5月10日(日) AM6:00、起床。 AM7:00、妻とスカイプ。互いに元気でいることを確認。 AM7:30、朝食。ビュッフェスタイルで、美味しそうな物がこれでもか、と言うほど並んでいる。少しずつ取っても満腹になってしまった。 AM9:00、バルセロナの市内観光に出発。今日は生憎の日曜日で、観光関連以外は何処も閉店だ。
ホテルを出発して間もなく見えて来たのは、ARENAS DE BARCELONA(アレーナス・デ・バルセロナ)、これは闘牛場跡をまるごとショッピングセンターにしたもの。バルセロナのあるカタルーニャ州では、2012年から動物愛護の観点から闘牛を禁止する条例が可決されたため、古い闘牛場をショッピングセンターにしたとのこと。
まず、市内が一望できるモンジュイックの丘(Monjuic)に来た。その途中で現地ガイドからまた「アラタ・イソザキ(磯崎新)」と言う日本人建築家の名前が挙がった。1992年に開催されたバルセロナ・オリンピックのメイン会場となった、オリンピックスタジアムを設計した人だと言う。この3日間に3人の日本人建築家の名前が、現地ガイドの口から発せられたことは、日本人として誇りに思う。 見事に晴れ渡ったこの丘からは、バルセロナ港、サグラダ・ファミリアも一望できた。バルセロナ港は、フランスのマルセイユ港、イタリアのヴェネツィア港に次いで地中海では3番目に大きな商業港である。今日も大きな客船が寄港していたが、昨日はそれが5隻も停泊していたそうだ。
この丘は、1929年のバルセロナ万博を機に整備され始め、1992年のバルセロナ・オリンピックのメイン会場になったこともあって、付近一帯が芸術的雰囲気を擁しており、スペインが持つ芸術の、深さと広がりを感じさせる。 スペイン人である現地ガイドの英語には、見事にスペイン語訛が入っている。極端に言うと、半分はスペイン語ではないかと思うほどである。それを聞き取れるのは、今回の旅行に際して取り組んだ、半年間のスペイン語の勉強が、こんな形で役立っていると言えるのかも知れない。 次に見学したのは、サグラダ・ファミリア聖堂(Basilica de la Sagrada
Familia)である。サグラダは英語の「sacred 聖なる」に当たるので、聖家族、つまり、キリスト教で、幼児イエス・キリストと母マリアおよび父ヨセフの3人家族を意味しているようだ。 この聖堂の建設は1882年から始まって100年以上経過した今も完成していない。アントニオ・ガウディ没後100年の2026年の完成を目指していると言う。
この聖堂の周りは、観光客の群が取り巻いており、見学して歩くことも難儀である。ツアーガイドからは「呉々もスリに気をつけるように」との注意があった。我々は聖堂の外側を一周しただけで、中に入ることはしなかった。 バルセロナのグラシア通りにある、ユニークな集合住宅(世界遺産)、カサ・ミラは、ガウディの作品である。直角と平行からなる通常の建築物とは全くの別物である。バルコニーの手すりは、やはり波打った造形となっていて、フラットな部分が見当たらない。
AM11:00、その後、旧市街を歩き、ローマ時代の遺跡がそのまま、現代の建築物の中に残っていることを目の当たりにして、ローマ帝国の広がりを実感した。
PM0:45、午後はオプショナル・ツアーで、モンセラット(Montserrat)の見学。ここはバルセロナから北西約60kmに位置し、円筒系の大きな岩山がいくつもそびえ立つモンセラット山(カタルーニャ語で、のこぎり山の意)と、中腹にあるモンセラット修道院付属大聖堂の「黒いマリア像(Black Virgin)」が有名だ。さらに、ここからほとんど垂直にあがるケーブルカー(フニクラ)があるが、故障で動いていなかった。 ここの修道院は、西暦880年に始まっているが、標高700mの岩山に、よくも造ったものだと感心する。今はユースホステルもあって、観光客以外にもサイクリングを楽しむ人、ヘソ出しルックで歩く女性と多彩な人々で賑わっている。狭い道路の両脇にはマイカーが、駐車場には大型バスが20台も駐車している。 日本の高野山・金剛峰寺や、岩山に存在して、かつては賑わったという山形県の山寺、宝珠山・立石寺を思い出す。
