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西欧旅行記(前編) 4月24日(金) 一昨年の旅行で、北京からローマまでの陸路の旅を経験していたので、今回はユーラシア大陸の残りの部分、即ち、ローマから西のヨーロッパを旅することに決めた。それは、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、そして、おまけに北アフリカのモロッコの5ヶ国である。 昨年の南米横断の時は、体調を崩して、体力の限界を感じた旅行になったが、その後も体力は確実に衰えていることを実感している。具体的には、正座や、中腰の姿勢が困難になったこと。左上の奥歯が、3分の1ほど欠けてしまった事が挙げられる。古希を迎えて、残された時間は確実に減少していることを実感させられる。 そんな中で、「資本論ノート」を上梓し、スペイン語入門のラジオ講座を6ヶ月間続けられたことは、ささやかな喜びであり、充実感を味わうことが出来た。 今回の旅行のパッキングをするに当たり、おっくうだと感じる度合いが、これまでよりも増しているようにも感じた。しかしながら、暫くは美味しい和食にありつけないことが分かっている妻が、普段よりも力の入った献立をしていることに背中を押されて、何とかパッキングを終えた。 PM6:45、妻の運転でJR佐倉駅へ。 PM7:27、成田空港着。チェック・イン。両替(1ユーロ=133円)。ユーロの場合、日本で両替した方が率は良いそうだ。東南アジアや南米の通貨の場合には、現地で両替する方が率の良い事を考えると、円に対して強い通貨か、弱い通貨かによって異なるようである。 PM8:30、搭乗開始。2ー4ー2の横8列の機内はほぼ満席である。エティハド航空とANAの共同運行のためか、キャビン・アテンダントの中には日本人も何人か居る。皆、健康的な体型の美人で、いわゆるファッションモデル風の痩せ型の人はいない。 PM9:30、離陸。一路アブダビへ。機内放送は、アラビア語、英語、日本語の順に話されるが、ヒンディー語、フィリピン語、中国語、フランス語、ハンガリー語にも対応できるそうだ。 私の席は4人席の内側になってしまった。左隣はスイス人青年。営業の仕事で、年に2、3回、来日しているそうだ。従業員30人程度の小さな会社だと言うが、精密機械を扱っていると言う。スイスには小さな会社が多く、大きな会社は少ないそうだ。そういう環境の中で、世界の販売競争に打ち勝つよう頑張っているのが、スイス企業の特徴なのかもしれない。 私の右隣は4、5歳の坊やを連れた日本人女性。風邪を引いて、辛そうに鼻をかんでおり、とても苦しそうである。機内での夕食もパスしていた。連れの子供は、感心な事に、終始おとなしくしている。 PM10:40、夕食。私は、和洋2択の中から和食セットを希望した。まずまずのお味でした。 PM12:00、就寝。眠いのだが横になれないので身体がしんどい。自ずと年齢を感じる。 4月25日(土) AM7:00、朝食。お粥、ほうれん草のゴマ和え、カットフルーツ等の和食。まずまずのお味。朝食も二者択一であったが、日本人のCAは、私に聞くこともしないで和食を出した。既に和食しか残っていなかったのか、それとも私の顔に和食と書いてあったのか。私の左右の客は、朝食をパスしていた。 AM9:30、(現地時間、AM4:30)アブダビ空港に安着。あまり揺れることもなく、着陸もソフトであった。全体として快適であったと言えるが、狭い座席に12時間は永い。 私にとってアブダビ空港は、1987年、北朝鮮工作員、キム・ヒョンヒ(金賢姫)が「大韓航空機爆破事件の犯人として逮捕された所」としての忌まわしい記憶があるだけである。あれから28年も経過しているのだから、記憶も風化しかけている。アブダビ空港は、今では、アラブ首長国連邦国営のエティハド航空の本拠地である。 右隣の日本人女性に話しかけてみた。