18. ビートルズとマルクス

 

 

私は先のバックパッカーツアーで、ビートルズとマルクスに縁のある土地を訪ねた。しかし、この時はまだビートルズとマルクスに何らかの関係があろうとは、夢想だにしては居なかった。本論に入る前に、まず、その時の旅行記を抜粋してみる。

 

 

9月16日(水)

 

 

私がリヴァプールに立ち寄ったのは、他でもない、ビートルズの匂いを感じたかったからである。彼らのCDは持っているし、歴史は何度も放送されて大体知っているし、グッズが欲しいわけでもない。ただ彼らの育った町の風を体感したかったのだ。ビートルズ・ストーリー(Beatles Story)という大きなミュージアムまで行ったが、入場料が12.50ポンド(約2000円)だと言われて入場を止めた。


    

             ビートルズ・ストーリー  



次に、彼らが無名時代から出演していた、キャヴァーン・クラブ(The Cabern Club)を目指した。マシュー通り(Mathew Street)にあると言うが、その通り自体が、普通の地図には載っていないような、狭い路地で、通りの長さも200m位しかないため、なかなか探し出せなかった。



  

               マシュー通り



行ってみると、この通りにはビートルズ関連の店が幾つもあった。中でも来て良かったと思ったのは、キャヴァーン・クラブである。現在のそれはリニューアルされた物だが、それでも地下の薄暗いクラブは、十分にビートルズ時代の雰囲気を残していた。ここを訪れることが出来て、私は満足だった。



                  

   キャヴァーン・クラブ−1        キャヴァーン・クラブ−2

 

9月27日(晴れ)


 

地下鉄を乗り継いで大英博物館へ。カール・マルクスは、大英博物館内の図書館に通って資本論を書いた。その図書館に行ってみたかったのである。大英博物館の玄関で、案内人兼警備係のような人にその旨を告げると「現在はそこで別の展示が行われており、図書館を見ることが出来ません。この展示は数年続きます」と、なんとも残念な返事。意気消沈して宿舎に戻りベッドに潜り込む。午前10時にYHAを出て、午後2時過ぎまで、4時間余りほっつき歩いた事もあり、へとへとであった。

           

             大英博物館内の閲覧室


10月1日(木)晴れ

 

 

今日は、まずカール・マルクス(Karl Marx)が住んでいたと言う家を訪ねた。地下鉄でトッテナム・コート・ロード駅Tottenham Court Road)まで行き、地図を頼りに訪ね歩く。丁度その辺りに来た時、外人さん一行に、なにやら説明しているガイドさんが居た。



「この辺に、カール・マルクスの家があると思いますが」と聞くと「そこの3階に旗が出ていますが、そこがマルクスの住んでいた所です」と教えてくれた。行って見ると、壁にマルクス(MARX)の文字が。中を覗くとレストランになっていて、若い男が居た。

 

           

             マルクスが住んでいた家−1



「こちらに、100年前、カール・マルクスが住んでいたようですが、中を見せて頂けますか」と言うと、いかにも戸惑ったように、「見るだけならどうぞ」と言って3階を案内してくれた。広い方の部屋は大きなテーブルに食器が並べてあり、いかにもレストランであった。



           

             マルクスが住んでいた家−2



「手前の狭いほうも見せてください」と言うと、「私の考えているマルクスと、あなたの言っているマルクスは、違う人だと思いますよ。私は仕事があるから、下に行かなければ」等と言い出した。私もこれ以上は粘れないと思い、彼と一緒に階下へ下りていくと、店の責任者らしき男が居た。



彼は若い方の男から事の経緯を聞いて「確かに此処は、カール・マルクスが住んでいた所です。しかし今は持ち主も変わっており、彼が住んでいた痕跡は、何も残っておりません」と言っていた。そこは、ソーホー・スクエア(Soho Square)と言う小さな公園からすぐの所で、大英博物館にも歩いて15分ぐらいの所であった。マルクスは此処から大英博物館の図書館に通っていたのだ。

 

 

          

