4.ウルル 6月5日(土) AM4:40、起床。洗顔・朝食・チェックアウトを30分間で済ませ、ロビーで待っているとドライバー兼ガイドのショーン(Sean)が、元気にやって来た。彼はアデレード在住の40歳。丁度、仕事に油が乗っている年頃だ。「今朝はAM2:45に起床しました!」と言う。思い出を刻んだアリス・スプリングス、それと3泊したホステル「ヘブン・アリス・スプリングス(Haven Alice Springs)」ともお別れだ。 AM5:10、出発。これからの6日間で3000Kmを走破すると言う。日本の地図では、知床半島から沖縄までが約3000Kmだそうだ。考えた事も無い走行距離である。体調は、残念ながら万全とは言い難い。昨日のサイクリングの後遺症でお尻が痛く、それに結局3晩とも虫に食われて、手や首の回りが痒いのである。 今日からのツアーのメンバーは、ダーウィンから続いている我々4人に、1人が加わっただけの5人である。24人乗りのバスに荷物車を牽引して走る事は、ダーウィンからアリス・スプリングスまでと同じ。「たった5人のツアーでも、旅行会社は採算が取れるのかしら」と不思議に思う。今日から加わった新人さんは、イギリスから来ている中年の独身高校教師で、科学を教えていると言う。 AM7:10、地平線に赤みが差して、バスの外が明るくなって来た。AM7:50、スチュアート・ハイウェイにあるエルダンダ(Erldunda)のガソリンスタンドで休憩。コーヒーとサンドウィッチで、身体を温める。それとこれから行くウルル(Uluru)、別名エアーズ・ロック(Ayers Rock)周辺の地図を購入した。 此処はオーストラリア中央部の重要な交通の要所であるが、周りには何も無い。見渡す限りの広野である。此処で一休みして、ガソリンを入れなければ、次のスタンドまでおそらく100Km位は何も無いであろう。 AM8:30、一息入れた我々は、スチュアート・ハイウェイから降りて西へ向かう。殆ど平らな土地が何処までも続いている。此処にはアフリカのナイル川や、南米のアマゾン川に匹敵するような川は勿論、日本の利根川に比べる川も無い。一度雨が降れば、その水は少しでも(例えば1m位)低い所へ流れて行くので道路が冠水する。 しかしこの内陸部は基本的に雨量が少ないのですぐに干上がってしまう。見渡す限り少しばかりの草と灌木である。土の色が赤味を増してきた。年配者が運転するキャンピングカーを時折見かける。オーストラリアでは、「リタイアしたらキャンピングカーで国内を旅行する事」が典型的なパターンであるという。 AM11:30、キングス・キャニオン・リゾート(Kings Canyon Resort)に到着。リゾートと言ってもキャンプ場だ。砂漠の中だからキャンプ場でもリゾートだ。此処でサンドウィッチの昼食を用意していると、イギリス人女性のエレナに再会。彼女はアリス・スプリングスで分かれた後、オフが無いまま次のツアーに参加したので、ウルル見学から、もう帰る所であった。
エレナ(右)とロミ PM12:30、昼食後ワタルカ国立公園(Watarrka National Park)内のキングス・キャニオン(Kings Canyon)へ。海抜650m、パーキング上からの高低差は200m。数字から想像するよりもずっと見応えがあり、迫力もある峡谷であった。まず、このオーストラリアのど真ん中が、大昔は海底であったと言う事。 キングス・キャニオンに立つニコル それが多くの化石の出土や、岩石に残る波紋、
