9.ブリスベン

 

6月22日(火)

 

AM6:30、起床。朝食の後TVルームを覗くと天気予報をやっていた。気温の最低と最高は次のとおり。アリス・スプリングス(2/21)、ブリスベン(13/22)、シドニー(10/18)、メルボルン(4/15)。大陸の真ん中にある、アリス・スプリングスの最低と最高の気温差は約20℃。太陽が出ている間は初夏のようであるが、太陽が沈むと同時に寒さが襲ってくる。

 

メルボルンは東京の冬と同程度。シドニーは東京の3月下旬、ブリスベンは東京の初夏、ケアンズ、ダーウィンに至っては真夏並みと、一つの国でありながら、東京の真冬と真夏が同居しているのがオーストラリアである。オーストラリアは大きい!

 

暫くパソコンを叩いた後、AM10:00を過ぎたので「ふらっとブリスベンの川伝いにでも歩いてくるか」と思って、玄関を出ようとすると、受付のお嬢さんが、「今日はどちらにお出かけですか?」と、声を掛けてくれた。「特に当ては無いのだが」と言うと、「無料のガイドツアーがありますよ」と教えてくれた。

 

「アイルランドのダブリンでも似た様なのがあったっけ。でもあの時は無料じゃなかったな」と思いながらも、初めての町では、あり難い事である。そのツアーはAM11:00から毎日行われていると言う。時間的にも今から行くと丁度良さそうだし。早速その話に乗る事にした。ツアーのスタートはシティホール(City Hall前の、キング・ジョージ・スクエアKing George Square)から。

 

   

             シティホール(ブリスベン)

 

少し早く行って待っていると、AM11:00丁度に、ガイドが黄色のTシャツ(ガイドの制服)と、サンダルで現れた。30歳ぐらいの男性で「世界各地を歩いてきた後、今ブリスベンに落ち着いている」と言う。名前をライアン(Ryan)と言った。最初に参加者の自己紹介。名前と国名を言う。全部で16名の参加であった。殆どが宿泊先から教えられてきていた。

 

   

             フリー・ツアー・ガイド

 

ガイドはまず、オーストラリアの歴史から語りだした。「6万年前、まだ海水が今より200mも低い頃に、アボリジニがインドネシアの島伝いにやって来た。以来、オーストラリアはアボリジニの大陸であった。

 

近年(1770年)になって、ジェームス・クック大佐がオーストラリアを発見。1783年にアメリカの独立戦争でアメリカを失ったイギリスは、1786年にオーストラリアの前身である、ニュー・サウス・ウェールズ(New South Wales)植民地の成立を宣言。1788年、囚人約780人を含む約1200人、11隻の第1次流刑船団がポーツマス港からボタニー湾に到着。その中には軽犯罪から殺人まで、色々な罪人が含まれていた。

 

1901年1月1日、ビクトリア女王は、それまで6つの植民地として、それぞれに運営されていた物が、州としてオーストラリア連邦に統合されることを宣言した。

 

第2次大戦では日本の攻撃を受け、大変な窮地に立たされた。すぐ北のパプア・ニューギニアは既に日本に占領されていた。1942年2月19日、ダーウィンへの攻撃が始まった。この分だとオーストラリアも、ブリスベンから北は日本に占領されるかもしれない、と言う恐怖にさらされた。

イギリスは対ドイツ戦で手一杯であった為に、チャーチルに応援を頼んでも色よい返事は貰えず、仕方なくアメリカのルーズベルトに援軍を依頼した。
1942年3月、ダグラス・マッカーサーが応援に駆けつけた。(と言うより、正確にはフィリピンを日本軍に制圧されたマッカーサーが「I shall return」の名文句を残して、オーストラリアのダーウィンへ退却して来たのが真相である)

 

その後、1972年に人種差別撤廃の法律を作った。1999年、国民投票で、共和制への移行を問うたが否決され、エリザベス女王を元首とする、君主制(Monarchy)の維持を選択した」云々と。

