第1部 内陸縦断編 1.ダーウィン 準備期間 ジェットスター航空が格安チケットの広告を出した。日本への就航以来、時々打ち出す激安の広告だ。今回の料金は、成田〜ケアンズの往復で8880円!「完全リタイアの小生が、これを利用しない手はない」と考えて、購入する事に。しかし、いざインターネットで購入に取り掛かると、希望日は悉く売り切れ。こうなると益々欲しくなるのが人情。「もう何時でもいいや」と発想を変えて、有効期間の最後の方から再挑戦。 帰りの席は簡単にゲット出来たが、行きの空席がなかなかヒットしない。概ね1ヶ月の旅程を考えて、その前後で入力を試みている。「やっぱりだめか」と思い始めたとき、37日の間隔を置いた所で空席にヒット!「もうこれで決定するしか有るまい」。衝動買いであり、ゲームである。其処から「座席確保決定」までの数分間が、何と長く感じられた事か。 こうして始まった今回のオーストラリア旅行。中身の予定は追々検討するしかない。 5月24日(月) 早めの夕食を済ませて、PM5:50、いつもの様に妻の運転で佐倉駅へ。PM6:11、成田空港行きのJR快速電車に乗る。対面に座っている母娘のカップルが、ハワイのガイドブックを見ている。父親は仕事かな?成田第2空港のジェットスターのカウンターで、搭乗手続きを済ませる。 両替の為、銀行の両替レート表を覗くと、オーストラリア1ドルは、買い84円、売り64円となっている。両替手数料が1ドルに対し10円も付いている。折角の円高にも拘らず、これでは円高の恩恵を受けた気がしない。トラベラーズ・チェック(T/C)の方を見ると、買いが76円プラス2%と言う事で約78円だ。まだこの方が納得できる。とりあえずT/Cを少々買っておくことにする。 PM8:20、搭乗手続きが始まり機内へ。日本航空との共同運航との事。ジェットスターの超格安航空券の為、「どんなに古い飛行機に乗るのかな」と心配していたが、どうやら杞憂だったようだ。新品のエア・バス機だ。してみると、同じ機内に、正規料金の人も居れば、超格安料金の人も居ると言う事だ。座席は、オーストラリア人を標準に作られているのか、幾分広めだと感じた。 乗り心地、スチュワーデスの応対、いずれも申し分なかったのだが、一つだけ不満が残った。それは2000円を追加して、オプションで頼んだ食事の件である。多分、今まで経験した機内食の中では最低レベルである。隣のご婦人は、おにぎりを持参して、お茶と味噌スープをサービスしてもらっていた。余程美味しそうであった。ジェットスターに乗り慣れた人なのかも知れない。 彼女は「20年前、ワーキングホリデーでオーストラリアへ行った時に、今の主人(日本人)と出会い結婚しました。今回の日本訪問は、留学説明会に現地側の受け入れ担当として来日。説明会は東京、名古屋、大阪の3箇所で行われました。東京では六本木ヒルズで行われ、約500人が集まりました。去年の参加者は少なかったが、今年はまた増えました。景気の良し悪し等によって希望者が増減します。参加者の年齢は、高校生から27歳位までです。 夫はケアンズで、日本人旅行者を空港からホテルまで、送迎する事を仕事にしております。高校生の息子が二人居て、自宅での会話は日本語ですが、兄弟同士の話は英語になっております。週1回の日本語学校ぐらいでは、日本語の読み書きまでマスターする事は難しいようです。子供たちが日本へ行って、日本の会社に就職する事は難しいと思います」と話してくれた。若い時のロマンスはともかく、子育ての時期になると、現実の生活が、どっしりと夫婦の肩にのし掛かってくるのは、何処に居ても同じ事か? 5月25日(火) 真夜中のAM1:00頃、トイレから戻って、ふと窓の外を見ると、漆黒の闇夜に、まぶしいばかりの月明かりが。目を下方に移すと、其処は海なのか、雲なのか。たぶん雲だと思うが月光に照らされて光っている。私は何度も飛行機に乗っているが、こんな光景には出会ったことがない。星の王子さまの作者「サン・テグジュペリ」はパイロットであったから、こんな光景を何度も見ていたに違いない。 ジャンボジェット機の大きな翼がゆっくりと左右に揺れて、その度に強い光を放っている月が、翼の上になったり、下になったりしている。