7月14日(月) AM8:00、起床。 AM8:30、毎日お馴染みのコンチネンタル朝食。14ソル(530円)。食事が終わって受付の前を通ると、受付嬢から呼び止められて「今日の部屋は313号室になりますから12時までに移動してください」と言われた。つまり今晩はオーストラリアの青年と相部屋になり、いよいよツアーの開始となるのである。私はすぐに荷物をパッキングして313号室に移動した。 AM9:30、近くの銀行で、200ドルを536ソルに両替。1ソル=38円。空港での両替より少し率が悪い。 AM10:00、日秘文化会館(Centro Cultural
Peruano-Japones)を訪問。1967年に開館して、日本語、折り紙、柔道、剣道等の教室がある。受付にはカタコトの日本語を話す女性が居て、館内の説明をしてくれた。教室をのぞいてみると、ほとんどがペルー人のようであるが、日系人らしい顔も少々見受けられた。 日秘文化会館 この建物の2階は、ペルー日本人移住史料館「カルロス千代照平岡」となっており、1981年にオープンしている。ここには、日本では失われつつある物(お櫃、将棋板、扇子、草履、酒徳利等)が、きちんと展示されており、見る者の郷愁を誘う。 そして日本人が失いつつある精神(尊敬、調和、責任、感謝、根気、質素、誠実、他)についても、あちこちに太い筆字で書かれていた。また、大きなパネルには、ペルー移住史100年を物語る展示がされていた。ここに来れば、100年の歴史がどの様なものであったのかが、一目で理解できるようになっている。どこにも立派な先駆者が居るものだ。 8階には図書館もあり、若干古いが日本語の書籍も置かれている。ここでは、数人のペルー人が本や新聞を読んでいた。 この後、私は近くにある日本大使館を見に行きたいと思い、図書館受付の若くて利発そうな女性に、大使館への行き方を訪ねた。彼女はペルー人だが、ある程度の日本語を話せた。そして奥の方へ行くと、一人の日本人男性を連れてきた。その方は、添田さんと言う83歳のおじいさんだ。 添田さんは「大使館を案内しましょう」と言って私を先導しながら次のように語ってくださった。「私はペルー生まれだが、戦前戦後の、日本が最も大変な時に、日本にいました。昭和30年にペルーに戻った時は、食べ物が豊富で美味しかったので、天国に来たように思いました」と。 戦後の混乱期を幼年、少年時代として過ごした私が、今から想像することは難しいが、敗戦で日本経済がどん底にあった時、海外に行ける人は恵まれていたのかも知れない。添田さんは、その当時、全国で唯一のプールを持っていた、中央大学の水泳部に所属していたそうだ。 「ところであなたは、大使館へ何をしに行くの?」と添田さんから聞かれ「1996年12月に起きた、在ペルー日本大使公邸占拠事件の現場を見ておきたいと思いまして」と言うと、「今の大使館は当時の場所ではないよ。当時の場所は全部取り壊して、更地になっているのだ」と教えて下さった。私は、更地を見ても仕方がないので行くことを止め、添田さんにお礼を言って別れた。 AM11:30、タクシーで天野博物館へ。15ソル(560円)。タクシーは危険だと言われているが、きちんとした会社のタクシーならその心配はなさそうである。そういう感触を得て、タクシーに乗った。ただ、メーターが付いていないので、料金の事前交渉が大事である。 私が示した地図を見て、運転手は「天野博物館は、この付近に有るはずだ」と言って私を下ろした。ところが博物館が見あたらない。5人に聞き歩いて、やっとたどり着いたが閉館のようである。旅行案内書では、土日が休館日で、月曜日の今日は開館日のはずである。 ブザーを押してみると、中から女性が出てきた。そして「現在、開館50周年を記念して、大規模な改装工事をしている為、閉館になっています」との事。