               ソーホー・スクエア

 

 

以上が旅行記からの抜粋である。

この随筆集の主題からして、マルクスが登場することは当然だとしても、ビートルズが出てくる必然性は全く考えられなかった。多分読者諸兄も同感だと思う。

 

 

しかし、先ほどNHK・TVの録画を見ていたら、2009年のBBC制作のドキュメンタリー「クレムリンを揺るがせたビートルズ」(How the Beatles Rocked the Kremlin)を放映していた。この作品のディレクターは、ジャーナリストのレスリー・ウッドヘッド氏である。

 

 

この中で、ソビエト連邦が崩壊した今だから言えたであろう話が、数多く取材されていた。以下はその中のインタビュー集である。

 

 

1.    ビートルズは数千万人という、ソ連の若者の意識を変えた。「自分たちは、とんでもない国に住んでいる。今とは違う生き方を見付けなくてはいけない」と、気づかせたのだ。

 

 

2.    ビートルズによって全てが変わりました。暗い部屋の重い扉が開いたのです。悪の帝国を崩壊させることが出来たのは、全てビートルズのお陰です。共産主義を滅ぼし、ソ連を変えたのはゴルバチョフではありません、ビートルズですよ。彼らがきっかけとなって西側の文化が流入し、文化の革命が起こったことでソ連が崩壊したのです。鉄のカーテンに最初の風穴を開けたのはビートルズの歌です。

 

 

3.    ビートルズは、大衆そのものを脅かす危険なブルジョアと見なされていました。ビートルズの自由な精神はソ連の国内に新しい風を吹き込みました。とてつもない影響力を持っていたのです。私はビートルズの音楽を聴き、心が救われました。国家に縛られずに済んだのです。

 

 

4.            冷戦時代、ビートルズの演奏は、許されませんでした。当局がビートルズの影響を恐れて、抑圧したのです。西側の核ミサイルの驚異や、反共プロパガンダより、遙かに大きな影響をクレムリンに与えました。ビートルズというウィルスに感染した人々が、ビートルズをまねたコピーバンドを次々に作り出しました。

 

 

5.            ソ連が崩壊する前は、常に恐怖を抱えて生きていました。体制の締め付けは本当に凄まじいものでした。当局の徹底的な弾圧で、私達は好きな音楽を聴くことも出来ませんでした。人前で少しでもビートルズの事を、褒めたりしたら逮捕されていたでしょう。

 

 

6.            当局は、西側文化の汚染源としてビートルズのレコードの国内持込を禁止しました。自警団が通りをパトロールして、ロックンローラーを摘発します。髪の毛を長く伸ばしている若者は、短く剃り落とされました。空港ではレコードが違法に持ち込まれないよう警察が目を光らせていました。手荷物からビートルズのレコードを見付けると、傷を付けてダメにしました。

 

 

7.            そこでビートルズファンは、外国放送に周波数を合わせてビートルズの演奏を録音し、それを使用済みエックス線写真の、ペラペラのフィルムを使って海賊版コピーを作成しました。胸部の肋骨が写っているフィルムだったので、肋骨レコードと言っていました。当然売買は禁止されていましたが、ブラックマーケットが急成長して、そこの闇値では、1枚3ルーブル(約10円)でした。当局は、常に密告者を組織してレコードを売買した者を捕まえようとしており、見つかったら大学を退学させられました。

 

 

8.            19611962年に掛けては、明るいニュースがありました。人類初の宇宙飛行士、ユーリ・ガガーリンの誕生。ロマンに満ちたフィデル・カストロによる、キューバの共産主義革命が成功。カリスマ性のある指導者、ニキタ・フルシチョフが「20年以内に、アメリカを葬り去り、理想的な共産主義社会を確立する」と約束。我々ソ連の国民は、共産主義国家に誇りを持ち、気分を良くしていました。

 

 

