2.オアフ島(その1)

 

3月31日(水)

 

妻、心づくしの天ぷらそばで、早めの夕食を済ませて、何時ものように、佐倉駅まで送ってもらい、PM6:11、佐倉発、成田空港行きの快速電車に乗る。寒い!昨日の最高気温は9℃で、春だと言うのに真冬並みの寒さであった。天気予報では、本日は15℃まで上昇すると言っていたが、そこまでは上がっていないようである。

 

行き先がハワイと言う事で、オーバーコートこそ着ては居ないが、セーターとジャンパーの冬支度で出発だ。マウイ島、ハワイ島の火山に登るときの防寒具として必要になるので無駄にはならないと思うが。

 

夜の成田空港は閑散としていた。何時も賑やかな状況を目にしていたので、かえって違和感を覚える。両替所で、若干の両替をしようと思って、キャッシュとトラベラーズチェックのレートを見ると、1ドルにつき1円ほどトラベラーズチェックの方が有利に表示されていた。

 

念のため「ドチラガ有利ですか」と聞くと、以外にも「キャッシュの方が有利です。なぜなら、トラベラーズチェックには2%の手数料が上乗せになりますから」と言う。1年前は1%だったのが2%に変わってから、逆転してしまった。何とも不思議な感じである。

 

ハワイ行きの機内は殆ど日本人で、海外へ行くような気分がしない。全日空だという事もあって、キャビンアテンダントは全員日本人だし。回りを見渡しても日本人以外を探すのが大変なくらいだ。春休み期間中ということもあり、家族連れが多い。中には3世代の家族も見受けられる。ホノルルも外国と言う感じがしないのだろうか。英語も必要ないのかな?

 

此処で「時差」に付いて触れておかねばならない。機内で渡された入国カードに日付を書く欄が在る。「3月31日の夜に乗って、朝に到着するのだから、日付は4月1日だろう。間違えるなよ!」と思いながら確信を持って記入した「4月1日」が間違いであると気づいたのは、着陸の少し前であった。私の腕時計は日本時間で朝の3時半を指しているのに、到着は朝の8時半であるという。

 

どちらも4月1日ならハワイの時間の方が進んでいることになる。そんなことは無いはずだ。日本のほうが早いはずだ。と、ここまで考えた時に「そうか、ハワイと日本の時差は19時間もあるので、6時間半も飛んできたのに日付は前日のまま、しかも時刻は離陸時よりも12時間以上さかのぼる、と言う現象が生じるのだ」と気づいた次第。

 

あわてて入国申請書の日付を訂正した。かつてハワイに旅行した人が、「約束していたにも拘らず、現地の人が空港に出迎えてくれなかった。時差の関係で、日にちを間違えていたから」という話を聞いていたが、私もその落とし穴にはまる所であった。

 

日本時間4月1日AM3:36、(現地時間3月31日AM8:36分)ホノルル空港に安着。想像していたよりも、小さく古ぼけた空港である。世界のリゾート地の玄関と言う雰囲気は全く感じられない。飛行機から降りて空港ビルに入り、一旦は入国審査を通過するのだが、その後バスに乗せられて、バゲッジカウンターの在る建物に向かう。一瞬何処で荷物を受け取るのか不安になった。

 

機内放送で、「機内食はハワイに持ち込む事は出来ません」との注意が何度かあったので、食べきれないパンやクッキー、そしてボトルの水も置いて来ざるを得なかった。税関審査でも、その件の確認が個別に行われていた。人によっては、バッグを開けられていたが、私はノーチェックでパス。悪い事をする人間には見えないのだろう。入国審査や、バスの乗り場で、列を成していると英語に混じって日本語で「こちらにどうぞ」と係官の声が聞えて来る。さすがに日系人の多い国である事を感じる。

 

空港から今晩の宿泊先のユースホステルまでの行き方は、幾つかあるが、一番安い路線バスは大きな荷物の在る人は使えない。次に安いのは、シャトルバスだが、これはワイキキのホテルまでは行くのだが、ハワイ大学の方には行かないと言う。それでも空港から直接ユースホステルまでタクシーで行くよりは、安いようなので、シャトルバスで一旦ワイキキまで出る事にした。

