7月18日(金) AM5:00、夜行バスで目を覚まして外を見たが、真っ暗で何も見えない。 AM6:00、日の出が近くなったようで、外が少しずつ明るくなってきた。乾燥した大地は、草木が見あたらず、月の表面もかくの如しかと思われる光景が続く。崖崩れや、土石流がいつ発生してもおかしくないが、雨が降らないから、被害が発生せずに済んでいる状況である。 月の表面もかくの如しか? そんな中にも時折、小さな集落が点在して、トウモロコシやブドウの畑、牧草地がみられた。 AM10:10、アンデス山地の盆地に忽然と大きな町が現れた。標高2335mの高原に、人口が90万人の都市、アレキパ(Arequipa)だ。ここは首都のリマに次いで大きい、ペルー第2の都市である。アレキバの別名は「シウダー・ブランカ(Ciudad Blanca)」つまり白い町。建物の多くが近郊で採れる白い火山岩で造られているためである。中心部はアレキバ歴史地区としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。 アレキバ歴史地区 郊外にあるバスターミナルには、ホテルから迎えの車が来てくれた。我々6人は、この車で市内へ入っていく。道々目にするペルー人の、特に年輩の婦人の中には、孫の詩子の体型に似た人が多い。つまり、お腹とお尻が出ていて、足が短い体型である。 大型の夜行バス アレキパのバスターミナル AM11:20、アブエラ・ホテル(La Casa de mi Abuela)にチェック・イン。旅行案内には1泊US$54と書いてある。洒落た庭のある清楚な雰囲気のホテルである。 アブエラ・ホテルの中庭 AM12:10、昼食に行く途中、洗濯屋さんに洗濯物を預ける。1kgで5ソルだそうで、私が預けた分量は、1.5kgで7.5ソル(300円)であった。昼食は、スターバックスの様なところで、コーヒーと、サンドウィッチを注文。13ソル(450円)。 この頃、私は気分が悪く、頼んだコーヒーとサンドウィッチを半分しか、口に入れられなかった。そして、これが高山病かと思い、持参した高山病対策の薬(ダイアモックス)を急いで飲んだ。ツアーリーダーは「午後はフリータイムです」と言って、我々をこの店に置き去りにして、何処かへ行ってしまった。 私は、他の連中に付いて行くことにする。丁度、市内の中央公園であるアルマス広場(Plaza de Armas)に来たとき、市内観光ツアーの客拾いに出くわし、我々5人は、2時間で35ソル(1400円)のコースに参加することに決めた。実は3時間のコースもあったのだが、その違いがよく分からずに2時間コースを選択したのだ。
アルマス広場 後で分かった事は、3時間で市内を1周するバスに、我々も一緒に乗せられ、2時間経ったところで、「あなた方は2時間コースですから此処でおしまいです。此処から乗車したところまではタクシーで戻ってください」と言う話であった。 タクシー代は、ツアー会社が負担してくれたが、何となく尻切れトンボのようで、スッキリしなかった。それでも、シャッターチャンスでは車を止めて、皆を降ろして説明するところが、3回あり、参加して良かったと思った。 1回目のストップ:ミスティ山(Volcan El Misti、5822m)と、チャチャニ山(Volcan Chachani、6075m)がよく見える場所で、共に火山であるが、これが市内から見える為に、アレキバの町が、風光明媚な所としての評判を勝ち得ている様だ。特にミスティ山は、その形が富士山にソックリな為、余計親近感が沸く。此処の売店で、マカの粉末や、クッキーを買った。32ソル(1200円)。 富士山によく似たミスティ山(5822m) 2回目のストップ:古い教会(サンタ・カタリナ修道院)とアーチ型の建築物がある公園。ここからも、ミスティ山は良く見えた。 サンタ・カタリナ修道院 3回目のストップ:アンデス山地に特有の動物を飼っている場所。リャマ、アルパカ、ビクーニャ等を見ることが出来たが、皆、似たような姿をしているので、1度見ただけでは区別が付かない。