4.ハワイ島 4月12日(月) 今日はマウイ島からハワイ島に移動する日だ。PM12:30のフライトと思い込んで準備をしていたが、実はPM2:30のフライトであった。何処を見てそう思い込んでいたのだろう。多分次のフライトである、ハワイ島からホノルル行きの時刻を見ていたのだろう。最近はこういう勘違いが頻発している。大事に至る前に気が付くから良いようなものだ。 12時近くになったので、空港までのタクシーを確認に行くと、例のイスラエル人のリーダーが「タクシーを呼んで空港に行くと25ドル取られるが、私なら20ドルで良い。それでどうだ」と話しかけて来た。私は「損はしないな。それにこのリーダーと、もう少し話もしてみたいし」と思い、即座にOKした。 イスラエル人のリーダー 「これが俺の車だ」と言って用意した車は、かなりオンボロで、雨が降っているにも拘らず、フロントのワイパーが動かない中古車だった。「前が良く見えないね」と言うと「何時もの事だから慣れている、大丈夫」と言う。 私が「もう一人の女性のリーダーは何歳になるのか」と聞くと「42歳だ。彼女はクレイジーな女で、私は彼女を信用できない」と言う。「実は、一昨日のハレアカラ火山のツアーの時、2回も(カムバック)の号令が掛かったのだが聞いているか」と言うと、「聞いていない。彼女は新米だからな。我々の仲間だったら、絶対にそんなことにはならないのに」と怪訝な顔をしていた。 そして「冬の間は忙しかったが、今の時期は丁度、閑散期で、比較的ゆったりしている。しかし、またすぐに夏季のシーズンになり忙しくなる」と話してくれた。名前はシュロミ・エリシャコフ(Shlomi Elishakov)と言った。空港で20ドルを渡して分かれた。30歳代の胸板の厚い逞しい男である。 アイランド・エアー(Island Air)のカウンターでチェックインして、電光掲示板を見ると、数十の出発便が掲示されていた。しかしそれらの行き先は、いずれもハワイ諸島間、アメリカ大陸、それとカナダだけで、他国へのフライトは無かった。 従って逆に他国からマウイ島に来る時は必ずアメリカもしくはカナダを経由しなければならない。日本からはホノルルと、ハワイ島のコナに乗り入れているので、其処で乗り継いで来る事になる。オアフ島やハワイ島に比べて、日本人が少ないのはそう言う事に理由が有りそうだ。 飛行機の到着が遅れ、離陸予定が1時間遅れとなった。PM2:30の予定がPM3:30に変更となった。午前中の天候が悪かった為だ。時間潰しに売店に立ち寄ると、60歳ぐらいの、明らかに日系人と思われる男性が一人で客を処理していた。それを見ていると、ひどく視力が弱いようだ。お札に目を擦り付ける様にして見ているのである。私が、クラッカーとビスケット、ナッツの小袋をカウンターに並べると、それを手で触って「4ドル25セント。4ドルで良いよ」と日本語だ。 時間が来て機内に案内された。迎えてくれた40歳ぐらいのスチュワーデスは、こちらも顔立ちからして日系人だ。名前を「かずこ」と言っていた。日系人に出会うと、「彼らやその先祖は、このハワイでどんな歴史を持った人なのだろう」と考えてしまう。移民1世の人生は、サトウキビ畑での重労働で始まり、太平洋戦争の時は、日本軍による真珠湾攻撃が原因で敵国人と見なされたりして、苦労が多く、「必ずしも恵まれた人生ではなかった」と思うからだ。 PM3:20に離陸した36人乗りのプロペラ機は、殆ど揺れる事もなくPM3:50にハワイ島のコナ国際空港(Kona International Airport at Keahole)に到着。黒い溶岩台地に空港が造られ、道路が伸びているが、回りはまだ溶岩が固まったばかりのような光景だ。飛行機から降りて荷物をピックアップすると、何のチェックも無く空港の外へ。タクシーでユースホステルに向かう。運転手はインド人。片道1車線が終了するまで、幾らも距離の無い道路が渋滞している。ホステルまで30分もかかって33ドルを請求された。