 

この話でも、日本がオーストラリアに与えた恐怖は、計り知れないほど大きかった事が分かる。ブリスベン市の中央にもアンザック広場(ANZAC square)があり、対日本との抗戦の記念碑が建てられている。

 

アンザックは元来、1915年の第1次世界大戦の折り、オーストラリアとニュージーランドの連合軍が、トルコのガリポリ半島上陸作戦で闘った時に創設された物であるが、今日では、アンザック、イコール第2次大戦での対日本戦を意味する比重の方が大きいように感じられるのは、私の思い過ごしであろうか。

 

ガイドは市内の主だった所を案内しながらも、対日本戦に付いて3回も語った。私はその度に針の筵に座らせられているように感じた。これは、ハワイの真珠湾の記念館を訪問した時の気分と同じである。日本は、広島・長崎の被爆体験を声高に言うのと同じ比重で、各国に与えた苦しみや恐怖についても、きちんと語っていくべきだ。

 

   

              ブリスベンの繁華街

 

戦後、大本営が口を閉ざして何も語らないのは、保身の上から分からないでもないが、歴史上の事実はきちんと残しておくべきであろう。今の日本の歴史教育では、被害国は納得できないと思う。

 

このツアーに1人のスウェーデン人女性が参加していた。彼女は「交換留学で、シドニーで勉強していたが、それが終わったので、旅行をしている所です。6年前の19歳の時に、日本の札幌で、10日間のホームステイをした事がありますが、何もかもが珍しかったです。東京は1日だけの見学でしたが、8月で暑かったことを覚えています。将来は高校で、スウェーデン語の教師になる予定です」と話してくれた。

 

私は「スウェーデンは人材をじっくり育てている国だな。日本のように、知識だけを詰め込んで、ペーパーテストに合格したら、ハイ教師です、と言う事には無理がある」と思った。スウェーデンの国土は広いが、人口は900万人しか居ないそうだ。「東京の人口よりも少ないのだね」と言うと、彼女は笑っていた。

 

PM12:30から15分間の休憩・昼食時間。私は近くの寿司店で、いなり寿司を買って食べた。美味しかった。この寿司店には次々と客が入っていた。ツアーはPM14:10まで続いた。終了時に各自からガイドにチップを渡して引き上げた。私はその後、ブリスベン川沿いの散策路を歩き、無料のクイーンズランド博物館(Queensland Museumを見学した。無料にしては立派な博物館で、日本人の手になる浮世絵も展示されていた。

 

   

             ブリスベン川の遊歩道−1

 

PM16:00YHAに帰宅。少し寝てから夕食の支度。何を作って食べたのか忘れてしまった。後でレシートを見れば思い出すかも。(結局思い出せなかった!)日本から持参した調味料は大いに活躍している。味噌汁、鰹節、ドレッシングはもう無くなった。玄米茶、オリーブオイルと醤油も残り少ない。コーヒー、バターの減り具合も順調。

 

イチゴジャムはこちらに来てまた買っている。塩・胡椒は必需品。残っているのはナッツ、トマトケチャップとトロロ昆布。プルーンはまだ封を切っていない。1人旅になってからシリアルを食べていないからだ。

パソコンを叩いてから、PM10:30、就寝。

 

 

6月23日(水)

 

AM6:30、起床、朝食。キッチンで日本人かなと思う人に声を掛けると、2回が台湾人で、1回が韓国人であった。まだ日本人には会っていない。受付で「日本人は少ないですか?」と聞くと、「台湾人、韓国人に比べると少ないです」と言う。TVでサッカーのワールド・カップを見る。今日は珍しく朝から雨だ。特に予定も無いので日記を書くことにする。

 