岩石に残る波紋 そして白い岩塩の存在等によって簡単に分かる。今は岩石になっているが、それは比較的簡単に割れる砂の塊であった。 岩石は砂の固まり つい60年程前にも大きな崩落があり、その崩落跡は断崖の色が鮮やかな赤になっているので、すぐにそれと分かる。 60年前の大崩落跡 これらの事を理解するには、ゴンドワナ大陸の歴史にまで遡る必要があると思うが、雄大な時間が経っていることは事実のようだ。今日はその事が分かっただけで大満足である。オーストラリアの歴史を紐解けば、何処かに書いてあるとは思うが、此処が海底であったことを実感するには、此処に来て見るより他に方法は無いであろう。 大辞林によれば、「ゴンドワナ大陸」とは:ゴンドワナ(Gondwana)はインド中央部東よりの地名。古生代後期から中生代にかけて南半球に存在したと考えられる超大陸。後に分裂・移動して南アメリカ・アフリカ・マダガスカル・インド半島・オーストラリア・タスマニア・南極大陸になったとされる。 キングス・キャニオン PM16:30、我々6人は、4時間のハイキングを終えて駐車場まで戻ってきた。すぐにキングス・クリーク・ステイション(Kings Creek Station)まで車で走り、(ステイションとは言っても、ガソリンスタンドに毛の生えた様な所だが)30分間の休憩。 PM17:30、再び車を走らせて、カーテン・スプリングス・ロードハウス(Curtin Springs Roadhouse)で小休止した後、ユララ(Yulara)のキャンプサイトに到着したのは、PM20:30。今日は早朝のAM5:10からPM20:30まで、実に15時間以上のツアーであった。我々は疲れていれば車の中で寝ればいいのだが、運転手は大変だ。今日だけで実質10時間近く、一人で運転していた事になる。 すぐに夕食の準備に掛かる。今晩のディナーはカンガルーの肉と、ソーセージのバーベキューだ。食事中「ドイツではソーセージが有名だが、あなた達は肉と比べてどちらが好きですか」とドイツ人女性に聞いてみた。ニコルが「ソーセージにも色々あって、小さなウィンナー、太いフランクフルト」と言い出すと、男達がくすくす笑い出した。 私にも状況が理解できたので、少しの間をおいて思わず笑い出してしまった。するとニコルが「マサまで笑っている。私はまじめに話しているのに」と怒っている。私は「私もまじめに聞いているよ」と言うと、ニコルは何とか話を続行した。「長いのは1m位の物もあります云々」と。私は「それじゃ馬の物みたいだね」と言いそうになったが、何とかこらえた。 PM22:40、夕食を終了。焚き火を囲んで暫く懇談した後、PM23:30に就寝。ただし、この夜の寝床はテントの中ではなく、完全な露天であった。私は露天で寝た経験は無いし、震えるほど冷えているので、寝袋に入ってテントで寝ようと考えていたのであるが、「こちらの方が絶対に暖かいから試してごらん」とリーダーが言うので、思い切って彼の言うとおりにやってみた。 寝袋とスワッグを使って それは寝袋を2重にして寝る方法で、正式には外側の大きな寝袋を「スワッグ(Swag)」と言い、軍隊等で使っていると言う。結果は確かに暖かかったが、背中のクッションが少ない為、ベッドで寝るより寝心地が良いとは言えない。それに、顔まで被ろうとすると、砂が落ちてきて、口の中に入ったりする。ただ、露天に寝転がって見た星空が、何と美しかったことか。 満天の星空を見上げて 6月6日(日) AM5:30、起床。昨夜は時々目を覚ましては、満点の星空を見上げて感慨にふけった。この今にも降ってきそうな星を何に例えたら良いのだろうか。一つ思い当たったのは、花火を真下で見たときの光景である。上空でドカーンと破裂した花火が、パーッと大きく開いた瞬間の状態である。それくらい鮮やかな、そして大きな星達である。 それに、今回の旅行に出発してくる前に、「英字新聞を読む会」のサークルで、丁度「星の王子さま」を読み終わっていた。その物語の中で作者は「不時着した砂漠の真ん中で、星から降りてきた王子様に出会い、非現実的だが人間の本質を突いた会話を展開している」が、私はその心境が理解できたようで、更に作品に対する共鳴音が大きくなった。星の王子様を2年もかけて、少しずつ読んだ後に此処に来た事に、何か偶然以上の幸せを感じるのである。 さらに、こうして寝袋の中で、仰向けになって星空を見ていると、自分が「宇宙の中に浮いている」様な気分になる。いや、それが本当なのだが、普段は地球の上にいる事しか考えず、地球と共に宇宙に浮いていると言う実感はない。ほんの一夜の経験ではあるが、本当に貴重な体験が出来た。きっと今回の旅行における、ハイライトの一つになるであろう。 