コナ国際空港 PM4:30にホステルに到着するも、「今は時間外になっており、チェックインの受付は5時からです」と他の客が言う。確かに案内書にはそのように書いてはあったが。文字通りの締め出しだ。飛行機が遅れてよかった。飛行機が遅れなかったら、更に1時間も余計に待ちぼうけをする事になっていたのだから。 コナのホステル チェックインが済んで、食材の買出しと、シャワーを終えて、インターネットをしていると、「お久しぶりです」と言って、ホノルルのYHAで知り合った、自衛隊経験者の青年が入ってきた。「ビッグ・アイランドでの私の宿泊先を聞いていたので、迷わずやって来ました」と言う。 「ただ、空港から此処までのタクシー代を聞くと、35ドル位と言われた。そんなに高額な金は使いたくないので、自衛隊時代を思い出して歩く事にした。そして徒歩でこちらのホステルに向かっていたら、間も無く女性ドライバーが車を止めて乗せてくれ、此処まで送ってくれました」と言う。「随分ラッキーだったね。君が大きな荷物を背負って必死で歩いている姿が、ドライバーの心を捉えたのだね」と私。早速彼の食材の買出しに同行した。 「一緒に夕食を取ろう」と言って、バッグを開けてみたらビックリ!マウイ島から持って来た醤油ビンが割れて、醤油が衣類全体にビッショリ!!醤油の匂いがプンプン。「オー、ノー!醤油があるから、スーパーで豆腐を買って来たのに。しかも昨日、マウイ島での最終日に洗濯をしたばかりで、気分が軽くなっていたのに。下着からセーターまで、全部洗い直しだ。 醤油のシミが落ちてくれるかどうか。貴重な醤油だからと言って、ビンが割れる事に注意が行き届かなかったのが原因だ」と、反省と後悔で気分が落ち込むこと、しきりなり。もう夕食なんか、どう食べたのか覚えていない。幸いにも早めの洗濯で、殆どシミが分からない位にはなりました。旅の空、何が待っているか分かりません! 4月13日(火) 今日はハワイ島一周ツアー(67ドル)に参加。AM8:00に、カイウラ・コナ(Kaiula-Kona)のコナ・ベイ・ホテル(Kona Bay Hotel)で予約の観光バスにピックアップしてもらう事になっている。コナ・ベイ・ホテルまでの行き方は、前日にホステルで教えてもらっていたのでスムーズに来られた。徒歩で約10分の所であった。 約束の10分前に着くと既にバスが来ていた。行き先と名前を告げると、50歳代の落ち着いた雰囲気の運転手は「OK」と言って乗せてくれた。既に数人が乗っていたが、この後、ケアホレ・コナ(Keahole Kona)国際空港や高級リゾートホテルのヒルトン・ワイコロア・ビレッジ、フェアモント・オーキッド・ハワイ等を回って客をピックアップした。
コナ国際空港−2 空港には、日帰りで参加する人たちがオアフ島から来ていた。全部の客を拾い終わったのはAM9:15分。何処までも青い海と快晴の青い空、そして火山から流れて来た溶岩による、黒い山腹と黒い海岸。私はこの間、あちこちのゴルフ場付き高級リゾートホテルの美しさを、車窓から溜め息混じりに眺めるだけであった。 コナ国際空港−3 この後の行程は次の通り。 AM9:50、ワイメア(Waimea):ランチやおやつの買い物。私はお稲荷さんと海苔巻き。 AM10:45、パーカー牧場(Parker Ranch):古くからの牧場を車窓から眺める。 AM11:00、シュガー・プランテーション(Sugar Cane Fields):サトウキビ畑を車窓から。 AM11:40、レインボー・フォール(Rainbow Fall):ヒロ市近くで滝を見学 レインボー・フォール PM12:45、ビッグ・アイランド・キャンディーズ(Big Island Candies):チョコレート工場の見学・試食・販売 PM13:20、オーキッド・ガーデン(Orchid Nursery):蘭園見学