PM12:00、雨が止んだので、スーパーへ昼食の食材を買出しに。ステーキ、ジャガイモ、リンゴ、オレンジ。YHAに戻って門を入ろうとすると、門から出て来た人が、私の下げている物を見て「この辺にスーパーマーケットは無いでしょうか?」と聞くので、行って来たばかりの、コールズを教えてあげた。分かれば近くに在るのだが、気が付きにくい所にあるので、旅行者にとっては、存在しないのと同じ事だ。

 

また、ホステルではお互いに、気軽に聞いたり教えたりする。そして、それがきっかけになって、話が弾む事もある。昨日の夕食時に、「名札は何処にあるのでしょうか」と聞いてきた婦人が居た。自分の物に名札をつけて冷蔵庫や棚に置くようになっているからだ。確かに分かりにくい棚の隅っこに置いてある。私が「此処にありますよ」と教えてあげると、それがきっかけになって「今日はどちらに行って来られましたか?」と話し合うようになった。

 

今日の昼食は、フィレステーキとジャガイモとサラダになった。フィレステーキは肉が厚くて、フライパンで焼くには少々無理がある。「サイコロ状にカットしてから焼けば良かった」と思う。馬鹿の知恵は後から出てくる。

 

PM16:00から30分間の昼寝。パソコンばかり打っていると眠くなる。起きてまたパソコン。PM18;30に、夕食のピザを食べに、YHAに付属している1階のレストランに行く。朝から「今日は雨ですから、特別に3ドルでピザが食べられます」と館内放送で宣伝していたのだ。

 

レストランに行ってピザを頼むと「1枚ですか?」と聞く。「普通は1枚でしょう」と思いながらも「どれくらいの大きさなの」と聞くと「これ位のあまり大きくない物ですから、お腹が空いている人には足りないと思います」等とヌケヌケと言っている。忌々しく思いながら「じゃあ、2枚にしてください」と頼むと、今度は「お飲み物は、何にしますか?」と。

 

「アルコール度の一番低いビールを」「それなら、このビールが良いでしょう。合計で12ドルになります」と。3ドルで済むかと思って行ったら、12ドルになってしまった。これなら町のレストランと同じじゃないか。「YHAらしくない、商売のやり方だな」と思った次第。雨が止んでいたのは、昼食の買出しに行った時だけであった。PM22:00、就寝。

 

 

6月24日(木)

 

AM6:30、起床。同室のペルー人2人のバッグが消えている。「一週間の予定で来ている」と言っていたのに。後で聞くと「滞在が長いので、部屋をチェンジさせられた」と言っていた。彼ら2人は、ペルーからオーストラリアに来て4年になる。シドニーに滞在中だが、今はブリスベンに派遣されてきた。毎朝AM6:30にはホステルを出て行き、PM21:30頃に帰ってくる。ホステルでは、ほんの寝るだけで、ろくに会話をする時間も無い。

 

朝食後、パソコンを打って、部屋に戻ると今度はドイツ人青年が荷造りをしている。「出ていくのかい?」と聞くと。「ゴールド・コーストでガールフレンドと落ち合うので」と言う。「それで夕べはインターネットで長話をしていたのか」と勝手に納得。3人が1度に居なくなって、部屋が広々とし、綺麗になった。

 

AM10:00、外出。特に計画は無いが、ブリスベン最後の日になるから、少しでも街を見ておきたい。まず「モダン・アート・ギャラリー」へ。YHAからはブリスベン川に掛かる橋を渡ってすぐの所だ。此処も原則入場料は無料だが、特別展に限り有料らしい。今日はロン・ミュエク「RON MUECKの特別展が開かれていた。入館者が列を作っていたが、私は展示場には行かず、彼が作品を作っている所を映像で流している部屋があったので、そちらを覗いた。此方は無料である。

 

   

             ブリスベン川に掛かる橋

 

彼は1958年生まれで、イギリスで活躍する、オーストラリアのハイパーリアリズム彫刻家である。展覧会で今最も観客動員力のある芸術家だと言う。粘土から形作って行く手法だが、その作品のリアルさは印象的である。特にお産直後の婦人の性器から、へその緒が出た状態の作品は、衝撃に近い。何冊かの彼の作品集が紹介されていたが、このアングルから写した物は無かった。