地上からは満月の夜などに、大きな月を見る事は有るが、こんなに強い光を放つ月を見ることはない。何度かデジカメのシャッターを押したが、メカに未熟な為か、この光景を切り取る試みは成功しなかった。残念なり! AM4:35、(現地時間AM5:35)ケアンズに安着。曇り、22℃。ダーウィン行きの乗換えまで7時間有る。とりあえず空港ロビーのベンチで横になって休もう。 AM8:00、2時間ぐらい休んだかしら。珍しく何か夢を見ていたが思い出せない。ロビーの売店でホットドックとコーヒーの朝食だ。オーダーしようと思って声を掛けたら、横から日本人スタッフが出てきた。ケアンズも日本人が多そうだ。「支払いはカードでもいいですよ」と。現地の通貨を持ち合わせていない小生には助かる。 対面にある羊の毛皮製品の売店を覗くと、40歳代と思われるこの店のご婦人が、「さっきもお会いしましたね」と言う。「何処で会ったのか覚えていないが、まあいいや」時間潰しの四方山話を少々。彼女の曰く「今日のビッグ・フライト、つまり国際線の到着は、朝5時半着の成田便と、香港便とシンガポール便の3件だけ。午後1時半に最後のシンガポール便が到着するので、それが終わったらお店も閉めるの」と言う。お店の開閉は到着便次第。そして国内便の客は相手にしていない事が分かる。 「一人の旅行で、危険は感じませんか?」と言うので「今までの旅行で、危険を感じたことはないけど、オーストラリアは危険な所ですか?」と聞き返すと、「チョッと返事に困ったな」と言う顔をして「大丈夫だと思いますが、所によっては」と含みの有る返事だ。これは何を意味しているのだろうか。答えは日本に帰る頃に出るだろう。とりあえず「気をつけて行きなさい」というメッセージだと受け取る事にした。 時間が余って仕方が無いからパソコンを開く。ケアンズ空港は大きくはないが、インターネットも繋がって、時間を潰すには申し分ない環境である。パソコンに疲れて、時計を見るとAM11:30。我が家へ旅行記の第1便をメールに添付して送り、パソコンを閉じた。パソコンの持ち運びは若干煩わしいが、時間潰しにはモッテコイである。 書くことによって自分の考えも整理され、何よりも後日の思い出になる。先日NHKの「世界ふれあい街歩き」で、ニュージーランドのクライストチャーチを放映していた。そこは1年前にホームステイで4週間居たので、全部見た事の有る風景なのだが、何と言う名前であったか、たった1年で殆どの固有名詞を忘れていた。旅行記を取り出して確認した次第である。 PM12:15、ダーウィン行きのジェットスターに搭乗。此処の機体も200人乗り位の新品だ。ただ、飲み物、ビデオ等は全てオプションである。欲しい人はお金を払ってリクエストする。私は昼食を取っていなかったので、マフィンとコーヒーを頼んだ。7ドル50セント也。英語で聞かれたので英語で答えていたのだが、私のスピーキングを聞いた瞬間「あっ、日本語でいいですよ」と。 入国審査を通過する時に提出した申告書で、「何らかの食料を持っていますか」の欄は正直に「YES」としておいた。オーストラリアは、食料の持ち込みを原則として禁止しており、ガイドブックでは、梅干や味噌もいけないと書いてある。 私は今回の旅行では、少しでも料理の回数を増やしてみようと思い、若干の調味料や、プルーン、ナッツを持ち込んでいるのである。「没収されたらそれまでだ。正直に申告しないで、罰せられるよりは良いだろう」と言う考えであった。申告書の「YES」の上に大きく丸をつけられ、スーツケースを開いてチェックされたが、結果は:オールセーフ!「ヤレヤレ」と言う思いでした。 いよいよ空港を出て、オーストラリアの町を歩くにあたり、現金を持たないのはいかにも心配である。空港の両替所で、トラベラーズ・チェックを現金に換えてくれるように頼むと、「コンピューターが動かないから両替が出来ない。キャッシュなら出来る」という。変な話だなと思いながらも、ほかに手立てが無いから頼むより仕方が無い。レートは成田空港と同様、トラベラーズ・チェックに比べると随分悪い。 渡された計算書を見ると、1ドル85円で計算した上に、10ドルの手数料を加算して有る。結局1ドル93円にもなっている。現在の為替レートは、1ドル75円前後のはずだから、殆ど詐欺に近いレートだ。