8月10日(日) AM5:00、起床。詩子とスカイプ後、日記を書く。 AM6:30、買い置きの、パン、牛乳、オレンジで朝食。 AM7:00、迎えのマイクロバスで、路線バスのターミナルへ。 AM7:35、路線バスに乗り換えて、スクレ(Sucre)に向かう。座席指定のない乗り合いバスである。4時間ほども乗るのに、運賃は何とたったの2Bs(30円)。乗客は入れ替わるが、常に満席状態である。「こういうバスが、手荷物を盗まれないように気を付けないといけないのだな」と緊張する。 バスの中は、うるさいだけの音楽が鳴りっぱなし。バスの外に目をやると、高山植物だけの風景から、少し丈の高い樹木が目に付くようになってきた。バスは舗装された山道を登ったり、下ったりしながら、標高4090mのポトシから、標高2750mのスクレへ確実に高度を下げているのだ。 また、時折見かける人家には、ボリビアの国旗が掲げられている。人気の少ない山中に在っても、独立記念日を祝しているのであろうか。 AM10:38、バスの中のうるさい音楽が消えたと思ったら、40歳位の元気な男が突然、演説を始めた。それも延々20分近くも。スペイン語でまくし立てているので、全く聞き取れない。ただ、男の表情は真剣そのものである。一旦演説が止んだと思ったら、何やらプラスチック容器に入った物を配りだした。 男が居なくなってから、ハイディに「今の男は何を話していたのか」と聞くと「キヌアとかマカを使ったサプリメントの宣伝です。ボリビアではこういう事は普通に行われています」と言うことであった。配った物の殆どは回収していたから、買った人は余り居なかったようだ。 AM11:20、スクレに到着。スクレは人口約21万人の高原都市である。暖かく秋の日本晴れの様な好天気だ。町の中心地はあか抜けしていて、さすがにボリビアの首都を感じさせる雰囲気である。政治、経済の中心は、ラ・パスに移り、事実上の国の中心地はラ・パスであるが、法律上の首都は、最高裁判所があるだけのスクレである。 標高4090mのポトシから、標高2750mのスクレに下りてきたせいか、呼吸が楽になった気がする。この後の行程は、標高が下がるだけだから、高山病の心配はなくなったと言えよう。逆に、湿地帯を通って行くのでマラリアの予防が必要になる。 5月25日広場のカテドラル(スクレ) AM12:00、ビュッフェスタイルの昼食。50Bs(750円)。私にとっては、食べたい物を選べるから、このスタイルの方が好ましい。ところが、一通り食べ終わったので、引き上げるのかと思いきや、これは前菜であった。 他の男たちには(一部の女性にも)、この後にメインディッシュが運ばれてきたのである。中でもピーターには大皿に山盛りのチキンの足が運ばれてきた。我が家でなら、家族で食べても食べきれない量である。ピーターは、それを如何にも美味しそうに眺めてから食べ始めた。 食事の済んだ我々は、隣の旅行代理店に行って、明日のオプショナル・ツアーを物色に行った。暫くしてレストランに戻ると、ピーターがまだ手をベトベトにしながら食べていた。ハイディが鶏の足を2本、ご馳走になっていたが、それにしてもピーターの食欲には目を見張るものがあった。 PM1:30、ホテル・インデペンデンシア(Hotel Independencia)に、チェック・イン。今回も、ピーターと相部屋。キングサイズと普通サイズのツインベッドの部屋だから、体格の良いピーターにキングサイズのベッドを譲っている。 PM2:30、市内ツアーに出発。160Bs(2400円)。健康状態の優れないジョンは不参加。如何にも新米らしい若い女性のパオラがガイドである。主な見学コースは次の通り。 1、ガイドブックにも載っていないお城。此処は、かつて国王が居た時代の、王子王女の館である。王子はヨーロッパ旅行が好きで、ヨーロッパのお城を真似て造ったものであるとのこと。 