彼女の話は次の通り。「夫がここ、アブダビで仕事をしており、時々東京の実家へ帰ります。今回も10日間ほど滞在してきたのですが、寒くて風邪を引いてしまいました。このエティハド(ETIHAD)の夜行便はよく使うので、4歳になったばかりの息子も慣れております。息子は日本が大好きです。東京に行けば電車に乗れますから。アブダビに電車は走ってないのです。 アブダビの日中は40℃にもなりますが、移動は車で、家の中は空調が効いているので、生活に問題は有りません。治安は東京並に良いです。息子は既にインターナショナルの幼稚園に通っておりますので、小学校もそのまま進級します。アブダビの住人の大半は外国人である為、言葉は生活も学校も英語です。」 AM5:30、トランジットで3番ゲートへ移動。7時40分の搭乗までここで待機。早朝のためか空港の店はまだ開いていない。清掃係の男性がフロアにクリーナーをかけている。アブダビ空港内の珍しい造形美を写真に納めた。 アブダビ空港内の造形美 AM7:40、搭乗。今度はアリタリア航空の大型飛行機。こちらもほぼ満員。 AM9:00、離陸。お隣さんは30歳前後の日本人女性。ゴールデンウィークを含めて、2週間の休暇を取り、スペインへ。例の「サンチャゴ巡礼道」(フランスのピレネー山脈の麓から始まりスペイン北部の都市、サンチャゴ・デ・コンポステーラSantiago de Compostelaまで続くスペイン版お遍路)を歩くのが目的である。
PM3:15、(現地時間、PM1:15)約6時間のフライトで、ローマのフィウミチーノ(レオナルド・ダ・ビンチ)空港に安着。荷物を回収する回転板が10台もあって、さすがに大きな空港だなと思った。空港内の銀行で両替の表示を見ると、1ユーロ=144円となっている。成田空港より11円も高い!成田で両替してきて良かった。 PM2:10、空港の外に出ると、私の名前をかざした中年の紳士が立っているのを、すぐに見つけることが出来た。予約のタクシーである。紳士は私のスーツケースを引いて駐車場へ。「小さな車が空いてなくて、大きな車になってしまった」と言って、10人乗りのバンに私1人を乗せて発車。 背の高い、そして上の方にだけ円形状に葉の付いた「ローマの松」の並木が見えてきて、ローマに来たことを実感する。渋滞のない舗装道路を30分ほど走って予約のホテル(Park Dei
Massimi Hotel Rome)に到着。45ユーロを支払って下車。 ホテルは、空港から40Km離れたローマ郊外のひなびた住宅街(外壁の色がはげ落ちて再塗装もされていないマンション群)に建つ、かなり古い建物である。このホテルが今回のツアーの出発点だ。 PM2:50、チェック・イン時にフロントで聞くと「参加者の数は25人になっております」と言う。今までのツアーでは最多数である。鍵を渡され部屋に入ると、大きなダブルベッドがドカンと部屋を占領し、その他の物(机や冷蔵庫等)は、狭い空間に申し訳程度に置いてある。しかし、バスタブの付いた洗面室はかなり充実していた。1泊64ユーロ。 自宅を出てから、約18時間のフライトと待機時間を合わせて約25時間をかけてホテルに到着。去年、ペルーのリマへ行った時と同じ位の時間が掛かっている。 PM3:30、かなり疲れていたが、最小限の食料を確保しようと近くのスーパーマーケットへ行こうとすると、フロントの男性が「今日は祝日のため、お店はどこも閉まっています。小さなサンドイッチ屋さんなら開いているかも知れません」と言う。 水だけでも確保したいと思い、寂れた住宅街に挟まれた坂道を10分ほど下って行く。確かにフロントで聞いたサンドイッチ屋が営業していた。覗いてみたがすぐに食べたいわけでもないので、そこはパスして隣のアイスクリーム屋さんで、バニラアイス(2ユーロ)と500mlのボトル水2本(2ユーロ)を購入してホテルへ戻った。 