「これなら日本で少しでも両替して置けば良かった」と悔やむこと頻りなり。それにしてもUSドルやユーロに比べて、驚くほど手数料が高いのはどういう訳だろう。 PM4:00、20人を乗せた、市内までのシャトルバスで、今夜から3連泊する予定のエルケス・バックパッカーズ・ダーウィン(Elkes Backpackers Darwin)へ向かう。気温31度の中で、20人分のスーツケースをキャリングカーに詰め込んだ運転手は、既に汗ビッショリだ。此処ダーウィンの今日は、気温もさることながら湿度が高い。日本の最も蒸し暑い真夏に似ている。途中2件のホテルに客を降ろし、PM4:30頃、3件目に私が降りるホステルの前に着いた。13ドル也。 ユースホステルの2階ベランダ−1 受付でチェックイン。家を出る前に、インターネットで予約済みのホステルを確認すると、そこには、 @シャトルバスで空港から来た人は、ホステルが7ドル負担します。 AYHA会員は1割ディスカウントします。 と、書いてあった。その件を受付で確認すると、7ドル負担の件はすぐに認めてくれた。 しかし、1割ディスカウントの件は、「直接このホステルに申し込んだ場合であって、私のように、ホステル協会を通して申し込んだ人は、それに該当しない」と言われてしまった。インターネットで予約する時に、そんなことまで考えてはいません。残念ながら、1割ディスカウントの恩恵に浴することは出来なかった。 割り当てられた部屋は男性だけの4人部屋。クーラーが24時間付けっぱなしで、ギンギンに冷えている。寝ている時が心配だ。荷物を降ろすと、夕食の買出しに出向いた。10分ほど歩いた所にある、大きなスーパーマーケットである。水、牛乳、ビーフステーキ用の肉、ジャガイモ、食パン、バナナ、リンゴ、シリアル、野菜等、定番の食材だ。 今夜の料理は、ビーフステーキとジャガイモと野菜サラダだ。キッチンが狭く、コンロの火力が弱かったので、料理に取り掛かるのは順番待ちになったが、何とか仕上げた。日本から持ち込んだ、塩・コショウ・オリーブオイル・醤油等のお陰で、まずまずのお味でした。 ユースホステルの2階ベランダ−2 食事中、ニュージーランドから来たと言う、小生と同年配の男性が「ニュージーランドには多くの日本人が来るが、彼らは自分の国の歴史を殆ど知らない。第2次世界大戦に於いて、日本がどれ程オーストラリアを攻撃して、被害を与えたか全く知らない。学校でも学んでいないようだ。こちらへ来てその話を聞き、書物を開くとそれが事実である事を知って、ショックを受けている」等と話していた。 チョッと癖の有る発音で、聞き取りにくかったが、話している内容は事実だから、日本人としては耳が痛かった。今日は、長い1日だった事もあり、疲れていたので、シャワーを浴びて早めにベッドで横になった。 5月26日(水) 案じていた通り、夕べは寒かった。クーラーが付けっぱなしだ。受付の人に言うと「涼しい方が好きな人も居ますから」と言いながら、毛布を出してくれた。これがあれば今夜は大丈夫だろう。昨夜は早めに横になったのに、今朝はAM7:30迄寝ていた所を考えると、やはり疲れていたのかな? 洗顔してからキッチンへ行くと、朝食の品々が用意されていた。これなら自分で用意する必要は無かった。一言聞いておけば良かったのに、朝食は付いてない物と勝手に思い込んでいたのだ。一言声を掛けることの重要性を再認識した次第。但し、ホステルで用意されているのは、最低限度の物だから、ジャムや、コーヒー、牛乳などは、自分で用意した物の方が良質のようだ。その辺りで自分の行為を納得させる事にしました。 今日の予定は、漠然と市内見学にしてある。所謂予備日、調整日である。アドベンチャーツアーが始まる明後日までの準備期間である。やって置かねばならないことは、旅行代理店でツアー参加の確認と、銀行での両替だけである。朝食後、すぐに外出する気にならないので、談話室でパソコン叩く。旅行日記は書かないで居るとすぐに溜まる。 此処のホステルはインターネットの設備が十分ではなく、外付けの記憶装置からデータを取り込む機能がついていない。従って私が書き溜めている旅日記を、メールに添付して送れない。