8月27日(水)

AM7:00、起床。

AM7:30、朝食。洋食のビュッフェ。

AM8:00、詩子とスカイプを試みるも、通信状況が悪く、すぐに切断。日記を書く。

AM9:30、出発まで時間があるので、ホテル近くの散髪屋が、朝の掃除をしているところへ飛び入り。あと1週間待てば、帰国してからいつもの散髪屋でカットができるのだが、旅に出てから50日にもなると、伸びた髪の毛が気になる。

前髪と耳の辺りは、持参の小さなハサミで切れるが、後ろ髪まで切る技術は持ち合わせていない。散髪屋に入ると、50歳位のオヤジが、愛想良く迎えてくれた。何か言っているが、言葉は全く分からない。ただ私は、「後ろの方を少しだけ切ってくれ」と、ジェスチュアで示した。

オヤジは、ハサミで横髪を切り始めた。腕もハサミも良くないようだが、我慢するしかない。その内、バリカンに持ち変えて、バリバリ刈り上げだした。「オイオイ、坊主にするつもりか?」私は少しあわてた。しかし、もうカットは始まっているし、上の方は髪が残っているので、されるがままにしていた。

バリカンが終わると、再度ハサミに持ち変えて微調整だ。最後は、横と後ろ襟にカミソリを当てる。この時、日本でならシャボンをたっぷり塗って、タオルで暖めてからカミソリを入れるが、ここのオヤジは、全てを省いていきなりカミソリを当ててきた。

しかし、心配するほど痛くもなく終わった。顔や喉の髭は、残ったままである。すっかり、スッキリした頭を、後ろから鏡を当てて見せられた時、「ずいぶん白くなったなあ」と、改めて感じた。全行程で約15分間。20レアル(900円)。

AM10:00、日記を書く。

AM11:20市内フリーツアーに参加するために、共和国広場Republic Square)へ行く。既に各国から30人程の観光客が集まっていたが、アジアからは私一人であった。まず、ブラジル史の概要から始まった。

   

市内フリーツアー

1、ポルトガルによる植民地時代1500年〜)。当初、ブラジルには金が発見されず、国名のもとになったバウ・ブラジルという染料の原木だけが産物であった為、ポルトガル人の新領土への関心は薄かった。

2、専制君主(帝政)時代1822年〜)。ポルトガルから独立を宣言。

3、共和制時代1889年〜)。以後ブラジルは、現在に至るまで法律上は民主主義国家であるが、3度にわたる独裁政治政権を経験している。

当然の事ながら、サン・パウロも固有の歴史を持っている。日本人の移住もその中の一環であろう。現地に来るとその地域の通史を知りたくなる。帰国してからの楽しみである。

一通り説明が終わると、我々は、サン・パウロ市内の中心部(旧市街)を歩いて回った。ツアーガイドは30歳代と見える、元気なお姉さん。マイクロフォンを口元に付けて、周りの騒音にも負けない位の、よく通る声で説明していた。

サン・パウロの旧市街(セントロ)は、セー広場Praca da Se)とヘプブリカ広場Praca da Republica)と言う2つの広場に挟まれた一帯である。セー広場にある高さ1m程の6角柱マルコ・セロがサン・パウロの方位基点になっている。

   
                マルコ・セロ

主な観光物は以下の通り。

1、イタリア・ビルディング
   

2、コパン・ビルディング140m38階建ての居住用ビルである。1957年に起工し、建設の中断もあったが、1966年に竣工した。
   


3、コンソラソン・チャーチConsolacao Church
   

4、市役所
   

市立劇場
   

6、セー(Se)・大聖堂(カテドラル・メトロポリターナ)
   

7、サン・パウロ証券取引所
   

8、チャ(Cha)・高架橋からの風景
   

9、アニャンガバウー公園Parque Anhangabau
   

解散する時、寄付金の呼びかけがあったので、私は10レアル(450円)寄付した。その後、イタリア・ビルディングへ行き、展望台から市内の360度を見たが、東京より大きいのではないか、そして、夜景が綺麗だろうなと思った。また、セントロの南に広がるリベルダージLiberdade)地区は東洋人街のある地区で、日本人に馴染みの深いエリアである。

