2.オーストリア

 

 

11月2日(火)晴れ 13℃

 

AM3:45、起床。シャワーを浴びてからパソコンに向かう。

AM7:00、朝食。昨日のホテルに比べると、質が落ちるが、まずまずの美味しさである。珍しかったのは、酢味のニシンで酢の物の野菜を巻いたもの(Rolling Pickled Herring)で、「ご飯と一緒に食べれば更に美味しいだろうな」と思った。ニシンの大きい事が印象的であった。

 

AM9:00、ホテル発。今日はオーストリアへの移動日。車中添乗員のTさんからチェコに関係のある有名人が紹介された。

 

1.角砂糖の発明者:1841年にチェコのヤクブ・クリシュトフ・ラド氏が発明。

2.メンデルの法則:エンドウ豆で遺伝の法則を発見。

3.「ロボット」は作家カレル・チャベックの造語である。

4.広島の原爆ドームは、もともとは物産陳列館(広島県産業奨励館)として建てられたのだが、設計者はチェコ人のヤン・レッチェルである。

5.映画アマデウスで監督賞を獲得した、ミロシュ・フォアマン。撮影はプラハで行われた。

6.その他、血液型の発見者、コンタクトレンズや、電子レンジの発明者

 

AM9:30、国境を越える。とは言ってもノンストップで、高速道路の料金所を通過するようなもので、写真撮影も難しい。EUの中の国境はその壁が年々低くなって来ている。

 

オーストリアに入り、添乗員のTさんからモーツアルトの話があり、妻のコンスタンツェは悪妻の評判が高いが、モーツァルトの死後再婚した彼女は、良妻であったと言う。と言う事は、モーツアルトの方に、夫としての問題があったのかも。

 

車窓は霧でホワイト・アウト状態。回りの景色は殆ど見えないが、車内はTさんの心遣いで、モーツアルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク:Eine kleine Nachtmusik」が心地好く流れている。

 

AM9:45からAM10:15まで約30分間の渋滞。何らかの事故があったようだ。

AM11:00、トイレ休憩。

 

バスの中で退屈しのぎに、持ち合わせの電子辞書で調べて見ると、今回めぐる中欧4カ国の広さは、合計して30万平方キロ(日本は37万平方キロ)、人口は33百万人(日本は120百万人)と言うことで、面積、人口共に日本の方が勝っていた。日本の地理感覚に今回の旅行を当てはめれば、4カ国とは言っても、東京大阪間を移動するようなものか。

 

暫くすると、Tさんからオーストリアの歴史、特にハプスブルク家Hapsburg)についての説明があった。

 

ハプスブルク家の発祥は、ウィーンではなくスイスの北東部からドイツ西南部の一帯だった。ここを支配していた小貴族にすぎなかったが1273年、ルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選出されたのをきっかけに、紆余曲折を経ながらも、めきめきと頭角を現していく。

 

「戦いは他のものにさせるがよい。汝幸あるオーストリアよ、結婚せよ」これは、マクシミリアン1世の有名な言葉であり、ハプスブルクの家訓であった。王家を発展させる為に戦争ではなく結婚政策によって版図を広げていったのだ。なかでも女帝マリア・テレジアMaria Theresia)(注1)の娘マリー・アントワネットMarie Antoinette)がフランスのルイ16世の妃となった事はよく知られている。

 

「日没無き大帝国」と呼ばれた無敵の王国も、1859年のイタリア戦争で敗北して以来、かげりが見え始めてきた。多くの民族の利害関係が入り乱れた結果の一つとして、1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国(注2)が形成される。この時の国王はフランツ・ヨーゼフ1世で、妃はエリーザベトElizabeth)(注3)だ。こうして、第1次世界大戦に突入し、それに敗れた1918年に崩壊するまで、650年(ちなみに江戸幕府を築いた徳川家の歴史は260年)にわたって中央ヨーロッパを支配したのがハプスブルク家だ。(「地球の歩き方」参照)

 

(注1)        女帝マリア・テレジアは、16人の子供の母でありながら国政の場に置いても活躍した。身長は150cm台なのに体重は120kgもあったとか!!そう言われて肖像画を見ると「然()もありなん」と思えてくる。

 