私が「解りました。天野先生の著作物でも有れば買いたいと思って来たのですが」と言うと、「ちょっと見て参りますので、暫くお待ち下さい」と言う。 再び出て来て「今、工事の職人さん達が食事に出かけましたので、その間でよければご案内しましょう」と言う。私はお言葉に甘えて、館内に入った。 展示物はプレ・インカ、インカ各文化の土器類と織物を系統立てて展示されていた。中でも中心になるのは「チャンカイ文化」のものである。収蔵数3万点以上のうち、展示してあるのは300点と言うから、どれも見応えのある品々であった。ここに来るとインカ文明の前後も含めて、少しは勉強したいと思わずにはおれない。 プレ・インカの出土品の中に、日本人、アフリカ人、インド人、ヨーロッパ人の顔としか考えられない土器があった。アメリカ大陸はコロンブスが発見したのが最初であると、歴史の教科書で学んだが、それは公式な記録であって「実は、遙か昔から各大陸間の交流があったのではないか」という証拠を見せられた感じがした。 もう一つ、これは説明者が注意を喚起しなければ絶対に見落としてしまう展示物であった。それは小さなガラスケースの中に陳列されていた。1個の大きさが1mmほどのビーズ玉に穴をあけ、髪の毛よりも細い糸を通して作られた装飾品である。 レーザー光線のない時代に、どうやってこんなに小さな穴を開けることが出来たのか。それも大量に。顕微鏡で調べると、道具を使って穴を開けた痕跡があるそうだ。しかし、その道具は未だ発見されていないと言う。 次の展示室で案内されたのは、織物である。天野博物館の展示物は、プレ・インカのなかでも、「チャンカイ文化」の物が圧倒的に多い。その織物をみて驚いたのは、当時既に現代でも女性に人気のある、美しいレース編みが多かったことである。これを普通の庶民が身に付けていたと言うから、当時の文明がどれほど発達していたのか、興味は尽きない。 説明をしてくれたのは、野村さんと言う新婚の女性で、とても分かりやすかった。彼女のご主人は、アルゼンチンに留学している時に出会った人(大学で日本語教師をしていたペルー人)だそうだ。留学後、しばらく遠距離恋愛が続き、めでたくゴールイン。 彼女がこの博物館で働くようになったのは、彼女が此処を訪問したとき、すっかり気に入って、「此処で働かせて下さい」と申し込んだのがきっかけだそうだ。「どうしてこんなところに日本人が」と言うテレビ番組を思い出してしまう一コマではあった。 ご主人は、まだ日本には行ったことがないのに、ほとんど癖のない日本語を話せるそうだ。現在は大学での日本語教師から保険会社に転職し、そこで日本語のオペレータをしていると言う。 通常の開館日なら予約しておかないと、日本語の説明は無いそうだが、今日は全くラッキーでした。売店では、ペルーの遺跡に関する書物や、土産物が売られていたが、その中から、この博物館の創立者である、天野芳太郎著の「わが因われの記:第二次大戦と中南米移民」(中公文庫)を1冊購入した。10US$。 天野氏は30年前に亡くなっているが、30歳若い奥様は未だご健在で、この博物館の館長をしておられる由。説明を聞き終わって博物館を出る頃には、再び改装工事の大きな音が響いていた。 天野博物館と野村さん PM1:15、歩いている時に目に止まった中華料理店で昼食。スープは美味しかったが、チャーハンはグッドではありませんでした。これなら自分の方が上手だろうと思った。 PM2:30、リマに来て最初の日に参加した、半日ツアーの待ち合わせ場所が「ワカ・プクジャーナ」と言う遺跡の近くであったことは既に書いた。しかし、もっと近くからきちんと見たいと思い、そこに立ち寄ってきた。入場料:12ソル(450円)。此処も、紀元後から600年頃に栄えたプレ・インカの遺跡である。 