蘭園−1 蘭園−2 PM14:00、ハワイ・火山国立公園(Hawaii Volcanoes National Park):キラウエア火山の見学。雨と霧で何も見えずに終わる!! ハワイ火山国立公園の入り口 PM14:10、ジャガー・博物館(Jagger Museum):様々な種類の溶岩を展示。 PM14:30、サーストン溶岩トンネル(Thurston Lava Tube):全長100m程を歩く。 サーストン溶岩トンネル PM16:00、プナルウ黒砂海岸(Punaluu Black Sand Beach):マウイ島で見た黒砂海岸の方が美しい。
プナルウ黒砂海岸 PM16:55、マカデミア・ナッツ・農園(Macadamia Nut Farm):車窓から PM17:50、コーヒー園(Coffee Orchards):コナ・コーヒー園を車窓から。 PM18:30、カイウラ・コナに帰着。 約10時間余りの行程の中で、最も期待していたキラウエア火山の見学が、雨と霧で全く見えず残念なツアーになった。「とりあえずハワイ島をサラッと一周しました」と言うところだ。それにしても「まさか使う事にはなるまい」と思いながらも、念のために持参した雨傘が役に立とうとは。さすがの私も天候の急変にはビックリだ。 雨のキラウエア火山−1 キラウエア火山(Kilauea: マウナロア火山の東側にあり、活動している噴火口としては世界最大級)の標高は3000m位あるのかと想像していたら、1200mしかないと知って拍子抜け。その一帯で少しだけ見えた水蒸気は、九州の霧島高原を思い出す雰囲気を持っていた。ましてや、標高4000m級のマウナ・ケア山(Mauna Kea)やマウナ・ロア山(Mauna Loa)は雨に降られて、どの方向にあるのかも分からなかった。 雨のキラウエア火山−2 ジャガー博物館は、地質学者のトーマス・ジャガー氏が1912年に設立した物だが、展示品の中に「ペレの髪」と呼ばれる溶岩がある。説明されなければ本当に人の髪としか思えない代物である。日本人観光客(50歳代のおばさん達)が何の疑問も持たずに「髪の毛だってさ」と言っている。 ペレの髪 溶岩に混じって髪の毛があることも不思議ではあるが、ここはやはりきちんと説明した方が良いのではないかと思い「これは溶岩の一種なのですよ」と一言説明してあげた。「あらそうなの!ガイドさん何も言ってくれなかったわ!」と目を丸くしていた。 4月14日(水) 今日はコナからヒロに移動する日だ。公共のバスが有るには有るが、情報が少なくて困っていた。大きな荷物が有る人は利用できないとか、何時に何処を通るのか、つまり具体的に何処で待っていれば良いのかが、昨晩まではっきりしなかった。正確な情報は、「一般の人は無料。大きな荷物を持った人は1ドル払えば良い。AM6:30にキング・カメハメハズ・コナ・ビーチホテル(King Kamehameha’s Kona Beach Hotel)の前で待っていればよい」と言う事だ。 早朝起床が気になって、何度も目を覚ましてしまった。朝3時から1時間刻みだ。5時半に起床し、6時5分前にホステルを出た。早朝なので、チェックアウトは昨晩のうちに済ませてある。ホステルから少し歩くと素晴らしい朝焼けに出会った。丁度6時頃である。しかし2〜3分後にはもうその朝焼けは消えていた。滅多に出会えない、ほんの一瞬の素晴らしい光景であった。今日一日分の感動を頂いた位感動した。