AM6:30、洗顔、朝食を済ませて、キャンプ場を出発。エアーズ・ロック(ウルル)のサンライズを見に急ぐ。AM7:00に現地に着くと、既に大勢の人が集まっていた。気が付いてみると日本人が多い!2〜3百人の内、30%位が日本人かなと思うほど、あちこちから日本語が聞えて来た。何処からこんなに沢山の日本人が来たのだろう。推測ではあるが、「飛行機で来て近くのホテルに泊まっていたのだろう」と思う。確かにそんなツアーが日本では販売されている。 エアーズ・ロックのサンライズ−1 肝心のサンライズの光景は、東の方に雲が多かった事もあってか、今ひとつ、感動できるシーンに出会えなかった。エアーズ・ロックに旭が射して、感動的なシーンの出現を期待していたのだが、サンライズの始まりと終りのメリハリがハッキリしないまま、何時の間にか終わってしまった。 エアーズ・ロックのサンライズ−2 「もう終りだよ、きっと。寒いから引き上げようよ」と言う熟年男性の日本語の声が、その場の状況を物語っていた。日によって、季節によって、様々なサンライズがあるのだろうが、今日のサンライズはパッとしなかった。サンライズ観賞の特設場に1時間程居て、最後まで残っていた我々も引き上げた。 AM8:20、我々5人のツアーメンバーは、これからウルルの回り約9Kmを、大急ぎで一周する。約2時間の道程だ。歩いてみると、いつも写真で見ているエアーズ・ロックのシンプルな形と全然違う、崩れたり、割れたりしているところが多い。そういうところに限って撮影禁止の立て札が立っている。 口を開けたエアーズ・ロック 私が「ここなら写真を撮っても良いだろう」と思って写している所に、見回りのレンジャーが通りかかり、「今写したのは消去しなさい」と言う。「此処でだめなら撮影できる所なんか無いじゃん」と思いながらも、立て札に「禁止場所で撮影した場合、状況によっては多額の罰金を科せられます」と日本語でも書いてあったので、此処は指示に従うしかない。 エアーズ・ロックの側面(昔此処は海岸であった) 1枚1枚チェックされて、結局10枚ほどの写真を消去させられた。一緒に歩いていたダンは、「あそこは、写してもいい所の筈なのに。僕が写したのを後であげるよ」と言う。僕は「それ程欲しい写真ではないけど、どうしてそんなに撮影禁止場所が多いのか、その理由の方を知りたい」と言った。 一周した後、ダンがこのときの状況をガイドに報告していたが、ガイドも「それはおかしい。そんな話は今まで聞いた事が無いよ」と言っていた。しかし私が知りたい撮影禁止の理由については、ガイドも答えられなかった。後でガイドブックを読むと「昔からのアボリジニの伝統で、その理由について詳しく聞くことはマナーに反する」と言うような事が書かれていた。我々にとっては単なる観光でも、アボリジニにとっては聖地と言う事だ。何とも消化不良を起こしそうな一件でした。 この日は風が強いと言う理由で、エアーズ・ロックに登る事は禁止されていた。頂上までの高低差は335m(標高868m)と、さほど高く無いが、何せ一枚岩だから滑りやすく、つかまる物も無い。登山の開始から鎖場である。過去に何度か死者が出ていると言うが、確かに危険だと思われた。 エアーズ・ロックの登山口 AM10:45、ウルル(Uluru)を発って、カタジュタ(Kata Tjuta)へ向かう。ここは別名を、オルガス(The Olgas)とも言う。遠方にその雄姿は見えているのだが、車で飛ばしても45分の道程(32km)である。ウルルではその回りを歩いたが、今度は大きな岩の間を登って行く。 カタジュタ 「風の谷」(The Valley of the Winds)と称する場所を歩いたのだが、確かに風が強かった。多分、岩の配置の関係で、風の通り道になっているであろう。我々は此処でも滑り易い岩をよじ登ったり、大きな瓦礫の上を歩いたりして、第1展望台を通って、第2展望台まで歩いた。往復2時間のハイキングでPM13:45に駐車場へ戻ってきた。 風の谷 PM14:30に、一旦キャンプに帰り、ハンバーグ・サンドウィッチで昼食。ウルルのサンセットを見に行くまで、しばし此処で休憩。