それにしても黒いマリア像にどんな謂われがあるのかと調べてみると「単にロウソクのススで黒くなった」と言うことだが、これに触れると功徳があると、参拝者が引きも切らない。教会の入り口で、婦人が和服を着た日本人夫婦に出くわした。「和服を珍しがられて、記念写真をせがまれます」とは夫の言。
ここでは、昼食にサンドイッチ(4ユーロ)を、歩いた後にアイスクリーム(3ユーロ)を食べた。バルセロナは想像していた通り、晴れて乾燥したスペインの気候であった。バスク地方は、あんなに緑が多かったのに、昨日立ち寄ったパンプローナ辺りが気候の変わり目だろうか? PM4:30、ホテルに帰着。 PM6:00、オプショナルのフラメンコショーに出発。途中の広場で、コロンブスの像を写真に収める。そこから延びる大通りを「ラ・ランブラ(La Rambla)」と言い、町の中心道路であるらしい。ガイドの話の中に何度もこの名前がでてきて、私を混乱させた。 私はこの名前の発音が「アルハンブラ(la Alhambra)」、(スペイン語では「ラランブラ」になる)と似ていたので、アルハンブラ宮殿がこの町にあるのかなと不思議に思っていたからである。 PM7:00、フラメンコショーの前に、まずブッフェ・スタイルのディナーである。数多くの料理が所狭しと並んでいる。私は美味しそうな物を少しずつ皿に盛って食べた。 PM8:00、同じ建物の隣の部屋に移るように指示があり、行くとそこがフラメンコショーの会場(タブラオ:tablaoと言う)であった。四角く小さな舞台の三方に、100人程の客が椅子に座って見守る。 PM8:15、開演になり中年の男が唄い始めた。悲しく、苦しく、絶望的ですらある表情で、喉から声を絞り出すのである。やがて一組の男女が舞台に登場して踊り始める。フラメンコのギターとドラムも伴奏として鳴らされているが、存在感としては控えめである。 こうしたパフォーマンスが9時半まで休むことなく続けられた。女性の踊り手は、腰のくびれている人、ほとんどくびれのない人、おなかの出た人と3者3様だ。ソロで激しく踊った後は、息が上がっており、お腹の出た中年の女性には、激しい踊りは無理である。 男性の踊り手は二人とも若く、切れが良かった。男女とも激しい踊りになると、物の怪に憑かれた様になり「この人大丈夫かしら」と心配する位の興奮状態で、痙攣したようになる。フィリピンから来ていた皮膚科の医師から「マラリアに掛かるとあのような状態になります」と終演後に聞かされた時は、複雑な心境であった。 歌い手も交代で歌うのだが、年輩の男になると、見ていて気の毒なくらい、息も絶え絶えに声を絞り出している。フラメンコに於ける歌い手の存在がこれ程重要であるとは知らなかった。指揮者が居ないので、歌と踊りと伴奏のギターは、あたかも掛け合いの如く、あうんの呼吸で成り立っている。 上半身の演技はそれぞれに異なるが、足のステップは、フラメンコとタップダンスやリバーダンスには共通したものがあると思う。情熱的な舞台を、手を伸ばせば届く位の間近で見て、フラメンコの素晴らしさを堪能できた。 開演中は撮影禁止であるが、最後の5分間を撮影タイムにしてくれた。私の座った位置が正面ではなかったので、期待した写真は撮れなかったと思う。昨日の土曜日は、公演が4回もあったそうだ。参加者は口々に「素晴らしい公演だったね」と言って会場を後にした。
PM10:10、ホテルへ帰着してシャワーを浴びる。 PM11:30、就寝。 5月11日(月) AM6:30、起床。 AM7:30、朝食。 AM8:45、バレンシア(Valencia)に向けて出発。パリでのオプションであった、ディナーの追加代金として、5ユーロを徴収された。 AM11:00、トイレ休憩。ボトル水、1.5L、2.35ユーロ。 AM12:30、昼食。クロワッサンと水、6ユーロ。 PM2:00、バレンシア着。運転手のジュゼッペとはこれで別れるので、13日間のチップを渡す。50ユーロ。アバ・アクテオン・ホテル(abba acteon hotel)にチェック・イン。 PM3:00、市内観光へ出発。 現地ガイドのユーモア溢れるトークと伴に、3時間にわたるツアーが始まった。最初に見学したのは、かつては川であったところを埋め立てて整備し、公園や近代的な建物が溢れる芸術科学都市に変貌した所である。元々、古い川床は、川幅は広いが水量は少なかったらしい。 