王子王女の館 今は管理人が居るくらいで他には誰も住んでおらず、殆ど朽ちるに任せているような状態である。180段の円筒階段を登っては見たが、特に見るべき物もなく、こんなところで2時間も費やすのは、もったいないと思った。 2、ボリビアで最大級の墓地。多くは箱型の小さな一区画(50Cm四方位)が、一つの墓になっている。これが5階(5層)のアパートのようになっている。日本でも土地の無い都会では、このようなお墓が見られるようになってきた。 ボリビアで最大級の墓地 そう言う中でも、元大統領の墓は、別個に壮麗で見上げるような墓が建っていた。今日は、日曜日とあって、墓参の家族連れが多かった。それにしても、市内観光にお墓参りとは、地味すぎませんか。 3、ボリーバル公園(Parque Bolivar)。最高裁判所から北西に広がる、細長い公園。「ボリーバル」の名は、英雄シモン・ボリーバルの名前から来ており、国名のボリビアもここから来ている。ちなみに、首都スクレの名は、初代大統領「ホセ・デ・スクレ」の名に由来している。今日は日曜日と言うことで、沢山の屋台と家族ずれで大賑わいであった。 最高裁判所 ボリーバル公園 4、ラ・レコレータ修道院(Iglesia de La Recoleta)。市内の南東、坂道を上がったところに、美しいパティオ(スペイン風の屋敷の中庭)を囲む、ラ・レコレータ修道院がある。 ラ・レコレータ修道院 聖堂内にある聖歌隊席は、長崎で殉教した日本人キリシタンを記念して、約300年前に造られたものだと言う。そして、パティオの一辺にある回廊からは、市内の風景が一望できた。最後に新米のガイド、パオラに10Bs(150円)のチップを払って市内観光は終了。 パティオの一辺にある回廊 全体としては、特に感動した所もなく、シティ見学と言いながら、郊外の見学に終始した感がある。市の中心には教会のような物しかないので、自分で見学に行けば良いと言うことかしら。 PM6:30、スーパーに立ち寄り、牛乳、パン、スナック、オレンジと、定番の物を購入。24Bs(360円)。 PM7:00、ホテルに帰着。シャワーを浴びる。 PM9:00、就寝。 8月11日(月) AM6:30、起床。日記を書く。 AM8:30、洗濯物をホテル近くのクリーニング店へ。18Bs(270円)。引き続き朝食。今日のホテルは、珍しく朝食込みである。パン、ジュース、コーヒー、ミルク、シリアル、果物と、一通り揃ってはいるが、一番美味しく感じたのは、バナナでした。 AM9:00、10日ぶりに、現金の残高をチェックしたら、明らかにおかしな事になっていた。100ドル札が10枚あるはずの小袋に8枚しかなく、300ドルあるはずの別の小袋には、180ドルしかない。つまり、合わせて320ドル少ないのである。何かの勘違いかと思い、ここ10日間の出費額を計算してみたが、やはりその分が足りない。 抜き取られた事になるが、何時、何処で、誰にやられたのか皆目見当がつかない。必ずではないが、それを入れてあるバッグは、鍵を掛けるようにしているし。もし、盗むのであれば、袋ごと盗む方が楽であろうに、一部を抜き取ると言うことは、私が気付かないようにした、としか思えない。 こう考えてくると、相部屋の者による犯行の可能性が一番高いが、ほかの可能性が無いわけではない。どちらにしても、私に隙があったという事だ。考えるだに気分が悪くなるが、貴重な経験だと思い直し、これだけで済んで良かったと、前向きに考えよう。 反省すべき点は、せっかく通販で買った「腹巻きスタイルの貴重品入れ」を、身体から離して、リュックサックに入れていたことだ。腹巻きは、少なくともシャワーを浴びるときは、はずさねばならないし、時々煩わしさを感じて、しなくなってしまったのである。もう一度原点に立ち返ろう。 