 

その後、一昨日歩いたのと同じ、ブリスベン・リバ−サイドを歩き、ボタニック・ガーデン(Botanic Gardensへ。市内に入って歩いていると、フードコートが目に入ったので、覗いてみると、丁度昼時と言う事で、大勢のサラリーマン男女で溢れていた。ビルの2階全体の壁側に、間口2m位の店が立ち並び、内側にテーブルが置かれている。

 

   

              ブリスベン川の遊歩道−2

 

客は思い思いにカウンターで注文してテイクアウトして行く。いろんな国のメニューが売られていたが、私は和食店でミニカツ丼を注文した。6.5ドル也。量的にも丁度良く、美味しかったです。隣の寿司店では色々な種類の海苔巻きが売られていた。こちらも人気があって、飛ぶ様に売れていた。

 

日本の海苔巻きに例えると、かんぴょう巻と太巻きの中間ぐらいの太さで、それを半分の長さに切った位の大きさ。それが2ドル位で売られていた。それを2本、4本と買っている。欧米人が寿司を食べるとは言っても、のりを外側に巻いた食べ方はしないと思っていたが、何時の間にか、本来の寿司の形で受け入れられていた。人気があるとは聞いていたが、これ程までになっているとは思わなかった。店の奥で巻かれた寿司を、女店員が次々と店頭の陳列ケースに並べていた。

 

食後、1階のディスカウント店を覗くと、オーストラリアの国民的音楽を集めたCDと、エルビス・プレスリーとその友人達の曲を集めたCD(オーストラリアには関係ない)が安く売られていたのでお買い上げ。

 

まだ時間も早かったので、地図を見ながら、中華街迄行って見る事にする。比較的分かり易いのだが、結構な距離がある。何処の町にでもある中華街。ブリスベンにも有りました。海から少し離れた広々とした高台に、ゆったりと。他の街では往々にして「下町的な所にごちゃごちゃと」と言う印象が強いが、此処の印象は大分違っていた。

 

   

              中華街(ブリスベン)

 

帰り道に、堂々と建っていたのが「聖ジョンズ大聖堂(St. Johns Cathedral」。アングリカン(Anglican)とあり、イギリス国教会の建物だ。中を覗くと、案内役のシスターから「中国の方ですか、日本の方ですか」と聞かれたので「日本人です」と言うと、日本語のパンフレットを取り出してくれた。それには「ごゆっくり中を見て行って下さい」と書かれていた。本音を言うと、私は教義には興味があるが、建物には殆ど関心が無い。どれも大同小異にしか見えないのだ。失礼しました。

 

   

               聖ジョンズ大聖堂

 

最後にスーパーマーケット・コールズに寄って、PM3:00YHAに帰着。5時間の街歩きでした。仮眠した後、洗濯、パソコン。PM6:00から、夕食の支度。今日はサイコロ・ステーキ、ジャガイモ、サラダ、コーヒー、オレンジ。

 

食事中に、一昨日出会ったおばちゃんに声を掛けられた。「今日は、どちらへ?」「モダン・アート・ギャラリーへ」「あら、私も行って来たの。感動したわ!あなたは?」「エエ、私も感動しました。絵はご自分でも描かれるんですか?」「エエ、少しね」「日本の絵にも興味がありますか」「はい、すごく。繊細で良いわね」「僕は、浮世絵が好きなんですよ」「浮世絵って、それは絵描きの名前ですか、それとも画法の名前ですか」「画法の名前です」「知りませんね」。

 

絵に興味を持つ人が浮世絵を知らないとは。僕は小さな電子辞書で「浮世絵」と入れてみた。すると日本の木版画と訳されていたので、それを彼女に見せた。彼女は「おお、ウッドブロック・プリント(Woodblock Print、それなら知っているわ。私も大好きです」と。話は暫く続いた。彼女は「66歳。信ずる宗教は日本の仏教、禅宗です」と言っていた。