 

ホノルルとの初めての出会いは、「強風、青空は見えれども黒雲多し」気温20℃位の朝であった。今日は一日中強風が吹いていたが、こんな日は珍しいと現地の人も言っていた。

 

ワイキキでの何箇所目かのホテルで下り、タクシー乗り場に行こうとすると、目ざとく一台のタクシーが近寄ってきた。行き先を「シー・ビュー・アベニュー(Sea view Avenue)のYHA」と告げると了解できたようで、すぐに走りだした。40歳位の運転手は、韓国から来て8年になると言う。ハンサムで綺麗な英語を話す人だった。

 

ユースホステルは、通りに面したビルの裏にひっそり心細げに建っていた。大きな看板が出ている訳でもなく、此処だと言われなければ、気が付かないような、たたずまいである。受付に行くと、50歳ぐらいのおばちゃんがフレンドリーに対応してくれた。日本人とハワイアンの混血らしく、「自分の名前に(アキ)と言う音が入っており、父親は(テルオ)と言った」と話してくれた。部屋に案内されて入ってみると、10人用の男性部屋であったが、本日は4人だけの宿泊であった。

 

少々疲れてもいたが、大きな通り(University Avenue)を一本渡れば、そこがハワイ大学なので、ぶらりと散歩に出かけた。丁度昼食時で、キャンパスは多くの学生が行き交っていた。学生食堂を覗き、サンドウィッチを注文し、学生の中に混じって食べる。回りの学生が英語ではない言葉を話していた。

 

   

               ハワイ大学通り

 

その中の一人に聞くと「広東語です。両親は中華街で働いている。一日も休日が無いので、非常にきついと思う。競争が激しいので休日は取れないのです」と言う。彼は中国人の3世で、看護士の勉強をしている。こちらの合格率もかなりの難関らしい。

 

食堂から出て歩いていると、青年男女が何やら書類を並べて、人待ち顔で座っていた。声を掛けると、「自分たちはボランティアで、キリスト教の教宣をしているのだ」と言う。ハワイ大学の学生ではなかった。

 

   

             ハワイ大学・キャンパス

 

ユースホステルに戻るには早すぎるので、バスに乗って近くの高原まで行ってみようと思い、近くのバス停に来た4番線のバスに乗った。2ドル払って乗ったのだが本当は2ドル25セント払わねばならなかったようだ。ガイドブックには2ドルと書いてあったのだが、実際には2.25ドルになっているらしい。運転手が気付かなかったのか、黙認してくれたのかは分からない。

 

その事はこの際小さな問題で、本当の問題は、何処まで乗っても高原らしい所に行かなかった事である。20分ぐらいで高原に着く予定でいたのに、1時間ほど乗っても着かず、とうとう終点になって全員が下りてしまった。私はそこで下りるわけに行かないので、運転手に「道に迷いましたので、ハワイ大学まで行きたいのですが」と言うと「了解。そこに着いたら声を掛けてあげるよ」と言ってくれた。

 

発車まで私と運転手だけが乗車した状態で、20分ほど停車していたと思う。運転手は時間潰しに、誰かと楽しげに携帯電話で話をしていた。2時間ほどバス旅行を楽しんで?スタート地点に戻って来たのでした。後から気が付いたのは、4番線ではなく6番線のバスに乗ればよかったようだ。次回は6番線に乗ってみよう。

 

ユースホステルの自室に戻ると、アメリカ人の青年が休んでいた。話しかけると彼は「電子工学のマスターコースを終了する段階の25歳である。将来はファーミングに携わりたいと考え、その第一候補にハワイのカウアイ島を考えている。今回は、そこで3ヶ月の実地訓練を行う事になっている。働きながら、適当な土地を探し、できればアメリカのミシガン州にいる両親を呼ぶことも考えている。ハワイは趣味のヨットも楽しめるので、候補地としては理想的な場所である。

 