AM10:15、日記を書く。 AM12:00、ガイドブック推奨の中華料理店を探して昼食。ワンタンスープを注文。味は申し分ないが、如何にも少量であった。38Bs(570円)。 食後、中央市場へ。何処も似たような物であると思いながらも、行ってみたくなる事が不思議である。フルーツの盛り合わせを食べるコーナーに、大勢の人が居たが、私は昼食を終えたばかりだったので、素通りして終わった。 PM1:00、町の中心地である「5月25日広場 Plaza 25 de Mayo」へ行く。広場の周りには、自由の家(Casa de la Libertad)や、カテドラルがある。ボリビア独立の震源地である自由の家を見学したかったが、午後は2時半の開館ですと言われて、ホテルへ戻った。 5月25日広場 PM3:00、日記を書いたり、昼寝をしたりして過ごす。 PM7:00、完全フリータイムの今日は、ディナーもなし。買い置きのパン、牛乳、オレンジで夕食。 PM7:30、洗濯物を受け取りに行く。きちんと出来ていて良かった。 PM9:30、シャワーを浴びて就寝。今日の主な出来事は、お金を抜き取られたことに気付いた事でした。 8月12日(火) AM6:30、起床。妻、詩子とスカイプ。詩子は「これは?」と聞いて、教えてもらう方法を覚えたようだ。 AM8:30、朝食。バナナ2本を中心に、ミルク・コーヒー、パン、スクランブル・エッグを少々。朝食付きのホテルでは、暖かい物が食べられて助かる。 AM9:40、気分転換に「自由の家」を訪問。見学料と、撮影料で25Bs(370円)。 幸い英語での説明があり、大いに勉強になった。ここがボリビア独立の中心地であることは、分かっていたが、解説なしで館内の肖像画を見て回っても、何も残らないと思う。 ボリビアが、1825年に独立したときの面積は、現在の2倍以上在ったようだが、チリ、ブラジル、パラグアイとの戦いに敗れ、国土がだんだん狭くなってしまった。つまり、南米が現在の形に落ち着くまでには、スペインによる植民地支配から独立した後も、多くの紆余曲折が有ったという事が分かった。 かつて、大学としても機能していた会館の中には、一本の木から一刀彫りされた、重さ4トンもあるボリーバルの像や、歴代大統領の写真、肖像画などが展示されている。私たちが、英語で説明を受けていた時も、地元の中学生や高校生が、次々と集団で見学に来ては説明を受けていた。歴史の勉強には良いと思う。 ボリーバル像と学生達 ボリーバルの名にちなんでボリビアと言う国名にしたという事は、コロンブスの名にちなんでコロンビアと名付けたのと同じ原理だそうだ。 「自由の家」の見学を終えて、外に出ると、待機中の学生たちが、撮影のポーズを取ってくれた。そして『5月25日広場』では、音楽隊の演奏に合わせて、踊るカップルが居た。 踊るカップル(5月25日広場) AM12:00、昼食。マリナ推薦(彼女も友人から勧められていた)のレストランに行ったら、ジョン夫妻が先に来ていた。地元の料理とティーで16Bs(240円)。質量共に合格点でこの値段は安かった。 マリナ推薦のレストランで ジョンは抗生物質を飲み始めてから、大分咳が減ってきたようだ。彼は52歳、妻のイボンヌは53歳。マリナには26歳を頭に3人の息子と、1人の娘が居る。写真を見せてくれたが、皆逞しく育っているようだ。ただし、夫とは離婚していると言う。こうして見ると、オーストラリア人の中には、離婚経験者や、生涯独身者の人が多いように思う。 PM1:30、ホテルに帰着。日記を書く。 PM3:00、孤児の慰問に行かないかと誘われ、あまり気が進まなかったが、ホテルにいてもやる事がないので、行くことにした。参加者は、ハイディを含めて5人。まず、市場に行って慰問品を買う。対象者は、0歳児から5歳児である。費用は皆で分担したのだが、私はリンゴとオレンジの係り。