9.            しかし、1964年にフルシチョフが失脚してからは様相が一変しました。ブレジネフ等による集団指導体制で、長い停滞の時代が始まったのです。ビートルズの音楽がソ連に入ってきたのは、その頃でした。ビートルズが、ソ連であれほどの現象を巻き起こしたのには、理由がありました。時代にうまく合った音楽が、完璧なタイミングで入ってきたからです。

 

 

10.政府は国民が自由を手に入れることを恐れていました。私達はビートルズが鉄のカーテンに作った、秘密の風穴から息を吸っていました。ビートルズは、まるで宗教のようでした。暗くて退屈な生活に差し込んだ一筋の明かりでした。心の中で静かに起こった神聖な革命だったのです。

 

 

11.1980年代に入ると、停滞した政治は、都会に住み、将来を約束された高学歴の若者達さえも、一世代丸ごと共産主義の母国から引き離しました。彼らは共産主義者のふりをしながら別の人間になり、別のライフスタイルを求めていたのです。

 

 

12.1985年に大統領に就任した、ゴルバチョフは次のように言いました。「ビートルズは、ソ連の若い世代に祖国とは違う世界が有り、自由があることを教えた。その思いがペレストロイカ、そして外の世界との対話へと向かわせたのだ」と。

 

 

13.2003年5月24日、ポール・マッカートニーが赤の広場に来てライブ演奏を行いました。それはまるで大規模な宗教の式典のようでした。ビートルズが大国に革命をもたらしたのです。

 

 

以上がドキュメンタリーからのインタビューである。

 

 

    

             テムズ川とロンドン・アイ

 

 

ソ連当局は、ソビエト共産主義体制を崩壊させた、ビートルズという名のウィルスの侵入と伝播を食い止めることが出来なかった。あたかも昨今の新型インフルエンザの国内侵入を空港で食い止める、所謂「水際作戦」が功を奏さなかった様に。ウィルスは電波に乗って国境を軽々と越えてきたのである。そして、その強力なウィルスは、サンクトペテルブルグ、ウクライナのキエフ、ベラルーシのミンスクへと、ソ連国内の至る所にあっという間に伝染していった。

 

 

インタビューの中では、ゴルバチョフに対する評価が極めて低いが、私の見方は少し異なる。つまり卵がふ化する時は、殻をつついて雛が外へ出て来やすくすると言われる。ゴルバチョフは、この殻をつつく役割を果たしたと思うのである。ビートルズの役割はどんなに評価しても、し過ぎることは無かろうが、このように考えればゴルバチョフにも、一定の評価を与えて良いのでは無かろうか。

 

 

「殻を突っついて割るのは今だ」と判断したこと。そして勇気を持って殻を割ったこと。民衆の機根を読み、時を選択することの難しさは、その重要さと相まって、誰にでも出来る役割ではないと思うからである。

 

 

一方、マルクスは草葉の陰で何を考えているのであろうか。ソ連の共産主義も、ビートルズも「アッシには関係のないことでござんす」と思っているのか、ソ連の共産主義の現実も、ビートルズの役割についても「そこまでは、考えが及ばなかった」と言って、幾らか責任を感じているのか、聞いてみたいものである。

 

 

しかし、どちらにしても没後100年先のビートルズと言う新型インフルエンザのことまでは、考えが及ばなかったであろう。もっとも、その前に、言論が封圧された共産主義国家の出現さえ、想定しては居なかったであろうが。

 

 

資本論では、剰余価値の生産を論ずるに当たり、その前提条件として、特殊なことは捨象し、平均化し、単純化して、社会的平均労働に還元して叙述している。したがって、音楽や絵画等の芸術の価値については全く論じられていない。言論と表現の自由が統制されていたソ連において、ビートルズの果たした役割に思いを致す時、資本論の前提条件からして、問題を孕んでいたことを認めざるを得ないのである。

 

 

マルクスは、「宗教は阿片」と切り捨て、精神的自由の重要性について、資本論では全く論じていない。その結果、国民から「言論と表現の自由」を取りあげて、規制し弾圧までして体制を維持していた国家・ソ連が、ビートルズと言う「自由の風」に吹かれて崩壊したのは、教訓的である。


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