彼の所属はアメリカの大学だが、マスターコースの授業はフランスのキャンパスで行われた。買い物ぐらいはフランス語で出来るようになったが、これ以上フランス語をやろうとは思わない。今回は、フランスから、ニューヨーク、ロスアンジェルスを経由してハワイまで来た。乗り換え時の待ち時間も長く、疲れてしまった。現在の最大の関心事は、200万円ほど借りた学生ローンの返済だ。」と話してくれた。なかなかの好青年である。

 

青年のアドバイスで、夕食の買出しに10分ほど歩いた所まで行って来た。スーパーや、食堂等が何軒か並んでいたが、買いたくなるものが無く、最後の一軒に入ったらそこは日本人向けのスーパーであった。結構大きな規模で、日本にあるスーパーにも負けない位、品揃えも豊富であった。日本からの輸入品が多い為か、価格は日本の1.5倍から2倍ぐらいに感じられた。シリアル、リンゴ、オレンジ、牛乳、あんぱん、いなり寿司。合計18.75ドル也。

 

YHAに戻って、キッチンにいたら、「お湯ですか?」と日本語で声を掛けられた。顔は日本人だが、発音が少し変だ。この後暫くの間、彼と日本語と英語で懇談する事になる。彼は「日本人女性とノルウェー人軍人との間に、昭和22年に生まれた。敗戦直後はアメリカ軍だけでなく、他国の軍人も日本に来ていた。しかし間も無くアメリカ軍だけが残って他国の軍人は帰って行った。

 

その時に彼の父親も帰ってしまった。残された自分は、髪の毛が茶色だったので、周りから変な目で見られ、随分いじめられた。12歳の時に、父方の親類を頼ってアメリカに渡った。成長してポーランド人女性と結婚し娘をもうけたが、離婚して以来、娘との交流は無い。最近の7年間は英語教師をしながら、ロシア、中国等を渡り歩いている。その前は、アメリカの企業に所属しながら、サウジアラビアで電子技師として働いていた。今は、仕事が無くて。

 

此処・ハワイにはタイから日本経由できたのだが、タイは38℃、日本はマイナス0℃だった。ロシアの警察は、すぐに賄賂を要求してくる。例えば、パスポートをホテルに預けたまま不携帯で外出した時、何の書類を作ることもなく、現金を3000円ほど要求された。」等と話してくれた。「波乱に富んだ人生を歩いてこられた人なのだな」と思うと同時に、何処と無く孤独感を漂わせた人であることを感じた。

 

私が「去年はイギリスとアイルランドに行って来ました」と言った時「アイルランドに行って来たのですか。あそこは私が居た1979年に革命がありまして、その時アメリカ人は全員国外退去させられました」と言う。アイルランドにそんな歴史があったかなと不思議に思いながらも話を続けていると、彼が言っているのはイランの事であった。

 

私の「アイルランド」の英語の発音を彼は「イラン」と聞き取ったらしい。「アイルランドとイランでは随分違うだろうに」と思いながらも、辞書を引いてみると、アイルランド(アイアランド)、イラン(アイラン)と発音が非常に似ているではないか。私が、アイアランドのランドをきちんと発音しなかったのが誤解の原因だったようだ。「ランドの方ですね」と確認されて誤解が解けた。外国語は難しい。しかしこんな事を繰り返しながら覚えていくしかないのだが。

 

 

4月1日(木)

 

今日は相部屋の青年とビショップ・ミュージアムBishop Museum)へ行ってきた。此処には、ハワイの歴史が展示されている。1889年、カメカメハ王家最後の末裔となったバウアヒ王女を追悼して彼女の夫、チャールズ・リード・ビショップが設立。

 

                                                                            ビショップ博物館                                                                                                                                                   

 

最初に参加したコーナーでは、60歳代の婦人による次のような話があった。

「ハワイはなんと言ってもまず孤立した島である。しかも海底火山の噴火によって成立した島であるから、その原始には何も無かったわけだ。そこに何らかの動植物が住み着くようになったのには、何らかの働きがあったはずである。それは波(Wave)、風(Wind)、鳥(Wing)と言う3つのWである。そしてハワイには固有の動植物が沢山存在している。

 