   

イタリア・ビルディングの展望台から見たサン・パウロ市

ツアー中、1機のヘリコプターが、上空でホバリングをしていたが、これは、市の中心部で、デモ等の不審な動きがないかを、監視しているのだと言う。選挙を前に政権側が神経を尖らしているのであろうか。

PM4:00、ホテルへ帰着。日記を書く。サン・パウロは、今、冬なのに、誠に暖かい。朝晩は少し涼しいが、日中は暑い位だ。

PM6:30、ミーティング。その後、ディナーへ。今日も、昨晩と同じ、リベルダージ地区(ダウンタウンから徒歩で10分位)にある、別の日本料理店「すし安」へ。この時ばかりは、私が参加者の中心的存在になる。メニューの価格を見ると、昨日の店より一段と高い。

予約をしてあった我々は、掘りごたつのある和室に通され、年輩のおばさんが、おしぼりを持ってきた。少し話を聞くと「この地域は、以前は日本人ばかりでしたが、最近はお金を持った中国人が土地を買って、どんどん入ってきています」と言っていた。

ジョンにその事を話すと「オーストラリアにも中国人が進出して来ています」と言っていた。金を持った中国人の進出の話は、世界の各地で聞く話である。

皆は、メニューを見ながら、どんな料理なのかと私に聞いてくるので、私はできるだけ具体的に説明してあげる。イボンヌは、先日私が食べていた「定食」に興味があるらしく、同様の物を注文。ベジタリアンのメラニーも、肉が入ってないことを確認して、イボンヌに追随。

ケイティとジェシカは、二人で「寄せ鍋」を、ハイディは「にぎり寿司」、他の4人は、各種の「鉄板焼き」を注文。私は「いなり寿司」と「月見うどん」を注文。水とサービス料込みで、63レアル(2800円)。

一番安い物を選んでこの値段だから、決して安くはない。日本なら半額以下で十分食べられる内容である。しかし、こんなに高額でも、この店の各部屋は満室で、いす席もほぼ埋まっていた。

定食を注文したイボンヌは、次々に運ばれてくる料理に舌鼓を打ち「美味しい」と言って大満足の様子。寄せ鍋を注文した二人は、頑張って食べていたが、量が多かったせいか、半分以上残していた。

これまでのすし店には、私が知らない「サクラ」と言う名の醤油しか置いていなかったが、今日の店には、「キッコーマン」の醤油が置いてあった。

ネットで調べると、ブラジルでシェア90%を誇るサクラ醤油は、小麦の代わりにトウモロコシを使い、遺伝子組み換えをしていない大豆やトウモロコシを使っていることが特徴の醤油を製造販売している。そのため小麦に含まれるグルテンによるアレルギーが多いヨーロッパからの引き合いも多く、日米欧など幅広い場所で売られている、と書かれていた。

会食の終盤になって、日本の歌を1曲歌ってくれとせがまれ、久しぶりに「武田節」を披露した。歌った後、どういう内容の歌かと聞かれ、出陣の歌であることを説明した。

サン・パウロの滞在も、ほんの2泊であるが、ダウンタウンを観光した後、展望台からサン・パウロの市街を一望し、日本人街のすし店でディナーを楽しめたことは、有意義であったと思う。タクシー代は昨日と同じく、一人10レアル(450円)。

PM10:00、ホテルへ帰着。

PM11:00、就寝。

8月28日(木)

AM5:30、起床。

AM6:15、朝食。

AM6:45、チェック・アウト。タクシーに分乗して、路線バスのターミナルへ。昨夜、日本料理屋ですし定食を食べて「美味しかった」と言って、あんなに喜んでいたイボンヌに、元気がない。風邪でも引いたのか、喉が痛いという。

AM8:00パラチー(Paraty行きのバスが発車。車内で日記を書く。

AM10:15、休憩所にて、30分の休憩。ピーナッツ1袋、2レアル(90円)。

AM12:45、2回目の休憩。インスタント・ラーメン。4.75レアル(210円)。バスは海岸沿いの道路を、山側に、海側にカーブしながら走る。

PM2:306時間半掛かって、パラチーのバスターミナルに到着。

PM2:50、タクシーに分乗してホテル、ポウザダ・ドス・コントス(Pousada dos Contos)に到着。Wi-Fiの状態が悪く、繋がらない。洗濯物をクリーニングに出す。22レアル(990円)高い!