50Bs(750円)。 ここの孤児院は、まるで保育園を思わせるような設備と環境が整い、清潔さを感じさせた。全部で35人の孤児が居り、責任者はシスターのような人である。この日は、3歳から5歳の子供、15人程を、近くの公園へ連れて行き、そこでおやつを食べて帰ってくる事になっていた。 我々も、これにお付き合いをした。車が通る町の中を、幼児達を無事に誘導するだけでも大変である。スタッフは、こういうことを毎日やっているわけだ。幼児達も訓練されていると見えて、さほど手は掛からない。逆に私は、付いて行くだけで、疲れてしまった。 日中にやっていることは、ほとんど保育園と同じだが、夕方になっても、親が迎えに来ないのが孤児院である。スタッフは、愛情を持って孤児に接してはいるが、母親のそれとは、自ら異なっており、どうしても不憫に思わざるを得なかった。 PM5:40、孤児達を散歩から孤児院に戻し、我々は別れを告げた。帰りは、ミニバスを拾う事にした。ミニバスが走っている通りに出て、手を挙げる。行き先がミニバスの前ガラスに大きく書いてあるから、地理に明るい人なら誰でも利用できる。 乗客は、一人1.5Bs(23円)を、直接運転手に手渡す。運転手は、手を後ろに伸ばしてそれを受け取る。お釣りが必要なときは、釣り銭を返す。町の中を走っているのでスピードは出ていないが、乗り降りは頻繁で、如何にも庶民の足という感じであった。 PM6:30、ミーティング。明日からの予定を確認した。 PM7:00、夕食。私は買い置きの物で済ませた。パン、牛乳、マンゴー、オレンジ。マンゴーは、市場で1個、10Bs(150円)。味はまずまずであるが、小振りなため、種を残すと身の部分は、しゃぶる位しか付いていなかった。 PM7:30、シャワーを浴びてから、日記を書く。 PM9:30、就寝。 8月13日(水) AM6:30、起床。曇りで肌寒い。昨日までの雲一つない天気が、嘘のようである。 AM7:00、朝食。昨日と同じメニューのビュッフェスタイル。今日もバナナを2本とフルーツ、コーヒー等を食す。 先行きを暗示する曇天(スクレ) AM8:45、チェック・アウト。迎えのマイクロバスで空港へ。若いアドリアナの顔色が優れない。腹痛だという。元気なマリナは、短いブラウスから腹の肉がはみ出ている。私は、紙幣を抜き取られたショックが少し残っているが、肉体的には好調である。我々のツアーは、前半の高地旅行から、後半の低地旅行に移っていく。 AM9:20、空港着。搭乗手続きを済ますも、機体の到着が遅れている。霧が深い事が理由のようだ。 AM12:00、既に空港内で、3時間近くも待機しているが、まだ何のアナウンスもない。私はこの間に、ペルー以来、少しずつ読んできた、天野芳太郎氏の「わが囚われの記」を読了した。 パナマを中心に、中南米に手広く商売を展開されていた氏が、真珠湾攻撃と同時に囚われの身となり、数ヶ月の後に釈放されて、日本に送り返される間のことを詳細に綴ったノンフィクションであるが、まるで、小説を読んでいるかのような気分にさせられた。 これだけでも、十分にドラマチックな人生だが、氏は終戦後間もなく、ペルーに渡り、商売を軌道に乗せながら、インカ文明の研究に情熱を注ぎ、「天野博物館」を創設された。戦時中、奥様を亡くされていた氏は、ペルーに渡ってからリマ在住の2世、渡辺美代子さんと結婚。 1982年に、氏は84歳でリマ市の自宅で永眠されたが、氏の残された財団法人天野博物館は、美代子未亡人を館長として現在も存続していることは、リマで博物館を訪問した時(7月14日)に書いた。 PM1:00、午前10時半フライト予定の飛行機が、今まで待っても見通しが立たず、ハイディは、飛行機をキャンセルし、バスでサンタ・クルスに行くことを決断した。