8月6日(水) AM7:40、バスがウユニに到着。ラ・パスからウユニまでの距離は約550km。これを10時間40分掛けて、文字通りノンストップで走った。ガイドブックには「途中のオルーロ(Oruro)までは道も整備されている」と書いてあったが、完全に裏切られた。最初から最後まで激しく揺れていた。バスから降りた皆も、疲れ果てて放心状態である。「こんなに揺れたバスは初めて体験した」と、口々に言っている。 AM8:00、荷物を置かして貰うホテルで、朝食。50Bs(750円)。ドサクサに紛れて随分高いではないか。大した食べ物も置いてないのに、ディナー並の料金だ。荷物の保管料も入っていると思うしかないか。 AM10:30、体調も整わない内に、今から1泊2日のウユニ塩湖ツアーに出発。我々は「4WD トヨタ・ランドクルーザー」2台に分乗。此処、ウユニ塩湖ツアーで使われている車は、殆どが、この車であった。塩湖の中は真平らだが、その周りは、海岸沿いのような、砂漠のような、オフ・ロードになっているので、普通車で走ることは無理である。 AM10:50、「列車の墓Cementerio de Trenes」に到着。ボリビアのウユニからチリ(Chile)のアントファガスタ(Antofagasta)へ、塩や鉱物を運んだ、かつての蒸気機関車や貨物の車両が、放置されている場所である。ウユニはチリやアルゼンチンに近く、交易の町として栄えていたのである。此処で、4人の日本人青年男女と会った。4人はたまたま、ウユニ塩湖のツアーで一緒になったと言う。 列車の墓・1 列車の墓・2 AM11:40、一旦、ウユニ町へ戻り、食料を積んで再出発。 PM1:00、コルチャニ村(Colchani)に到着。ここはウユニ塩湖の入り口にある小さな村。村の産業は塩。目の前にある塩湖の塩を採掘して販売している。ツアーの車が止まるところには、土産物屋が並んでいる。一通りの見学を終えて、昼食になった。 4WD
トヨタ・ランドクルーザー 昼食は、塩のブロックで出来た休憩所の中で、ドライバーが持ち込んだ食料を食べる。いわば、キャンプでのランチの様である。メニューの内容は、チキンの唐揚げ、フライド・ライス、刻みの野菜サラダ、オレンジ、コーラと、言ったところ。 塩のブロックで出来た休憩所(内部) 塩のブロックで出来た休憩所(外観) PM2:40、出発。ウユニ塩湖の広さは東西120km、南北100kmで、最高地点の標高は3760mである。数百万年前にアンデス山脈が隆起した際に、海底が海水ごと持ち上げられ取り残された。 ウユニは、そこへ流れ込む川も、そこから流れ出す川も無かったので、海水が干上がるに従って水分中の塩が固まり、塩湖となった。ウユニ塩湖は高低差がほとんど無いため、見渡す限り、真っ白で真っ平らな世界である。白い大地に何処までも六角形の模様が続いている。 ウユニ塩湖で横になってみました PM4:00、塩湖の縁まで走り、今夜の宿泊予定である、洞窟ホテルに着いたが、鍵が掛かっていて誰もいない。近くに住む鍵保管者の家に行っても誰もいなかった。ボリビアの独立記念日で、皆出払っているようだ。事前に予約はしていなかったのかしら? やむを得ず、近くのホスタル・サマリクナ(Hostal Samarikuna)に変更。此処も、塩のブロックで出来た建物で、食堂のテーブル、椅子、ベッドの台等、すべてが塩の固まりで造られている。 塩のブロックで出来たホテル PM5:00、食堂で懇談会。 PM6:00、日記を書く。 PM7:30、ドライバーが持ち込んだ材料で作られた夕食。たっぷりのスープとメインディッシュ。メインディッシュは、1枚のプレートにチキン、マッシュ・ポテト、煮込みソースが乗っていた。こちらで時々出されるマッシュ・ポテトは、水っぽくて、味がなく、私が不得手にしているものである。 