パラチーは、サン・パウロとリオ・デ・ジャネイロの中間地点に位置し、イリャ・グランジ湾Ilha Grande)に面してたたずむ、美しい海岸の町である。この小さな町は、18世紀には、金の積み出し港として栄えたが、今は、ポルトガル様式が色濃く残る、人気のコロニアルリゾートになっている。

PM4:00、ホテルの近所を散策。白壁の家が多いが、それはポルトガルの植民地時代の名残だという。今は、それらの家が、レストラン、土産物屋、ギャラリー等になっている。海の近くは水はけが悪く、満潮時には道路が冠水している所もある。またこの地域はアフリカン・アメリカンが多い所でもある。

   

パラチー(白壁の家・1)

   

パラチー(ペレケ・アス川・1)

   

パラチー(ペレケ・アス川・2)

   

パラチー(白壁の家・2)

   

パラチー(白壁の家・3)

   

パラチー(土産物店)

PM4:30、スーパーマーケットへ行き、牛乳、バナナ、リンゴ、パンを購入。12レアル(540円)。

PM5:30、ミーティング。明日の、オプショナル・ツアーに関する説明があった。各人はボート・ツアーか、ジープ・ツアーのどちらかを選ぶ事に。私は、ジープ・ツアーを選択。

その後、ハイディは私の隣で、カナダの母に電話をしていた。その中で盛んに「疲れた」と連発していた。すでに7週間の長期に渡って、我々の面倒を見ているのだから、疲れていて当然かも知れない。

ツアー客は遊びの気分でも、リーダーは客を気分良く遊ばせることが仕事だから、立場が違うので、我々の知らない苦労も多いと思う。例えば、人間同士だから、ウマの合わない客も居るだろうし、思うように動いてくれない事もあるだろう。

そして何よりも、天候により、スケジュールを変更しなければならない時は、大変である。これらのことが、長期戦に於いては徐々に心身にストレスをもたらす。仕事とは言え、ご苦労さんと言うしかない。酒でも飲まずには、やっておれないかも知れない。

PM7:00、買い出しの食材で夕食を済まし、クリーニングを受け取りに行く。今日は特にすることも無いので、「逆説の日本史」の続きを読む。

PM10:00、就寝。

8月29日(金)

AM6:00、起床。昨晩は一晩中ピーターの鼾にやられた。同室の時は、何時も被害に遭うのだが、深夜に一度目が覚める位で済んでいたのが、昨晩は、終始、寝た時から起きるまで鼾をかいていた。今晩同じ事になったら、どうしてくれようか。

AM7:30、久しぶりに、妻とスカイプ。無線通信、Wi-Fiの良くない状況が続いていたのである。今もメールは、受信は出きるが、送信ができない。こんな事が、以前パソコンでもあったが、原因が分からないので、改善のしようがない。

AM8:00、朝食。果物が少ないことが残念であるが、朝食があるだけましだ。

AM8:30、読書。「逆説の日本史・11巻」を読了。歴史に不案内な私が読んでいても、分かり安いし面白い。伊沢氏の博学ぶりには敬服するしかない。

AM10:30、ジープ・ツアーでセーハ・ダ・ボカイーナSerra da Bocaina国立公園に出発。4輪駆動のトヨタ車が、迎えに来た。我々のツアーから5人、さらに4人(いずれもブラジル人)を別のホテルでピックアップ。

私は、今日のオプショナル・ツアーも、積極的に参加したい気持ちはなかったのだが、一日中ホテルにいるのも、間が持たないと言うことで参加を決めた。従って、期待はしていなかったが、現実のツアーは、更に内容のないものであった。