暫く日記を書いて、一段落した所で時計を見ると12時を回っていた。そろそろ昼食がてら、外出する事にする。 受付に行って「ツアーの確認をしたいのですが」と言うと、「何処の旅行会社ですか?其処なら10分ほど歩いた所にあるから直接行った方がいいよ」と言って地図を広げ、その場所を教えてくれた。昨日買い物をしたスーパーマーケットの近くであった。受付の女性は「昔、大阪で5年間、英語の教師をしていました。日本人に英語を教える事は非常に難しく、ストレスが溜まりました」と明るく言う。正直に自分の考えを言う人である。 旅行代理店に行く途中で見かけたANZ(オーストラリア・ニュージーランド)銀行に立ち寄った。窓口で「トラベラーズ・チェック(T/C)を両替したいのですが」と言うと「7ドルの手数料が掛かります」と言う。「7ドルの手数料ですか?」と確認すると、隣に座っていた先輩格の女性銀行員が、「手数料は要らないのよ」とささやいている。そして両替の仕方を教えている。 サインをパスポートと照合し、パスポートナンバーをT/Cに控え、一枚ずつ機械にかけている。紛失届けが出ていないかをチェックしているのであろう。若い方の担当者は新米のようである。渡されたキャッシュは手数料無しの額であった。 成田空港でT/Cを購入した時は、2%の手数料を加えて1ドル78円であったから、キャッシュに両替してこなくて正解だった。キャッシュを購入する場合は1ドル83円となっていたのだから。それにしても昨日のダーウィン空港での両替はひどかった。1ドル93円とは何事だ!! 昨日は負け、今日は勝ち。毎日が負けたり勝ったりの人生は、やはり「ゲーム」として楽しむのがいいのかも。欧米人は、人生を語る時に、良く「ゲーム」だ、「カード」だと言う。今日は、勝って気分良く旅行代理店へ乗り込む? ダーウィンは旅行代理店が多い。「町全体が旅行者で成り立っているのではないか」と思うほどである。その中の1軒が目的の旅行代理店。明後日からのツアー参加と、寝袋のレンタルを確認する。担当の女性は、要領を得ず、ここでも先輩格の女性に、1つ1つ指示を仰いでいる。 程なく確認は終了したが、そこで念を押されたのが「最初の3日間は、10Kg以内の荷物にしてください。他の荷物はホステルに預けていく事。3日後に此処へ戻ってきますから、その時に残りの荷物をピックアップしてください」と言う。小さな4輪駆動車で、道の悪い所を走る都合でそうなるらしい。細々した事を電話でやり取りする事は難しく、直接代理店に来て良かったと思う。 帰り際に、ヌードルを食べられる店を訪ねると、近くのベトナム料理店を教えてくれた。行って食べたが、味は今一。例のベトナムの味でした。これで今日の予定は終了。帰りにスーパーへ寄って夕食の食材を調達すればよい。まだ時間があるので、港の方を歩いてみる事に。気温と湿度が高いので、少し歩くとすぐ汗が出てくる。ボトルの水を飲みながら歩いたが、特に感動する光景には出会わなかった。
バイセンテニアル公園よりダーウィン港を望む 1箇所だけ、バイセンテニアル公園(Bicentennial Park)の端に、第1次世界大戦と第2次世界大戦で奮闘して犠牲になり、国を守った人を顕彰したアンザック(ANZAC)の碑が建っていた。此処には「日本軍がパールハーバーを攻撃した2ヵ月後に、ダーウィンを攻撃し、多くの犠牲者を出した」ことが書かれている。 アンザックの碑(ダーウィン) 日本軍による「ダーウィン空襲」は、1942年2月19日の第1回目以降1943年11月12日まで計64回行なわれ、300名近い人命が失われた。私は残念ながらこの事に付いて何も知らない。被害者はそれを忘れない為に記念碑を残しているが、加害者はそれを忘れたがっている。 日本が広島・長崎の被害について声高に言うのなら、それと同じくらいの音量でアジア、太平洋の国々に与えた被害についても言明しなければバランスは取れない。被害者との認識の差は大きくなるばかりで、日本人がそのことを忘れて、或いは知らずにノー天気で旅行などしていると、「日本の教育はどうなっているのだ」と言われる。 歴史の教科書に全てを網羅する事が不可能なら、せめて副読本として、第2次大戦の出来事を1冊の本にまとめて、学生に配るくらいの事はすべきではなかろうか。