5.クォルン 6月8日(火) AM4:30、昨夜早く寝た為か早く目を覚まし、室内も寒くなさそうだったので起床して、パソコンに向かった。この時になって、前日の朝、キャンプ場のテントの中に、アダプターを忘れてきた事に気が付いたのである。あのアダプターがないと、パソコンだけでなく、カメラも携帯電話の充電も出来ない。万事休す!アデレードに着くまで我慢するしかないと言うのが大方の見方であった。 AM8:00、朝食。お決まりのシリアルと食パン。 AM9:00、洞窟ホステルを出発。とは言ってもすぐ近所にある、ジョセフィンズ・ギャラリー(Josephine’s Gallery)へ。此処は爺さん個人の経営による店で、店内にはアボリジニ関連の絵画や、楽器のディジュリドゥー(Didgeridoo)、そしてオパール商品が陳列されており、中庭にはカンガルーが6〜7匹飼われていた。 ジョセフィンズ・ギャラリー 此処のカンガルーは「交通事故等で怪我をしたものや、親が居ないものが持ち込まれた」と言う。爺さんは牛乳瓶からミルクを与えていた。われらのガイドも手馴れているようで、横に並んでミルクを与えていた。やがて布袋に入れた赤ちゃんカンガルーを家の中から連れて来て、彼らにもミルクを与えていた。元気に飲む子も居れば、あまり飲まない子も居た。 ミルクを飲むカンガルー また楽器のディジュリドゥーが20本ほど置いてあり、自ら吹いて音色を聞かせてくれた。この楽器の穴は、木の中を白アリが食い荒らして出来た物だから、一本として同じ物はない。太さも長さも1本1本全部異なる。従って音色も千差万別で複雑な音が出る。「6年前のコンクールでは、日本人が優勝してアボリジニが2位であった。その日本人は(ジャポリジニ)と言われて有名になった」と爺さんが言う。AM10:30、ジョセフィンズ・ギャラリーの爺さんに別れを告げた。 PM13:15、グレンダンボ(Glendambo)到着。ガソリンスタンドの敷地内にあるキャンピング設備で、またまたラッピングの昼食。野菜サラダと冷たい鶏肉のスティックでは食欲減退である。しかし探検家のスチュアートのことを考えれば、そんなことも言っていられない。水や食料を十分に積んで、バスで移動しているのだ。スチュアートは馬とラクダで歩いたのだから。 ガソリンスタンド(グレダンボ) PM14:15発。この辺りは潅木も生えていない。360度の地平線を見ていると、まるで海の中を走っているような感覚に陥る。こういう所は方向を見失わないだけでも大変だろう。勿論スチュアートだって羅針盤は持っていたろうが、方向音痴の私など、こんな所を歩くなんて想像も出来ない。 PM15:00、砂漠に突然、大きな湖が出現した。ハート湖(Lake Hart)と言う塩水湖だ。 ハート湖 岸辺まで歩いていくと、砂の上に塩が白く浮いている。少し指でなめてみると確かに塩辛い。昔、この辺は海だったのである。ガイドが「先週来た時は、干上がっていた」と言う。雨が少ししか降らなくとも、標高がマイナスで高低差の少ない平原では、回りに降った水が全部、少しでも低い所に集まってくるのだ。 塩が堆積したハート湖 地図を良く見ると南オーストラリアには、この種の湖が沢山ある事が分かる。死海に行った事があるという、イギリス人のマットに、「イスラエルの死海と比べて、どちらが塩分の濃度が高いかな」と聞くと、「死海の方です」とハッキリ言った。此処でも十分に塩分は強いのだが。 駐車場に泊まっているバスと湖の間を、ザ・ガン(The Ghan)のレールが走っている。殆どスチュアート・ハイウェイと並行して走っているのに、今日まで一度も列車に出会わないのは不思議だなと思っていると、ザ・ガンは1週間に1〜2本しか走っていないそうだ。それでは出会わないのも無理からぬ事。それだけ利用者が少ないわけで、恐らく利用者は観光客だけではないだろうか。 ザ・ガンのレール ザ・ガンは南のアデレードからアリス・スプリングスを経由して、ダーウィンを結ぶ長距離旅客列車である。1878年に着工し、何度かの中断を経て新ルートで完成したのは、2003年10月のことである。ザ・ガンの名前の由来はつぎのとおりである。内陸探査時代にアフガニスタンから、多くのラクダとラクダ使いを連れて来て働いてもらった。当時の立役者にちなみ、最初は「アフガン・エキスプレス Afghan Express」と名付けられたが、後に「アフガン」の「ガン」のみを残し「ザ・ガン」となった。これもオーストラリア歴史の一幕である。 