ハワイ島は最も新しい火山島であるが、そこのマウナ・ケア山(Mauna Kea)は、標高4205mだが、海底からの高さは9000mに達し、エレベスト山よりも高いのである。ハワイ諸島は、カウアイ島、オアフ島、マウイ島、ハワイ島の順に成立し、毎年16インチずつ西北に動いている。ハワイ島の東にはまだ海面上には姿を見せていないが、既に次の火山島が形成されつつある」等と。

 

   

              ビショップ博物館−2

 

午後3時ごろ、そろそろ引き上げようかと思っている所に、70歳前後の日本人婦人が現れ「私はここで、日本語で説明するボランティアをしているので、是非私の説明を聞いてもらいたい」と熱心に言われた。私は「もう一通り見ましたので」と辞退したのだが「カメハメハ大王の部屋だけでも」と言って先に立って行かれた。断りきれなくなって付いていったのだが、さすがに良く分かっている人から説明されると、理解が深まるものだ。

 

カメハメハ大王はハワイを統一した初代の大王であるが、その後の大王、王妃は短命な人が多い。その多くは西洋人たちの進攻により、伝染病がもたらされ、免疫を持たないハワイの人々が、それに侵されたことに大きな原因があるという。1880年代に、ハワイ人が激減した時、日本を訪問して大歓迎を受けた事のある、時の大王は日本に移民を要請してきた。日本政府がその要請を快諾した事から、日本人のハワイ移民が始まったのだと言う。1920年代に移民が禁止になるまでに、20万人位の日本人がハワイに移民している。

 

ユースホステルに戻ると、また新しい人との出会いがあった。

その@

同室に日本人男性(40歳代、岐阜県在住)が来ていた。「昨日の中華航空機で来る予定だったが、乗り遅れて、今日の全日空になった。精神的に行き詰まり、サラリーマンをやめて今はフリーでやっている。8歳年下の妻は教員である。結婚10年になるが子供はいない。仕事を兼ねて1週間ほど滞在する」と言っていた。海外旅行は豊富なようだ。

 

   

           YHA ホノルル・ユニバーシティ

 

そのA

河口湖近くの山梨県に住んでいる日本語の上手なアメリカ人と懇談。「外人カードの更新が期限に13日間遅れた為に、1年間の国外退去の命令を受けた。入国管理事務所に電話した時は、問題ないから来るように言われたのだが、行ってみるとすぐに手錠を掛けられて、拘束されてしまった。

 

日本には、日本人妻との間に二人の子供がいる。実家はアメリカ・カリフォルニアのサンジェゴだが、日本との行き来にはハワイが便利だから此処に来た。友人も居るし。弁護士の話では、3ヶ月ぐらいで日本に戻れるように頑張ると言ってくれている。妻は翻訳業で頑張っている。自分はコンピューター技師である」と言う。

 

   

           YHA ホノルル・ユニバーシティ−2

 

まじめな青年なのに、杓子定規にしか処理出来ないのだろうか。お役所仕事の典型だ。可哀想としか言いようが無い。以前は罰金で済んだことらしい。2008年の法改正で厳しくなったという。先の岐阜県在住の日本人男性が成田に居た昨日も、外国人と入国管理官との間で激しいやり取りがなされていたと言う。

 

そのB

カナダのトロント在住の母親(60歳位)と、日本で英語教師をしている息子(30歳位)。互いに休暇を取って距離的に中間のハワイで落ち合った。母親のハワイ滞在は6ヶ月の予定だと言う。私の妻が来られなかった理由を、母の介護の為だと言うと「私の母も90歳でホームに居るの。最初は嫌がっていたが、今は喜んでいる。話し相手が居たり、様々な催し物があったりして楽しいようだ。あなたもそうした方がいいよ。若い人には若い人の人生があるのだから。私も自分の事が出来なくなったら、ホームに入れてくれといってあるの」と言っていた。

 

夕食は、ミュージアムで食べ残したサンドイッチの半分にしようと用意して、談話室に行くと、同室のアメリカ人青年二人と、トロント在住のカナダ人親子がテーブルを囲んで食事中であった。そして「あなたもこちらに来て食べなさいよ。サンドイッチは明日の朝食にすればいいじゃない」と声を掛けられたのを喜んでお受けした次第。思いがけず本格的な料理に舌鼓を打つ事になった。