ドイツはどれ程のことを学生に教えているのだろうか、知りたいと思う。 さて「図書館に行くとインターネットが無料で出来る」と聞いていた事を思い出し、途中から、目標が図書館になった。地図で確認すると、町外れにある事が分かる。海を眺めながら海岸線に沿って歩き、図書館を目指す。途中で3人に道を尋ねたが、的確に教えてくれる人は少ない事を感じた。 何とか探し当てて玄関を入っていくと、空港並みのセキュリティ・チェックだ。そこを通過して中に入ると、確かにパソコンを叩いている人が大勢居た。しかし、備え付けのパソコンを使うには使用料が必要で、パソコンを持参すれば、無料でインターネットが出来る事がわかった。とりあえず今日のところは様子を見るだけで終りにする。 帰りの途中で、ツアーの3日後に、ダーウィンへ戻ってきた時に、泊まる事になっているキャベナー(Cavenagh)・バックパッカーズ・ホステルの場所を確認しておく事に。それは図書館から徒歩で5分ほどの所にあった。大きなホテル兼ホステルで、プールやレストランまで備えており、多くの客で賑わっていた。 更に歩いていると、昨日買い物に来たスーパーが目に入って来た。「今日は何を料理しようか」と思案しながら広い店内を歩く。「出来れば魚にしたい」と魚のコーナーに行くと、様々な魚貝類をミックスした商品が目に付いた。 店員に、「一人分だけ売ってもらえますか?」と聞くと、「問題ありませんよ。これぐらいでいいですか」と言いながら分けてくれた。今日の料理はこれで決まりだ。あとはキャベツ入りのインスタントラーメンと特大のジャガイモ。「少し食いすぎかな、でも他の人に分けてあげてもいいし」と思い購入。 ホステルへ戻ると早速夕飯の仕度だ。シーフードは、フライパンにオリーブオイルを敷いて、塩コショウで味付け、食べる時に醤油を少々。イカ・海老・鮭・ムール貝・白身魚等がミックスされたシーフード料理は、ベリーグッドでした。ラーメンと特大のジャガイモも結局一人で食べる事に。明らかに食べすぎだが、捨てるには勿体無くて、そのまま胃袋へ。 このまま横になりたい気分であったがそうは行かず、談話室でパソコンを少々。部屋に引き上げようとすると、昨日知り合った20歳代のオランダ人女性と、ドイツ人女性が手招きして呼んでいる。「少し会話に加わって行かないか」と言う事らしい。「今日は何をして過ごしましたか?私たちはこれからパブに行きますが、良かったらいっしょに行きませんか?」と言う。 「若い人はこれから一日が始まるのでしょうが、私にはそんなエネルギーは残っていませんので」と言うと、「ストリップショーもありますよ」と言う。「あなたがストリップになるのなら見に行きますが」と応じると、さすがに「それは有りません」と笑っていた。 そこに50歳位の男性が、ビールの小瓶を抱えて参加してきた。皆に1本ずつ振舞いながら、彼は「メルボルン在住のオーストラリア人。富士通の仕事でダーウィン支店に来ている。この後、最短で3ヶ月は滞在する予定です」と言う。「我が家のパソコンは15年前からずっと富士通ですよ」と言うと、更に笑顔が緩んでいた。小生は、小瓶のビールを飲み干した所で、お礼を言って引き上げた。 5月27日(木) 毛布を借りたお陰で温かく寝ることが出来た。今朝は8時の起床だ。私が起きた時には相部屋の人はもう居ない。多分ワーキングホリデーとかで、何処かで仕事をしているのであろう。帰ってくるのも遅いのでどんな人が相部屋に居るのか分からない。ベッドが1つ空いているので私を含めて3人居るはずだが。 今朝は結構強い雨だ。「良く降りますね」と言うと、「2ヶ月前の雨季に比べれば少ないよ。その時は回りが何も見えなくなるんだ」と青年が言っていた。ここに居る青年の多くがワーキングホリデーで来ており、様々の仕事をしながら1年間を過ごしている。あるドイツ人青年が「最近はドイツ人が多すぎて、オーストラリアへの、ワーキングホリデーの許可が制限されるようだ」と言っていた。ちなみにドイツ人だけで、種々合わせると200万人も来ているそうだ。 シリアルと食パンの朝食後、休憩がてら若干のパソコン。明日、早朝6:30のチェックアウトの件で受付に行くと、大阪に5年間居たと言うご婦人が、相談に乗ってくれた。