そこで見た物は、オペラハウス、シネマ・ハウス、科学と芸術の館、植物園、プール等様々である。モザイク模様をふんだんに使った建築物は、いずれも人目を引きつけるユニークな構造である。オペラハウスは、シドニーのそれを思い出すようなデザインで、ここには、オペラ歌手の、プラシド・ドミンゴや指揮者のズービン・メータも来ているそうだ。 これからの建築は、機能的なだけではなく、デザインも魅力的でなければ採用されない時代に入ったと言えるであろう。町の地形はおしなべて平坦である。1950年代には、大洪水にも見舞われているが、川を埋め立ててしまった今は大丈夫なのだろうか?真夏の日差しを浴びながら、現地ガイド・ホセの話が続く。
次に向かったのは、旧市街。何処にもあるように、歴史を物語る教会、市庁舎、細い路地、ローマ時代の遺跡等を歩いて見て回った。このときの説明の中で、建築様式が次々と出てきた。バロック、ローマン、アール・ヌーボー、ゴシック、アラバスタ等である。ヨーロッパを旅行する際の基本的な知識として、これらの概念を理解しておくことは、必須条件である。
カテドラルの隣には、ミゲレテ(el Miguelete)と呼ばれる塔があり、207段の急な階段を上がると、バレンシアの町が一望できる。高さは、51メートルで、これは塔の八角形の基礎部分の周囲と同じ長さである。頂上には、14の鐘があり、その中で一番大きな鐘がミゲレテと呼ばれている。バレンシアでは、カテドラルを訪問しなかったら、何をしに来たのかわからないほど重要である。
バレンシアで我々が思い浮かべる物は、バレンシア・オレンジとパエーリャ位である。市内見学の後半で喉が渇いてきたので、バレンシア・オレンジのジュースを1杯飲んでみた。2.3ユーロ。その感想は、日本で飲むのと味に変わりなし。同じ物を輸入して食しているのだから当然かも知れない。2頭の馬にまたがった警察官が町をパトロールしていた。のどかな風景である。 PM6:00、ホテルに帰着。この時間に外の気温は26℃を示していた。 PM7:00、余力があれば、夕食に行ったり海岸に出たりしたかったが、疲れを感じた私はベッドに横になった。胃袋も「少し休ませてくれ」と言っているようだったので、夕食も抜くことにした。 PM8:00、目を覚ましたので、ポメラに向かい、旅行記を書き進めて妻に送信した。 PM10:30、シャワーを浴びる。バスタブがあるのに、栓が無いのでお湯を溜められない。持参した栓もここのバスタブには合わなかった。 PM11:30、就寝。 5月12日(火) AM6:30、起床。 AM7:10、朝食。このツアーメンバーの中で、最重量と思われるおばちゃんと同席。私より50kg程多いかも知れない。バスの乗り降りだけでも大変そうで、まして坂道を歩いて登る等は考えられない人である。 しかし、彼女が食生活に気を使っている気配は微塵も感じられない。たっぷりの量の料理にたっぷりの塩を振りかけて食べ尽くす。ただし、食事中に袋から取り出した薬は6粒に及び、ピーナッツでも食べるように、口の中に放り込んでいる。豪快な食べっぷりである。 AM8:00、いよいよツアー前半の最終地、マドリッドに向けて出発。今日から、バスと運転手が交代。ツアーガイドのウルスラは、運転手に気を使っている様で、振る舞いがいつもよりギコチ無い。我々のバス内ではWiFi無線のインターネットができる。便利になったものである。 我々のバスは、セルバンテスの「ドン・キホーテ」の舞台になっているカスティーヤ地方のラ・マンチャを走っている。広々とした田舎を、きれいに舗装された道路が一本通っている。私は車窓から大平原と、時折出現する風車を見ながら、ドン・キホーテに思いを巡らせている。今日は、この先にあるクエンカ(Cuenca)と言う、人口6万人の小さな町に立ち寄る。クエンカはフカール川(Jucar)とウエカル川(Huecar)の峡谷に出来上がった街である。 AM11:30、クエンカの駐車場に到着。我々の大半は歩いて坂道を登り、カテドラルのある広場まで行くが、3人は歩いていくことが苦痛なのでタクシーで行くと言う。そこにあった領主の館は、中世に於いては、深い川に遮られた自然の要塞であったろうと思われる。 さして広くもないところに、立派なカテドラル・聖母マリアと聖フリアン大聖堂(Catedral de Santa Maria y San