ところが、ジョンの仕草を見ていると、マッシュ・ポテトと煮込みソースを丁寧に混ぜ合わせていた。私も彼の真似をしてみると、味のないマッシュ・ポテトと塩分の強い煮込みソースが合わさって、丁度良い具合の味になり、完食。 欧米人の中には、訪日した際、味のない白米を苦手にしている人が多いが、今夜は、丁度その逆のパターンに出会ったような気がした。 PM9:00、熱いシャワーも出ないので、シャワー無しで就寝。今夜は久しぶりにジョシュアと相部屋になった。 8月7日(木) AM7:00、起床。塩の館はベッドと裸電球があるだけ。シャワー、トイレも共同。そんな所でも、何グループかのツアーが来ており、総勢40名位が宿泊した模様である。ウユニ塩湖の気温は、マイナス10℃になるらしいと言われて来たが、今朝の気温は、寒いが凍える程ではなかった。多分0℃位であろう。 日の出時の塩の館 上唇に出来ていたヘルペスのカサブタが取れ、痰も出なくなった。やっと普通の体調に戻ってきた。やれやれである。今回の旅行は、ある種の体力実験という側面を持っていたが、この分だと、何とか乗り切れそうだ。 AM7:30、朝食。運転手の奥さんかなと思われる人が、持ち込みの食材で用意してくれている。内容は、パン、ジャム、バター、スクランブル・エッグ、ヨーグルト、ティーと、キャンプでの食事を考えれば、上等である。 AM8:30、このホスタルから見るウユニ塩湖は朝日に白く輝いて、海を見ているようだ。再び4WDのトヨタ・ランドクルーザーに分乗して、塩湖内を走る。白一色で、輪立ちのない塩の上を走っていると、海の上を走っているような感覚になる。周りには方角の目印になる物は何もない。おそらく、遙か遠くに見える山が、灯台の代わりになっているのであろう。運転手のハンドルは、もう何十分も握ったまま、殆ど動いていない。 運転手のハンドルは、殆ど動いていない。 AM9:15、ウユニ塩湖のほぼ中央に位置する、インカ・ワシ島(Inca Huasi)に到着。ここは、インカの時代にウユニ塩湖を往来する村人の休息地であった。塩湖の周りにある村からこの島まで、40〜50kmあり、1日掛かりで歩いて来たのである。 インカ・ワシ島 小さな島の頂上には、塩で出来たテーブルがあり、時には村の中心者が集まって、祭りの儀式が執り行われていたと言う。島は珊瑚礁の化石で出来ており、太古の昔はここが海の底だったことが分かる。頂上からは真っ白な塩湖が360度で見渡せ、トゥヌパ火山(Volcan Tunupa,5431m)も一望できる。 塩で出来たテーブル 頂上まで歩くには、足場が悪く、ピーターは、途中で登ることを断念。若い時は、映画俳優のジョン・ウェインに似た、ハンサムボーイであったであろう風貌を残しているが、年には勝てない。今は足下がおぼつかないのである。 言葉も「うわうわー」とか言って、私には殆ど聞き取れないが、ネイティブ同士では問題がないらしく、私より余程良く通じ合っているから不思議である。 島全体に大きなハシラ・サボテンが生えている。大きいのは12mにもなり、その幹は家のドアや家具にも利用されている。塩湖にはミネラルが豊富でサボテンも大きく成長するらしい。島の維持費として、入場料が30Bs(450円)。 サボテンの幹で出来たドア AM11:20、トゥヌパ火山(Volcan Tunupa)近くの水場に3種類のフラミンゴが生息しているのを見たが、近くまで行けないので、私のカメラでは巧く写せていないと思う。 水場のフラミンゴ AM11:40、チャンタニ博物館(Museo Chantani)に到着。ここは、サントス氏の個人的な趣味で収集した、この地域のプレ・インカ時代の壷や狩猟道具等が展示されていた。入場料15Bs(225円)。こんな所にも考古学に興味を持つ、おじさんが居ることが、新鮮であった。 チャンタニ博物館 AM12:20、博物館の敷地内にある、東屋で昼食。