3.マウイ島

 

 

4月5日(月)

 

今日はマウイ島へ移動の日。AM4時半、起床。AM5時半、タクシーでホノルル空港へ。料金は31ドル。AM6時、チェックイン。使用航空会社は、アイランド・エアー(Island Air)。荷物の預け料に10ドルを請求され、支払う。こんな経験は初めてだ。AM7:45、定刻のフライト。今まで乗った飛行機の中では最小のプロペラ機。4人掛けで7列だから28席。そこに15人ほどの乗客。キャビンアテンダントは勿論1人。

 

   

            アイランド・エアーのプロペラ機

 

機体が大きく揺れる事は無かったが、常に上下左右に揺れており、乗り心地は良くない。YHAで同室であった、マウイ島に住んでいると言う台湾人は、「オアフ島との往復には高速フェリーを使う。片道2時間半だし料金も安い」と言っていたのを思い出した。この高速フェリーは就航始めたばかりで、今回の旅行に際し、このウェッブサイトには出会わなかった。

 

飛行機はモロカイ島まで20分。AM8:05に安着。ここで10人ほどの乗客が降り、10人ほどが乗ってきた。20分間、駐機した後AM8:25に再びマウイ島へ向けて飛び立つ。赤茶色に覆われ、緑の見えないモロカイ島を離陸して25分後のAM8:50に、マウイ島に安着。

 

タクシーでホステルへ。運転手は韓国人。「ハワイは如何ですか」と話しかけると「良い点と悪い点がある。良い点は気候だ。しかし若い人が仕事をするには島が小さすぎる。自分は引退したら故郷の韓国に帰りたい」と言っていた。引退したらハワイで暮らしたいと言うのと逆の人生になりそうな人であった。程なく1週間の宿泊を予定しているホステル、バナナ・バンガロー(Banana Bungalow Maui)に到着。料金は20ドル。

 

ホステルで受付を済まし、「もし可能なら今日のツアーに参加したいのですが」と言うと、「OKAM10:30分の出発です」との返事。今日のツアーには参加できないと思っていたのでラッキーであった。此処のホステルでは毎日ツアーがあり、曜日によって行き先が異なる。従って一週間宿泊すれば、全部のツアーに参加できるわけだ。料金は無料で、チップだけを受け取る事になっている。

 

私はまず、出発までの1時間で、朝食を取りたい。近くのスーパーを教えてもらい、行ってみるとTAKAMIYA(高宮?)と言う日本人の名前が付いた店であった。レジで聞いてみると、「祖父の時代に沖縄から移住してきた」と言う。オキナワを「オカナワ」と発音していた。勿論英語のイントネーションをつけて。

 

日本人向けの食べ物が沢山置いてあり、その中から、おにぎりを2個、キュウリの漬物を1箱買って朝食にした。久しぶりのお米のご飯と漬物で、胃袋がホッとしている。漬物がことのほか美味しかった。

 

AM10:30、出発の合図と共に2台のバンに、21人のツアー参加者が分乗した。本日の行き先は「イアオ渓谷州立公園Iao Valley State Park)」だ。車で10分ぐらい走ると公園入り口の駐車場に着き、そこから標高671mの奇岩が見える。マウイ島のシンボルとも言える「イアオ・ニードルIao Needle)である。ニードルとは針の事で、文字通り尖った山が姿を現す。熱帯雨林のジャングルに囲まれたその姿は、独特の神秘性を漂わせている。

 

   

   

              イアオ・ニードル

 

ツアー・リーダーは、参加者に幾つかの注意をした後、先頭になって歩き出した。上半身裸で、裸足のままである。参加者はサンダルから登山靴まで様々だ。私はハワイ旅行用に買ったピカピカのスニーカーである。数時間後に、この真新しいスニーカーが、見るも無残な泥んこになるとは想像もしていなかった。

 

今までの経験では、屋久島で縄文杉を見に行った時の光景を思い出す。歩く距離では屋久島の方が長かったが、歩きにくさではこちらのジャングルの方が上である。マウイ島は熱帯雨林、屋久島は亜熱帯雨林である。

 

   

                 イアオ渓谷

 

まさに熱帯雨林のジャングルの中を登って行ったのである。リーダーは「私はここのジャングルが大好きである」と言っていたが、何の心構えも無く連れてこられた者にとっては戸惑いを隠せない。ある人は滑って尻餅をつき、ある人はぬかるみに足を取られて、サンダルを脱ぎ捨てて行く。

 

    

     サンダルを脱ぎ捨てて        スニーカーは泥んこ

 

斯く言う私も、足元に気をつけていると頭を木の枝にぶつけ、頭上に気を取られていると足元が覚束なくなって、バランスを崩してぬかるみにはまる。1時間もしないうちに、おろし立てのスニーカーは泥んこになってしまった。

 

   

                みんな泥んこ! 