ワカ・プクジャーナ PM3:30、最後は、市内バスのメトロポリターノに乗ってホテルへ帰着。2ソル(75円)。昨日の失敗は繰り返さずにスムーズに帰って来ることが出来た。滞在5日目になると、リマ市内の一人歩きが出来るようになった。明日はいよいよツアーの出発である。 PM4:30、オーストラリア人青年との相部屋に戻ってきた。彼は腹をこわしたと言ってベッドに寝ていた。私はシャワーを浴びて6時からのミーティングに備えた。 PM6:00、ホテル2階のソファーで、初めてのミーティング。参加者は次の6名。 1、ジョシュアJoshua(オーストラリア・シドニーからの男性、23歳) 2、オリヴィアOlivia(カナダ・オタワからの女性、21歳、学生) 3、クリスChris(オーストラリア・シドニーからの女性、60歳位) 4、ジョアンナJoanne(オーストラリア・シドニーからの女性、60歳位) 5、ハイディHeidi(カナダ出身・ペルー在住の女性、40歳位、ツアーリーダー) 6、小生 クリスとジョアンナは友人関係。二人ともマインド・セラピーとして同じ病院に勤務している。ツアーは、男性2名と女性4名でスタートし、クスコでさらに5名が合流の予定。 ツアーリーダーのハイディは、いかにもドイツ系カナダ人のようで、大型の体躯。「なにがあっても任しておきなさい」と言う印象の女性である。慣れた進行で一通りの説明を終えると、我々は霧雨の中を、近くのペルー料理店へ繰り出した。 PM7:00、私は、メニューを見ても、確かなイメージがつかめない中、適当にシーフード欄に書いてあるものを注文。やがて運ばれてきた大きな皿には、他のメンバーがわざわざ見に来るほどの豪華で見事な盛りつけがされていた。しかし、見ただけでは、どんなシーフードが入っているのか見当がつかない。 ナイフとフォークで少しずつ盛りつけを崩しながら食べて解ったのは、大きなイカに混ぜご飯を詰めた、いわゆる「イカ飯」が上に乗っており、その下には、マッシュポテトの表面を焦がした大量のジャガイモが盛り付けられていた。見栄えは豪華だが、中身と味は期待通りではなかった。ハーブティーを加えて40ソル(1500円)。満足度の低い食事でした。 イカ飯 しかし、ツアーのメンバーとは、和やかに懇談が出来た。「今までに何カ国に行って来ましたか」と聞かれた時に、「約40カ国です」と言うと、一様に驚いた様子であった。
初めてのディナー PM9:00、ホテルへ戻って、日記を書く。 PM11:00、就寝。今夜はオーストラリア人男性のジョシュアと相部屋である。彼は「食当たりをしたようだ」と言って、何度もトイレに行っていた。 7月15日(火) AM8:30、起床。朝食。時差が解消してきたらしく、昨夜はよく眠れた。ツアーは、いよいよ今日の午後1時に出発だ。 ホテル内のレストラン AM12:00、6泊したカマナ・ホテルをチェックアウト。感動のないオムレツの昼食。22ソル(830円)。 PM1:00、2台のタクシーに分乗してバスターミナルへ。リーダーのバッグは、非常に大きくて、26kgあるそうだ。私のバッグの約2倍の重量だ。「これが私の家だから」と言う。つまり彼女は、ツアーでホテルを渡り歩いているので、定宿が無い、住所不定の身である。こういう話を去年のシベリア・バルカン半島ツアーの時も聞いた。当時の副リーダーのジョセフは、1年の内、半分は船の上、他の半分はツアーの引率をして暮らしていた。 リマのバスターミナルで(ジョシュアと) 私の荷物 PM1:55、路線バスにてピスコへ向けて発車。バス代はツアー料金に含まれているが、チケットをみると28ソル(1100円)となっている。路線バスだから各駅停車で、海岸沿いを南下している。途中は、荒涼とした砂漠に1本の道路が走っているだけの景色である。 