(注2)        君主である「オーストリア皇帝」兼「ハンガリー国王」と軍事・外交および財政のみを共有し、その他はオーストリアとハンガリーの2つの政府が、独自の政治を行う、という形態の連合国家が成立した。これが「オーストリア=ハンガリー二重帝国」である。

 

(注3)        皇妃エリーザベトは、シシィの愛称で知られる。彼女は1837年にバイエルン(南ドイツ)の貴族のもとで生を受け、16歳で宮廷に嫁いだ。堅苦しい宮廷生活を嫌い、療養という名目で多くの時間をウィーンの外で過ごし、61歳でイタリア人の無政府主義者に暗殺されるまでの人生は、多くのエピソードと共に、いまだに語り継がれている。

 

      

               メルク修道院

 

    

              メルク修道院の内部

 

PM12:10メルク修道院Stift Melk)に到着。今朝出発したチェスキー・クルムロフの町は、モルダウ川沿いにあるが、このメルク修道院はドナウ川沿いである。ここは大きな修道院で、大掛かりな修復工事中であった。歴史的な遺産であろうが、我々が覗いた所には人の気配が無く、単に過去の遺物としての感想しか持てなかったのは残念でした。

 

PM12:50、メルク修道院敷地内のレストランで昼食。野菜サラダ、豚肉のソテー、ジャガイモのコロッケ?デザートにケーキ。まずまずのお味でしたが、ハエが何匹も飛び交っていたのは、興醒めであった。修理中ということも在って特に見るべき物も無いのに、レストランだけが営業されているのも、如何にも観光客目当ての感が否めなかった。

 

PM1:50、メルク修道院を出発。此処からデュルンシュタインDurnstein)までの30分間、ヴァッハウ渓谷Wachau)沿いのドナウ川を車窓から堪能する。10月一杯は此処をクルージングで楽しめたようだが、11月に入り、クルージングが店仕舞いをしていて残念でした。ここはドナウ川でも最も景色の美しいと言われている所で、何処からとも無くヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」の曲が聞えてきそうである。

 

    

             デュルンシュタインに到着

 

    

           聖堂参事会修道院教会(Chorherrenstift)

 

    

           デュルンシュタインを流れるドナウ川−1

 

    

           デュルンシュタインを流れるドナウ川−2

 

PM2:25、デュルンシュタインに到着。ドナウ川沿いを散策。丘の上には由緒ある修道院(聖堂参事会修道院教会、15世紀の創立)や、町並みが在るのだが、我々は時間の関係で川沿いを歩くだけで終わり。それでも綺麗な景色をカメラに収める事が出来た。

 

PM3:15、少し風が冷たくなってきた所で、デュルンシュタインを出発。車内ではTさんがウィーン少年合唱団のCDを聞かせてくれた。

PM4:35、ウィーンのレイナーズ・ホテル(Rainers Hotel Vienna)に到着。夕食まで時間があったので、ホテルの裏にあるスーパーマーケットを覗きに行った。

 

PM7:00、バスに乗って、夕食会場へ。メニューは、スープ、子牛のカツ、ポテト、ケーキ。オプションのドリンクにコカ・コーラを頼む。脂っこい料理が続いて食欲が無く、子牛のカツは二口で終りにする。

 

この頃になって今回のツアー参加者20人の内訳が掴めてきた。新婚さんが3組(東京、埼玉、岩手)、女性の学友1組(名古屋)、女性の職場の同僚1組(東京)、1人参加のキャリア・ウーマン(神奈川)、家族連れの3人(横浜)、熟年のKさん夫婦(福岡)、現役のSさん夫婦(仙台)、小生父娘。追々互いに打ち解けて来ることが期待される。

 

PM9:00、ホテルへ戻り、シャワーを浴びてPM10:30に就寝。

 

 

11月3日(水) 曇り、のち一時雨。13℃

 

AM4:00起床。洗濯。パソコン。

AM7:30、朝食。洋食のバイキング。ホテルの朝食が美味しくて助かる。

AM9:00、バスにてホテル発。シェーンブルン宮殿に向かう。

AM9:30、シェーンブルン宮殿に到着。現地ガイドの大村(女性)さんと合流。分かり易くしかも無駄のない説明が始まる。

 

    

            シェーンブルン宮殿−1

 

    

            シェーンブルン宮殿−2

 