PM4:30、夕食はホテルでパスタでも食べようと思うが、とりあえず風呂に入って一休みしたいと思い、バスタブにお湯を溜めて身体を沈めた。湯加減もよろしく、一気に疲れが取れるようだ。そのままキングサイズのダブルベッドへ。気が付いたらPM10:30になっていた。今から食堂へ行くのも遅かろうと思い、トイレに起きて再びベッドへ。 4月26日(日) AM4:30、起床。気持ちの良い目覚めだ。 AM7:15、朝食。昨日は夕食を食べていないので、その分も食べようと、気合いを入れて食堂へ。洋食のみのバイキングで、お味はまずまず。クロワッサンを3個も食べた。食堂には、グループで来た人々、1人で来ている人といろいろだが、我々のツアーに参加する人もいるような気がした。 AM8:15、スカイプがやっと自宅と繋がった。久しぶりのタブレット使用の為か、操作がサクサクと進まない。妻と次女の顔が見られてご機嫌である。 AM10:00、今日は夕方のツアー・ミーティングまで自由時間である。特にすることもないので、昨日歩いた商店街まで行ってくることに。昨日は殆どの店が閉まっていたが、今日は開いていた。その中で1軒のスーパーマーケットを覗いてみた。商品も値段もどこにでもある標準的な物だと感じた。私は朝食をたらふく食って来たので、何を買う気にもなれなかったが、水を2本だけ買った。(1ユーロ) さてその帰り道、事件勃発! 長い坂道をヨチヨチ登っていると、私の横に2人乗りの車が停車。見ると車の中から、警察手帳を見せて、「君は中国人か?」と言う。私が「日本人だ」と言うと、「ローマには何日滞在するのか?パスポートを見せろ」と言う。私はこの時点で、偽警察であることを疑った。 私は、用意してあったパスポートのコピーを見せると、それを手に取ってチェックし返却してきた。これで終わりかと思いきや、今度は「君はコカインのような物は持っていないだろうな?」と言う。「勿論持っていない」と言うと、「バッグをチェックさせろ」と言う。 「私はすぐそこのホテルにいるから、もし私を疑うのであればそこまで来てくれ」と言うと、「私は警察だ、もっと近くに寄りなさい」としつこい。私は、もう100%偽警察だと思ったので「私はあなたを本当の警察だと思っていない、疑っているのだ」と言って歩き去ろうとした。 すると、更に語気を強めて警察手帳を見せ「私は特別警察だ、ここに止まれ!(I am
a special police, stay here!)」と言う。この場を何とか無事に処理したいと思っているところへ、1人の婦人が通り掛かった。私がその婦人にその場の状況を説明しかけると、2人組の警察は、車を走らせて去って行った。 ローマ郊外の静かな住宅街での事件である。観光地でスリに遭った事件は耳にタコが出来るほど聞いているが、こんな所で遭遇しようとは!私も驚いた次第。私がヨタヨタ歩いているのを見て、良いカモだと思ったに違いない。 ローマ郊外の住宅街で そして彼らは、恐らく1日中、カモを探し歩いているに違いないのだ。もし私がコピーではない本物のパスポートを渡していたら?そして、もしバッグの中を見せていたら?必ずや何らかのトラブルが発生していたであろう。 ホテルに戻ってからこの事件を報告すると、フロントの男性も驚いて、「そんなことは初めて聞きました。申し訳ありません」と言っていた。フロントが謝るようなことではないと思うが、宿泊客に危険な情報を提供できなかったという点で、いくらか責任を感じるのであろうか。 水を2本だけ購入して終わる予定の本日は、何も書くことがないなと思っていたのに、変な事件に遭遇して、書くことが出来た点では良かったのかも知れない。興奮してホテルへ戻る時、何処かで道を1本間違え、ホテルを通り越していた。間違えそうもない単純な道なのに。 AM11:45、孫の詩子とスカイプ。詩子は「新しいピンクの靴を買ってもらった」と履いて見せ、ご機嫌でした。 PM3:00、しばし、横になって休憩。 PM5:30、ツアーのミーティング。ツアー・ディレクターはプロポーションに自信がありそうな、35歳位のイタリア人女性。名前は、ウルスラ・ピンナ(Ursula