 

 

靴が泥んこになってしまったのは諦めるとして、滑って転ばないようにと注意をしていたのだが、帰りの下り道で足を滑らせ、すってんころりん。ズボンが泥だらけになり、二の腕の内側をかなり大きく擦りむいてしまった。太平洋戦争の折、南方戦線に従軍した多くの兵士が、ジャングルの中で命を落としたと言う話は聞いていたが、今日はその万分の一を経験したような気分になった。

 

リーダーはどこまでも快活で、すっかりジャングルの中を楽しんでいる。野生の、いちご、コーヒー、グアバ、タロイモ等を見つけては丁寧に説明する。「これらが豊富にあるからジャングルの中でも生きていけるのだ」と。眺めの良いところでは何度か立ち止まり、見晴らしの良い景色を紹介してくれた。

 

   

             ジャングルから街を遠望

 

目的の見晴台にはPM1:00に到着。暫く休んだらすぐに下山。PM2:00には飛び込みのできる渓流に到着。若者の大半は、前もって水着の用意をしており、思い思いに飛び込んで、清涼感を満喫していた。PM2:30には車に戻り、ホステルへ帰宅の途に付いた。

 

   

                渓流に飛び込む    

 

ホステルに着くと、まずシャワーを浴びた。そして朝食が遅かったとはいえ、PM3:00にもなれば空腹感を覚えていた。キャベツとソーセージ入りの焼き蕎麦を作って空腹をしのぐことに。次は泥んこの靴とズボンを何とかしなければならない。ズボンは水洗いで泥を落とした後で、他の洗濯物と一緒に洗濯をする事に。靴の泥んこも、取り敢えず水洗いして落としてみたが、一度泥んこになったスニーカーは、白くはならない。

 

これを履いてホノルルの町を歩く事を考えると、気分が落ち込んでしまう。「こんなに汚れるのなら、履き古して捨てたスニーカーを、持って来れば良かった」と思っても後の祭りだ。しかし、「長ズボンに長袖シャツ、それに帽子とスニーカーをしっかり身に着けていたから、かすり傷で済んだのだ」とも言える。物事は考えようだ。明日のツアーは、早朝の出発なので早めにベッドに着く。ベッドのスプリングが、もろに背中に当たり少々気に成る。

 

 

4月6日(火)

 

本日のツアーは、ハナ・ツアーHana Tour)となっている。AM8:30のスタートだ。総勢14人の参加者で一人定員オーバーだが1台の車で行くことに。リーダーは昨日と同じ青年。名前はまだ覚えられない。昨日に続いての参加者は、数人しか居なかった。車の中では、まず簡単な自己紹介から始まった。ブラジル、アルゼンチン、ドイツ、カナダ、アメリカ、イギリス等から参加の青年達だ。

 

私の番が来て「既にリタイアしており、64歳になった」と言うと歓声と拍手が沸いた。同時にツアー・リーダーが「彼は昨日のイアオ・ツアーにも参加したのだ」と言ってくれた。殆どが20歳代と思われる人々の中で、ひときわ目立つ存在だ。

 

今日目指す「ハナ」はマウイ島の東端にあり、今走っている道路が完成する50年ほど前までは、完全に孤立した村であったらしい。今はコテージを付属させた高級ホテルが広大な敷地に建ち、世界の金持ちがプライベート・ジェット機でやってくるようになったと言う。我々はその高級リゾートホテルの敷地を、車窓から一瞥するだけだ。

 

道中、銀杏の匂いに似た悪臭が車の窓から入ってきた。これは「サトウキビ畑の消毒の匂いだ」と言う。マウイ島ではサトウキビ畑や、パイナップル農園があちこちに広がっている。私の宿泊先は、その昔、東島と西島が繋がって出来たマウイ島の、やや西寄りにあるのだが、そこから「ハナ」までは、北側の海岸沿いを、ひたすら東に向かって走る。

 

   

               ケアナエ岬

 

左手は海、右手は岩山と言う光景がおよそ80Kmにわたって続く。スピードが出せない為、たっぷり2時間はかかる。山から海に注ぐおびただしい数の渓流を横切る為に、長さが20m〜30m位の短く片側通行の橋が54本あると言う。伊豆半島の東岸を走っているのと似ている。車窓から青い海に白く大きな波が打ち寄せているのが見える。「此処は世界一のサーファー・パラダイスである」とは、リーダーの話。

 

1時間ほど走った所で小休止。ことのほか美しい海岸で何枚も写真を撮ることになった。合わせて小さなスタンドがあり、飲み物やバナナ・パン等を売っていた。私はパイナップルが美味しそうに見えたので、大きな一切れを買って食べた。甘くてジューシーでベリー・グッドでした。付近に大きなタロイモが生えており、葉っぱの形が像の耳に似ていることから「エレファント・イヤー(像の耳)」とも言うらしい。

 

   

             ケアナエ岬−2 

 

この通りにもパトロール車が走っている。火山岩は崩れ易く、よく道に転がっているし、熱帯雨林地帯にある為に、木の枝が伸びやすく、道路をふさぐのを注視しているのだ。溶岩上の土壌が浅くて、根を深く張れない為、樹木は沢山の根を張っているが、その根は土上に見えている。これらの光景も屋久島で見たのと似ている。

 

   

               溶岩に根を張って

 