PM15:40、ハート湖を出発。あっと言う間に湖は見えなくなり、再び原野の中をひた走る。 PM16:10、ガソリンスタンドのピンバ(Pimba)で休憩した後、ポート・アガスタ(Port Augusta)を目指す。TVのアナウンサーの発音では「ポータガスタ」と聞こえる。 ガソリンスタンド(ピンバ) 地名は1848年〜54年まで、南オーストラリア州知事を務めた、サー・ヘンリー・エドワード・フォックス・ヤング(Sir Henry Edward Fox Young)の妻レディ・アガスタ・ソフィア・ヤング(Lady Augusta Sophia Young)にちなんで付けられた。 この街はオーストラリア大陸の南岸で、最初に耳にした港町である。さすがに港町だけあって道路も広く、街明かりも多くなって、都会に来たなと言う雰囲気だ。ツアーのバスはこの街に止まることなく、一路今夜の宿舎があるクウォルン(Quorn)を目指す。クウォルンの街には旧路線の「ザ・ガン」鉄道が残っており、今も運行している。そしてこの街はフリンダース山脈国立公園(Flinders Ranges National Park)への玄関口である。 PM19:00、アドベンチュアー・ツアー所有のホステル、クウォルン・ミル(The Quorn Mill)に到着。此処は昔、製粉工場で栄えた、小さいが美しい街の一角で、近年それを買い取ってホステルに改造したと言う。なかなかオシャレに出来ていて、居心地の良い宿舎である。65歳だと言う管理人(ロスコウさん)が何かと面倒を見てくれる。 クウォルン・ミル この日の夕食は、肉とソーセージのバーベキューであったが、ダイニングでロウソクをつけ、ワインのボトルをあけて、ムード一杯のディナーに成った。同じバーベキューでも露天とオシャレなダイニングとでは、随分気分が違って来るものだ。 ロスコウさんも我々と一緒のテーブルで食事をして、語らいの中に混じっていた。彼は「3年前に2ヵ月半、日本に来た事がある」と言い、とても日本びいきであった。私が振舞った玄米茶を、「とても美味しい」と言って喜んでくれた。ただ彼は65歳とは言うが、70歳は超えている様に見えた事が心配である。 PM21:30、談話室に移ってアボリジニの映画を見る。これはある学者が、アボリジニの生態を、学問的に調査した時の記録映画で、貴重なフィルムと思われた。私は疲れと少しのワインで眠気の方が勝り、最後まできちんと見られなかったのは残念でした。PM23:00、就寝。 6月9日(水) AM7:00、起床。AM8:00、クウォルンを発ち、ホーカー(Hawker)を目指す。「百聞は一見に如かず」と言うが、オーストラリアに来て様々の顔を見ることが出来た事は良かった。日本を語るのに「富士山と芸者の国」式の認識で終わっている外国人が多いと言うが、オーストラリアへ来る前の私は、それと同じ認識で居たことを感じるのである。つまり「エアーズ・ロックと羊の国」式である。大体この国に来て、今まで羊を一匹も見ていない。何処に行っても羊がいると思っていたから、それだけでも認識が間違っていたわけだ。 AM8:40、カンヤカ牧場屋敷(Kanyaka Homestead)に到着。開拓時代に70家族の羊牧場として栄えた所だ。今はその大きな屋敷が廃墟となって、形跡だけが残っている。1851年から1881年まで30年間続いた羊牧場で、1864年には41,000頭いた羊が、3年間の干ばつで、20,000万頭が死んだと言う。 カンヤカ牧場屋敷跡
やがて牧場主は此処を引き払った。開拓時代の羊飼いの重みを感じることが出来る屋敷跡ではあった。今日になって初めて何頭かの羊を見かけた。それもパラパラと。とても来る前の想像とは違い、私自身、戸惑いを隠せない。 AM9:30、ユーランブラ洞窟(Yourambulla Caves)を見学。 ユーランブラ洞窟 此処にはアボリジニが残した岩絵があった。今はアボリジニの姿は無い。西洋人が入植してきた所は、多くの争いの後アボリジニは抹殺されてきた。崖に追いつめて、大量に虐殺するような事もあったらしい。オーストラリアにおけるアボリジニの「3分の2」は言葉と共にその文化も既に消滅していると言う。アボリジニが残っているのは、西洋人にとって、開拓が難しかった所だけでは無かろうか。 ユーランブラ洞窟の岩絵 この辺には野生のワラビーの姿が沢山見られる。近づくと逃げて行くので撮影しにくい。まれに大きなカンガルーの姿も見られる。