コナの朝焼け 教えてもらった方向へ10分ほど歩くと、暑くなってきたのでジャンパーを脱ぎ、更にカイルア湾を海沿いに200mほど行くと、男女二人が道路脇のコンクリートに腰掛けて、人待ち気であった。「ヒロに行くバスは、此処でいいのかしら?」と聞くと「そうだ」と笑顔で答えてくれた。大きな心配事が解決した瞬間であった。 カイルア湾 確かに道路の向こう側に、キング・カメハメハズ・コナ・ビーチ・ホテルが建っていた。その名前から、もう少し大きなホテルを想像していたが、意外に小さなホテルであった。やがてバスがやって来た。ヘレオン・バス(Hele-On Bus)と言う公共のバスで、コナとヒロの間を一日一往復している。 キング・カメカメハズ・ホテル 行き先を確認してから、大きなバッグを持って乗車すると、50歳ぐらいのネイティブ・ハワイアンと思われる、おばちゃん運転手が「ワン・ダラー」と一言。予め用意してあった1ドル札を箱に投入して完了、と思いきや「どこまで行くの?」と言う。 「ヒロの何処なのか」と言う意味だろう。即座には答えられないので、リュックから資料を取り出して見せると「ヒロ・ベイ・ホステル(Hilo Bay Hostel)か。了解」と言う。ヒロ・ベイ・ホステルは案外知られた所らしい。 私が乗車したコナの町でもそうであったが、バス停らしい目印は何処にも見当たらない。ましてや山道においておや。乗客は路上で手を上げるだけ。大体の場所は決まっているのであろうが、電柱一本建っていないのである。しかも長距離の運転だから到着時刻も曖昧で、日によってはかなりの誤差があると思う。 運転席の斜め後ろの席に3歳の双子が座っている。保護者は見当たらず、時々運転手と会話をしている。その中に「ママ」と言う言葉が聞き取れた?運転手の子供なのか?年齢的には孫に見えるが、どちらにしても子守をしながら大型公共バスの運転!文化の違いとは言え、何処まで大らかな社会なのだろうか。目を見張るしかない。 初めのうちは余裕があった座席も段々少なくなり、ヒロに近くなると立っている人が出るようになった。こうなると大きな荷物を抱えて、二人分の座席を占領している事に負い目を感じる。心の中で小さな声で「ごめんなさい」と言う。バスは昨日のハワイ島一周観光と同じような所を走っている。 しかも今日もまた、天候が一定せず、回りの景色は殆ど見えない。車内はギンギンに冷房が効いている。私は再びジャンパーを取り出して着込む。こうなると昨夜の寝不足も手伝って、こっくりこっくりだ。 バスはAM10:00前に、ヒロに着いた。繁華街に入った所で、おばちゃん運転手が「ヘイ、ミスター。あんたの降りるところだよ。ヒロ・ベイ・ホステルはすぐ其処の建物だよ」と教えてくれた。とても親切である。私は、お礼を言ってバスを降りた。 ヒロのダウンタウンにあるホステルにチェックインを済ませる。まだAM10:00なのに部屋に案内してくれた。コナのホステルとは大違いの処遇である。広い部屋に広いベッド、清潔感が漂い、昔はホテルとして使われていたような感じがする。受付で「朝食を取りたいのだが」と言うと、「それなら良い店が有る」と言って私を窓際に連れて行き、道路を挟んだ向かい側に見える、チョッとおしゃれなレストランを教えてくれた。 ヒロ・ベイ・ホステル(左)とレストラン(右) 行ってみると、制服に身を包んだ数人のウエイトレスが笑顔で応対してくれた。先客達のテーブルを参考にして、ホットケーキサンドとフルーツのバイキング、それにコーヒーをオーダーする。ハワイに来て最高のご馳走だ。ホットケーキサンドにはハムが挟まれ、目玉焼きが2個乗っている大きな物が出てきた。 お腹も空いているし、こうなったら腹を据えて食う事にする。格闘すること数十分。ホットケーキサンドは、すこぶる美味しかったのだが、4分の1を残してギブアップ。粗食が続いて胃袋が小さくなったのかな?