消していきたいと思い、質問したいところのピックアップに取りかかった。結果、授業開始直前まで掛かって終了し、15項目の疑問点を拾いだした。 この夜の睡眠時間は4時間余り。まだこんなエネルギーが残っていたのかと自分に驚く。しかしほんの一晩だから出来た無理であることは、十分承知しているつもりだ。 12月28日(金) 最後の授業が終わった。1時限目は、直前まで掛かって用意した15項目の質問だ。安先生は私の質問に一つずつ、的確に答えてくださった。昨晩、ちょっと無理して頑張った甲斐があり、久しぶりに充実感を味わったのでした。 午後は帰国に際しての、荷物のパッキングである。23kgのトランクが2個とリュックサック。何とか成りそうだ。と思っていた矢先に、相互学習をしていた大学4年生の王さんから、お土産が届いた。焼き物のペン立てだろうか。この様に真心を感じる物は、何としても持って帰らねばと思う。 夕食は、谷村先生の呼びかけで候覚君を交えて餃子会食。 二人にはすっかりお世話になってしまった。特に谷村先生には、私が倒れた時も病院まで付き添って頂き、感謝している。その後も、何度も声を掛けていただき、この1ヶ月半、一人で居ても寂しさを感じなくて済んだ。有り難う御座いました。 12月29日(土) 朝から雪だ。こんな時は大連行きは中止になるのが普通だが、今日は谷村先生の婚約者が日本から来ると言うことで、何としても迎えに行かざるを得ない。私は彼女へのおつき合いの気持ちが半分と、雪の大連も良いかと思い同行することにした。 AM9:00に出発した車は心配したとおり、大渋滞に巻き込まれ、大連の日航ホテルに着いたのはAM11:30であった。普通の日より1時間、余計に掛かっていた。運転手さんに負担を掛けてしまった。日航ホテルには、「気の利いたお土産品が置いて有る」と聞いて行ったのだが、その店は生憎閉店であった。 次はいつもの新華書店でDVDを物色。アメリカ映画を1枚とテレサテンのCDを購入。合わせて50元也。後は先週初めて食べて美味しかった、味千ラーメン店へ。今回はトッピングが少しだけ異なる豚骨ラーメンを注文。21元也。 美味しくはあったが先週ほどには感動しなかった。なにが違ったのだろうか。麺の量か、トッピングの違いか、こちらの体調か、よく分からない。雪で道路が渋滞しても、店内は混んでいた。 PM1:30の路線バスで帰ろうと思い切符売り場に行くと、今日の旅順新港行きの切符は、発券停止になっていた。宿舎へ帰るにはこの路線が便利なのだが、雪が影響しているのだろう。少し遠回りになるが旅順経由で帰るしかない。大連駅の反対側まで歩いて行き、旅順行きの切符を購入。7元也。遠回りして時間は掛かるが、こちらの方が料金は安い。旅順駅で乗り換えて宿舎へ。3時半に帰着。 PM5:00から、私の送別会をやってくれると言う。参加者は院長、副院長、劉先生、それに私の4人である。近くの店でシャブシャブの会食となった。「私一人の為に時間を割いてくれて申し訳ない」と思いながら参加した送別会が、こんなに不愉快なものになるとは想像だに出来なかった。 院長が他の2人の中国人を相手に延々としゃべっている。その内容は、送別会に呼んだ私とは全く関係の話だ。私に関係のない話だから通訳もない。最初の内は、こんな席でしなければならない、何か特別大事な話なんだろうと思って、辛抱していたが一向に終わらない。 しびれを切らした私が、学院の今後の予定とか、留学生の要望事項とかの話題を提供しても全くそれには乗ってこず、ますます声を張り上げてしゃべっている。傍若無人とはまさにこんな振る舞いを言うのだろう。食事も終わりに近づいた時、ついに私は言ってしまった。 「田先生、こんな事は言いたくありませんが、今日は何のために私を呼んだのですか。送別される人を差し置いて、その人と全く関係のない話を延々としているとは、失礼な話ではないですか!日本では考えられない非常識で無礼な事ですよ。こんな食事をするんだったら、宿舎で一人で食った方が余程ましだった。こんな物、美味くも何もありゃしない」と。 私の激昂に八方美人の田副院長が「江島さんのおっしゃる通りです。私も言おうと思っていた事を先に言われました。ただ院長は日本語が理解できないし・・・」と言う。「そのために通訳が出来る二人が来ているのじゃないの!」と私。やっと事情を理解した院長が「対不起:ごめんなさい」と。 どこの世界にも非常識な人間が一人や二人居るのはやむを得ない事だが、立場のある人がそれでは看過出来ない。学院の将来のためにも、誰かが注意するしかなかろうと言う気持ちもあって、敢えて言ったつもりである。普段は温厚で常識に満ちた振る舞いをしている院長だけに、そんな一面を見てしまった私の、学院に対する失望は計り知れない。 12月30日(日) 帰国の日が来た。当初、午前11時半に宿舎を出る予定であったが、昨日の雪と道路事情を考慮して早めの10時発となった。結果は、心配したほどではなく、11時半に大連空港に到着。12時半から登場手続きの開始。手荷物の重量オーバーによる追加支払いが630元也。残った人民元でお土産の甘栗を購入。 PM2:30、離陸。天気晴れ。気温高め。 PM4:30、ソウル、仁川空港に着陸。時差が1時間だから、実際の飛行時間は1時間である。仁川空港も白く雪に覆われていた。 トランジットの荷物検査では、大連空港で買ったジュースを没収された。大連では、「機内持ち込み出来ますよ」と言われたのだが、ソウルでは没収された。結局、残り最後の人民元で買った5元のオレンジ・ジュースは一口も飲めなかった。 PM7:30、ソウル離陸。予定より1時間遅れ。 PM10:00、成田空港着陸。成田空港上空で、着陸の順番待ちの為に、約20分間旋回していた。合わせて1時間20分の遅れで成田に到着。 PM11:00、妻の運転で5ヶ月ぶりの自宅に到着。佐倉の我が家は、空港に近いので本当に助かる。今朝、10時に宿舎を出てから丁度半日掛かっている(時差を含む)。直行便よりソウル経由の方が安いのだが、飛行機代を節約するのも楽ではない。 旅順便り終わり |