簡単に言うと、小さな滝を3カ所で見て、昼食(オプションで35レアル:1570円)を食べただけ。正直に言うと、南米まで来て、茨城県にある袋田の滝を小さくしたようなものを見せられても、感動はありません。運転手兼ガイドは、ポルトガル語だけしかできないし、残念ながら、退屈なツアーでした。70レアル(3150円)。

   

国立公園内の滝・1

   

国立公園内の滝・2

   

国立公園内の滝・3

以上は、私の感想。同行した3人の女性の感想は、私とは大分異なる。つまり「緑が多くて、静かで、鳥の声は聞こえるし、とても癒される」と。

私に感想を聞くので、「あまり感動しないし、今日は、ブログに書くこともないよ」と言うと、呆れたような顔をして、「あなたは、イグアスの滝のように巨大な物にしか感動できないのか」と言われた。必ずしもそう言うわけではないが、私は、正直に今の感想を述べたのである。

マリナは、よく「ビューティフルbeautiful」と言う。料理にも、景色にも、マッサージにも。従って、この言葉は「美しい」と言う意味の他に「素晴らしい」と言う意味があるように思う。

リオ・デ・ジャネイロ在住の若い男性が「リオ・デ・ジャネイロは綺麗で良いところです。私は大好きです。それに比べ、サン・パウロは、交通渋滞はあるし、空気は悪いし、私は好きではありません」と言っていた。まだ、リオ・デ・ジャネイロを知らない私は聞き置くしかない。

PM4:30、ホテルに帰着。

PM5:00、ジープから見て美しいと思った、ホテルの近くにある運河、ペレケ・アス川Rio Pereque-Acu)を見に行く。写真を撮ったが、日没後だから上手く撮れたかどうか自信がない。

   

日没後のペレケ・アス川

PM6:00、日記を書く。

PM7:00、買い置きの、パンと牛乳で夕食を済まし、読書。

PM9:15、シャワーを浴びて就寝。

8月30日(土)

AM5:30、起床。昨夜も、ピーターの鼾に悩まされた。午前1時までに4回声をかけた。

1、ピーター、鼾の音が大きいぞ!

2、ピーター、鼾が大きくて、眠れないよ!

3、ピーター、俺だって少しは眠たいよ!

4、ピーター、俺は毎晩眠れないんだよ!

その度に、「ソーリー」とか言っているが、1分も経つとまた鼾が始まる。5回目は、部屋の電気をつけて明るくした。少しは驚いたらしく、しばらく静かになった。その後数時間、私も眠ったが、本当に困ったものである。

AM6:30、果物も、ハムやチーズも、冷たい牛乳も、何もない朝食。あったのは、シリアルと熱いミルク、それに若干のパンだけ。早朝で準備する人が居ないのであろう。

AM7:00パラチーのホテルをチェック・アウト。タクシーでバスターミナルへ。

AM7:30、路線バスで最後の滞在地、リオ・デ・ジャネイロに向かう。右手に海岸線があり、見えたり消えたりしている。地球儀や地図帳で見ていると、ブラジルの海岸線は滑らかな曲線だが、現場に来ると、伊豆半島の出入りの激しい海岸線にも負けないほど、変化に富んでいる。そして、沖合には大小の島々が、途切れることなく浮かんでいる。

AM9:20、海岸に車の駐車場を思わせる3階建ての立体駐船場が、目に付いた。多くの船で港を塞いでしまうよりは良い考えだと思う。ブラジルにも、こんなに多くのレジャー用船主が居ると言うことだ。

AM12:30、リオ・デ・ジャネイロ(Rio de Janeiro)のバスターミナルに到着。タクシーに乗り換えてホテル・ハイディナ(Hotel Regina)へ行き、チェック・イン。