シェーンブルン宮殿は、美しい(schön)泉(Brunnという意味であり、ウィーンの中心部シュテファン大聖堂から西に直線で約5kmの位置にある外観はシンプルに見えるが、内装は豪華絢爛である。宮殿の歴史は14世紀初頭に始まるが、マリア・テレジア女帝の統治下で、輝かしい飛躍の時代を迎えた。王朝終焉後、オーストリア共和国の財産となり、1992年には、シェーンブルン宮殿文化施設管理会社が設立され、民営に移管された。

 

以下我々が見学した宮殿内の部屋である。

 

<中央棟>

 

1.中国の小部屋:この部屋は、所謂「密議の間」として小規模な会議に用いられた。召使いの出入りや盗み聞きを防ぐ為、この部屋にはリフトがあり、密談参加者の食事は下の部屋から直接引き揚げられた。

 

2.大ギャラリー:長さ40メートル、幅10メートルの大ギャラリーは、宮廷の様々な催しに理想的な会場となった。クリスタル製の大鏡、金箔を施した漆喰装飾、天井のフレスコ画などは、ロココ時代の綜合芸術を示している。フレスコ画は、イタリアの画家グレゴリオ・グリエルミが制作したもので、マリア・テレジア時代の王朝の繁栄を称えたものである。

 

この部屋は19世紀には2度のナポレオン統治下で司令部として使われ、1815年のウィーン会議は、ここの大広間で毎夜踊り明かし「会議は踊る、されど進まず」で有名になった。1961年には、アメリカのJF・ケネディ大統領とソ連のフルシチョフ首相による東西首脳会談の舞台となった。更に正月元旦に行われるウィーンフィルによるニューイヤーコンサートは、ウィーン楽友協会がメインの会場だが、演奏に合わせて舞うダンスはここで踊られている。

 

3.馬車行列の間:部屋の名前の由来は、飾られている絵画から。つまりホーフブルク王宮(現在は、オーストリアの連邦大統領の公邸がある)の冬の乗馬学校で、1743年に催された大規模な貴婦人の、馬車行列を描いた絵画に由来している。

 

4.セレモニーの間:この部屋に飾られている絵には、記録という意味を持つ絵がある。ホーフブルク王宮でのオペラ上演を描いた絵では、皇帝一家が最前列の席に座っている。客席に少年モーツァルトの姿もあるが、これは工房における数年間の制作過程において、シェーンブルンでの伝説的な御前演奏以来、天才少年の噂が広まっていた為に付け加えられたものである。

 

1762年、マリア・テレジアの娘マリー・アントワネットがここに滞在している時、6歳の神童モーツアルトが招待され訪れる。この時宮殿内で転んだモーツァルトをマリー・アントワネットが助け起こしたところ、モーツァルトが「僕と結婚して」とプロポーズした、という伝説がある。

 

 

<東側棟>

 

5.青の中国風サロン:第1次大戦の停戦直前には、ここで政治交渉が行われた。王朝最後の皇帝カール1世は19181111日、この部屋で権力放棄を内容とする声明書に署名。翌日には共和国樹立が宣言され、皇帝の居城たるシェーンブルンの歴史にも終止符が打たれた。カール1世は国外追放になった。

 

6.漆の間:仏壇の間とも言われる。初恋の相手と結ばれたマリア・テレジアは夫に先立たれた後、晩年の多くの時間を「漆の間」で、喪服を着て過ごしたといわれる。床の「寄せ木細工」も素晴らしい。

 

 

7.ナポレオンの部屋1805年と1809年にナポレオン・ボナパルトが寝室として使用した部屋である。当時の皇帝フランツ2世の娘、マリー・ルイーズは政略結婚により、ナポレオンの妻となった。後年は2人の間に生まれた少年ナポレオン・フランツ(ライヒシュタット公)が、この部屋に住んだ。

 

8.磁器の間:マイセン磁器のシャンデリアや暖炉があり、マリア・テレジアの遊戯室兼仕事部屋であった。

 

9.百万の間(ミリオン・ルーム):部屋の名前は、エキゾチックな紫檀の化粧版を用いた贅沢な内装に由来する。小振りの部屋であるが鏡を取り付けて広く見せている。寄せ木細工も見応えがある。

 

10.       ゴブランの間この部屋はゲストルームとして使用され、壁面や椅子に用いられているのは、18世紀にブリュッセルで生産されたゴブラン織りである。床の寄せ木細工も見事である。

 