合計11ドル也のブランチでした。 今日のヒロは小雨模様で、降ったり止んだりだ。出歩く気分でもなく、食後の休息も兼ねて暫くパソコンを叩いていると、日本人の若い女性が一人で現れた。声を掛けると「長野県からハワイアン・ロミロミ(Hawaiian lomilomi)と言うマッサージを習得に来ました。一度体験した事があり、大変気持ちが良かったので、是非勉強したいと思いました。明日から2週間、食住・通訳付きで30万円です。貯金をはたいて来ました」と言っていた。色々な国の色々なマッサージが有るものだ。 暫くすると今度は青年が声を掛けてきた。「あなたはマウイ島でバナナ・バンガローと言うホステルに居ませんでしたか」「ああ、居ましたよ」「やっぱりそうですか。私は1泊だけして北岸の方に移りました。バナナ・バンガローより安くて、綺麗で、静かでした」と言う。私は「バナナ・バンガローの無料ツアーが魅力で、7泊しました」と言った。確かに、もしも無料ツアーに関心が無ければ、彼の言う通りかもしれない。同じ条件を提示しても、それに魅力を感じる人と感じない人が居ることの一例である。 パソコンに飽きて時計を見るとPM4:00。そろそろ夕食の時間だ。雨も上がったようなので近くを、ふらついて見る事に。一軒のピザ店にお客さんが大勢入っていたので、私も釣られてピザを食べる事に。紅茶とマルガリータのピザで11ドル。お味はまずまずでした。隣の席で、日系人らしいご夫人が談笑していたが英語であった。 ホステルの談話室に居ると、あちこちから来た人と挨拶を交わす事になる。その中のオーストラリア人女性は、推定40歳位。「語学学校で英語の先生をしていた。生徒には日本人、韓国人、台湾人等が多かった。父はビルマ戦線で戦い、イギリスに帰った後、オーストラリアに移住した。10年ほど前に82歳で亡くなった。彼女は父が52歳の時の子供だ」と言う。これらの話から推定すると先の年齢になるわけだ。 実は若いのか老けているのか判断に困った人であった。座って話していると体型の事は気にならないが、立って歩き出すと何と大きなお尻!「Oh, No!」彼女は「仕事を辞めて半年ほどの予定で、海外旅行をしているところ。再就職はそんなに心配していない。先生の職業はストレスが大きいので、再就職は別の仕事を考えている」等と話してくれた。いかにも語学学校の先生らしく、時々発音を訂正されながら、時々褒められながら、楽しい会話の一時を持つ事が出来た。 その中で、バリ島(Bali)のことを、日本語で言う「バリ」と言っても通じなかった事が印象的だ。色々な具合に「バリ」と言っても通じない。こんな簡単な言葉がどうして通じないのだろうと不思議に思いながら、「南の島で、インドネシアに有って」と別の点から説明したら「ああ、バアリですね?」とやっと通じた。「バリ」と「バアリ」では、たいして変わらないと思うのだが、固有名詞は特に難しい。辞書で確認すると確かに[ba:li]となっていた。 4月15日(木) 夕べは、夜中に目が覚めたら寒くて震えていた。大きな窓が全開になっていたのだ。窓を閉めようにも、しっかりと支え棒があって閉まらないのだ。仕方が無いから、靴下とモモシキを履き、セーターを着て再度横になった。翌朝、フロントのオヤジにその件を話すと、現場に行き、支え棒のはずし方を教えてくれた。私がこんなに寒く感じているのに、若い連中は平気らしい。 今日は午後から、「キラウエア火山ツアーと溶岩歩き(Volcano Tour and Lava Walk)」に参加。当初ヒロ空港での待ち合わせになっていたが、ホステルのオヤジが「ツアー・バスは此処に来てくれるよ」と軽く言う。それなら大変助かるので喜んでいたのだが、いざ確認すると、「此処に来てくれる様に自分で電話しなさい」と言う。 