海岸の砂丘と砂漠の区別が付かない風景が続いている。時折見える建物は煉瓦を積み上げただけの粗末な作りで、地震が来たらすぐに崩壊してしまうと思われた。この地域は南極方面から北上してくる冷たいフンボルト海流のせいで、雲が発生しにくく、年間の雨量が極端に少ないそうだ。 砂丘と砂漠の区別が付かない風景 PM6:00、4時間余り揺られて本日の目的地、ピスコ(Pisco)のバス停に到着。そこから、再びタクシーに分乗し、パサダ・ヒスパニア・ホテル(Pasada Hispana Hotel)へ。小さな3輪タクシーが町の中を沢山走っている。ピスコはリマから海岸沿いを南へ237km走った所の、ピスコ川の河口にある人口約11万人の町である。 PM6:45、チェック・イン後、夕食に出かける。途中の広場でリーダーから「この町は2007年の地震と津波で壊滅し、その後、復興した所です」との説明があった。日本に居て、チリ地震や、太平洋を渡って対岸の日本へ押し寄せる津波の被害を聞くことはあったが、その現場を目の当たりにすると、やはりその恐怖を覚えずにはいられない。 チリも日本とよく似た地殻構造から、数十年おきにM8以上の巨大地震が発生し、M9以上の巨大地震は約300年間隔で発生している。1960年の超巨大地震はM9.5(2011年の東日本大震災はM9.0)に達し、有史以来最大規模の地震として有名である。この時の津波は日本にも大きな被害をもたらし、死者・行方不明142名の犠牲者を出した。 レストランに着くと、私はメニューの中から、チキン、ヌードルと書かれたものを注文した。結果はまずまずのお味で、チキンを少し残して終了。25ソル(950円)。今日はクリスの誕生日で、小さなケーキが用意され、レストランのスタッフが、ハッピーバースデーを合唱してくれた。何歳の誕生日かは誰も聞かなかった。 今日はクリスの誕生日 PM9:00、他の連中は、バーに寄ってもう一杯だが、私は飲めないのでホテルへ帰着。シャワーを浴びて、日記を書く。 PM11:00、就寝。 PM12:00、ジョシュアのすごいイビキで目が覚める。迷ったあげくに、つついて起こしたら、その後は聞こえなくなった。 7月16日(水) AM6:00、起床。スカイプで詩子を呼ぶと、入浴の最中で大きな泣き声がする。まもなくスカイプに現れるも、泣き止まない。目の中に石鹸が入ったらしい。詩子はスカイプを切りたくないと言っていたが、私の方に時間がないので、間もなく終了した。 AM6:40、朝食。ホテルの食堂に行ってみると、そこは倉庫のような雰囲気で、電気も点灯されておらずスタッフも居ない。フロントに戻って声をかけると、夜勤でそこにいた係りが「今行きます」と言う。 咬み切れないほど固くて冷たいパンと、不思議な味のジュース、コーヒーはなくて、ティーバッグとお湯が用意された。後から運ばれてきたスクランブルエッグにはハムも入っておらず、プレーン・エッグとでも言うのかしら。これで12ソル(500円)は不満である。 AM7:15、チェックアウトを終えて、いよいよ出かけようとしていたら、電話を終えたリーダーが「今日は船が欠航で離島の見学はできません」と言う。私が「港だけでも見に行きたい」と言うと「遠いし、治安が悪いから行きません」と言う。やむを得ず、近くを散策してお茶の飲めるところを探すが、そんな店も見あたらない。だいたい、こんな所にどうして宿を取ったのだろうか。 今朝も、小さな三輪車が激しく往来している。乗っている人を見ると、通常1人か2人であるが、あの狭いところに4人も乗っていることがあった。今の時間は学童の通学に使われている車が多い。低学年は親と一緒に乗っており、高学年になると、一人で乗っている。 小さな三輪車 AM8:30、次の目的地、イカ(Ica)に向かう。