明日の夜行列車の便が決まっているため、今夜中にはサンタ・クルスに確実に行っておきたいとの判断からだ。 我々は、航空券を返して預けたバッグを引き取り、タクシーに分乗して、スクレ市内にある、ハイディ馴染みの旅行代理店まで戻った。ハイディは「午後2時半に出発するので、それまでに昼食を済ませておくように」と、皆に指示を出した。 私は、中華料理店に行きたかったが、時間が十分に無かったので、皆とスーパーへ買い物に行った。水、パン、ヨーグルト等で15Bs(225円)。ところが、2時半はおろか、3時半になってもバスが来ない。旅行代理店が、臨時のバスを探しているようだ。 PM4:30、やっと、手配できた車が来た。見ると、スズキの7人乗りのワンボックスカー(父親が運転)と、5人乗りのセダン(息子が運転)である。我々9人はこの2台に分乗して行くという。大きな荷物は、ワンボックスカーの屋根に積み上げ、いざ出発。 飛行機なら、ほんの35分間のフライトで行けたものを、車で山道を行くと、10時間掛かる予定だと言うから気が重い。ましてや、アドリアナはお腹の具合が悪いと行って、何度もトイレに駆け込んでいるような状態である。 PM7:00、途中、崖崩れや、工事中の箇所や、未舗装の所も有ったが、山中の休憩所までやってきた。ここでトイレを済ませ、暖かいソパ(Sopa、スープのこと)を注文。5Bs(75円)。夜の山道は大分冷え込んでいる。 PM9:30、出発してから5時間走ってきた。車内は狭く、とても大型バスのように、横になるスペースはない。私の座っているワンボックスカーの最後列には、ヘッドレストもなく、頭を後ろに寄りかからせる事も出来ない。車外は真っ暗で何にも見えない。ひたすら10時間経つことを待つだけである。 こうしている時、運転手親子がハイディに何事か話している。「どうしたの?」と聞くと「この先の道が閉鎖されていて通れないので、迂回することになる。所要時間が5時間多くなる」と言う。 10時間と聞いてウンザリしていたのに、15時間とは!我々は車内でひたすら我慢するとして、交代の居ない運転手は、どうするのであろうか?日本の交通法規では、一人で続けて15時間も運転する事など、とても許されることではあるまい。まして、夜間の山道である。 そして、運転手はハイディと追加料金の相談をしていたが、100USドルで話がまとまったようだ。ハイディが一言「これがボリビアだ」と。今夜は車内だから当然シャワーもなし。せめて事故の無いように祈るしか有るまい。 8月14日(木) AM6:30、東の空が明るくなってきた。周りの景色から、既に山岳地帯から低地に降りていることが分かる。カンボジアの湿地帯を走っている時を思い出すような光景が広がっている。 AM7:15、そろそろ、この車が走り出してから15時間になろうとしている。私は、もうじき目的地に到着することを期待して「後どの位掛かりますか?」と聞いた。返事は何と「あと3時間ぐらいです」と言うではないか。 失望、落胆、諦めの入り交じった気持ち。しかし、昨日読み終わったばかりの、天野芳太郎氏の捕虜生活を思えば、これ位で嘆いていては申し訳ないと自らを奮い立たせる。 AM8:30、ガソリンを給油する。スタートしてからもう4回目の給油である。それだけ走っているという事か、燃費が悪い車だと考えるべきか、多分、その両方が理由であろう。 AM11:00、サンタ・クルス(Santa Cruz)郊外に空港が見えてきた。フライトならば、この空港にたった35分で、快適に付いていただろうに。はたまた、例え一日遅らして今日飛んでも、今頃はこの空港に到着したのでは無かろうかと様々な思いが浮かんでくる。 あとで判明したのだが、今朝の飛行機は時刻表通りに飛んだそうで、我々と同じ様に足止めされたイギリス人青年は、一日遅れた便で飛んで来たと言っていた。