Pinna)と言う。参加者25人中、時間通りに集まったのは20人。最後に駆け込んできたのは、カナダから来た女性で、飛行機が4時間遅れたと言う。 参加者の国籍は、アメリカ、カナダ、オーストラリア、フィリピンと英語圏の人々で日本人は小生1人。ヨーロッパ人は居なかった。平均年齢は、結構高そうで、私が中間ぐらいかも知れない。カップル、グループでの参加ばかりで、単独での参加は私だけのようだ。ガイダンスの中で、ヨーロッパのホテルは、ほかの地域と比較して何処も狭いと言っていた。 PM7:45、夕食。スパゲッティ・ボンゴレと水で10ユーロ。お味はマズマズでした。食後にカプチーノを1杯サービスされた。 PM8:45、自室で日記を書く。 PM10:00、入浴、洗濯。 PM11:00、就寝。 4月27日(月) AM5:30、起床。 AM6:30、朝食。フィリピン人夫妻と相席。夫は皮膚科の医師、妻は歯科医。「7歳、6歳、4歳の子供を母親に預けて来ました」と言う。「日本ではフィリピンのリゾートとして、セブ島が有名だが」と言うと、「セブ島は、上から5番目位です」と言って、一番には「エル・ニド・パラワン・EL
NIDO PALAWAN」と言う名前を挙げていた。 AM7:20、観光に出発。COSMOSと書かれた大型バスが迎えに来ていた。COSMOSは今回のツアーを企画している会社である。「COSMOSは大きな会社なのですか?」とツアー・ディレクターに聞くと「スイスに本社があって、世界をカバーしている会社です」と言う。初めて使う旅行会社なので、何も知らなかったが、そう言うわけでなかなかの会社であるようだ。 AM8:00、今日はまず、バチカン博物館の見学からスタート。いきなりオプショナル・ツアーから始まるのだが、オプショナルに参加しない人は、バチカンに入場しないで近隣を散策すると言う。私はバチカンには過去2回来訪しているが、システィーナ礼拝堂(Cappella Sistina)には入ったことがないので、参加することにした。バチカンに入場する前に、40歳台と思える女性の現地ガイドと合流。 バチカンの裏側(ローマ) オプショナルの料金58ユーロの内、16ユーロがここの入場料であった。「ここにはミケランジェロが描いた有名なフレスコ画がある」と言うことがうたい文句である。他の場所はいくらでも撮影OKだが、この礼拝堂の絵(最後の審判)だけは撮影禁止である。 システィーナ礼拝堂・外観(ローマ) システィーナ礼拝堂・内部(ローマ) 最後の審判(ミケランジェロ)・ウィキペディアより アダムの創造(ミケランジェロ)・ウィキペディアより 本か何かで見たことがある宗教画(縦13mx横12m)であるが、実際の絵は想像していた物よりもクスンでいた。本で見る絵には光沢があり、かなり加工してあるようだ。比較するものではないかもしれないが、私は歌麿の雪月花の方が好きである。 AM9:30、システィーナ礼拝堂を出ると、過去2回見学をしたことのある、バチカンのセント・ピーター寺院に入る。バチカンの大広場からではなく裏から入ってくる流れである。40年ほど前に初めて見学した時は、その壮麗さに度肝を抜かれたが、3回目ともなるとさほどの感動もなくなる。そればかりか、心なしか内部の大理石が、すすけてさえ見えた。 セント・ピーター寺院内(ローマ)