運転手のおばさんが持ち込んだ食材が並んでいる。ラマの焼肉、キヌアのご飯、刻み野菜、リンゴ等。キャンプ場でのランチとしては立派である。東屋の日陰に入ると、震えるほど寒いが、日向に出ると直射日光がきつい昼食時であった。 東屋で昼食 ここで「キヌア」に付いて少々。キヌアは私の印象では、粟か稗に似た穀物であるが、ペルーやボリビアではあちこちで栽培されている。欧米では非常に人気があり、小麦粉よりも高値で取り引きされているようだ。オーストラリア人のマリナも、小麦粉製なら食べないが、キヌア製のマカロニだからと言って食べていた事がある。 AM12:50、太古の海が、隆起してそのまま塩湖として存在しているのを目の当たりにしたロマンの旅も、終わりに近づいてきた。マチュピチュは、数百年前、ウユニ塩湖は、数百万年前のドラマである。人類の歴史も面白いが、地球の歴史は更に壮大である。 PM1:40、ウユニ塩湖では、食料用の塩と、建材用の塩が取り出されている。今立ち寄った所では、建材用の塩が煉瓦のように掘り出されている場面を見ることが出来た。煉瓦状の塩のブロックは、3層になっているが、これはこのブロックが出来るのに3年掛かっていることを示している。 建材用に掘られた煉瓦状の塩 乾季と雨季が交互に来るので、層が出来るのだが、少し茶色になった層は、乾期に塩湖の周りから吹いてくる、砂埃が作ったところであろう。また層の厚さもまちまちであるが、これはその年の、雨量によって異なる。昔はこのブロック状の塩を、リャマが運んだそうだ。 また、ブロックが円形に掘られているのは、そこが持ち主の縄張りであることを表している。観光化される前は、塩のブロックで出来た家に、1泊1ドルで宿泊できたが、最近は、高級な塩のホテルが出来て、1泊100ドルも取るようになったと言う。 ブロックが円形に掘られているのは PM2:50、トニート・ホテル(Tonito Hotel)に帰着。運転手に、各人から100Bs(1500円)のチップを渡して1泊2日のウユニ塩湖ツアーを終了した。チェック・イン後、メールを確認し、3日ぶりに、熱いシャワーを浴びた。 PM4:30、日記を書く。 PM6:30、夕食。このホテルは、ピザが人気だと言うので、マルガリータを注文。結果はマアマアのお味でした。サラダ、コカ・ティー、チップを含めて60Bs(900円)。 PM9:00、日記を書いて、就寝。 8月8日(金) AM5:00、起床。通信状況は良くなかったが、何とか妻と詩子にスカイプが繋がった。その後、日記を書く。 AM9:00、夕食で残したピザと、リンゴ、ヨーグルトで朝食。 AM9:30、チェック・アウト。これからポトシ(Potosi)に向けて出発。ポトシへのバスツアーは、平均標高4800mの高地を、4時間半に渡って走り続けるために、バスに座っているだけで、酸素の薄さを感じる。頭痛がしないのは、高地に順応してきたせいか。曲がりくねった山道を走っているが、舗装されているだけ楽である。 AM12:20、バスが初めて一軒の山小屋で停車。トイレに行こうと、探してみるが何処にもない。売店のおじさんに、「トイレは何処ですか」と聞くと、「何処でも良いよ」と言って、小屋の外を指さす。つまり、トイレは無いのである。高地だから背の低い高山植物は生えているが、背の高い樹木は何処にも見当たらない。私は建物の陰で用を足したが、女性たちは、困ったようだった。 売店で簡単なスープを売っていたので、皆に混じって私も注文した。5Bs(75円)。スープの具は、ジャガイモと、きしめんよりも幅の広いうどんが少々。美味しいとまでは言い難いが、身体が暖まるし、何と言っても値段が安い。 AM12:40、バスが発車。ちょっと外に目をやると、おびただしいティッシュが、高山植物の間に散乱している。ああ、これは用を足した後の祭りか、と一人で納得。