 

おばちゃんと別れて席を立つと、珍しく日本語が聞えて来た。「日本からですか?」と声を掛けると「そうです。ワーキングホリデーで、来たばかりです」と若い男女が言う。暫く話していると「今見ていたのですよ、英語で話している所を。すごいな。僕も来たばかりで、メゲテハ居られないと、刺激されました」と言っていた。「ウーン、大した内容じゃ無いんだけど、外人さんと話していると言うだけで、刺激になるのかな」と少し嬉しく思った。

暫くパソコンを打って、シャワーを浴び、就寝はPM10:30。今夜の部屋は1人だけだ。

 

 

6月25日(金)

 

AM4:30、起床。少し早いが、誰も居ないから気兼ねなく起きられる。暫くパソコンを叩く。AM6:30、朝食、パッキング。今日は最終地、ケアンズ(Cairns)への移動日だ。

AM8:00から、暫くパソコン。

AM9:30、チェックアウト。

 

AM10:00、エアートレイン(Airtrain)の、ローマ・ストリート駅(Rome Street Station)到着。AM10:36発、国内空港(Domestic)行きの列車のホームは6番と掲示されている。6番ホームで待っていると、AM10:30になってから、ホームが9番に変更された。急いでホームを変えた。

 

すると今度は、「AM10:32発の各駅停車よりも、AM10:36発の空港行き・快速列車の方が先に発車する」と放送され、電光掲示板も変わった。が、またまた変更があり、「元通り、各駅停車が先に発車する」とアナウンスされた。日本ではこんな変更に遭遇した事は無い。

 

AM11:10、空港着。少し早いが用意してきたサンドイッチとリンゴで昼食。

AM12:10、チェックイン。エックス線検査で、私のポシェットが引っかかる。再検査したら、機会のチェックは通過したが、無差別検査の対象にされた。「あなたは何処の国の人ですか?」「日本人です」「ではこれを読んでください」「あなたは無差別検査の対象に選ばれましたのでご協力ください」と、日本語で書いてある。

 

「了解しました」「ポシェットの中を見てもいいですか」「結構です」中を開けると何か検査用の器具を当てている。「つぎに、リュックサックを開いていいですか」「どうぞ、結構です」「自分で開いてください」「ハイ、分かりました」。係官は、再び器具を当てて調べている。そして「ハイ、全てクリアーになりました」と言って開放された。「あれで何が分かるのだろう」と思いながらも「何か疑われているのだな」と気分は良くなかった。

 

PM13:30、搭乗。隣は30歳代と思われる女性。以下は二人の会話。

「日本から来ました」

「日本のどちらからですか」

「千葉です。東京の隣です」

「私は今年の8月末から2週間の予定で日本へ行きます。大阪が中心ですが東京へも行きます」

「日本のJRは、外国人向けに安いチケットを販売していますよね」

「エエ、知っています。それでも安くはありませんが」

 

「日本では、私が好きな所が2箇所あります」

「それは何処ですか」

「山奥なので、海外からの旅行者は殆ど行かないと思いますが。長野県の上高地と青森県の十和田湖、奥入瀬渓流です」と言って、略図を描いてあげた。

 

「他に、外国人旅行者に人気があるのは日光東照宮です」

「それはどんな物ですか」

「神社の一つです」

「大きな仏像がありますか」

「それはありません、それがあるのは、奈良とか鎌倉です」

 

「ところで、オーストラリアは初めてですか」

「初めてです。ダーウィンからカカドゥ、アリス・スプリングス、ウルル、アデレード、メルボルンとツアー・バスで走り、シドニー、ブリスベンと飛んできた所です」

 

「何が印象に残りましたか」

「オーストラリアの国の大きさです。それと、スチュアート・ハイウェイにその名が残っている探検家スチュアートの人生が印象的です。かれは3年を費やしてアデレードからダーウィンまで探検したが、その後の人生に恵まれず、ロンドンで寂しく死んで行ったそうです」