AM10:50、バチカン市国の寺院から出てフリータイム。バチカン市国からイタリア国に移動したのだが、バチカン市国の周りは、バチカンが所有する土産店が軒を連ねている。時間つぶしに見て回ったが、買いたい物はなかった。 AM11:30、次の見学場所であるコロッセオ(Colosseo)に向かう。バスはしばらくテヴェレ川(Tevere)沿いに走り、その川を渡って町の東側に行く。テヴェレ川の中洲(ティベリーナ島Tiberina)には病院(ファーテベネフラテッリ病院)が建っており、かなり古くから有るようだ。 テヴェレ川の中洲(ティベリーナ島Tiberina)(ローマ) 古代ローマの廃墟を車窓から左右に見ながら進むと、円形競技場のコロッセオが見えてきた。その近くで下車し、コロッセオの中へ。ここも3度目であるが、いつ見てもその壮大さに感動する。古代ローマの市民の娯楽場として8年間掛けて建造した物だ。時の王から奴隷まで、10万人の観客が入って見物が出来たと言う。 記念写真(コロッセオ入場門前で) コロッセオ・外側(ローマ) コロッセオ・内側(ローマ) AM12:30、次はコロッセオに隣接しているフォロ・ロマーノの見学。入り口には「Foro
Romano-Palatino」と表示されていた。ここはパラティーノの丘にあり、代々の皇帝が住んでいた。今は廃墟だが、2000年の昔がしのばれる。塩野七生氏著の「ローマ人の物語」には、何度もこの丘の名前が出て来たので、一度は見学したい場所であった。 フォロ・ロマーノ(ローマ) フォロ・ロマーノから見たコロッセオ(ローマ) PM1:30、現地ガイドと別れていったんホテルへ戻る。 PM2:20、ホテル着。昼食を取っていなかったのでホテルでピザ・マルガリータを食す。少し大き過ぎて食べきれないと思っているところへ、昨日のオリエンテーションに遅れてきたカナダ人婦人(59歳)が来たので4分の1を分けてあげた。彼女は仕事と親の介護に疲れたので旅に出たと言う。食後少しの間、ポメラを叩いて旅行記を書き進める。 PM4:00、本日2つ目のオプショナルの市内観光とディナーに出発。このツアーはやたらとオプショナルが多い。ローマの市内観光に参加しない人が居るのかしら?何度も来ている人は別だろうが。 PM5:00、バスから降りて少し歩くと見覚えのある場所に来た。スペイン階段の最上段の広場である。ここに来ると、オードリーヘップバーンとグレゴリーペック主演の美しい映画「ローマの休日」を思い出す。それと同時に、妻と一緒に来たとき、現地ガイドが推薦したレストランに行って、ぼられそうになった忌々しい状況を思い出す。 今日のスペイン階段には、鉢植えの花が沢山置かれていて、歩くところがかなり狭くなっていた。ガイドは「春の一時期だけです」と言っていた。階段を噴水の所まで下りて来ると、焼き栗を売っていた。かつてローマで食べた焼き栗が美味しかったことを思い出して買ってみたが、期待したほどではなかった(10ユーロ)。ガイドに「栗が美味しいのは秋です」と言われ納得。 スペイン階段(ローマ) PM6:00、徒歩にて大きな建造物の有るところへ出てきた。しかし、ここがどこであるか記憶にない。観光客が大勢居て、建造物の前は改修中である。もしや「トレビの泉(Fontana di Trevi)」ではないかと確認すると、その通りであった。私の記憶の中にあるのは、ライトアップされた池に後ろ向きになって、肩越しにコインを投げる光景である。 トレビの泉・改修工事中(ローマ) しかし、今日のトレビの泉はライトアップも水も無かった。残念!おまけに急に雨が降り出した。午前中のコロッセウム見学の時も、にわか雨が降ったので、午後のウォーキングツアーには傘を持参してきたが、折りたたみ傘では役に立たないほど横殴りの豪雨になってきた。 PM6:15、雨の中を徒歩でマルス広場のパンテオン(Pantheon)へ。道路の至る所で傘売りが声を掛けてくる。同じ物を3〜5ユーロで売っている。はじめの内は濡れるままになっていた人も、止まない豪雨に我慢できなくなって購入していた。パンテオンまで来たときは、ズボンの膝から下は濡れていた。 日没と雨でパンテオンは煙っており写真を撮る気にもなれない。建物の中に入ってみるも、薄暗いフロアの一角でミサが執り行われているだけで、特段のことはなかった。この建物が見学に値するのは、特別古い建造物だから? 