AM12:00頃、ワイアナパナパ(Waianapanapa)州立公園に到着。此処の砂浜は、溶岩が長い年月の波浪によって砕かれてできた物で、黒い砂と小石によって成り立っており、ブラック・サンド・ビーチ(Black Sand Beach)と言われる。隣接した所には、ワイアナパナパ洞窟(Waianapanapa Caves)があり、その入り口の池に、同行の若者たちは次々に飛び込んだ。更にそこから泳いで洞窟を通り抜けると言うのだが、此処ばかりは、いつも陽気なリーダーが真剣に注意を呼びかけていた。

 

   

            ブラック・サンド・ビーチ

 

「決してパニックを起こさないように。水の中では目を開いているように。従ってコンタクトレンズは、はずして置くように」と。最終的には5人の青年(内女性1人)がリーダーに付いて行った。残った者はビーチでゆっくりしていたのだが、洞窟に入って行った連中がなかなか戻ってこない。数十分後にやっと姿を現したので、私が「誰か、天国に行ってしまったのかと思ったよ」と言ったら、皆で大笑いになった。

 

   

     

              ワイアナパナパ洞窟

 

リーダーは、「マウイ島に来て1年半になる。以前はイスラエルの軍隊に居た。この後暫くしたらフィリピンに行くことを考えている。日本にも行きたいが、航空運賃等の費用が掛かりすぎて、とても行けそうに無い」と言っていた。

 

   

   

            ブラック・サンド・ビーチ−2

 

次に立ち寄ったビーチは、レッド・サンド・ビーチ(Red Sand Beach)、別名をカイハルウ(Kaihalulu)と言う。周りの崖が赤茶色でそれが侵食されて出来た為、砂浜は赤茶色である。先ほどは黒い砂浜、此処は赤い砂浜。溶岩の質や、年月の長短によって様々な光景を呈してくれている。私は各地の砂を集めている娘の為に、お土産として綺麗な黒砂を少し持ち帰る事にした。

 

   

              レッド・サンド・ビーチ

 

PM2:30になって、やっとバーベキューの昼食だ。バーベキューと言うから、「何処かで食材を調達して、自分たちで料理するのかな」と思っていたら、そうではなく、道路端の小さな広場で、バーベキューの店を開いている親父が居た。我々はそこでメニューの中から思い思いに注文するというスタイルだ。

 

私はショート・リブを頼んだ。オヤジは種々の肉を、次々に豪快に焼いている。発泡スチロールの容器に、ライスとマカロニを入れて準備するのは息子の仕事だ。その上に焼きあがった「大きな肉を3枚!!」載せて出来上がり。10ドル也。これが実に美味しく、何度も舌鼓を打った。

 

   

             バーベキューの昼食

 

暫くゆっくりした後、PM4:00から、ハレアカラ国立公園の東側に位置する、オヘオ峡谷(Oheo Gulch)のハイキングだ。「随分遅くから始まるハイキングだな」と思いながらも、後ろに付いていく。竹林が生い茂った中に、石や板を置いて歩き易くした、ピピワイの坂道(Pipiwai Trail)を登っていく。竹の森があちこちに見られるが、この竹は昔アジアから持ち込まれた物で、増殖力が強い為、今では森になっている。

 

   

   

                 竹林の森

 

リーダーは殆ど後ろを振り返る事も無く歩いていく。途中所々で立ち止まり、大小の滝をカメラに収める。ゴール近くの渓流を横切る時、足を乗せた石が動いてバランスを崩し、流れの中へ「ジャブン!」。折角洗って乾かしたスニーカーがまたまたグッショリ。「もうこうなったら靴の見栄えなんかどうでも良いや」と思いながら最終地点に到着したのはPM6:00近かった。

 

   

                オヘオ峡谷

 

しかし、約2マイル(3.2Km)の竹の森を歩いた山中に出現した物は、轟音を響かせて120mを流れ落ちる豪快なワイモクの滝(Waimoku Falls)であった。これを真下から見上げる迫力は、なかなか味わえないと思う。カメラにも収めようと試みたが、対象が大きすぎて旨く収まらない。少し離れると木々が邪魔をする。どんな滝がカメラに収まっているか楽しみである。

 

       

               ワイモクの滝

 

来た道を急いで引き返していると、雨が降ってきた。車に戻った時はすっかり暗くなり、PM7:00になっていた。カーステレオの音量を大きく上げて音楽を流しながら「770曲がり」と言われるほどカーブの多い帰り道を急ぐ。もはや車外は何も見えない。ホステルに帰り着いたのはPM9:30。実りの多い一日であった。お疲れ様。リーダーにチップを10ドル。チョッと少ないかな?