11.       ソフィー女大公の書斎これは、19世紀にフランツ・ヨーゼフの両親であるフランツ・カール大公とソフィー大公妃が使用していた一連の部屋のひとつ。野心的なソフィー大公妃は、フランツ・ヨーゼフを皇帝とするため、エネルギッシュに政治活動を行ったばかりでなく、皇帝となった息子にとって最も重要な助言者であった。このため彼女は「ウィーンの宮廷で唯一の殿様」と呼ばれた。

 

大公妃にとって嫁であり姪にもあたるエリーザベト皇后(Elisabeth)との関係は、常に緊迫したものであった。これは、シシィ(エリーザベトの愛称)がウィーンの宮廷に馴染めなかった大きな要因のひとつである。エリーザベトは、姑によって常に監視されていることを嘆いていた。

 

 

12.       赤いサロン:ここで見られる肖像画は、18世紀末以降の皇帝を描いたものである。まず、マリア・テレジアの息子で、兄ヨーゼフ2世の後継者となったレオポルト2世、その隣りは息子のフランツ2世。これは「騙し絵」になっている。この人のつま先に注意!なんと、部屋の端から端に行く間、常につま先が、自分の方を向いているように見えます!目の錯覚ですね。

 

13.       テラスの小部屋:「花の小部屋」とも呼ばれ、本来は廊下になる場所である。

 

14.       豪奢の間:名称の由来は、ここに置かれた豪華なベッドによる。これは、ウィーンの宮廷で用いられた豪華なベッドのうち現存する唯一のもので、本来はホーフブルク王宮にある女帝のプライベートルームに置かれていた。豪華なベッドは、日常生活の為の家具ではなく、むしろ様々なセレモニーの舞台装置であった。その為に若干「前下がり」の作りになっている。このベッドは、赤いビロードに高価な金糸・銀糸で縫い取りを施してある。

 

15.       フランツ・カールの書斎:飾られた絵画は、マリア・テレジア時代のもの。これは、名高い皇帝一家の肖像で、フランツ・シュテファンとマリア・テレジアが、多くの子供たちに囲まれている。皇帝夫妻は16人(女11人、男5人)の子宝に恵まれたが、その中で成人に達したのは11人である。

 

これ以降に生まれる子供や、すでに夭折した子供たちは、画面に描かれていない。出来る限り多くの子供を得ることは、王朝の存続を保障するため、皇帝夫妻にとって最も重要な課題のひとつであった。この絵を見るとマリア・テレジアの体重が120kgもあったと言う事が、あながち大げさではないと思われる。マリア・テレジアが自分を指さしているのは「権力者は夫ではなくて私よ」と言う意味だそうな。

 

外観のシンプルなデザインに比べて内部の何と絢爛豪華であることか。ハプスブルク家の威信をまざまざと見せ付けられた思いがする。パリのベルサイユ宮殿と比べても、内部はシェーンブルン宮殿の方が見応えがあるかもしれない。内部の写真撮影は禁じられていたので、写真集を1冊購入した。もう一度ゆっくり思い返す為にも。

 

    

           シェーンブルン宮殿の広大な庭園

 

    

           ネプチューンの泉(シェーンブルン宮殿)

 

時間の都合で西側棟までは見学する事が出来なかった。集合時間まで20分程しか残ってないが、南側に広がる庭園も見ておきたいと考え、急いで外へ出る。庭園の総面積は1.7と言うから、東西、南北にそれぞれ1.3km位になる。10分間歩いて行ける所まで行ってみようと、急ぎ足でいくとネプチューンの泉Neptuneギリシア神話の海神)に到着。

 

 

    

            シェーンブルン宮殿の遠景

 

    

        ネプチューンの泉と背後の丘にそびえるグロリエッテ

 

更に南側の小高い丘には、グロリエッテGloriette1775年に建てられた軍事的な記念碑)が見えるが、とてもそこまで行く時間がないと諦めて戻る事に。庭園内には温室、日本庭園、動物園まであるらしいが、滞在時間が1時間半ではどうにもならない。心残りではあるが、次回の楽しみとしておこう。

 

    

               ベルヴェデーレ宮殿−1

 