路線バスの料金は、4ソル(150円)。バスターミナルで並んで乗車を待っていると、ペルーでは珍しいほど若くて美しい女性が私の後ろに並んだ。思わず「どちらからいらっしゃいましたか?」と話しかけたが、「英語は分かりません」と言う。 私がスペイン語の本を取りだして、何とか聞き出したのは、「彼女はここ、ピスコに住んでいて、隣町にあるイカの大学生である」と言うことであった。写真を一枚所望したかったが、そこまでの勇気はなかった。バスは相変わらず荒涼とした砂漠の中の「パン・アメリカン・ハイウエイ」を南に走って行く。 AM10:00、イカ着。バス停からタクシーに乗り換えて10分ほど走ると、砂漠の中のオアシスと言われる小さな町(ワカチナ:Huacachina)に着いた。小振りな池の周りにレストランやホテルが数軒あり、その周りを小高い砂丘が取り囲んでいる。ツアー仲間の若い二人は、ここで、ボードを使った砂丘下りを楽しみ、我々年輩者組は、散策して時間を潰した。 砂漠の中のオアシス:ワカチナ AM12:00、昼食、池の周りのテラスでスープと魚料理。よく分からない具材ではあるが、まずまずのお味でした。15ソル(570円)。食後は、する事もなく出発までパラソルの下で昼寝。 PM2:40、プライベートの車、7人乗りのバンに6人と荷物を載せて、地上絵で有名なナスカへ出発。途中でブドウから作るペルーのブランデー「ピスコ」の醸造所に立ち寄り、見学。ここは乾燥した気候とイカ川の水を利用して作るブドウが有名で、その葡萄から出来るワインやピスコが名産となっている。乾燥地と言えば、エジプトでの夜行列車で飲んだぶどう酒が、美味しかったことを思い出した。
ピスコの醸造所 PM3:30、ピスコの醸造所を出発。車窓からの風景は、相変わらずの荒涼たる砂漠である。しかしその中に綺麗に整備された片道1車線の道路が走っている。我々の車はそのパン・アメリカン・ハイウエイをナスカ(Nasca)に向かっている。運転手は、前を走る大型トラックを注意深く何台も追い越して行く。 パン・アメリカン・ハイウエイ(ナスカ) PM5:30、太陽が沈みかけた頃、我々はナスカに入ってきた。道路そばに建っている高さ20mの観察やぐら(ミラドール:Mirador)からから見た地上絵は、夕日の逆光線の為に、はっきりとは見えなかったが、「4人のシャーマン」と呼ばれるものである。ナスカの地上絵は、パン・アメリカン・ハイウエイの建設で傷つけられた部分もあると言う。 ミラドール(高さ20m) 少し移動したところで再びミラドールに上がってみたが、さらにはっきりしなかった。解説書によるとそれは、「海草と手」のようだ。展望台に上ったのは私だけ。1カ所、2ソル(75円)。他のメンバーは、明朝、セスナ機に乗って空から見学する予定である。 PM6:30、サン・マルセロ・ホテル(San Marcelo Hotel)に、チェック・イン。昨夜のイビキに困った事をリーダーに伝えておいたら「15ドル追加すれば個室に入れるがどうするか」と言う。私は、折角の心遣いを無にしては申し訳ないと思い、承諾した。かくして、今夜は広い部屋を独り占めである。早速シャワーを浴びてすっきりする。 PM7:30、夕食。スパゲティ・ナポリタンを注文。お味は「何とか食べられる」程度のレベルで大変残念した。18ソル(680円)。他の人が食べていた物も、美味しそうには見えなかった。どうやらプロの料理人ではなく、素人が作っているようだ。時間が掛かりすぎることからも、間違いないと思う。食べ終わる頃には、折角シャワーを浴びて暖まった体が冷えてしまい、早く布団に入りたいと思った。 PM10:00、持参の寝袋をベッドの中に入れて就寝。 7月17日(木)、ナスカ AM2:00、起床。冷えたせいか、何度も目が覚めてしまった。