これから何度も見る機会があるだろうから、その内、見分けられるようになるかも知れない。 PM4:30、市内観光終了。 PM5:30、スーパーに寄り、リンゴ、コーラ、水を買ってホテルに帰着。 PM6:30、明日の打ち合わせ。明日は、1泊分の荷物だけを持って、コルカ渓谷へ出発する事になった。 PM7:30、気分も回復し、いくらか食欲が出てきたので、夕食に同行。野菜スープを注文。15ソル(570円)。 PM9:00、ホテルに帰着し、明日のパッキングと、日記を少々書く。 PM11:00、就寝。 7月19日(土) AM6:30、起床。 AM7:00、ホテルで、朝食。15ソル(570円)。小さな子供と一緒の家族もいた。これから我々と同じツアーに参加するのだろうか。 AM7:30、我々は1泊分の荷物だけを持ち、10人乗りのバンで出発。今日は4900mの峠越えをする。薬を飲んで高山病への対策は取っているつもりだが、一抹の不安はある。 今日のドライバーの名前は、フィデル(40歳代の男性)。ガイドの名前は、イサベラ(40歳代の女性、)。イサベラは、我々には英語で説明し、リーダーとはスペイン語で話している。笑顔を絶やさずとても丁寧である。 AM9:30、我々は、標高3823mの地点まで上がってきた。初めて人家が見えてきた。そこには僅か4世帯が住んでおり、その姿(足と首が長い)がエレガントなビクーニャ(Vicnas)を飼っている。線路もあるが、今は使われていない。此処からも美しいミスティ山が見える。昨日、アレキパから見た山の後ろ側になるそうだ。丁度、後ろ富士を見ているような状況である。 標高3823mの地点 ミスティ山を後ろ側から見る AM9:50、標高4011mの表示が出ている。此処は、チバイ(Chivay)に行く道と、プノ(Puno)に行く道の分岐点である。我々はチバイを目指している。いよいよ未体験ゾーンの標高に差し掛かってきた。 少し行くと、アルパカやリャマを飼っている地域へきた。此処には、まだ幼い顔をした(7歳位)牧童がいた。私は、夜行バス内で配られたパンと菓子のセットを食べずに持っていたので、それを彼にあげたら喜んでくれた。 アルパカやリャマの群れ AM10:10、茶店で30分の休憩。朝食の時に会った親子にまた会った。聞くと、オランダから来ており、子供は5歳の女の子と、7歳の男の子であった。バスは違うが、同じ所へ行くようだ。私は此処でマテ茶を注文。4ソル(150円)。 マテ茶 AM10:40、白い毛で首が長く、足が短いアルパカが大量にいた。リャマ、アルパカ、ビクーニャのちがいが、少しずつ分かってきた。 アルパカの群れ AM11:10、小さな水辺に鳥が集まっていた。そこが餌場になっている。小魚もいるそうだ。小規模の学校もあった。 水辺に鳥が この辺りの生き物は、人間も含めて、小振りなのは、乾燥地帯で雨が少ないことと関係があるのだろうか。しばらく行くと、凍結した小さな滝が有った。気温が低いのであろう。 凍結した小さな滝 AM11:50、遂に標高4910mの峠にきた。心配していた高山病の症状もない。薬のおかげだと思っている。此処からは360度が見渡せ、今までに何度も見てきた、富士山に似たミスティ山も見えた。此処では、記念写真を撮る人、そして、その人たちを相手に、土産物を売る露店が並んでいた。 標高4910mの峠 峠の土産物屋 AM12:10、トイレ休憩。小さなトイレが一つ、崖っぷちに建っていた。ご婦人たちを優先させると、男の我々の順番は遅くなる。そこで、崖に向かって立ち小便だ。先にオーストラリア人青年のジョシュアが、私の目前で放尿を開始。 小さなトイレが一つ その勢いのすごいこと!まるで馬が垂れているのではないかと思いような勢いである。しかも、時間が長い。その勢いが衰えることなく、少なくとも30秒間は続いていたであろう。私は呆気に取られながら、後ろから見入っていた。何処からあんなに沢山の小便が出てくるのだろう。 そう言えば、彼は毎日、2.5リットルのペットボトルに入った水を飲み干している。