AM11:00、本日2つ目の見学となる、ベルヴェデーレ宮殿Belvedere)に向かう。ベルヴェデーレとは、イタリア語で「美しい眺め」という意味であるが、南側の大きな池は修理中であった。シェーンブルン宮殿からバスで10分程の所にあり、市の中心地のシュテファン寺院からは直線距離で1km位である。此処でも現地ガイドの大村さんの説明が活舌良く展開された。

 

    

             ベルヴェデーレ宮殿−2

 

この宮殿は、オイゲン公が、イスラム教徒を撃退した褒美として、一代で造った館で、夏の離宮として使われた。しかし、オイゲン公は相続人となる子をもうけなかったので、1736年の死後、その莫大な財産は、ハプスブルク家の所有となった。そして1914年、サラエボ事件をきっかけに始まった第1次世界大戦が終了した1918年に、ハプスブルク家が消滅した後、この館は国の管理となった。1955年、旧ソ連と連合国との間で、ソ連からの開放を意味する調印式が行われたのは、ここの「赤大理石の間」である。

 

オイゲン公はオーストリアの軍人。プリンツ・オイゲン(Prinz Eugen)の呼び名で知られる。サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族で、サヴォイア公の男系子孫に当たる事から、公子(プリンツ)の称号をもって呼ばれる。彼はハプスブルク家の3人の皇帝、つまりレオポルト1世、ヨーゼフ1世、カール6世の第一の助言者であり、彼らから深い信頼を得ていた。

 

    

             ベルヴェデーレ宮殿の庭園

 

この宮殿は、先に出来た下宮1714年着工)と、500m程離れた場所に後から出来た上宮1718年着工)の二つの宮殿から成っており、その間は広い庭園になっている。緩やかな傾斜地の高台に位置する上宮からは、ウィーンの街並みを眺望出来る。現在この宮殿は、「ベルヴェデーレ美術館」として市民に公開されている。

 

この美術館では、世紀末美術の所蔵が多く、とりわけ「グスタフ・クリムト」及び「エゴン・シーレ」の秀逸なストックが多くの人々を引きつけている。

 

グスタフ・クリムト

「接吻」のタイトルが付けられた絵の前で、クリムト及びこの絵について種々説明があった。女性の裸体、妊婦、セックスなど、赤裸々で官能的なテーマを描くクリムトの作品は、甘美で妖艶なエロスと同時に、常に死の香りが感じられる。『接吻』に代表される、いわゆる「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸し出している。

 

クリムトは、生涯結婚はしなかったものの、多くのモデルと愛人関係にあり、非嫡出子の存在も多数判明している。著名な愛人はエミーリエ・フレーゲであり、最期の言葉も「エミーリエを呼んでくれ」であったと言う。

 

エゴン・シーレ

1915年、シーレは4年間同棲していたヴァリと別れ、エディット・ハルムスという女性と結婚する。1918年、第49回ウィーン分離派展に出品した作品は高い評価を得、ようやく画家としての地位を確立しようとしていた矢先、当時ヨーロッパに流行していたスペイン風邪であっけなく死去した。28歳の若さであった。なお、妊娠中であった妻のエディットは、シーレの死のわずか3日前に同じ病で没している。

 

シーレは28歳年長の画家クリムトとは、師弟というよりは生涯を通じた友人という関係にあった(両者はたまたま同じ年に没している)。エロスが作品の重要な要素になっている点は、シーレとクリムトに共通しているが、作風の面では両者はむしろ対照的である。

 

世紀末の妖しい美をたたえた女性像を描き、金色を多用した装飾的な画面を創造したクリムトは「表現対象としての自分自身には興味がない」として自画像を、ほとんど残さなかった。これに対して、シーレの関心はどこまでも自分の内部へと向かい、多くの自画像を残した。

 

エゴン・シーレがウィーン美術学校に、一発で合格した(1906年)翌年、画家志望だったアドルフ・ヒットラーは、1907年、8年と続けて受験に失敗している。もしヒットラーが絵描きになれていたら、第二次世界大戦もユダヤ人虐殺もなかったにちがいない。

 

この美術館では、クリムトとシーレの作品について重点的な解説がなされた。しかし個人的な好みから言えば、この美術館では所蔵も少ない印象主義のオーギュスト・ルノアールや、クロード・モネの方が、分かり易くて好感が持てる。

 