「そうですか」彼女はスチュアートについて殆ど知らないようであった。

 

「ところで、あなたの今回の旅行は?」

「祖母が無くなったので、葬式に行ってきました。実家は南オーストラリア州です。私はケアンズから更にプロペラ機で2時間ほど北へ飛んで、最後にフェリーで渡った所の小さな島に住んで居ます。兄は西オーストラリアのパースですから、家族はそれぞれ、オーストラリアの外れの方に居る事になります」

 

「あなたはその小さな島でどんな仕事をしているのですか」

「病院の看護婦です」

「そうですか。私の母も看護婦でした」

「その病院には、回りの更に小さな島から患者が運ばれてきます」

 

「あなたの居る島は、何と言う島ですか?」と聞くと、私の差し出したメモ帳に

Thursday IslandTorres Straits-group of islands」と書いてくれた。

「木曜島」「トーレス海峡(オーストラリアの北端、ヨーク岬とパプア・ニューギニア間の海峡で、274の島からなる)にある島の一つ」と言う意味だ。

 

私は驚いた。木曜島の名前が此処で出てくるとは、全く予想していなかったからだ。

「木曜島では、戦前、多くの日本人が働いていたと思いますが」

「そうです。今でも日系人、日本名の人、日本人の墓が沢山あります」

「日本人が真珠採取で大勢行っていた所です」。真珠で栄えていた木曜島には、赤線まで在ったと本(司馬遼太郎著:木曜島の夜会)で読んだ記憶がある。

 

ここのところを本で確認すると、「真珠ではなく貝殻そのものを採るのが目的であった。白蝶貝、黒蝶貝、あるいは高瀬貝というのは、貝殻の柄が大きく、ぶが厚く、ヨーロッパの貴婦人の胸を飾るような上等の釦をそこからとることができる」とある。司馬氏も執筆前は真珠の採取と思っていたようだ。

 

 

「木曜島の大きさはどれ位ですか?」

「東西5km、南北1km。人口は4000人です」

「どんな職業の人が多いのでしょうか」

「学校の先生、役所、病院等の公務員が多いです」

 

暫く話は続いた。窓側に居た彼女が、「海はこちらの方が良く見えますから」と言って席を替わってくれた。窓から見えたグレイト・バリアリーフの島々を囲む海は、それ程美しくは見えなかった。「これなら、フィジーやハワイや沖縄の方が綺麗だ」と思った。

 

PM16:00、ケアンズ安着。「宿泊先は決まっていますか」「ハイ、決まっています」「何と言う所ですか」私は「どうして其処まで聞いてくるのだろう」と思いながら、書類を出して見せると「其処なら私が行く先の途中ですから送ります」と言う。事情が良く飲み込めないで居たら、彼女の友人が車で迎えに来た。「それに同乗して行きなさい」と言う事であった。私はありがたく好意を受けて、ホステルまで送ってもらった。途中で病院の横を通過した時、「此処が彼女の勤務先です」と言う。友人も看護婦だった。「今夜は彼女の家に泊まります」と言う。

 

PM17:00、ホステル(Globetrotters International)にチェックイン。インターネットは無料だと言う。時間を気にしないで出来る事はありがたい。部屋に入ると、イギリス人女性と、アイルランド人男性のカップルが居た。早速、スーパーへ買い物に。町の中心部までは10分ほどかかる。他のスーパーも覗いて見たが、やっぱりコールズで買うことにする。他のスーパーは、値段は変わらないが、品物が古そうに見えたから。色々買って22ドル。4泊の食料だから、1泊にすれば5.5ドルだ。もっとも、これだけでは済まないが。

 

PM19:00、夕食の準備。米を炊き、ベーコンを焼いて、サラダを作った。

PM21:00、早めに就寝。スーパーへの買出しに時間がかかり、少し疲れ気味でした。

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