私は、食事時以外は500mlのペットボトルで足りているが、彼はいつも2.5リットルのペットボトルを持ち歩いている。従って「彼は私の5倍の大きさの膀胱を持っているに違いない」と勝手に納得した次第である。 12:30、チバイ(Chivay)に到着。此処は、標高3600m、人口5000人の町で、この辺りでは大きな町である。今夜は、この近くのホテルに宿泊して、明日、早朝の出発に備える。チバイは、インカ帝国以前から有った町で、中心広場では観光客相手の露店が並んでいる。そして、此処で我々とは反対のコース、つまりボリビアの旅を終えてきたオランダ人夫婦と合流した。 チバイの中心広場 PM1:30、ママヤチ・ホテル(La Casa de MAMA YACCHI)にチェック・イン後、昼食。ペルー料理のバイキングである。28ソル(1100円)。リャマ肉の美味しそうなバーベキューの臭いがしたので、一切れ皿に載せてもらった。味は良いのだが固かった。 ママヤチ・ホテル リャマ肉のバーベキュー 隣の人が言うには「子供ではなくて大人の肉なんでしょう」と。デザートに、カクタス・フルーツ、つまり、サボテンの果肉で作ったプリンケーキを食べた。食感はキューイにそっくりであるが、酸味がさらに強かった。 PM3:00、希望者で散策に出る。人数は6人とガイド。しかし、100mも歩かない内に、冷たい風が吹き始め、3人が脱落。残ったのは、オランダ人夫妻と私の3人だけ。我々はホテルの周辺を、上ったり下ったりしながら、プレ・インカ時代の廃墟を見て歩いたが、狭い山道を乗馬で楽しんでいる人もいた。この廃墟のある一帯は、サン・アントニオと名付けられており、立ち入り禁止の表示を立てて守っていた。 サン・アントニオから見た村の景色 狭い山道を乗馬で プレ・インカ時代の廃墟 PM4:40、ホテルに帰着。シャワーを浴びて、日記を書く。他のメンバーは、オプショナルで近くの温泉へ。わたしは、疲れを感じてホテルに滞在。戻ってきた相部屋のジョシュアの感想は、「暑い温泉で大変良かった」と言う。 PM7:30、夕食。再びペルー料理のビュッフェ。28ソル(1100円)。一食一食の食事代は、さほど高くはないが、今までのツアーと比べるとかなり出費が多いように思う。 それは宿泊が、ユースホステルではなく、ホテルになっているので、食事ごとに1000円前後支払っているからである。宿泊の快適さは、ユースホステルとは比べものにならないが、出費の方が気になる。 PM8:30、思い思いの飲み物を注文して懇談。私はマテ茶を注文した。高山での飲み物としては、合っているように思う。 PM10:00、就寝。 7月20日(日) AM5:00、起床。 AM6:00、早朝のため、食事抜きでコンドルを見に出発。 AM7:45、トイレ休憩。ここでカクタス・フルーツそのものを試食。サボテンの実をむいて、中身を取り出してもらうのである。結果は、酸っぱ過ぎて、半分食べたところでギブアップ。3ソル(120円)。確かに食感はキューイと良く似ているのだが。 サボテンの実 AM8:45、コルカ川沿いに走って、クルス・デル・コンドル(Cruz del Condor)と言う展望場所に到着。既に多くの人が来てコンドルの飛ぶ様をカメラに収めている。この辺りの渓谷は、カニヨン・デル・コルカ(Canon del Colca:コルカ渓谷)と言われ、アメリカのグランドキャニオンよりも深いと言われている。 展望台・1 コンドル・1 コンドル・2 コンドル・3 展望台・2 ここでは、ペルーを代表する鳥コンドルが、我々の居る所よりも、悠然と高く飛んだり低く飛んだりしている。私も懸命にカメラで捕らえようと試みるが、なかなか巧くは行かない。 その理由は: @岩肌の色とコンドルの色が似ている。 A相手は自由に飛び回っており、じっとしていない。 等から、私のバカチョン・カメラではどうにもならない。 そんな中でも、コンドルが飛んでいるところを、カメラに収めることが出来て良かった。今日は、幸せなことにコンドルの数は多い。