PM1:30、市内観光へ。175レアル(7875円)こんなに高額な半日観光は初めてである。もっとも、

ボン・ジ・アスーカルのロープウェイ代が往復で71レアル、

コルコバードの丘へのバス代が往復で49レアル

である事を考慮すれば、法外な値段ではない事が分かる。

まず、ロープウェイを乗り継いで、グワナバラ湾Baia de Guanabara)の入口に立つ、標高396mの見晴らし台、ポン・ジ・アスーカルPao de Acucar)へ。英語訳では、シュガー・ロウフSugar Loaf、砂糖パン)と言う。ここに来ると、リオの町が一望でき、おおよその地形が分かる。リオの町は、サン・パウロに比べると大分小さい(人口は700万人)。

   

ボン・ジ・アスーカルのロープウェイ

海側を見ると、コパカバーナのビーチが、ハワイのダイヤモンドヘッドから見た時の、ワイキキの浜辺のように見える。しかし、天気が良ければ見えるはずの、別の高台に建つキリストの像は、雲に隠れて見えない。やがて下から霧が上がってきて肌寒く感じてきた。リオの地図があったので購入。9ドル。

   

コパカバーナのビーチ

   

シュガー・ロウフを背景に

市内観光だけ同行している人が3人居る。ドイツ人夫婦とイタリア系アメリカ人である。ドイツ人夫婦は、フランクフルトから今朝の5時にリオに着いた。「その時のリオは、晴れ渡っていたのに」と、残念そう。

夫は外科医で妻は小児科医。夫は、私が中学生時代の、英語の先生(太田先生)によく似ていた。アメリカ人の方は、ワシントン在住でこちらも、外科医をやっているが、担当は「足のくるぶし」付近に限定されている。アメリカの場合は、担当が細分化されているようだ。

   

太田先生によく似たドイツ人外科医夫妻

PM4:00、ロープウェイで下界に降りる。

PM4:301976年に建設したピラミッド型のカテドラル「メトロポリターナ」を見学。「こんな醜悪な物をよく造ったこと」と、皆の評判は悪かった。私も同感である。芸術性も宗教性も感じられなかった。此処は、高さ80m、直径106mで、5000人を収容できる。

   

メトロポリターナ

PM5:00、カラフルに塗りあげた「セラロン(Selaron)の階段」を見学。様々な感想はあろうが、私にはどうでもよい物である。もし階段をこのようにサイケデリックに塗ったことで、浮浪者がたむろするようになったのなら、其れはマイナス面の方が大きいと言わざるを得ない。どちらにしても、同じ時間を使って観光するのであれば、もう少しまともなもの、歴史的な物を見て歩きたいと思う。

   

セラロンの階段

PN5:30、ロープウェイで登ったシュガー・ロウフからは、見ることの出来なかった、キリストの像を見に行く。これは1931年に、標高709mのコルコバードの丘Morro do Corcovado)に建築されており、高さ30m(台座を含めると38m)、横一文字に広げた両手の幅は28mに及ぶ。

我々は、まずプライベートな車で丘の中腹まで登り、そこでベンツ製の専用の車に乗り換えて更に登る。頂上付近では、エスカレーターに乗り換えて更に上がる。この辺まで登ってくると、濃い霧で何も見えないが、とりあえずキリスト像の足下まで行く。写真に納めようにも、白いキリスト像は霧に隠れて撮影は無理である。

PM8:00、ただ「キリスト像の建っている所へ行って来た」という実績だけを残して、来た道を戻り、ホテルへ帰着。安眠できなかった寝不足を引きずっており、私は疲れていた。

最後のディナーになる今晩は、私も参加しようと思っていたが、これからの時間では何時に終わるのか分からないし、飲めない私が行っても、雰囲気が良くなることもないだろうと考え、ハイディに対するお礼のチップを50ドル預けて、参加を辞退。

PM9:00、ホテル内でビュッフェの夕食を1人で食べる。ピザを中心にした料理は塩分が強く、あまり感心しなかった。40レアル(1800円)。

PM10:00、シャワーを浴び、久しぶりに通信状態の良いWi-Fiで、詩子、妻とスカイプ。送信できずに溜まっていた日記も、メールに添付して送信できた。

PM11:00、就寝。

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