 

 

4月7日(水)

 

今日のツアーは、ラハイナLahaina)での、シュノーケリング。参加者は男女合わせて14名。1台の車でAM12:00出発。ラハイナはホステルから車で40分間程、西に行ったところにあり、昔から捕鯨船の基地として盛んな町であり、それに関する博物館もある。また17951843年のカメハメハ大王の時代に、ハワイ王国最初の首都となったのも此処である。

   

   

                ラハイナの町

 

今日のツアー・リーダーは、40歳ぐらいの女性だ。身体中に刺青がしてあり、やけにハイテンションだ。アメリカ本土から来ている。こちらでは刺青をした人は珍しくないが、「日本で刺青をする人は、ヤクザな人と見なされ、公衆浴場には入れない」と私が言うと、ビックリしたようで「私はただ楽しんでいるだけよ」と言っていた。

 

   

               刺青を楽しむ女性

 

車中、ドイツから来たと言う青年と隣り合わせに座った。彼が「ホノルルのユースホステルでも一緒でしたね」と言う。そう言えばどこか見覚えのある顔であった。彼は「半年の予定で世界一周をしているところです。予算は約100万円。学生時代にアルバイトをして貯めました。足りなくなったら親に借りるつもりです」と言う。

 

世界一周も案外安くできるものだなと思って聞くと「アメリカは費用が掛かりますが、アジアや南米、メキシコ等は安くて済みます。勿論できるだけ節約するように心掛けますが。東京の浅草ではカプセルホテルを経験しましたが、さすがに狭くて閉口しました。二日目からは6人部屋のユースホステルに移りました。

 

東京は何処に行ってもクリーンだと思いました。この後はメキシコに行きますが、予防注射が必要です。世界旅行するに当たって、4〜5本の予防注射を打って来ました」と言っていた。

 

途中の店でシュノーケリングの道具をレンタルし、いざビーチへ。ワイキキの浜辺と比較すると、こちらの方がホテルや浜辺が広くゆったりとしていて、高級感がある。我々はその浜辺を手前から、左手に海、右手に高級リゾートホテルを見ながら、突き当りの岩場まで1kmほど歩いた。

   

   

               ラハイナ・ビーチ    

 

浜辺と岩場に囲まれた一角がシュノーケリングのスポットになっている。水に足を入れてみると思った通りかなり冷たい。本日の私のメインイベントはこれにて終了。後は皆が遊び終わるのを木陰に行って待つだけ。木陰に行くと私と同年配の人が二人いた。「日本から来ました」と挨拶をすると「カナダのブリティッシュ・コロンビアから来ました」と言う。

 

   

            シュノーケリング・スポット

 

一人は62歳、もう一人は60歳だと言う。二人とも読書中であった。この光景はあちこちで見受けられるが、欧米人にとっては「浜辺で読書」と言うのが定番のスタイルらしい。60才の方はペーパーブックだが、62才の方はアマゾンの電子ブックを楽しんでおり、聞くと「非常に便利である」と言っていた。

 

アイルランド旅行中にツアーバスの中でニュージーランド人女性が読んでいたのは、ソニーの電子ブックであったが、それよりも更に軽くなっているように感じた。やはりこれからは電子ブックが普及するのであろうか。

 

暫く休んでいると二人の若い男女が木陰にやって来た。珍しく日本人だ。話しかけると「新婚旅行で来ている。近くのホテルに宿泊しています。新婚旅行だから少し奮発しました」と言っていた。

 

シュノーケリングはPM4:30頃に終了。「すぐ近くに大きな海亀が泳いでいた」とか「飛び込み用の岩場から鯨の泳ぐ姿が見えた」とか言っている人が居た。この後我々は、マウイ島で最大の仏教寺院を見学すると言う。その寺院は近くにあって、「ラハイナ浄土院」と表札が出ていた。敷地内には、小さいながらも大仏様や、三重塔、そして梵鐘まで吊るされていた。

 

   

               ラハイナ浄土院

 

この後は浜辺で日没を見る。日没の時間までは1時間以上あるので、近くのパブで時間潰し。私は久しぶりにビールを1杯だけ飲む。スイスのドイツ語圏から来たと言う青年が「ホノルルの英語学校で8週間勉強しました。韓国人、日本人が大勢居ました。私には韓国人と日本人は全く区別できないのですが、彼らは見ただけで区別が付くようで、私には驚きでした。

 

   

   

               パブで日没を待つ

 

それと、韓国人の中には日本語を話せる人が居るのに、日本人の中で韓国語を話せる人は少なかったです」と言う。私は「韓国は第二次大戦終了まで日本の植民地だったので、年配の人の中には日本語を話せる人が多い。しかし最近は日本でも韓国ブームが起きて、韓国語を勉強する人が増えています」と説明すると大分謎が解けたようであった。

 

我々はPM6:30の日没時間を見計らってパブを出た。大勢の人が海岸に面した歩道を歩いていた。此処からの日没が良いらしい。しかし、今日の水平線には雲が多く、結果は、一瞬鮮やかな日没の光景が見えただけで終わってしまった。夕方の風が心地良かった。PM7:15、ホステルの車で帰宅の途に付いた。

 

   

              ラハイナのサンセット

 

 

4月8日(木)

 

今日のツアーは、場所こそ変わるが、昨日と同じようにシュノーケリングなので、参加せずにホステルでゆっくりしようと思っていた。AM11:30頃、相部屋のアメリカ人パイロットが、「これからハイキングに行くが、良かったら一緒に行かないか」と言う。私は「準備が出来てないからパスするよ」と断った。

 

彼は一人で出かけたが「バスに乗り遅れた」と言って戻ってきた。「次のバスまで30分あるけど」と言って再度誘ってきた。私は「それなら行くことにしよう」と応じた。どうやって目的地を探し出したのか知らないが、彼も初めて行く場所のようだ。

 