 

 

4月2日(金)

 

ワイキキ・ビーチ(Waikiki Beach)を歩いてダイヤモンド・ヘッドを目指す。浜辺は案外狭いのかなと思っていたら、予想以上に狭かった。念のため砂浜の部分を波打ち際まで歩いてみたら、たったの15歩しかなかった。それも大幅ではなく、普通の歩幅である。ワイキキ・ビーチは何処も似たり寄ったりの広さである。そしてホテルがすぐ後ろにそびえている。

 

   

              ワイキキ・ビーチ−1

 

 

場所によっては足の踏み場も無いほどに混み合っており、浜辺を歩くにも人を避けながら歩かねばならないほどである。殆どの人は泳ぐと言うより甲羅干しだ。赤ん坊からお年寄りまで、あらゆる年代の人が見受けられた。ワイキキは元々タロイモが生える湿地帯だった所を、埋め立て造成した人工の浜である。砂はオーストラリアから持ってくると言う。

 

   

             ワイキキ・ビーチ−2

 

浜辺を歩いている時、不思議な作業をしている壮年を見かけたので声を掛けてみた。彼は「金属探知機で落し物を探しているのだ。今日の成果は、このプラチナのペンダントと各国のコインだ。物によってはインターネットでオークションに出して売却する。仕事の合間に趣味でやっている」と言っていた。

 

   

               金属探知器で宝探し

 

ダイヤモンド・ヘッドの近くまで歩いてきたが、登山口が見つからない。適当に坂道を登っていくと、そこは女子高であった。守衛さんに「ダイヤモンド・ヘッドの頂上に行きたいのですが」と尋ねると、「登り口は大きく迂回した所であり、頂上までは此処から徒歩で2時間ほど掛かるでしょう」と言う。今日はビーチを歩く事を第一に考えていたので、履物はビーチサンダルであった。今日のところは諦めて退却する事にした。

 

   

               ハワイ女子校

 

帰りはワイキキ・ビーチに沿った広くて美しいカピオラニ・パーク(Kapiolani Park)を歩いてバス・ストップを目指した。来る時に下りたバス停まで戻ると、空腹を覚えたので適当な食べ物を探していると、和食の店があった。暖簾には「義経」と書かれている。メニューの中から「狐そば」をオーダー。大分待たされた所を見ると、注文してからそばを茹でていたようで、出てきたそばは腰があり、Goodでした。まだ何日も経っていないが、久しぶりの日本食を堪能しました。

      

   

              カピオラニ・パーク

 

YHAへの帰り道、一駅手前のバス停で下り、前日と同じ日本人向けのスーパー「ニジヤ(Nijiya)」に立ち寄る。インスタントラーメン、バナナ、りんご、コーヒー、緑茶、キャベツ等を買った。夕食にキャベツ入りのインスタントラーメンを作って、同室の日本人と一緒に食べた。タイマーの使い方が分からず、長く茹ですぎたせいか、麺が少し柔らかかった。

 

今日は、フランスでマスターコースを終えて来たアメリカ人が出て行き、そこへ台湾人が入ってきた。台湾人だが、今はマウイ島で建築業に携わっていると言う。彼は、自分のノートパソコンを使って電話をしていた。どんなシステムなのか聞いてみると「アメリカの会社が始めたシステムで、これに加入すると世界中の電話が、一ヶ月14.99ドルの定額で済むのだ」と言って笑っていた。

教えてもらった会社の
URLを書いて置くので、興味のある人はトライしてみて下さい。(http//www.vonage.com/)
通信の世界からは益々目が離せなくなってきた。それにしても日本の通信料金は高いな。

 

 

4月3日(土)

 