都市と都市を結ぶ山岳道路にも、1軒くらいトイレを作って欲しいと思った。 1眼レフの高級カメラを持っている人は、走っているバスの中からでも、焦点がぼけない写真が撮れている。私のカメラでは、焦点を合わせる前に、バスのガラス窓が反射して、すっきりした写真が撮れない。今後の検討課題にしよう。 バスの走行中、久しぶりに曇り空を見、雨の音を聞いた。ポトシはアンデス山脈の東側に位置するのであろうか。こんな高地で、リャマの放牧があちこちで見られた。 PM2:00、ポトシ(Potosi)のバスターミナルに到着。標高4090mにあるポトシの第1印象は「さびれて、輝きのない、貧しい町」と言うことで、余り良くない。世界一を誇った、銀鉱山の盛衰に翻弄され続けて来た町だという。 ホテルまでのマイクロバスに乗り換えると、女子プロゴルファーの、宮里美香にそっくりな現地ガイドが迎えてくれた。 PM2:15、ホテル・グラン・リベルタドル(Hotel Gran Libertador)にチェック・イン。今晩は、ピーターと相部屋である。 PM2:35、ハイディの案内で、簡単な市内徒歩ツアー。ジョンは、とうとう、疲れて参加しなかった。私と同じ様な咳が止まらないのだ。私の風邪が移ったのかもしれない。妻のイボンヌが薬局で抗生物質を買っていた。 市内徒歩ツアー(ポトシ) 私は、100ドルを690ボリビアーノに両替した。国境での両替率より若干良かった。これでボリビア内でのお金は足りるかな? PM3:30、市内のレストランで昼食兼夕食。今日は時間が中途半端になってしまったので、ディナーは無し。ここでの食事が夕食を兼ねることに。私はサンドウィッチとカプチーノでおしまい。19Bs(280円)。 PM4:30、市場を見学に行くも、まだ原型を止めた肉塊や、毛皮の付いた頭や足が、あちこちにぶら下がっている姿と、独特の臭いに閉口した。フレッシュな果物も見当たらなかったので、スーパーに行き、それぞれ思い思いの物を調達した。31Bs(460円)。 PM5:30、ホテルに帰着。日記を書く。 PM9:00、就寝。 8月9日(土) AM5:00、起床。今朝は、真夜中の12時頃から、ピーターのいびきに閉口した。少し早いが一旦起きて再びベッドへ。 AM7:00、再び起床。スカイプが珍しく良く繋がった。佐倉と、吉川と交信。互いの健康を確認する。朝食は、買い置きのパン、牛乳、りんご。 AM9:00、ホテル発で、鉱山ツアーへ。まず、昨日出迎えてくれた、宮里美香似の店に行って、上下の作業衣、長靴、ヘルメット、ヘッドライトの一式を借りて着替える。100Bs(1500円)。今日の参加者は、私を含めて5人。ワンボックスカーに乗って、富の山(セロ・リコ、Cero Rico)を目指す。 富の山(セロ・リコ) AM9:30、鉱山の入り口の駄菓子屋で、各人が20Bs(300円)を出して、お菓子やジュースを買うように指示された。駄菓子屋では、既に20Bs分の駄菓子を、袋に詰めてある。駄菓子の他には、タバコ、コカの葉、ダイナマイトも売られている。 駄菓子を持って ガイドが鉱山の坂道を登りながら、私たちに「ポトシ銀山」の歴史を語ってくれる。そうしている間に、あちこちからガイドと顔なじみの老若男女が三々五々、近寄ってくる。ガイドはその人たちに、先ほど駄菓子屋で買ってきた物を少しずつ分け与えている。 子供には、お菓子とジュース、大人には、コカの葉、そしてある青年には、ダイナマイトをあげていた。コカの葉は、鉱山で仕事をする人には必需品で、これを噛んでいると、空腹感を忘れ、仕事に集中できるのだとか。 子供には、お菓子とジュースを 私は、そのやり取りを見ていて、鉱山労働者の貧しさを目の当たりにした。ガイドにとっては、そうすることが、観光客を鉱山に案内して、摩擦を起こさない為の潤滑油になっているのかも知れない。 私たちは、途中で行き交う人々に、それを繰り返しながら、坑口まで来た。