私はテント内のベッドで、20分ほど眠った。短時間でも眠ると身体がスッキリして、生気が蘇える。 PM16:15、キャンプを出発してウルルのサンセット鑑賞に行く。その前に若干の時間調整で、カルチュアーセンターに寄る。ここではアボリジニの文化を紹介している。私はビデオを観賞。その中で、アボリジニの伝統的な、動物の狩猟や木の実・昆虫の幼虫・野鳥の卵等の、採集の仕方を紹介していた。 農業や牧畜をする事も無く、完全に自然の中で、しかも砂漠に近い状態の中で生活する事は、我々文明の恩恵に浴しているものには考えられないが、彼らにはそれの方が生活し易いのであろうか。そういうアボリジニと西洋文明の遭遇は、互いに妥協点を見出せず、数十年前までは、民族浄化に近い状況が進んでいたが、今は逆にアボリジニを手厚く保護するようになって来た。 それに伴い彼らの文化的価値も評価され、文字は持たないが、独特の絵の評判は富に高まっている。彼らが実際に使用していた用具や絵画作品は、今では高価で取引されているようだ。時代も変われば変わるものだ。ただ、保護されるのは良いが、文明に触れても教育を受けていない人が多い為に、人並みの労働には付けず、地域のお荷物になっている現実も認めなければならないであろう。 1788年、最初のイギリス人が入植してきた当時のアボリジニの人口は、推定で75万人から100万人であった。しかし、それが入植者との衝突や病気によって、絶滅の危機に瀕する所(約3万人)まで減少した。現在のアボリジニの人口は全体の2.4%(約50万人)である。 我々はサンセットの少し前に、見学会場に到着し、寒さに震えながら、ガイドが用意していたスパークリング・ワインで乾杯した。サンライズの時と同様、多くの観光客が集結していたが、その時に比べると、日本人の数はずっと少ないように見えた。 ウルルのサンセットに集う PM18:00丁度がサンセットの時刻であった。エアーズ・ロックが闇夜を背景に赤く輝き、孤高の雄姿を見せている。その時間はほんの1〜2分間であったが、サンライズの時とは比較にならないぐらい感動的な光景であった。 ウルルのサンセット PM19:00、キャンプに戻って夕食。今晩のメニューは、ヌードルと野菜のミックス。「トマトソースで味付けすれば、どんな料理でも、ある程度のレベルまで持っていける」と感じた一品であった。PM20:30、夕食が終了。 私がその日の出来事を日本語でメモに書いていると、イギリス人の高校教師マット(Matthew)がそれを覗いて興味深そうに質問してきた。私は貧しい知識を総動員して、日本語の成り立ちから説明をした。すなわち、中国からの漢字の借用、ひらがなとカタカナの誕生、五十音表や、その母音と子音等について。 彼は時々鋭い質問を発しながら、私の説明に、身を乗り出すようにして聞いていた。たった26文字のアルファベットからなる英語に比べて、日本語文字のなんと多種多様な事か。彼には興味が尽きないようであった。海外旅行をしていて我々日本人に聞かれることは、日本独自の歴史、文化についてである。例えば「将軍と天皇の違い、忍者と侍の違い、切腹はどう言う時にするのか等」である。適切に説明する事は案外難しい。 今回の旅行には若干の和食用調味料を持参した。時折同行者に試食を促してみたが、その結果は次のようであった。味噌汁は全員が「美味しい」。海苔は半々、シーフードも半々、昆布トロロは全員が「ノー」。ただ後日試食した、スリランカ人は昆布トロロも、ゴマも美味しいと言っていた。 彼は毎食、米を煮て食べていたが、嗜好が日本食に近い様だ、否、長い歴史から見れば日本人が、スリランカ人に似ているのかもしれない。稲作や、学者によっては日本語のルーツも、その多くがスリランカの「タミル語」から来ていると言う位だから。 さて、今夜は焚き火を囲んでしばしの談笑が続いた。昨晩と同じユララ(Yulara)のキャンプ場だから、露天で寝ることも可能ではあったが、生憎、今夜は曇り空で星が殆ど出ていない。私は暖かさでは2重の寝袋に負けるが、寝心地において勝る、テントの中で寝ることにした。