PM0:06発のバスでスタート。マウイ島では市内の巡回バスは無料。その他の方向へ行くバスは定額の1ドルだ。1度乗り換えて目的地のマアラエア・ハーバー・ビリッジ(Ma'alaea Harbor Village)まで来た。彼は此処の案内所で、ハイキングのルートを聞いている。おおよその見当が付いたらしい。此処まで約1時間かかっている。腹が空いて来たので買ってきたおにぎりを、キャベツの漬物とで頬張った。腹ごしらえが済んだので出発だ。

 

高速道路沿いに1.6m歩いた所から山道へ入る。更に2km程歩いた所が、ハイキング・ルートの出発点である。此処まで来た時に時計は2時を指していた。丁度そこへ小学生位の子供を連れた父親が反対方向から降りてきた。ハイキングコースの様子を聞くと「我々は反対側から息子と歩いてきました。朝の10時に出発して今到着ですから、ゆっくり歩いて4時間の道程です」との事。大体予想していた範囲の説明であった。

 

   

          マアラエア港を遠望しつつハイキング

 

我々二人は好天の元、足取りも軽く歩き出した。道々の話の中で、彼は「ワシントン州で貨物プロペラ機のパイロットをしている。州内の仕事だから、遠い時は1時間ほど飛ぶが、短い時は15分ほどで着いてしまう。高卒の18歳から30歳の今までずっと同じ仕事である。

 

   

                同伴のパイロット

 

パイロットの資格は、就職してから訓練を受けて取得した。ジェット機よりもプロペラ機の方が操縦は難しい。バランスを取るのが難しいのだ。大きく揺れる時は今でも気持ち悪くなる事がある。去年の12月に大腸の手術をして、やっと体力が回復してきた所だ」と話してくれた。

 

山の中腹まで来ると、巨大な風車が20基ほど回っていた。近年注目のエコ・システムだ。ハワイでは熱帯地方特有の北東からの「貿易風」が1年中吹いている。これを利用しない手は無い。我々二人は、この巨大な風車が20基も並んで回転している雄姿に、すっかり心を奪われていた。

 

   

              貿易風と巨大な風車

 

もう登り始めてから2時間40分も歩いているのにまだ頂上が見えない。「こんな所をさっきの親子連れが歩いて来たのだろうか。とてもそうは思えない。道を間違えたのではないだろうか」と、二人は同じ事を考えていた。「後20分ほど歩いて見通しが立たなければ、来た道を戻る事にしよう」と私が言うと、彼も同意した。

 

その20分を更に登った辺りに来ると、「行き止まり」の柵があった。我々が道を間違えた事は決定的であった。3時間も登って来たのに!それにしても何処で間違えたのだろう。ずっと1本道で間違えるような所は無かったと思うのだが。帰り道はただその1点だけを気に留めながら、今来た道を引き返した。

 

引き返す事約1時間。丁度半分ほど下りてきた所に分岐点がありました。1本は我々が歩いた頂上を目指す道。もう1本は、殆ど水平に山の中腹を迂回するコースである。我々の頭の中には、山の反対側に行くのだから、山越えをするのだろうと言う先入観があったようだ。それにしてもこの分岐点の矢印は判りにくい。反対側から来る人には素直に読み取れるが、二股の方向については何の説明も無く、我々の方から来た者には、何の役にも立たない矢印であった。

 

此処で道を間違えた事はほぼ確実であるが、分かった時にはもうPM6:00を回っていた。これから正しい道を通って帰る事も考えられるが、不案内の道を暗くなってから歩く事は危険である。残念ではあるが、ここは欲をかかずに引き返す事にする。

 

ハイキングコースの入り口にたどり着いたのは、そこから更に1時間後のPM7:00であった。そしてバスの発着場所へ急ぐも、到着したのは更にそこから1時間後のPM8:00。ホステルに着いたのはPM9:00を回っていたのでした。以上で長い一日はお仕舞い!ホステル内では暫く我々の話でもちきりでした。

 

 

4月9日(金)

 

今日のツアーはホエール・ウオッチングAM11:30にホステルを出発して港に向かう。15分ほどで着いたところは、何と昨日道に迷ったハイキングの出発場所として、バスを乗り継いで1時間かけて来た、マアラエア・ハーバー・ビリッジ(Ma'alaea Harbor Village)であった。車で直行すれば、たったの15分しか掛からなかったのだ。

 

   

            マアラエア・ハーバー・ビリッジ

 

昨日、カナダのモントリオールに帰ったはずのブラジル人青年も一緒だった。どうしたのか聞くと「予約しておいた飛行機が満席で乗れなかったのだ」と言う。「予約しておいて乗れないとはどういうことだ」と聞くと「格安で特別のチケットだったのだ」と言う。

 

「その分は返金してくれるのか」と聞くと「返金はされない」と言う。往復で450ドルのチケットだったらしいが、半分は無駄になってしまった訳だ。改めて今日の夜行便の片道切符を350ドルで買ったと言う。格安航空券も条件によっては、必ずしも得にならないので要注意だ。

 