ついでに日記を書く。 AM4:10、スカイプで詩子を呼んでみたが出なかった。少し早すぎたようだ。 AM7:00、詩子がスカイプで呼んできた。しかし、お気に入りのテレビ番組が始まっていて、私の顔を確認しただけで、テレビの方へ行ってしまった。詩子にとって、ジイジは存在を確認するだけで良いらしい。 AM7:30、朝食。セルフサービスだが、今回の旅行の中では一番メニューが充実していた。この際、腹一杯食べようと思った。シリアル、パン、ジュース、コーヒー、各種ティー、バナナ、スクランブルエッグ、ヨーグルト等多彩であった。 AM10:30、私を除く5人が、ナスカの地上絵を見るために空港へ向かう。私はその車に便乗して町へ出た。この町は標高620mの乾燥した大地で、約3万人が住んでいる。私は市の中央を、ボログネシ広場(Plaza Bolognesi)からアルマス広場(Plaza de Armas)までを歩いて往復した。 アルマス広場 アルマス広場のハチドリ その途中に、美味しそうなみかんが売られていたので、2個だけ買った。1ソル(35円)。味は美味しいのだが、房の皮が硬く、種が多かった。 次は、薬局で痔の薬を購入。あらかじめスペイン語の辞典で、痔(hemorroides)と、座薬(supositorio)を調べておき、薬局の女店員にメモを見せたのである。女店員は笑いながら「ウノ(uno:一つ)か?」と聞くので、「そうです」と言うと、処方箋を書いた紙を私にくれて「まず隣の窓口で薬代を支払ってきなさい」と言う。 私は言われたとおりに、窓口で支払ったのだが、値段が3.5ソル(140円)といかにも安い。そして元のところで薬を受け取ろうとしたら、箱の中の1個を渡そうとするではないか。私は一箱のつもりでいたのに。彼女が言った「ウノ」は、一箱ではなかったのだろうか。私は、もう一度支払いをし直して一箱を受け取った。35.4ソル(1400円)。 時間つぶしの為に次に訪問したのは、マリア・ライヘ・プラネタリウム(Planetarium Maria Reiche)である。ここは、マリア・ライヘ女史が地上絵研究のため滞在した、ホテル・ナスカ・ラインの敷地内にあり、女史の理論に基づいて、地上絵の意味を天体の動きや正座との関わりから解説してくれると言う。
ホテル・ナスカ・ライン ホテルのフロントで、「プラネタリウムの見学に来ました」と言うと、「それは午後7時から開始されます」と言う。私は、残念ながら諦めざるを得なかった。 AM12:30、散策に疲れを覚え、タクシーでホテルへ帰着。7ソル(270円)。しばらく日記を書いてから昼寝。 PM3:40、オプショナルツアーで、ナスカ時代の墓地跡(チャウチージャ Cementerio de Chauchilla)を見学に出発。53ソル(2000円)。殆どが盗掘された跡で、ミイラだけが残っていた。乾燥した土地だから、2千年も前の物が残っていたのであろう。 チャウチージャのミイラ ともあれ、ナスカの地上絵は誰が何のために描いたのか、未だ謎に包まれたままであるが、この墓地跡や、日干し煉瓦で築かれた高さ20m余りのピラミッドや神殿からなる、カワチ遺跡(Cahuachi)等、ナスカ文明の総合的な研究が進んだとき、謎が解明されるかもしれない。 PM7:00、ホテルへ帰着。 PM8:45、ホテルをチェックアウト。夜まで荷物を各自の部屋におかして貰ったので、チェックアウトの延長料として、10ソル(380円)を支払った。 PM9:30、シーフードの夕食。35ソル(1350円)。 PM11:50、大型の夜行バスでアレキパへ向かう。96ソル(3600円、ツアー代に含む)。2階建てのバスで足下が広くなっており、イスを深く倒せる。飛行機の「エコノミー・エクストラ」位の感じである。 |