最後に私の目に飛び込んできたのは、ジャック・ルイ・ダヴィッド作の「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」である。ナポレオン・ボナパルトが総司令官として馬にまたがった姿で、全面に描かれており、右手で進軍方向を指した姿は、見る者を惹きつける。彼は画家のダヴィドをプロパガンダに利用したのである。私はこの絵を何度か目にした事があるが、原画がここにある事は知らなかった。

 

AM12:25、1時間程の絵画鑑賞を終えて、ベルヴェデーレ宮殿を出発。昔の城壁が取り壊された後に、路面電車が一周している「リング」をバスに乗って走る。車窓から見える建造物を現地ガイドの大村さんが案内している。有名な名前の建物や像が、次々に目に入ってくる。

 

国立オペラ座――ゲーテ像――モーツアルト像――王宮――マリア・テレジア像――ドナウ運河――プラター大観覧車――シューベルト像――ヨハン・シュトラウス像――ベートーベン像――楽友協会――セセッシオン(分離派会館)――国立オペラ座

 

PM1:00、リングを一周し、国立オペラ座Statsoper)に戻った所バスを降り、土産店に案内されてそこで解散、自由時間になった。ウィーンのメインストリートで歩行者天国になっているケルントナー通り(KARNTNER STR.)を歩き、昼食の取れる店を探す。

 

ウィーンに行ったらホテル・ザッハー(Sacher)でお茶を飲みたいと、最初から決めて来ている人もいた。我々はそれにはこだわらずに歩いたのだが、適当な店が見当たらず、結局普通のピザ屋になってしまった。味も期待はずれで口直しにコーヒー店を探す事に。

 

    

              シュテファン寺院

 

何処の店を覗いても人が一杯で、空いている席を探すのにまたホッツキ歩く。シュテファン寺院Stephansdom)の近くで、何とか座れそうな店の2階に上がってみると、其処もほぼ満席状態。外の通りが見えない席が1つだけ空いていた。歩きつかれて其処に座り、コーヒーとケーキを注文。出てきた物は、苦くて量の少ないエスプレッソと、甘くて大きなケーキであった。

 

PM2:30、5時半までの自由時間に、「ドナウ川を見に行こう」と地図を開いていると、通り掛かりのおばさん(60歳前後)が「どうなさいましたか?」と声を掛けてくれた。「ドナウ川を見に行きたいのですが」「それならそこの地下鉄の駅から1号線で行くと良いわ」「歩いて行きたいのですが」と言うと、一瞬の間をおいて「こちらにいらっしゃい」と言って、バスが止まっている所へ行った。

 

歩き方を教えてくれるのかなと思っていると、そのおばさんは、バスの運転手(こちらも60歳前後の女性)と一言二言話している。そして「このバスに乗りなさい」と言うではないか。状況がつかめないままそのバスに乗ると、どうやらこのバスは観光バスの様である。一番前の席にある荷物をどかして二人分の席を空け、「此処に座りなさい」と言う。我々親子を乗せた後、最後に乗ってきたおばさんは、運転手の隣に座った。つまりこのバスのガイドさんだったのだ。

 

聞くと「オランダ・ドイツ方面から来た4泊5日の観光ツアー」であることが判った。たまたまこのバスも、これからドナウ川の方を巡る予定であったのか、それとも私達がそのキッカケを作ったのか分からないが、偶然が重なって思わぬハプニングに出くわした次第。ガイドのおばさんはドイツ語でしゃべり続けている。ユーモアに溢れているらしく、後ろの席では笑い声が絶えない。

 

バスはドナウ運河(Donaukanal)、ドナウ川(Donau)、ノイエ・ドナウ川(Neue Donau)、アルテ・ドナウ川(Alte Donau)と4本のドナウ川を渡ってから、Uターンして戻り、映画「第三の男」に登場して世界的に有名になった、大観覧車のあるプラター遊園地Prater)まで戻ってきた。更にリング寄りに走った所でバスが止まり、皆が下りていく。どうやらお土産屋さんに立ち寄った模様だ。

 

    

             土産屋に立ち寄ったバス

 

私と次女は、此処からなら歩いて戻れるだろうと判断し、バスに別れを告げようとすると、70歳代と思しき男性が近寄ってきて「日本から来たのかい?私は第2次大戦の時、インドネシアにいて日本語教育を受けたんだよ。今はオランダにいるけどね」と笑顔で話し掛けて来た。私達はお礼を言い、握手をして歩き始めたが、バスに乗った場所まで歩いて戻るのに30分ほど掛かった。