さて我々はPM0:30発の船に乗るべく一人25ドルの乗船券を買い、150人乗りの小型ボートで沖合に出る。早速鯨の姿が見えた。身体を回転させてもぐって行く時に、尾ビレを大きく海面に出したり、身体全体を空中に浮かせたり、見応えのあるシーンが何度か展開された。

   

   

             ホエール・ウオッチング−1 

 

しかし、鯨の繁殖期はピークを終えて、大半はアラスカの方へ帰ってしまった時期なので、頻繁に見られた訳ではない。しかも「鯨から100m以内に近寄ってはならない」と言う規則があるので、カメラに収める事は至難の業だ。我々が見る素晴らしい写真は、かなり時間とお金が掛かっている物と思われる。

 

この時期に少しでも肉眼で見られた事は、ラッキーだったかもしれない。水中マイクロフォンを通して鯨の歌声を聞く事も出来た。5マイル(約8km)ほどの遠距離からの声も拾えると言い、歌声はひっきりなしに聴くことが出来た。PM2:30には港に戻って下船した。

 

   

            ホエール・ウオッチング−2

 

ホステルの車で帰ろうとして車が動き出した時、斜め前を歩いていた男女二人連れの女性の方が、突然もんどりうって転び、顔面を激しくコンクリートの歩道にぶつけた。履いていたサンダルを引っ掛けたようにも見えたが、どうしてあんなに激しく転んだのだろうと不思議に思った。

 

私の思い違いかなと車窓から見ていると、女性は起き上がれないで居る。我がツアー・グループの中から一人の女性看護士が駆け寄って声を掛けた。見ると額から血を流している。同行の男性が携帯電話で救急車を呼んだ。やっぱり見ていた通り激しく転んだのだ。まるで雪道でスッテンコロリンする時のように、手を付く暇が無かったようだ。

 

実は今日最も気がかりな事は、明日のハレアカラ火山ツアーの件である。ロンドンから来ている中国人青年は「先週の土曜日に同じツアーに参加したが、ハイキングの行程がきつくて膝の靭帯を傷め、未だに痛みが残っている。

 

10000フィート(約3000m)の高山で、12マイル(約20km)のアップダウンをこなすのは大変な困難を伴う。風雨が強く、一緒に参加した女性の中には寝込んでしまった人も居る。あなたが私の父なら、絶対に止めさせる」とまで言う。

 

私は単に楽しみたいと言うぐらいの、軽い気持ちで考えていたので、「彼がそこまで言ってくれるなら止めておこうか」と言う気持ちに傾いてきた。ところが、月曜日と火曜日のツアーで一緒だった元イスラエル軍人のリーダーは「あなたなら絶対にやれるよ、心配ないよ」と言ってくれる。

 

彼は私の行動を見た上でそう言ってくれている様に思う。するとまた今度は、「やっぱり行ってみたいな」と言う気持ちに変わったのである。防寒対策、十分な食料の持参等、事前に準備できる事はしっかりやって置こうと思った次第。

 

とりあえず明日の為に少しでもスタミナを付けておきたく、美味しそうなレストランを物色。いつものスーパー・タカミヤとは別の方向に行くと中華店があった。こちらでワンタンスープを食す。グッドでした。

 

 

4月10日(土)

 

いよいよ今日は、ハレアカラ火山ツアー(Haleakala Volcano Tour)だ。昨夜は一晩中豪雨。「こんなに降ってもハイキングは中止にならないのだろうか」と心配しながら朝を迎えたが、洗顔する頃には雨が止み薄日が漏れてきた。ハイキングが中止になるような気配は全く無い。まず腹ごしらえの方だが、昨晩たらふく食したせいか、余り空腹感が無い。そこで朝食は、シリアルとコーヒーで終り。

 

次に昼食の用意だ。昨日見つけた中華店に行って弁当になりそうなものを見繕うが、リュックサックに入れて行っても大丈夫な物は、チャーハン位しか思い付かなかった。ハイキングに持っていけるようにお願いすると、カップ型の大きな発泡スチロールに目一杯詰め込んでくれた。

 

明らかに一人で平らげられる量ではないが、何かの役に立つかもしれない。備えあれば憂い無しである。寒さ対策もできる事はしたが、いささか荷物が重くなった。若者は短パンにミニリュックの軽装だ。中にはノースリーブで手提げ袋の60歳前後と見受けられるおばさん(ギリシア出身でサンフランシスコ在住の58歳)まで参加している。

 

   

             ハレアカラの頂上展望台

 

AM9:00、総勢16名でホステルを出発。ドイツ人6人、カナダ人4人、アメリカ人3人、スイス人1人、それにリーダーと私。スイス人の1人は、ホノルルの英語学校に行っていた例の青年。今は私と同部屋だ。カナダ人の4人はカルガリー、オタワ、ノバスコシアからの20歳代の女性。

 

アメリカ人3人の中に、例のおばさんと、ニューヨークから昨日来たばかりの青年が居る。ドイツ人の中に世界一周中の彼「クリスチャン・クアント(Christian Quandt)」と、大学を卒業したばかりで同室に宿泊中の青年、40歳前後の婦人、それと若いアベックがいる。このアベックに「結婚しているのか」と聞くと、「ただの友達で、将来の結婚も考えていない」と言う。

 

   

              ハレアカラの火口内で

 