最初のパンテオンは、BC25年、初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近、マルクス・アグリッパによって建造されたが、火事で焼失した。2代目のパンテオンは、118年から128年にかけてローマ皇帝、ハドリアヌスによって再建されている。 マルス広場のパンテオン(Pantheon)・ウィキペディアより パンテオンの内部(ローマ) PM7:00、雨が降りしきる中、更に15分も歩いて今夜のディナー会場へ。靴の中も冷たくなり、出来ればディナーよりもホテルへ戻って熱い風呂に入りたい。しかし、団体行動だからそうは行かない。冷えた身体のままディナーの開始。 ワインとビールは飲み放題。しかし飲めない私は冷たい水!前菜は塩味の強い、生ハムの薫製と野菜、トマトのサラダ。その後、パスタ、ラザニア、肉または魚等が出されたが、脂っこくてとても全部は食えない。せいぜい半分で、物によっては一口だけで終わりだ。 他の人たちはよく食べる。太った人ほど食いっぷりが良い。そして、私の隣に座ったおばさん(オーストラリアのパース在住)は、大きな声で話っぱなし!いつ息を継ぐのだろうと見入ってしまう。 そんな中でわずかに救われたのは、ギターとフルートの流しが来て馴染みのある曲を演奏し、歌ってくれたことだ。特にフルートの演奏者は、一流の人らしくCDも出している。彼からCDを1枚購入したので、帰国してからの楽しみが出来た。15ユーロ。 PM9:00、ディナー終了。雨の中をバスが待っているところまで歩く。ローマの道路は狭く、かつ路上駐車が多いので、バスをレストランの前に止められないのだ。そう思って車に目をやると、車体の短い二人乗りの車が多いことに気付く。ベンツ社製で価格は15,000ユーロもするそうだ。ついでに言うと、ローマでは日本製の車は極めて少ない。 PM10:00、ホテル着。すぐさまバスタブに水を張り、冷えきった身体を温めにかかるが、既に鼻水が出て来ている。風邪気味の悪い予感がするが大丈夫だろうか。 PM11:30、就寝。 4月28日(火)16℃ AM4:30、起床。鼻水が止まらず、喉が痛い。完全に風邪にやられたようだ。初日から雨に降られるとはついていない。朝食までポメラを叩く。 AM7:30、朝食。洋食のバイキング。今朝もクロワッサン、コーヒー、ヨーグルト、パイナップル、ジュースとしっかり食す。 AM8:00、フィレンツェ(Firenze)に向かってホテルを出発。高速道路を走っている車内では、揺れが少なくポメラを叩ける状況であった。 AM12:30、フィレンツェに到着。早速、革製品メーカーに連れて行かれて能書きを聞く。製品のクォリティーは高そうだが、私が革製のジャンパーを持っていても着るチャンスがない。 PM1:10、フリータイムで昼食。ここでもクロワッサンとアメリカンコーヒー。私にはこれが一番無難な食材である。4.5ユーロ。 PM2:00、現地ガイドの案内で市内見学。サンタ・クローツェ大聖堂(Basilica di Santa
Croce)のあるサンタ・クローツェ広場から出発。最初に説明されたことは、ある表示板についてであった。それは1966年に発生した、市内の中心を流れるアルノ川(Arno)の氾濫で、今立っている広場が、3mほどの深さまで沈没した事を示すものであった。穏やかに流れているアルノ川の今の表情からは想像も出来ないのだが。これと同様の話は、ベトナム中部にある日本人町(ホイアン)でも聞いた事を思い出す。 サンタ・クローツェ大聖堂(フィレンツェ) フィレンツェに関する事前の知識としては「イタリアの中世に栄えた花の都、ルネッサンス発祥の地、富豪メディチ家による支配」位である。今日はその辺の確認を楽しみにしている。 まず、「花の都」であるが、フィレンツェが栄えていた中世なら、そのような表現が決してオーバーでは無かったろうと言う印象だ。それは第2次大戦後のパリが「花の都」と言われたのと同じ意味である。中世の一時期(15世紀)それほど広いとは言えないこの町に、ところ狭しと建造された幾つもの巨大な教会(その代表がサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