マリナが「ああ言う時は、じたばたしないで、じっと待っている方が良いのよね」と言った事に私も賛成だ。 我々が、少しでも愚痴めいたことを言うと「こんな事は、南米ではよくある事よ!」と、ハイディにピシャリとやられる。 AM11:30、やっと、やっと、サンタ・クルスのホテルに到着。我々の疲れはとっくに度を超えているが、運転手のことを思えばそんな顔をしていられない。我々は運転手に「ありがとう、ムーチョ・グラシャス」と言って分かれた。しかしこの時、リーダーのハイディは、一言も運転手に挨拶することなく、ホテルのフロントへ行ってしまった。 ホテル・アレナル(Hotel Arenal)にチェック・イン。此処は4つ星と、これまでの最高級ホテルである。しかし、午後2時にはチェック・アウトしなければならない。与えられた部屋が使える時間は、ほんの2時間半である。 取りあえずシャワーを浴び、メールをチェック。昼食は、少しでも元気が取り戻せるように、和食レストランに行きたかったが、時間がない。やむを得ず、近場のローカル・フード店で済ます。14Bs(210円)。帰りがけに露天の果物屋で、バナナ、リンゴ、オレンジを少々購入。10Bs(150円)。 サンタ・クルスは高原の多いボリビアにあって、森林地帯(セルバ Selva)に属す唯一の大都市である。ブラジル、パラグアイ、アルゼンチンと国境を接し、標高は約437m。市の人口は約80万人で、ボリビア第2の都市である。近郊には日本人移住地(コロニア・サン・ファン、コロニア・オキナワ)がある。 PM2:00、チェック・アウト。ホテルの出発は4時半なので、その時まで、荷物をフロントの後ろにある倉庫で預かってもらう。私が時間潰しにポメラを叩いていると、ジョン夫妻が来て、「此処の中央広場(9月24日広場)は美しくて、ボリビアとは思えない位だ。ネイティブも少なく、ヨーロッパのようだ」と言う。 私は、まだそこに行っていなかったので急いで行ってくることにした。行ってみると確かに、ジョンの言う通りであった。マリナが一人でベンチに座っていた。マリナは職業(フィジカル・セラピー)から来るのか、性分なのか、弱者を見るとほおって置けない様である。 サンタ・クルス大聖堂(9月24日広場) 中央広場(9月24日広場) まるでピーターの付き添い人の様に、荷物を持ってあげたり、手を引いてあげたりしている。26歳から21歳までの4人の子供(中の2人は双子の息子)を立派に育て上げ、今回の旅行が初めての海外旅行だと言う。別れた夫は3人の子連れと再婚しているそうだが、なにが原因で離婚したのか、そこまでは聞けない。 PM4:30、迎えのマイクロバスに乗ってサンタ・クルスの鉄道駅へ。昨晩のワンボックスカーやセダンに比べたら、比較にならないほどグレードの高い車であった。「これが昨夜の車であったならなあ」と言うのが皆のため息であった。 駅に行く途中で、ブラジルの通貨、レアルに両替した。ハイディが言うには、ブラジルで両替するより、ボリビアの此処で両替する方が、率が良いのだそうだ。私は、150USドルと、残金の260ボリビアーノを、ブラジル・レアルに両替した。1レアルは43円位か。 サンタ・クルスの街並み PM6:00、2両連結の夜行列車が発車。1列3席のゆったりした座席ではあるが、ベッドではない。なかんずく、よく揺れる。これでよくレールから脱線しないなと思うほどである。多分、私が今までに乗った鉄道の中では、最大震度では無かろうか。 夜行列車(サンタ・クルス駅) アメリカ横断中は、高速道路でもポメラが叩けたのに、この列車の中では無理である。車内のモニター画面では、スペイン語の音声、英語の字幕でドラマを写しているが、字幕の消えるのが早くて、私には読み切れない。 PM9:00、就寝。 PM12:00、トイレに起きる。列車の揺れが激しく、小便がスムーズに出ない。 |