さて此処で、カルガリーから来た女性に付いて書いておこう。彼女は「デイドラ・ディオン(Deidra Dionneと言い、2002年のソルトレ−ク・冬季オリンピックでエアリアルの銅メダリスト。以来2006年のトリノにも参加し、去年の9月に引退するまで、スポンサー付きの選手として世界を転戦した。

 

   

             銅メダリスト(左から2人目)

 

2005年に首の骨を折る大怪我をしたが、自分の腰の骨を移植し、メタルを埋め込むなどをして奇跡的に回復。2006年のトリノにも参加。日本の猪苗代には競技で3回訪問した。世界中を毎週転戦して歩くが、一週間の内、訓練・練習・試合で5日間が取られるので、観光の時間は殆ど無い。銅メダルを取った後はスポンサーが付いたので、生活の問題なかったが、これからは仕事を探さねばならない」と話してくれた。

 

首の傷を見せてくれたが、髪の毛を上げると縦に大きく手術跡が残っていた。「命に関わる大怪我をしても引退しなかったのはどうして?」と聞くと「ただエアリアル競技が好きだったから」と言う。見た所、何処にでも居る普通の女の子である。「競技種目は分かれているが、モーグルの上村愛子や里谷多英の事は良く知っている」と言う。インターネットで彼女の名前を入力したら、彼女の写真入のウィキペディアが出て来た。

 

AM10:00、我々は頂上へ向かう前に、ふもとの大きなマーケットに寄った。おそらく「登山に必要なものなら食料から薬、松葉杖まで、何でもあります」と言うような店であった。私は既に用意をして来ていたので覗いただけ。此処から車でハレアカラ(HALEAKALA)火山の頂上を目指す。

 

   

              ハレアカラ頂上展望台

 

途中は溶岩で覆われているが、頂上まで綺麗な車道が整備されていた。このハレアカラ・ハイウエイを二輪車で山下りする、ダウンヒル・バイク(Downhill Bike)が人気で、時々これにチャレンジしている人が見受けられた。この山は国立公園になっていて、入場料を5ドル払う。頂上の標高は丁度10000フィート(約3000mである。我々は世界最大の休火山の火口の内側を、高低差で900m下り、反対側の崖を登ってくる、と言う全長12マイル(約20kmのトレッキングに挑戦するのである。

 

   

               ハレアカラの火口

 

リーダー兼ドライバーは、我々をハイキングコース入り口のハレアカラ・ビジター・センターに下ろして、標高差300m程の下まで車を置きに行った。そこは我々が20km歩いた後の終着点だ。リーダーが戻ってくるのを待つ事約1時間。その間我々の身体は急激に冷えてくる。私はまず冬の散歩用のジャンパーを着た。それでもまだ寒い。後は厚手のシャツ、セーター、マフラーを持ってきているから大丈夫。

 

しかし隣で、ノースリーブで来ていた、例のおばさんが寒くて震えている。私は厚手のシャツをもう一枚自分が着て、セーターとマフラーを貸してあげた。大変感謝されたのは良いが何と無防備なのだろうと首をかしげたものだ。後で聞いたのだが、今回のハイキングについては何の予備知識も持っていなかったようだ。

 

いよいよ歩き出したのはAM11:50である。火口の入り口から火口の底に向かってリーダーはどんどん歩き出す。まるで遅れた時間を取り戻すかのように、後ろも振り返らないで。16人の団体は、たちまち長い列になり、あっと言う間に先頭と最後尾は見えなくなった。先頭を歩くのは驚いた事に、アメリカ人の看護婦さんで、16人中最も体重のありそうな人だ。「人は見かけによらぬもの」というがそれにしてもあの体型で!

 

   

             人は見かけによらぬもの

 

最後尾は予想通り例のおばさん。「このおばさん本当に付いて来るつもりだろうか。今の内に引き返して、売店かどこかで待っていた方が良いのではないか」と心配になってくる。途中で暑くなってきたのかマフラーとセーターを脱ぎ、「有難う」と言って返された。

 

我々は大きな火口の中を歩いている。火口の中に更に幾つかの火口や、富士山のような形をした山がある。そして世界でも珍しい高山植物、銀剣草(シルバーソード・Silversword)の姿を見ることが出来た。

 

   

             ハレアカラ火口内の銀剣草

 

PM1:20、やっと休憩、ランチタイムだ。喉を潤し弁当を開く。食べようとしている所に最後の一人になったおばさんが到着。昼食用には特段の食料も持参してないようである。私は初めから食べきれないと分かっていた、発泡スチロール入りのチャーハンを分けてあげた。

 

   

                ランチ・タイム

 

「サンキュー」と言いながらも、このおばさん、どこかお澄まし顔で、表情からは十分感謝している様には感じられない。何処かに「これ位してくれるのは当然よ」と言う雰囲気が感じられる。食事をしながら、リーダーに「もう少しゆっくり歩いてくれないか。私は途中で取り残されてパニクッタ」と抗議している。これに対してリーダーも大きな声で応戦している。細かなやり取りが聞き取れない吾人は、静かに聴いているだけ。

 

   

               もっとゆっくり!