今日は、オアフ島一周にトライする。時差も取れて大分元気になってきたのかな。YHAから6番線のバスでアラモアナ・センター(Ala Moana Center)まで行き、AM10:06発の52番線に乗り換えて、一周の旅に。途中、晴れたり降ったり。山から離れた所は概ね晴れ、山に近い所では雨、と小さな島にも拘らず、天候の変化が著しい。バスの中は必要以上に冷房が効いていて肌寒い。

 

人口が多そうな所は、小まめに停まるが、そうでない所は高速道路を走ると言う具合である。高速道路の一番長い部分がカメハメハ・ハイウェイ(Kamehameha Hwy)と命名されていたり、バス停にも、カメハメハの名前が冠されていたり、カメハメハの名が非常に多い。何かの歌に「何でもかんでもカメハメハ」と言う歌詞があったが、それを思い出した。

 

乗ったままでいると、約4時間でオアフ島を一周するが、2時間ほど過ぎた辺りで、車内冷房の寒さに耐え兼ねたことと、空腹感を覚えた事で、タートル・ベイ・リゾートTurtle Bay Resort)で下車。リゾートとは言っても大きなホテルが1軒と、ワイキキの浜辺に比べたら箱庭程度の小さな砂浜があるだけ。それでも結構な人々が砂浜で遊んでいた。

 

   

             タートル・ベイ・リゾート

 

私はランチにハンバーグを注文した。暫く待たされた後運ばれて来たのは、ポテトフライやピクルスまで付いた豪華な物であった。少し多かったがポテトフライ以外は全部食べた。11ドル也。

 

   

                  ランチ

 

温かい海風と食事で1時間半ほど過ごし、身体が暖まった所で、PM1:55発のバスに乗る事に。前半に走ってきた続きのバス路線なのだが、後半は52番線から55番線に名前が変わる。帰りに乗ったバスは古い型らしく、電光表示板も車内放送も無かった。

 

何処を走っているのかは、YHAを出る時に貰ってきたバスの時刻表で、大まかに推測するしかなかった。それでも終点まで行けばよいので、下車しそこなう心配は無かった。PM3:30に終点のアラモアナ・センターに無事到着。多くのバスが此処を起点にしている。

 

話に聞いていたアラモアナ・ショッピング・センターは恐ろしく大きい。今まで見た中では最も大きいのではないだろうか。目的を決めて歩かないと、くたびれもうけになりかねない。暫くはウインドウ・ショッピング。

 

案内所でDVD店を訪ねると、50歳代後半に見える日本人女性が、愛想良く親しげに応対に出た。「あら、お一人?奥様は?いつまで?いいじゃない!私はアメリカ人男性と結婚してホノルルに移住。夫はハワイ大学の教授」だと言う。夫や弟がハワイ大学の教授だと言う人は、もうこれで3人目だが本当にそうなのだろうか。

 

DVD店で目的のDVDを見つけるも、案の定、リージョンregion)1のアメリカ、カナダ限定の為、リージョン2の日本では再生して見ることが出来ない。どうしても見たければ、こちらで販売されているDVD再生機を買うしかない。しかし、テレビに接続して見る再生機は50ドル、ポータブルの再生機は200ドルもするので購入は諦めた。

 

最後は食材店で、リンゴ、バナナ、パン、ハムを購入して、YHAに戻る。本日のバス代は、2.25ドル×2回=4.50ドルであった。夕食は昨晩のお返しにと、同室の日本人男性(古田氏)が日本蕎麦を茹でてくれた。

 

 

4月4日(日)

 

今日はパール・ハーバーPearl Harbor)の見学に行く。ハワイ大学のバス停からAルートのバスで直行。ホノルル空港を通り越して行く。約45分の道程だ。入り口まで来ると荷物を預けるように言われる。ポーチも含めて、それよりも大きい物、つまり何らかの物を入れて帰れる持ち物は、全て預けるようになっている。

 

一通り見て回っても、持って帰れるような物は何も無いのに。魚雷とか潜水艦とか、沈没している戦艦アリゾナのような大きな物しかないのだから、持ち帰りようが無い。入場料が掛からないからその分だと思えば良いのかな。ちなみに強制預け料は3ドルだ。11時に入場したら、12時の整理券を渡された。つまり戦艦アリゾナの見学まで1時間待ちである。