またこの辺りは、ガイドのショーンが小さい頃に暮らした所だと言う。山に囲まれた美しい田舎である。今の季節は、一日の中でも、日が昇るとカーッと暑くなり、着ている物を1枚、2枚と脱ぐ事になるが、日没と共にキューと寒くなり、慌てて着込む。 ホーカーの町 AM10:30、ホーカー(Hawker)着。綺麗な田舎町だ。ホーカーはポート・アガスタから100km北方に位置し、フリンダース山脈国立公園のハブになっている。1956年までは、鉄道が走っていた。もしやと思って入った店でアダプターを売っていた!6月7日に忘れてきて、大きな気がかりになっていたが、これでその心配から開放された。 アダプターは、失ってその重要さに気が付いた物の一つである。「アデレードまでは手に入らない」と諦めていたが、意外と早く手に入った。ダンに見せると「アメリカと日本は同じ形なの?それなら僕がスペアーを持っていたのに」と。気が付くのが遅すぎるが、心配してくれるだけでも嬉しいよ。 「この街では一軒の美術店がお勧めである」とガイドのショ−ンが言う。覗いてみると確かに趣のある美術店であった。趣味の良い絵を集めて展示していた。こんなに小さな町には珍しいのではなかろうか。暫く見ていると、奥の部屋は特別の展示場になっており、閲覧料が5ドルだと言う。 店主が「もし気に入らなかったら5ドル返金します」と言う。其処まで言うならと期待半分で覗いてみた。それは確かに見応えのある風景画であった。自分が部屋の真ん中に立つと、円形の壁には360度の風景画(Wilpena Panorama)が展開されていた。素晴らしい! 風景画(ジェフ・モーガン作) この絵は、ウエルピーナ・パウンド(Wilpena Pound)の最も高い場所であるSt.Mary’s山の頂上(標高1170m)からの景色である。ウェルピーナ・パウンドは自然の円形闘技場の形をしている。作者はジェフ・モーガン(Jeff Morgan)と言う人だ。 風景画をバックに 何処の国の、何時頃の人だろうと思いながら店から出てくると、ショーンが誰かと親しげに話をしている。誰だろうと思っていると「彼がジェフ・モーガンだよ」とダンが言う。「エッ!あの作品を書いた人はこの街に居て、あんなに若いのか」。見た所まだ50歳位である。 PM12:30、ホーカーから約50km北に行った、ウェルピーナ・パウンドのキャンプ場でランチ。ここは、フリンダース山脈国立公園の中にある広いキャンプ場で、幾つものテントや炊事場が用意されている。 キャンプ場(ウェルピーナ・パウンド)−1 管理事務所へ行って何処を使って良いかの許可は受ける物の、ガスや水道の使用料を払っている様子は無い。その点をガイドに聞いてみると「さあ、どうなっているのでしょう」と頼りの無い返事。恐らく公的機関で賄われているのであろう。 キャンプ場(ウェルピーナ・パウンド)−2 PM13:30から、此処の綺麗な森の中をハイキング。途中、多くのワラビーやオーストラリア固有の珍しい色の小鳥を目撃する。 子供がお腹に! また、ある種の花に触ると、指に蜜(ネクター、Nectar)が付いて来た。舐めてみると甘い。ハイキングコースは森の奥へ何処までも続いている。 森の奥へ(ウェルピーナ・パウンド) そして、2時間ほど歩いた所に、堅固に造られた建物があった。此処もその昔、羊で成功した人が住んでいた家で、山に囲まれたこの一帯には、12万頭の羊がいたという。確かに昔は沢山の羊があちこちに居たようだ。しかし、今はここも廃墟になっている。戻りは道草をせず、しかも下り坂と言う事で、1時間ほどでキャンプ場に帰り着いた。3時間のハイキングであった。 廃屋(ウェルピーナ・パウンド) 所謂ドッグ・フェンス(ディンゴ・フェンスとも言う)が何キロメートルにもわたって、クーバー・ペディ(Coober Pedy)の北に張られたのは、羊をディンゴーから守る為であった。ドッグ・フェンスはオーストラリアの牧畜業の発展に伴い、1880年代に作られ始め、1885年には、ほぼ現状の状態が完成した。その長さは延べ5千数百kmにも及び、万里の長城にも比べられる。 PM18:15、前日泊まったホステル、クォルン・ミル(The Quorn Mill)に帰ってきた。2連泊である。今日の夕食はカレーライスとは言うが、日本の味とは大分異なり、何処と無くパンチの無い、薄味のごった煮をライスにかけて食べただけ。明朝も早い出発と言う事で、今夜は夕食が終わったら早めに寝た。