 

PM1:40、出発。昨日の豪雨にも拘らず、ハイキングコースは殆どぬかるみも無く、天候にも恵まれている。火口の中は風も少なく、歩いているせいか汗ばんでさえ来る。最後尾のおばさんの姿が見えなくなった所で小休止。おばさんの到着を待つ。PM2:15PM2:50と小休止を入れた後、リーダーはおばさんを一人、先に出発させた。それを見ていたアメリカ人看護士が心配そうに後に付いた。5分ほどしてから残りの者が出発。

 

   

                晴天のハレアカラ

 

PM4:30頃、一番後ろから離れて来ていたリーダーが、突然「カムバック!」と叫んでいる。私ははっきり聞き取れなかったが、やはり「全員も戻れ」と言う事らしい。「我々は何とかなるにしても先を歩いているおばさんと、看護士はどうするのだ」と思っていると、リーダーが駆け出した。号令を聞き取れた我々は引き返し始めている。其処へ、再びリーダーの「カムバック!」の叫び声。

 

信じられないような話だが、本当にあったことだ。リーダーの判断ミスで不幸に遭遇した話は少なくないが「もしかしたら今日我々が・・・・」と不安になった。結果的には「道を間違えた」と思った、リーダーの勘違いだったようだ。この間、時間にすればほんの10分間位の出来事ながら、見渡す限り溶岩だらけの火口の中では、平常心で居る事は難しかった。

 

PM4:40、我々は最後の難所に差し掛かった。今まで火口に下りてきた分の殆どの高低差を一気に登らなくてはならない。通常の登山では初めに登りがあって、後半に下りが来る。しかし今回はその逆で最初に下りがあって、くたびれた所で登りに付く。それも今回の登りは今まで経験した中でも最高難度に近いものだ。と言うのは、垂直にそそり立った崖に、辛うじて人が一人歩けるぐらいの道をつけた所を、登り通さねばならない。

 

   

             最後の難所に差しかかる

 

始めて来た我々には、何処が終点なのか、何時間ほど歩く事になるのか見当も付かない。片側は切り立った崖で、もう一方は深い谷だ。目が眩んだり、頭が朦朧としたり、石に躓いたりしたら、そのまま谷底へ。少し急ごうとすると高山の為に酸素が薄いのか、頭痛が発生する。膝はガクガク、心臓はバフバフ。ただひたすら道を踏み外さないように気持ちを集中させる。

 

   

            膝はがくがく、心臓はバフバフ!

 

かくて2時間近く歩いて、PM6:20にゴール地点へ無事到着。64歳の完走に先着の若者から拍手。例のおばさんは遅れているが、二人のサポーターが付いているようだ。我々早めに到着できた者は、日没を見るべくホステルの車で再び頂上へ。リーダーは先になったり、後を歩いたり、車を運転したり大変だ。山頂で車から降りると急激に冷えてきた。太陽は眼下の深い雲の中に沈んでいった。

 

   

             ハレアカラ山頂の日没

 

PM7:00頃、ゴール地点に車で戻ると、おばさんと二人のサポーターが寒さに震えて立っていた。ともあれ何とか全員無事に帰ってこられました。それにしても、このおばさん「他人の防寒着を借り、他人の弁当を分けてもらい、他人のサポートを受けて、乗り切ってしまう」などは、普通の神経の持ち主では考えられない事だ。

 

ホステルへの帰着は予定通りのPM8:30であった。マウイ島の象徴であるハレアカラ休火山に触れることが出来、今日は私にとって、大いに満足できた一日であった。リーダーへのチップは、他に適当なお札が見つからなかったので20ドルにした。

 

 

4月11日(日)

 

ホステルで朝食を取っていると、昨日帰ったはずのアメリカ人パイロットが談話室に入ってきた。「どうしたの」と聞くと「飛行機が満席で乗れずに空港で一夜を明かした」と言う。「予約してなかったの」と聞くと「私はパイロットだから航空運賃は無料なのだが、空席が無いと乗れないのだ」と言う。そういう事だったのか。過日のモントリオール在住のブラジル人といい、マウイ発のアメリカ本土行きは込み合っているようだ。

 

   

           ホステル「バナナ・バンガロー」−1

 

今日のホステル主催のツアーは、ビーチ・アクティビティなので参加しなかった。これ以上日焼けする事に耐えられそうも無いのと、昨日の疲れを取り除きたいのが理由である。一日中、遅れがちの日記をパソコンに打ち込んでいた。お陰で遅れを取り戻せた。

 

昼食はキャベツの買い置きと、昨日のチャーハンの残り物を合わせて炒めて食べた。夕食は中華店で、またまたワンタンスープ。明日はハワイ島に飛ぶ日だし、時間があれば洗濯もしておきたい。ハワイに来て初めての休日?(毎日が休日なのに?陰の声)である。

 

ホステルの受付ロビーでパソコンを打っていたので多くの友人が行き交っている。一週間も居るとホステルでは先輩格になり、向こうから声を掛けてくれる。数人の人とは、名前を教えてもらったり、メールアドレスを交換したりも出来た。ホテル泊では絶対に味わえない交流である。

 

   

          ホステル「バナナ・バンガロー」−2 

 

 

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