PM21:30、就寝。 6月7日(月) AM5:24、起床。「明日は一日で800Kmも走るので、AM5:30のスタートになる」と言われていたのだが、夜中に2回もトイレに起きた為か、寝坊してしまった。いつも大事な時に寝坊してしまう。 「仲間の連中も、もう少し早く起こしてくれたら良かったのに」と思ったが、彼らも自分のことで精一杯で「気が付いたら私が居なかった」という状況だと思われる。AM5:30のスタートに、AM5:24の起床ではどう頑張っても間に合わないが、少しでも遅れを少なくしようと思って、洗顔とトイレだけを済ませて、バスに乗り込んだ。 翌日になって、パソコンの電源を入れる時に気が付いたのだが、このテントに日本から持参していたアダプターを忘れて来てしまったのである。パソコンに電池をチャージしようと、コンセントに繋いでいたのを、はずす時にアダプターを残したままにしたらしい。慌てていたし、真っ暗だし、アダプターは小さいしで、取り外し忘れた事は、起こるべくして起きた不幸であった。 AM5:37、バスはユララのキャンプ場を出発。外はまだ真っ暗闇であるが、車はフルスピードだ。暫く走っていると、運転手が急ハンドルで左側の路肩に飛び出した。何事が起きたのか聞いてみると「黒い牛にぶつかりそうになり急ハンドルを切った」と言う。何事も無く済んで良かった。 AM7:05、朝焼けが始まった。綺麗な朝焼けだ。しかし、ほんの数分間で終り。AM8:20迄走り続けて、車はエルダンダのスタンドに立ち寄った。ウルルに行くときの二日前も、立ち寄って休憩した場所で、スチュアート・ハイウェイへの出入り口にある。周囲には何も無い、たった一軒のスタンドであるが、それだけにドライバーにとっては交通の要所であり、オアシスになっている。 朝焼け 店内には旅行者にとって必要最低限と思われるものが売られている。私も此処で朝食を取る事にして、ホームメイドのクロワッサン・サンドとコーヒーを頼んだ。クロワッサンにはハムとチーズが挟んであり、暖かくて本当に美味しかった。こんなに美味しいパンは滅多に食べられないと思い、もう一回同じ物を買いに行くと、女性店員が覚えていて「美味しかったですか?」と笑顔で言う。私も「大変美味しかったよ」とニッコリ。 二日前に此処に立ち寄った時、小さく簡単な地図を5ドルで買っていた。その地図が随分役に立った。殆ど砂漠状態の中に、初めて連れてこられた者にとっては、話だけを聞いていても、自分が今何処に居るのか見当も付かない。しかし地図でそれを確認できると、安心出来て、心も平穏になるのである。 アリス・スプリングスのホステルで、6月2日から3夜連続して虫に食われた所の腫れが、やっと峠を超えたようで、痒みが薄らいできた。全く最悪の気分であった。バックパッカーの旅行では、必ず1度はやられる。注意の仕様が無いから困った物である。 我々のツアーはたった5人である。私の他の4人に付いて少し紹介しておこう。 ダン(Dan)、26歳。アメリカのサンフランシスコから来てもう8ヶ月になると言う。メルボルンでバーテンダーをして、稼いだりしながらの長期旅行者である。兄は日本食の寿司店で働き、金を貯めてからロースクールで勉強し、今は法律家として働いていると言う。夜のいびきには参るが、人間的には好感出来る男である。国には25歳になる恋人が居る。 ニコル(Nicole)、27歳。東ドイツのチェコ寄りの田舎から来ている。2ヵ月半のオーストラリア旅行。既に西海岸、東海岸の旅行を終えて、最後のコースに来ている。年齢の割にしっかりした所と、無邪気な所を併せ持ち、天衣無縫の振る舞いが、我々を和ませてくれる。両親は自宅近くの工場で共働き。25歳位まで付き合っていたボーイフレンドとは別れたと言う。 ロミ(Romy)、30歳。ニコルの友人で同じ学校を目指しており、今回の旅行は二人で来ている。国には恋人が居り、時折交信している。父親は大工、弟も大工だと言う。一人の時は何時も、彼氏の事を考えているような風情である。 マット(Matthew)、40歳代の独身男性。ロンドンの高校で科学の先生をしている。