それでも就寝はPM10:00を回っていた。 6月10日(木) AM5:30、起床。喉が痛い!昨夜来、つばを飲み込む時、食道がヒリヒリする。何が原因だろう。先日、中学校の同級生が、喉頭ガンで死んだ。私にも終に年貢の納め時が来たのか。いつも通りの朝食を済ませて、AM6:30、まだ暗い中、ホステルを出発。今日はクォルンの宿泊所からやや近くの「ダッチマンズ・ステルン(The Dutchmans Stern)」に登ると言う。 山の名前の由来は、断崖絶壁がオランダ船の船尾(Stern)に似た形をしている所から来ている。AM7:00に登山を開始。早朝の登山の為か、身体がまだ起きてない様な感じがする。普段よりよろけ方が多い。疲れているのかもしれない。この日も多くの野生のワラビーを目撃した。もう珍しくは無くなった。 ダッチマンズ・ステルンに登る AM9:00、ダッチマンズ・ステルンの頂上に立つ。 ダッチマンズ・ステルンの頂上 丁度その時、太陽の光の輪の中に自分の影が入っている現象が現れた。この現象をなんと言うのであろう。誰にとっても、自分の影が日輪の中にある。私も初めての経験である。良くイエス・キリストが光に囲まれたような絵を見かけるが、丁度そんな感じである。「いよいよ私も・・・・・?」 日輪の中に自分の影が! AM10:00、ホステルに戻り、荷物を車に積んで出発。 PM13:00、クレア(Clare)と言う小さな町に到着。外は寒い。今日のランチはこの町のベイカリー店で、「各自が好きな物を頼んで食べてよい」と言う。私はクロワッサン・サンドとコーヒーを頼んだ。食後100mも歩くと終わってしまうような小さな街をぶらつき、PM14:00、クレアの街を出発した。ポート・アガスタからアデレード(Adelaide)迄は、スチュアート・ハイウェイではなく、旧道を走っている。「その方が景色がよいから」と言うショーンの配慮である。 クレアの町 東ドイツのニコルは助手席に陣取って、運転手と何やら快活に話している。私と話している時でも、「えっ、そんな単語も知らないの」と思うことがあるのに、リスニング、スピーキングはネイティブ並だ。だからそんなに難しい単語は使っていないと思うのだが、ナチュラルスピードになると、それが私には聞き取れない。何とか早い会話を聞き取れるようになりたいものだ。 此処まで来ると、遠くの地平線まで人の手が入ったような牧草地が広がってきた。或いは小麦でも刈り取った後であろうか。オーストラリアの今は冬だ。所々に羊を見かける。24人乗りのバスに5人だけ乗ったツアーは、いよいよ終わりに近付いて来た。 PM15:20、ゴウラー(Gawler)の町を通過。すっかり郊外の様相を呈して来た。2車線になり、エリザベス(Elizabeth)の町まで10kmの地点だ。エリザベスまで来ると3車線になった。ニュージーランドのクライストチャーチに似た雰囲気だ。オーストラリアでも最もイギリスの趣を持った街づくりをした所だと言う。大都市は何処も港町だ。トヨタ、日産、ホンダ、三菱等の日本車が沢山走っている。 PM16:00、ついにアデレード(Adelaide)に入る。川を渡ると、植物園、教会、博物館、議事堂、公園、ヒルトン・ホテル、市電と一気に都会の景色になり、人の往来が急に多くなった。久しぶりに都会に来た私には、銀座か丸ビルを思い出すような光景である。 PM16:30、ツアーもついに解散。ドライバーのショーンに別れを告げて、今夜の宿泊先へ向かう。5人のうちダンだけがホテルで、他の4人は同じYHAであった。そしてこの後アデレードからメルボルンまでは私一人がツアーを継続し、他の3人は此処でお仕舞い。 チェックイン、シャワー、洗濯、メールチェックと一連の仕事を済ませる。さすがに都会とあって、大きなユースホステルである。トイレにはさりげなくコンドームの自動販売機が設置されていた。2ドルだ。これだけ若者が大勢居ると、時には必要な事態になる事があるのかも。 PM19:00、夕食は、地図を片手に、スーパーマーケット・コールズまで買出しに行き、若干の料理を。初めての街で夜の買い物は「道に迷いはしないか」と不安である。今夜の部屋には、ツアー仲間のマットの他に、東京大学哲学科2年生の木村君が居る。彼は、「ワーキングホリデーで来ており、現在シェアー・ルームを物色中だ」と言う。懇談中も彼の眼差しは、いつも中空を見ていて物を見ていない。どんな哲学者になるのか楽しみではある。PM21:00就寝。 |