 

   

               戦艦アリゾナの碇

 

その間、庭に展示されている人間魚雷の「回天」や、真珠湾攻撃当日の写真(海兵隊が戦艦の甲板をデッキで水洗いしていたり、ベッドで横になって居たりの、攻撃される前の普段通りの光景や、攻撃された後、アリゾナが大炎上している光景等)を見て歩いた。日本時間では194112月8日であるが、時差の関係でハワイ時間では12月7日である。12月8日と言う日が頭にこびり付いているので、12月7日と書いてあると何か違和感を覚える。

   

   

               人間魚雷「回天」

 

此処に来ると日本人として負い目を感じる事は免れない。映画も上映しているが、ジャパン、ジャパニーズと連呼されている。ワイキキ・ビーチには沢山来ている日本人だが、パール・ハーバーに来る日本人は少ないようだ。「過去の事は忘れて今を楽しく、今が幸せならそれで良いや」と言うところが大多数なのか。

 

   

                 潜水艦

 

ところが、被害者側は、リメンバー・パールハーバー(忘れまじ、真珠湾攻撃)として記念公園まで造っているのだ。この温度差は如何ともしがたい。広島の原爆投下とは全く逆の立場である。このような戦争記念碑は大小を問わず世界の至る所に見られる。

 

さて12時になり我々が戦艦アリゾナ(USS Arizona)を見学する番が来た。まず整列して200人位が船に乗り、真珠湾の中で戦艦アリゾナが沈んでいる所まで行く。アリゾナをまたぐようにして記念館が建てられており、そこに上陸する。記念館の床が一部ガラス張りになっており、そこから沈んでいるアリゾナが見えることもあると言う。

 

   

             船に乗ってアリゾナ記念館へ

 

私が覗いた時は何も見えず、「此処にアリゾナが沈んでいるのだよ」と言われなければ気が付かないと思う。記念館の一番奥に、2390名の犠牲者の名前が刻印掲示されていた。記念館に居たのは20分間ぐらいで、次の順番の人達が乗ってきた船で我々は引き上げた。真珠湾はいかにも港に相応しく、深く大きな入り江になっていた。

 

   

               アリゾナ記念館

 

希望して入場料を払えば、戦艦ミズーリーの見学も出来るのだが、そこまで気持ちが動かなかった。どう言い訳しても此処では加害者の立場であるし、大きな犠牲者を出した事と合わせて、心は重かった。朝来た路線のバスに乗って、YHAに直帰した。

 

夕食は、残りのインスタントラーメン3人分に、キャベツとハムをたっぷり入れて作ることにした。まだ日本から強制退去させられたアメリカ人が居たので、彼と半分ずつにするつもりだ。声を掛けると喜んでくれた。ところがハムを乗せる段階になって、念のため「ハムも載せて良いか」と言うと、「ノー、ノー。私はハムを一切食べません。イスラム教なのです」と言うではないか。確認して良かった。

 

彼は日本人の奥さんとは毎日インターネットで交信している。オアフ島での仕事も見つかり、当面の食住は確保できたと言う。オアフ島北部の農場で、週15時間の労働をする代わりに、食住を保証してもらう交渉が成立したのだと言う。不幸中の幸いである。

 

談話室でパソコンを叩いていたら、新人さんが同席してきた。24歳の日本人青年だ。友人とパソコンによるスカイプという方法で交信している。若い人は何でも取り入れるのが速い。彼は「高校から自衛隊に入り、6年間勤めたが、考える所があって退職した。これからアメリカの大学に留学する予定です」と言う。馬力のありそうな好青年である。

 

その彼も、暫くの間は時間があるからと言って、先のアメリカ人と同様の農場で働きたいと言っていた。ちなみにその仕事を斡旋してくれるのは、次のサイトに申し込めば良いらしい。http://www.wwoof.org

そういえば、フランスでのマスターコースを終えて来ていたアメリカ人も、此処で話をまとめたと言っていた。結構活用されているサイトらしい。私は明日の早朝にマウイ島へ出発するので、懇談を早めに切り上げて部屋に戻った。

 

 

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