11. カンブリア宮殿


テレビ東京(12チャンネル)をつけたらたまたま「カンブリア宮殿」をやっていた。

今日のお客さんは日本共産党の志位和夫委員長である。(1月19日)

インタビュアーの村上龍氏とのやり取りの中で、志位氏は、やおら資本論を取り出した。どこの文章を紹介するのかと思って聞き耳を立てていると、次の文を引用して、資本主義の非人間性、資本の貪欲な利殖欲を指摘した。

「“大洪水よ、我が亡きあとにきたれ!”これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。それゆえ資本は社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない」(資本論 第一巻 第三篇 第八章 労働日 第5節)

つまり、自分が儲けた後、或いは自分が死んだ後、「後は野となれ山となれ」で、労働者には何の配慮も考えないのが資本家の、資本主義国の命の性分であると言う。

正直に言うと、私はこの引用文を聞いて少々がっかりした。こんな部分はわざわざテレビで紹介するような箇所では無かろうに。マルクスで無くともこの程度のことはいくらでも言っているではないか。



しかしマルクスが言ったことが重要なことなのであろう。私は思わず40年以上前の大学での講義を思い出していた。あの時も、マルクス経済学の教授たちは「マルクスはこう言っている」と言って、マルクスの著書から引用するだけで、自分の考えは全く持たないかのようであった。あたかも、教祖マルクスに対する信仰のように感じたのは私だけであろうか。

しかし、この「後は野となれ山となれ」の性分は、資本家だけのものであろうか。残念ながら資本家だけの物ではない。どうだろう、静かに胸に手を当てて、自分を見つめたとき、資本家ではない我々にもこんな性分は無いであろうか?実は人は誰でもこんな命を持っていると仏教は教えている。従って、共産主義社会にさえなれば「誰もこんな性分を持たない」とは言えず、また形を変えて現れてくるのである。



また、マルクスが活躍していた頃の社会の実態は、確かに資本家が横暴を振るっていたかも知れない。しかし「万国の労働者よ、団結せよ!」とのマルクスの指導もあって、今や、ともすると労働者のほうが優勢になる場合がある。そのために経営者といえども地位が安泰とは言えず、常に従業員、株主、銀行、取引先、顧客等の利害関係者に気を使いながらの舵取りを、強いられているのが普通の状態である。社会は大きく変わっているのである。

                                            千畳敷カール

「カンブリア宮殿」を見ていて、もう一つ引っかかったのは、労働者が今でも搾取されている証拠として、志位氏が指摘した大企業の「内部留保」に付いてである。志位氏は大企業が派遣社員を簡単に解雇している割に「内部留保」は次のように増加しているという。

内部留保

自動車産業の内部留保 22兆円 解雇 18千人
電気         11兆円 解雇 22千人
合計         33兆円 解雇 4万人

経営者側から言えば、「内部留保」は将来の設備投資や、試験研究費のために準備しておかねばならない。そうしなければ企業の拡大発展は望めず、いずれ競争に負ける運命にある。したがって「内部留保」は、単に余った利益と言うよりも、将来出動すべく待機している資本と考えたほうが適切である。

マルクスは、彼の著書「ゴータ綱領批判」の中で、共産主義の第一段階においては、生活資料を各人に分配する前に、次のものが控除されなければならないと言っている。(マルクス・エンゲルス全集 第19巻 P.19)

「ところで、この社会的総生産物からは、次のものが控除されなければならない。

第一に、消耗された生産手段を置き換えるための補填分

第二に、生産を拡張するための追加部分

第三に、事故や天災による障害に備える予備積立または保険積立」

(他にも、第四、第五、第六とあるが、ここでは省略する)

つまり、この部分、特に「第二」の部分はまさに、資本主義社会における「内部留保」に相当する部分を意味し、それは共産主義社会になっても、必要な部分であると言っているのである。こうなると、志位氏が指摘した、内部留保は資本家が労働者を搾取して溜め込んだ不正な取り分であると言うのは、短絡的に過ぎないのではなかろうか。

実は共産主義社会になっても、必要なものは必要なのである。資本主義社会とその「生産部門」および「分配部門」を冷静に比較してみると、両者の相違は意外と小さいことに気が付くのである。

                                       千畳敷カール

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