 

4本のドナウ川を車窓から見ることが出来たが、ヴァッハウ渓谷で観た美しい景色は無かった。この間、約1時間。バスから降りる事はなかったので、その間の景色を写真に残す事は出来なかった。日本では考えられないハプニングに遭遇した事は、ウィーンでの忘れられない想い出になりそうだ。

 

後から調べたら、4本目のドナウ川までは、町の中心地、シュテファン寺院から約5kmもあり、とても歩いて行ける所ではない事が判りました。

 

    

             夕暮れのマリア・テレジアの像

 

    

             夕暮れのモーツアルトの像

 

    

               夕暮れのゲーテの像

 

    

               夕暮れの国立オペラ座

 

PM4:00、夕食までの自由時間は、残す所あと1時間半。次女は「マリア・テレジアの像をカメラに収めたい」と言う。ならばと地図を広げ、方角を確認する。シュテファン寺院、ミヒャエル教会、王宮と通り抜け、マリア・テレジアの像に来た時には、既に太陽が落ちかかり、シャッターチャンスは逃していた。それにも拘わらず数枚の写真を撮ってから、モーツアルトの像ゲーテの像そして国立オペラ座へと急いだ。

 

この時点で時計の針は、PM5:00を回っていた。残り30分でケルントナー通りの中程からヨハネス通りに右折し、夕食会場まで行かねばならない。地図上の位置はおおよそ判ってはいるが、初めて行く所なので不安もある。ケルントナー通りを歩いていると、同じツアーの家族連れ3人が反対方向から急ぎ足で歩いて来た。私達二人は、右折すべきヨハネス通りを通り越していたのだ。

 

こうして予定の10分前に、夕食会場に辿り着く事が出来た。今夜のオペラ鑑賞の為に、一度ホテルに戻って、着替えて来た人もおられたが、小生は、観光の方に気持ちが行ってしまって、わざわざ日本から持って来ていたワイシャツ、ネクタイ、双眼鏡の事をすっかり忘れていた。

 

PM5:30、夕食。メニューは、スープ、牛肉(茹でて油と旨味成分を取り除いた様な)ポテト、マスタード入りのリンゴジャム。デザートはカシス味のタレが付いたケーキ。お味はイマイチでした!

 

    

             国立オペラ座のバルコニー席

 

PM6:30、オペラの入場券が各自に配布されて、オペラ座へ向かう。オペラ座に着くと入り口のホールは既に大勢の老若男女で一杯。自分の入場券に書かれた指定席は、バルコニー4階の3列目1番、舞台から見て左10時の方向。オーケストラのピットは全く見えず、舞台の右半分もバルコニーに隠れて見えない所であった。これでもガイドブックの座席料金表によると、8ランク中の5番目で、57ユーロとなっていた。(ちなみに最高額は168ユーロ、最低額は10ユーロ)

 

オマケに

1,今朝も時差の関係で4時から起きている。

2,夕食直後で腹は満腹。

3,自由時間に歩き疲れている。

と、居眠りするには条件がそろい過ぎていた。

 

PM7:00に「魔笛」の序曲が始まり、幕が上がったのは覚えているが、気が付いたら第1幕が終了していた。第2幕に入っても眠気は覚めず、夜の女王のアリアが始まったことは覚えているが、「余り良い声ではないな」と感じた後はまた寝てしまった。次に目が覚めたのは殆ど終わりの場面で、パミーノが唄っている所であった。

 

35年以上前、未だ薄給で若かった頃、ミラノ・スカラ座の引越し公演で「ラ・ボエーム」を、上野の東京文化会館で鑑賞した。その時は、リカルド・ムーティの指揮に興奮し、幕が上がった時は、設営の見事さに身が震えた事を未だに覚えているが、その時の感動に比べたら今日の気持ちは表現しようがない。

 

    

            終演後の退場風景(国立オペラ座)

 

締まらない音、チャチな設営。小生にオペラを云々する資格が無いことは十分自覚しているつもりだが、本当に素晴らしい公演なら、眠気も吹き飛んだと思うのだが、これは私の勝手な言い分であろうか。これが本場の、ウィーン国立オペラ座の最高レベルの公演なのだろうか?と自問自答しながら退場したのであった。

 

PM10:30、ホテルに帰着。

PM11:30、就寝。


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