Cattedrale di Santa Maria del Fiore)を見学するとその感を深くする。 サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(フィレンツェ) ジョット(Giotto)の鐘楼(フィレンツェ) 次に「ルネッサンス発祥の地」と言うことに付いて。この地に埋葬されている人物の名前を聞いただけで、なるほどと納得してしまった。レオナルド・ダ・ビンチ、ガリレオ・ガリレ、ダンテ、ジョット等の名前である。 ヴェッキオ宮殿は当初、フィレンツェ共和国の最高機関である政庁舎(シニョーリア)があったため「シニョリーア宮殿」という名前であったが、メディチ家のコジモ・ルイ・ヴェッキオが1540年〜1565年の間、宮殿として使用していたことから『ヴェッキオ宮殿 Palazzo Vecchio』と呼ばれるようになった。また、ヴェッキオ橋(Ponte Vecchio)は橋上家屋で有名である。 ヴェッキオ宮殿(フィレンツェ) ヴェッキオ橋とアルノ川(フィレンツェ) 3番目の「メディチ家Medici」に付いて。現地ガイドのツアーが終了した後、一人でメディチ家ゆかりのピッティ宮殿(Palazzo Pitti)を訪ねた。そこにあったのは、ウィーンのエリーゼ宮殿やロンドンのバッキンガム宮殿に匹敵する様な、時の国王や皇帝が住む館であった。 現在では、建物の中は博物館になっており、中を見学する時間はなかったが、恐らくゆっくり見学したら、何日も掛かりそうな、たたずまいである。メディチ家(1550〜1743年)の繁栄ぶりを後世の人々に知らせるには、十分な遺産だ。 ピッティ宮殿前の広場(フィレンツェ) 戻ってくるとき、ウフィツィ博物館の前でギターを演奏している青年がいた。聴いているとなかなか上手である。私は彼のCDを2枚購入した。20ユーロ。昨日に続いて今日も買うことになったのだが、こればかりは出会いで決まる。 欲しいと思っていても出会いがなければ、手にすることが出来ないし。そのときの瞬間の印象で決めるしかない。ちなみに、南米で購入してきたCDは、帰国してから何度も聴いている。音楽によって、旅先の情景が浮かんでくるのである。 集合場所に戻り、2組のカップルと懇談。2組は友人同士でフロリダ在住。1人の男性を除くと、既にリタイヤしている。あごひげの男性は、現役時代、大学で英語を教えていたと言う。皆フレンドリーである。 PM5:30、フィレンツェには極めて短い滞在を終えて出発。今夜の宿泊地モンテカティーニ(Montecatini)を目指す。 PM6:45、ホテル・アストリア(Astoria)に到着。ホテルに到着する直前、車窓から「フニクリ・フニクラ」の登山列車の駅をチラッと見た様な気がする。と言うのは、ガイドが説明を始めた時は既に通過するところであったからである。 元々はイタリア南部のベスビオス火山にできたロープウェイが「フニクリ・フニクラ」と言う曲の原点らしい。ちなみに、イタリア語では登山電車、ケーブルカーを「フニコラーレ(Funicolare)」と言い、フニクリ・フニクラはその愛称である。 PM7:30、ホテルで夕食。メインディッシュはグリルド・ターキーだが、特段の感動はなかった。ただ、この時同席したカップルは、ハネムーンであることが分かり、期せずして一同から拍手が起きた。 二人の国籍はオーストラリアであるが、男性は中東のパレスチナ、女性はインドネシアからの移住者である。共にイスラム教であることが、二人を結びつけた大きな要因になっているようだ。少しずつ皆と打ち解けると、それぞれの素性が分かってくる。 PM11:00、今夜のホテルはバスタブなし。シャワーを浴びて就寝。 |