彼女は「日本に居た時、北海道から沖縄まで40日間掛けて旅行しました。しかし、あなたがこれから行くダーウィンからメルボルンのコースは旅行した事が無いの」と言う。 お互いに自分の国の事は案外知らないのが現実かもしれない。「近い所は何時でも行ける」と言う安心感があって、いつまでも行かずに居る。私の東京見物などはその典型かもしれない。30年近く東京まで通勤していても、東京の事は殆ど知らない。 暫く受付で懇談していると、ドイツ人青年が来て「これから図書館に行く」と言うので、一緒に行くことにした。その途中にあるオッフィスで、彼らは税金の還付を申請しようとしている。聞くと「ワーキングホリデーで働いた中から納めた税金を還付してもらう。オーストラリア人ではないから、収める必要がないのだ。3000ドルぐらいは戻るはずだ」と言う。さすがにドイツ人。しっかりしている! 国立図書館に入って持参のパソコンを開くと、インターネットが可能になった。確かに無料だ。但し無制限ではなく、3時間までと言う時間制限があった。私はメールをチェックして、(とは言ってもジャンクメールが殆どだが)少し書き溜めた旅行記を自宅に送った。 帰りがけに、昨日のシーフード・ミックスが美味しかったので、今日の夕食も、もう一度同じ物を料理しようと思い、同じスーパーマーケットに立ち寄った。「一人分を下さい」と言うと「これ位で良いですか」と言ってはかりに載せ、3ドルの値札が付けられた。後は買い置きのキャベツ・ラーメンと食パンだ。 熱帯雨林の中で、熱いラーメンを食べる事は、格闘技に近い。汗が滴り落ち、容赦なく目の中に入ってくるのであります。しかしシーフードは確かに美味しい。美味しいだけではなく胃にも優しいような気がする。2日続けて堪能しました。 今夜は近くのミンディル・ビーチ(Mindil Beach)で、木曜日恒例のサンセット・マーケット(Sunset Market)が催されるという。「PM5:00から一緒に行きましょう」と言うので時計を見ると、私の時計と相棒の時計が30分違っている。私は「先日修理に出したばかりの時計が、もう狂い始めたのかな」と一瞬ドキッとした。 しかし、そばで会話のやり取りを聞いていた受付嬢が、「あなたは此処に来る前は、何処に居ましたか?」と聞くので「ケアンズから来ました」と言うと「ケアンズとダーウィンとでは30分の時差があります」と言う。「そういう事だったのか。」私の時計が壊れていたのではない事が分かってホッとした。 しかし1つの国の中で、30分の時差を設けている国は、珍しいのではないだろうか。たいていは1時間刻みのはずである。私は、初めてのことに遭遇して大いに戸惑った。そして、明朝はアドベンチュアー・ツアーでAM6:30の待ち合わせになっている。今日気が付いて本当に良かった。 それにしても、この受付嬢、良く気が付いてくれた。「何処から来ているの」と聞くと「スウェーデンから来ました」と言う。「あなたのように美人で可愛い人は、何処に行っても受付の仕事が出来るでしょう」と言うと、にっこりうなずいて「シドニーでも受付をやっていました。英語は得意だし」と言って否定はしなかった。 「ご両親の仕事は?」「父がエンジニアで、母は看護婦です」「将来の希望は?」「ワーキングホリデーから戻ったら大学へ行って、キャリア・アップできる仕事に就きたいです」「看護婦は嫌なの?」「悪くは無いけど、母のように、1箇所でずーっと同じ仕事をする事は考えていません」と言う。金髪、色白で可愛い24歳の受付け嬢でした。 夕食後、サンセット・マーケットに行ってみた。それはホステルから30分ほど歩いた所で行われていた。公園とビーチに挟まれた場所に、沢山の屋台が出て、音楽の演奏があり、多くの人で賑わっていた。一種のお祭りだ。アボリジニの楽器と思われる、穴の空いた太い木(ディジュリドゥ・Didgeridoo)を吹いて素晴らしい音を出し、ドラムと競演していた事を除くと、特別感心するものは無かった。 名物のサンセットは、水平線に大きな雲がかかっていて、感動する所までは行きませんでした。 ミンディル・ビーチのサンセット
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