話は大分違うが、彼のアドバイスに従って電話をしてみた。ところが、なかなか繋がらない。やっと繋がったかと思うと、「こちらはホノルルに繋がっておりますので、ヒロのほうに掛け直してください」と言う応答。当初のオヤジは、言い出しっぺのくせに、私のトラブルに関わりたくない、という態度をし始める。 其処にもう一人の受付担当の親父さんが出て来て、話を引き継いでくれた。自ら電話をしてくれて「ホステルには行けないが、ヒロ・ハワイアン・ホテル(Hilo Hawaiian Hotel)でならピックアップ出来る事になった。此処から空港までの半分ぐらいの距離だから、その方が良いだろう」と言って、タクシー会社にも電話をしてくれた。 タクシーが来るまで少し時間があったので、ホステルの近所を歩いていると、カラカウア・パーク(Kalakaua Park)と言う小さな公園があった。カラカウア王はハワイ王朝第7代目の王様。その奥さんがカピオラニで、妹が第8代目のリリウオカラニである。奥さんの名が付いたワイキキの公園や、妹の名が付いたヒロ・ベイの公園に比べると、ひどく質素な公園である。 カラカウア・パーク ホステルの前の十字路で待っていると、約束の時間より5分ほど早く、AM11:15に、予約のタクシーが来た。「フィリピンから来て35年になります」と言うおばさん運転手だ。10分ほどで、ヒロ・ハワイアン・ホテルに到着。料金は10ドルであった。 ツアーバスとの約束時間はAM11:45だから、まだ20分ほど有る。回りの日本庭園「リリウオカラニ・ガーデンズ(Liliuokalani Gardens)」が美しいので、歩きながら写真を撮ることに。鳥居や灯篭、東屋をおいて、池をめぐらし、州立の素晴らしい日本庭園になっている。 リリウオカラニ・ガーデンズ AM11:50にツアーバスが来たので、行き先と名前を確認して乗車する。運転手が「バウチャー(Voucher 証拠書類)を見せろ」と言う。私は「インターネットで予約し、クレジットカードで支払ったので、そういうものは無い」と言うと、納得したようである。 私だけを乗せて車はヒロ空港に到着。運転手が「此処で10分間の休憩」と言うので、私は昼食用の食料を買出しに空港売店へ。パンとジュースを購入。電光掲示板の発着表を見ると、殆どがハワイ航空で、ホノルルとの往復便だけである。コナ空港とは違って、国際空港には成っていない様である。 10分後にバスに戻ってみると誰も来ていない。「今日のツアー客は私一人か?」と不思議がっていると、ホノルルからのツアー客が到着。中には「今朝4時半に起きました」と言う人も居た。20名が増えて総勢21名のツアーでした。 今日のツアーは、一昨日のツアーと重なる所が多かったが、幸いな事に今回は雨が降らなかった。私は、前回見られなかった、煙を噴出しているキラウエア火山の大きな火口や、その隣にある、小さな火口のミニ・キラウエア(Kilauea Iki)も見ることが出来た。 キラウエア火山の噴煙
キラウエア・イキの火口 PM4:00、早めの夕食に同席したのは、テキサスから来たと言う、51歳の不動産業者夫妻。サブプライム・ローン問題も、さほど影響を受けず仕事は順調らしい。既に孫が二人いる。彼には醤油の「キッコーマン」の発音が通じなかった。テキサスでは「ティッコーマン」と発音するのだと言う。この話をホステルに帰って、例のオーストラリア人・英語教師に話すと、「そのテキサス人はクレイジーだ」と言って笑っていた。PM5:20、早めの夕食を終了 PM6:00、小さな車2台に乗り換えて、溶岩台地の上に造られた狭い道路を走る。行き止まり地点まで来たら車から降りて、溶岩の上を歩き、まだ赤く燃えている溶岩を見に行く。足元の溶岩も、手で触ってみるとほんのりと暖かい。