いよいよヘッドライトを点灯して、坑内に入る。頭を低くし、腰を屈めて、トロッコが走る細い線路沿いを、少しずつ前進する。 ヘッドライトを点灯して、坑内に入る 線路脇には、数十メートルの深さまで掘った跡があったり、水が染み出しているところを歩いたりして、結構疲れました。何もしないで歩いているだけで疲れるのだから、此処で作業をする人の過酷さは、想像を絶すると思う。 トンネルの奥から戻る途中で、ガイドが、皆にヘッドライトを消すように言った。皆のライトが消えると、トンネルの中は文字通り、漆黒の闇となり、他人の姿も、方向も全く分からなくなった。万一事故があったときは、こんな状況になるのかなと心細くなった。 私は佐渡の金鉱山の跡を見学したことがあるが、その手堀の作業は、何処も大同小異のようだ。仕事のない人が、安い賃金で働かされ、一部の資本家が富を独占している構図は、古今東西、変わっていない。 今日の鉱山ツアーでは、鉱山で働く人々の貧しさ、粉塵の中での過酷な労働を、実感しただけで、心寂しかった。ガイドへのチップを、5人から10Bs(150円)ずつ渡して終了。 粉塵の中での過酷な労働 AM12:00、ランチタイム。独立記念日の祭日と重なって、閉店休日のレストランが多い中、一軒の店に入る。私は鮭のグリルとコカ茶を注文。60Bs(900円)。大味で感心しない料理でした。 ベジタリアンのスイス人、メラニーは、いつも「私はベジタリアンです」と言って注文している。今日のランチもそう言っていたが、出てきた料理の中に入っていて、最も美味しいと思われるタマネギを、全部取り出していた。ベジタリアンと言いながら、更に好き嫌いがあるとは、難しい人だ。取り除かれたオニオンは私が頂いたが、美味しかった。 PM1:30、旧国立造幣局の見学に行くと、閉まっていた。近所の人に聞くと「見学は2時半からですよ」と、教えてくれた。ポトシでは他に見たい物もないので、それまで時間をつぶして、再度訪問することにした。 町をぶらついていると、中央広場を中心に、小さな子供たちのパレードが行われていた。これも独立記念日のお祭りの一環らしい。この町の中央の一角は、交通が遮断され、歩道は、思い思いの椅子を持ち寄って、車道のパレードを応援する人々で一杯である。 子供たちのパレード こんなに貧しい町でも、否、貧しいからこそ、お祭りには力が入るようだ。町全体が一つになって盛り上がっていることを感じた。 PM2:30、旧国立造幣局を再訪問すると、門が開かれて、大勢の人が見学に来ていた。入場料40Bs(600円)と、写真撮影料20Bs(300円)を払って館内に入った。説明はスペイン語、フランス語、英語のグループに分かれて行われたので、私は英語のグループに入った。 最初の貨幣は手作りで、大きさ、形もまちまちであった。やがて、鋳型ができて形が統一されるようになった。プレス機を回すのも、最初は人力であったり、動物に引かせたりしていたが、やがて蒸気機関に変わっていった。 大きさや形がまちまちの手作り貨幣 館内には、当時使用されていた機械や、多くの鉱物資源の原石が展示されていたが、どうしたら、それが銀だ、錫だ、銅だと分かるのかが不思議である。私には、製品になった銀と偽物を見せられても区別が付かなかった。 当時使用されていた機械 PM4:30、ホテルに帰着。日記を書く。 PM6:30、ミーティング。明日の打ち合わせ。 PM7:00、夕食。私はスパゲッティとミルク・コーヒーを注文。38Bs(570円)。スパゲッティは柔らかくて、ソースが少ないし、ミルク・コーヒーは味が薄いし、これなら自分で作った方が余程上手いだろうに、と思いながらのディナーでした。 ビールやワインを飲む人は、それで流し込むこともできるが、アルコールを飲めない私は、料理の不味さは直接舌先に伝わってくるから悲劇である。 |