歩いたり、食べたりする行動は鈍いが、会話になると勘所は押さえている。日本の文化、言語に関心があり、私に種々質問してきた。 AM10:00、我々はスチュアート・ハイウェイ上の州境に到着。今まで走って来たダーウィン、アリス・スプリングス、ウルルがノーザン・テリトリー(Northern Territory)、これから走る所が南オーストラリア州(South Australia)である。こんなに走る旅行は、アドベンチュアー・ツアーしか無いのではなかろうか。若い人達なら何人かのグループで、交代に車を運転して走る事は考えられるが、まさかこの歳になって、全行程を自分で運転する事は想像も出来ない。 南オーストラリア州に入る PM12:00、マーラ(Marla)に到着。此処でラッピングの昼食。丸くて薄いピザ生地の様な物に、野菜や肉を包んで食べるだけの簡単な物だ。欧米人は慣れているのか、夫々で手際よく、美味しそうに包んで 口に運んでいる。私も真似をしてラッピングする。食材が冷たいので、どうやっても美味しくは無いが、空腹をしのぐ為には贅沢を言っていられない。 食事中の懇談で、「欧米人の名前には、ジョン、ダニエル、マーク等、同じような名前の人が多いがどうしてか?」と聞くと「それらの多くは聖書から来ている名前です」と言う返事。「なーるほど」と私。日本ではなるべく個性的にと、他の人と違う名前を付けようとするが、これも文化の違いか。 PM13:00、昼食を終えて、マーラを出発。ダーウィンからここまで走ってきて、川らしい川を見ていない。涸れたクリークが数本だけ。360度平らな大地と乾燥した気候。赤土に潅木。人工物は、スチュアート・ハイウェイを除けば、100Km置き位に建つ電波塔と、太陽光発電の実験用と思われるパネル、そして並行して走るザ・ガンの線路が時折見えるぐらいである。見ている光景は「何万年もの昔の景色」と言ってもいいくらい、何の手も入っていないように見える。 スチュアート・ハイウェイ−2 PM15:30、オパールの街、クーバー・ペディ(Coober Pedy)に到着。Coober Pedyと言う名称は、アボリジニの言葉で「白人達の潜る穴(kupa piti)」から来ている。久しぶりに人の住む町に来た。朝5時半から丁度10時間かかっている。この街は1915年のオパール発見によって、にわかに活気付いた街で、もともとは何も無い砂漠のような土地であった。 デザート・ケイブ(入り口) 夏の気温は55℃にもなるが、冬はマイナス5℃にまで下がると言う。其処に登場するのがデザート・ケイブ(Desert Cave)である。オパールを掘った後の、空間を利用して地下室を作り、其処を住宅や店舗として利用する。こうすると一年中20℃〜25℃の気温の中で生活できると言う。 デザート・ケイブ(通路) 私はトルコのカッパドキアで見た地下空間を思い出していたが、その成立背景は全く異なる。トルコのそれはキリスト教徒が弾圧から逃れる為の洞穴で、紀元後間もない頃に出来た物であり、ここの洞窟は極最近、オパール発見後に出現した物である。 我々は洞窟の中の部屋を割り当てられ、すぐ隣のオパール店で、オパールの生成、発見、掘削、そして宝石として加工されるまでの映画を見せられた後、オパール加工のデモンストレーション、そして販売へと、観光コースお決まりの流れに乗せられた。 全て洞窟の中で事は進んでいて、外は冷え込んでいるのに、中は寒くは無かった。しかし、洞窟の中は何処と無く閉塞感・圧迫感があり「手放しで快適とは言い難い」と思った。こんな所で1年も生活していたら、日光不足になり体調を崩しはしないだろうか。 PM17:30から、シャワーを浴びて、久しぶりに頭も洗い、生き返ったような気分になる。 PM18:30から、近くのピザ店で夕食。ビールで乾杯だ。直径60cmもありそうなピザが2枚出て来た。これを6人で食べる。私も4ピース食べて腹一杯になった。懇談の後ベッドで横になったのはPM21:00であった。久しぶりに屋内(とは言っても洞窟内であるが)のベッドで、気持ちよく寝ることが出来た。 デザート・ケイブ(寝室) |