燃えている溶岩と言っても、今は大分静かになっており、表面は灰が覆った様になっているのであろう。暗くならないと溶岩が赤く見えない。 溶岩の上に立って 暗くなるに従って赤く見える溶岩の範囲が段々と広がっていく。遠くからの見学しか出来ない為、カメラに収めるのは至難である。ホエール・ウオッチングの時のカメラと同じ難しさを感じた。しかし確かに赤く燃えている溶岩を、この目で見ることが出来た。今回はこれで満足としよう。 赤く燃える溶岩−1 赤く燃える溶岩−2 PM7:20、今朝ホノルルから飛んで来たツアー客を、ヒロ空港へ送り届ける為に、バスは帰りを急ぐ。その途中で運転手から、ハワイ語の特徴について話があった。「ハワイ語の母音は、アエイオウの5つ、子音はH、K、L、N、M、P、W(U)の7つだけ。つまりハワイ語は、5×7=35の音で出来ている。非常に母音が多く、子音だけの音は無い」等の話であった。 確かにハワイの地名を聞いても、「オアフ(Oahu)、マウイ(Maui)、ハワイ(Hawaii)、カウアイ(Kauai)、ホノルル(Honolulu)」等、母音が多く、なんとなく間延びした感じを受ける。それに、繰り返しの発音が多い。カメハメハ(Kamehameha)大王、ワイアヌエヌエ(Waianuenue)大通り、でこぼこで荒々しい溶岩を意味する、アア(Aa)、滑らかな溶岩を意味する、パーホイホイ(Pahoehoe)。 ハワイ語には、もともと文字が無かったが、アメリカから来た宣教師が、ハワイ人の発音を聞き取ってアルファベットを当てはめて創ったと言う。ハワイでは、英語とハワイ語が公用語である。日本人としてハワイにいると、次に多いのは日本語かなと思うが、韓国語、中国語、フィリピン語、それに、それらをミックスした語も多いらしい。 PM8:00、ヒロ空港に到着。運転手は一人一人と握手を交わし、チップを貰っている。残ったのは私一人だ。来る時は、ヒロ・ハワイアン・ホテルでのピックアップであったが、帰りはお願いしてホステルまで送ってもらった。タクシー代の分として、10ドルのチップを運転手に渡した。PM8:20、ホステル着。 4月16日(金) 今日もヒロの町は、朝から小雨交じりのドンヨリとした空である。特に計画も無かったので、とりあえずパソコンを叩く。飽きてきた頃に外を見ると、雨が上がっていたので、近くをふらつく事にする。「犬も歩けば棒に当たる」で、初めての土地では、とにかく歩く楽しみが有る。但し、いきなり遠くまで歩いたりはしない。 まずはホステルの周りを、1ブロックか2ブロック歩いて土地勘をつかむ。次第に足を伸ばして行動範囲を広げる。こうする事により、迷子になることを防ぐのだ。従って、明日此処を移動するという頃になって、美味しい食堂を見つけたりすることが良くある。しかしそれは仕方が有るまい。 AM10:40、とりあえずカメハメハ大通りを西に向かう。車窓から見た綺麗な公園に行って見たかったのだ。途中の通りでウインドウ・ショッピング。書店や日本食弁当、市場を覗いて歩く。綺麗な公園に来た時、カメハメハ大王の立像が建っていた。同じような像は大王に由緒有る、ハワイの何箇所かに建てられている。 カメカメハ大王の立像 この公園は川が海に流れ込む所にあり、自然の池では、釣り人が糸をたらしている。「釣れましたか」と声を掛けると「まだ釣れてないが、これから潮が満ちてくれば期待できる」と言う。満ち潮の時には、海水が流れ込んでくる池になっている。 釣れましたか? 更に歩を進めると、見たことの有る風景が現れてきた。前日のツアーでの待ち合わせ場所であった、ヒロ・ハワイアン・ホテルの前に有る日本庭園、リリウオカラニ・ガーデンズ(Liliuokalani Gardens)だ。