日に寄っては殆ど姿を現さない事もあるそうだ。 帰りの車内で、キヤノンのカメラを持参してきたオリビアに、成果を見せてもらうと、それはそれは素晴らしいコンドルの飛翔姿をカメラに収めていた。翼を広げ、その先の5本の指までハッキリと写っているではないか。カメラの性能でこんなにも差が出るのかと、今更のように認識させられた。「カナダに帰ったら、メールで送ってあげます」と言ってくれたが、実行はされていない。 AM9:35、ガイドの案内で付近の散策に出発。コンドルは動物の死骸を餌としており、朝と夕方の狩りをする時だけ我々に姿を見せる。従って、もうこの時間にはコンドルの姿は何処にも見えない。ホテルを早朝に出てきた理由が分かった。 付近の散策 獲物を捕るとき、場合によっては、狐とチームを組むと言う。コンドルが獲物を見つけて、その上空を旋回する。一方狐はそこへ走って、獲物を捕らえる。巧く行くと獲物は半分ずつにするそうだ。 この付近のコルカ渓谷でも、スペインの植民地時代に、銀の採掘が盛んに行われた。今もその跡が残っているが、そこは渓谷の底であり、渓谷の上り下りは過酷を極めたと言う。 また最近の話としては、渓谷の向かい側のトレッキングコースに出かけた男女が、道に迷い遭難した。数週間後に発見されたときは、コンドルに食われた後だった。 コルカ渓谷で その他、歩きながらガイドが説明してくれたのは、サボテンの実が成っている所(但し我々が見たものは、小さくて人間の食用にはならない)や、ペルーの国花(カンツータkantuta)や、山なら何処にでもある棚田等であった。ガイドは、今はアレキパの町に住んでいるが、祖父母達は、この辺(コルカ渓谷)に住んでいたそうだ。道理で説明が詳しいと思った。 サボテンの実 ペルーの国花 AM11:20、我々は、コルカ川(Rio Colca)沿いの散策を終えて車へ戻った。車は我々が散策を終わる所で待っていてくれた。これからチバイまで戻って、昼食を取る。その途中のトイレ休憩の時、ガイドがサボテンの実を美味しそうに食べているではないか。私が「甘いですか?」と聞くと「甘いです」と言う。 コルカ川 私は半信半疑で試食した。なんと、とても甘いではないか。これなら、我々が普段食べているキューイよりも甘い。「どうしてこんなに味が違うのですか」と聞くと、「サボテンの種類が違います」と言う。ここへ来る途中で試食したものより小振りではあったが、大変甘かった。サボテンにも色々な種類があるのだろう。1ソル(37円)。 AM12:15、チバイのレストランで、バイキングの昼食。私は疲労であまり食欲がない。スープを一皿と、その他のペルー料理を少々。後は、ティーを注文。隣で食事をしていたオランダ人夫妻が「あまり食べませんね」と言う。 高齢と高山のため、疲れ易くなっていると思う。オランダ人は夫が59歳、妻が57歳だそうだ。私より10歳若い年の差は大きいが、彼らも、この後に控えているマチュピチュへは、トレッキングではなくて、電車で行くという。私が電車を選択した事は正解だったと思う。 オランダ人夫婦は、かつてブラジルで、化学工業の仕事を1年半していたことがあると言う。そこで私は質問してみた。「リオ・デ・ジャネイロとはどういう意味ですか?」と。答えて曰く「一月の川と言う意味です」と。 スペイン語辞典で確認すると、リオ(Rio:川)デ(de:の)ジャネイロ(Janeiro,enero:1月)が原義。ポルトガル人航海者が1502年1月、この地を訪れた時、グアナバラ(Guanabara)湾を河口と誤解し、この名を付けたとある。 PM1:15、レストランを出発。 PM2:00、標高4910mの峠を通過。 PM2:10、往路では見かけなかったのだが、乗用車が前部を大破して山側にひっくり返っていた。下りの坂道でスピードを出し過ぎていたのではないだろうか。 PM4;00、アレキパのホテルに帰着。リーダーから「本日のこの後は、フリータイムです」と言われた。私は疲れていたので自室で日記を書いて過ごし、夕食にも出かけなかった。 |