その入り口には、スイサン・フィッシュ・マーケット(Suisan Fish Market)が有り、マグロの陸揚げが行われていた。と言ってもほんの数匹の小型マグロだ。かつて日系人で栄えた面影である。 スイサン・フィッシュ・マーケット 庭園の中に入っていくと「日本」と言うレストランが有る。覗いてみると、丁度昼時とあって、数組の日本人を中心としたグループが食事中であった。何か手頃な物があれば食べて行こうと思ったが、希望の2倍位の価格が付けられていたのでやめた。広く綺麗な日本庭園の四方には、古びた木造の鳥居が立てられている。 更に進むとヒロ・ハワイアン等の大きなホテルがあり、その影にホテルかと思うほどの大きな船が現れた。聞くと「ハワイの4島を一週間で一周する豪華客船だ」との事。若干涼しく感じる中、中学生位の男子生徒が15人ほど、水着姿で海岸に向かっている。付き添いらしい婦人に聞くと「高台から飛び込みの練習をやります」との事。彼らの顔は余り嬉しそうではなかった。 豪華客船 腹も空いてきたので、今日の散歩はこれ位にする。戻る途中で、足を引きずりながらも、リュックを背負って歩いている70歳代の髭のおじいさんを見かけた。自分の近い将来を見ているような気がした。来る道々で物色しておいた市場で、ストローベリー・パパイヤを1袋購入。4個入って2ドル。 そんなに食えないが、昨日のツアーで運転手が「ストローベリー・パパイヤは、中身が赤く、特に美味しい」と言っていたので試食だ。試食の結果は「そう言われれば、確かに今まで食べた中では美味しい方かな」と感じる程度でした。1個を自分で食べ、残りは同室の青年たちにプレゼント。 昼食には、日本に居れば自宅で作って、職場に持って行くようなお弁当を1つ購入。6ドル也。きのこ、たくあん、梅干、焼き魚、玉子焼き等が、ご飯の上にびっしり並んでいて、美味しかった。ご飯を見ると、どうしても手が出てしまう。 ホステルに戻ると、カナダ人夫妻が到着し、しばらく懇談。彼らは「カナダのオタワから来ました。夫はテレコムを定年退職した58歳で、日系3世。2世の父親が第二次大戦後、日本語を話さなくなったので、日本語は話せません」と言うが、明らかに日系の顔。言葉数の少ない夫であった。 妻は「花屋さんに勤めているスイス生まれの人。オタワで知り合って結婚し、一人娘が大学生である」と言う。オヤジの口数が少ない分、殆ど妻が一人で喋っている。私が「オタワでは、元監獄のジェイル・ホステル(Jail Hostel)に泊まりました」と言うと、「そのホステルなら、知っている」と言って笑っていた。私はこのホステルの3日先輩として、種々の質問に答えてあげた。 この夜は、もう一人紹介しなければならない人が居る。それはアメリカ合衆国から来た男性だ。話の途中で「失礼ですが、お幾つになられますか」と聞くと、良く聞いてくれたと言う様な嬉しそうな顔をして「私は78歳だ。ところで君は何歳だ?」と言うから「64歳です」と言うと「まだ若いなー」と言われた。ちなみに、此処のユースホステルに泊まった事の有る最高齢者は、87歳だそうだ。希望が出てきたぞ! 今夜のおまけ。部屋にスースー風が吹いてくるのが嫌で、私が窓を閉めると若い人が開ける。私は身体が冷えて真夜中にトイレに起きた。開けっ放しになっていたドアを閉めていったのが運のつき。戻ってきて開けようとしたらドアが開かない!キーは部屋のロッカーの中だ。万事休す。「トントントン、ソーリー」と声を掛けても誰も起きて来ない。 アイルランドで閉め出された時は、「妖精」が起きてくれたのに、こんな時、野郎どもは何の役にも立たない。仕方が無いから広い談話室の椅子を並べて横になるが、夜風が身にしみる。暫く寝付かれずにいると、幸運にも、飲みに出かけていた同室の青年が戻ってきたのである。私の苦行は30分ほどで放免された。 目次へ戻る |