Julian)がある。そして、崖から半分突き出た様な宙吊りの家(Casas Colgadas)があって目を引く。美しいと言えなくはないが、それよりもこんな人里離れたところに、町が忽然と現れる事の方に関心が向く。
AM12:00、予約してあったレストランでセットメニューの昼食。私は肉ではなく、カラマリ(calamari)と言うイカの唐揚げを注文していた。出された物は、イカを輪切りにして油で揚げたもので、少しなら美味しく食べられたと思うが、量が多すぎて半分食べるのがやっとであった。飲み物代も含めて10ユーロ。 PM1:30、クエンカを出発。カメラのメモリーが満杯になった。 PM3:15、アランフェス(Aranjuez)宮殿に到着。この宮殿に対する私の先入観は、1939年に、ロドリーゴが作曲したギター協奏曲「アランフェス協奏曲」が全てである。この地を新婚旅行で訪れたロドリーゴは、河畔の自然の中を新妻と連れ添って歩くうちに、あのロマンチックな第2楽章の楽想を得た。このため、彼はこの曲の第2楽章から書き始めたという。ナルシソ・イエペスまたは荘村清のギター演奏で何度も聞いているが、全部は思い出せない。
希望者は9ユーロを支払って宮殿内に入った。宮殿の内部は、他の宮殿と同様、豪華絢爛であるが、撮影禁止であった。見学者は我々だけ、それに比べて警備員は各部屋に立っているので、警備員の数の方が多かった。 土産物コーナーには、アランフェス協奏曲のCDも置かれていたが、安くなかったので買わなかった。自宅にもあるような気がするし、なくても日本で購入できると思うから。外の庭園も見事に整備されているが、時間がなくてゆっくり見学することは出来なかった。 PM5:30、スペインの首都、マドリードのホテル・ラファエル(Rafael)に到着。この旅で初めてシングルベッドの一人部屋に入った。これまでは、ダブルベッドかツィンベッドの部屋に1人で寝ていたのだが。下着を洗濯。 PM7:00、ディナー会食へ。マドリードのメインストリートである、アルカラ通り(Alcala Calle)を走り抜けて、レストランのあるマヨール広場(Plaza Mayor)へ。広場を囲む建物の多くが修理中であった。
広場の一角で、サングリア(sangria)での乾杯から始まった会食は、タパス(tapas:小皿料理)へと進み、平らに丸く焼いた、トルティージャ(tortilla:スペイン風オムレツ)や、ハモン・セラーノ(Jamon Serrano:豚肉の生ハム)等、いろいろな料理が出てきたが、白身魚のフライを除くと、美味しいと思う物は無かった。
ちなみに、サングリアとは、赤ワインを甘いソーダやオレンジジュース等で割って、一口大に切った果物とシナモンを少々加えた飲み物である。 PM10:00、ホテルへ帰着。 PM11:00、疲れてシャワーも浴びずに就寝。 5月13日(水) AM6:30、起床。 AM7:30、朝食。 AM8:30、市内見学へ出発。現地ガイドの説明が聞き取りにくくて疲れた。よく聞いてみると英語の綴りをスペイン語で発音している。 例えば、ナンバー・フォー(number four)は、ナンベル・フォール、モア・ザン(more than)は、モル・ザン、センター(center)は、センテロ、ケアフル(careful)は、ケルフル、という具合である。 英語が母国語の人にとっては、少し訛りが強いと感じる位で済んでいるようだが、綺麗な英語で話されても満足に聞き取れない私にとっては、大きな障害となる。 逆に私たち日本人も、どんなに訓練しても、日本語訛から脱出することは困難なのであろう。ならば、余り細かい発音を気にしないで、しゃべりまくった方が、早く会話能力を取得できると思う。 さて今日の主題は、市内見学である。最初に見学したのは、ラス・ベンタス闘牛場(Plaza de Toros de Las
Ventas)。ここは、メキシコのモヌメンタル・デ・メヒコ闘牛場、ベネズエラのモヌメンタル・デ・バレンシア闘牛場に次いで、収容人員が23,000人余りという、世界第3位の規模を持つ。 通常の公演は午後に行われるが、太陽の位置によって座席の価格が異なっており、直射日光が当たるソル(太陽)席はソンブラ(日陰)席より安価である。ここマドリードの気候は、内陸性気候で、夏の気温は45℃に達する事もあると言う。ちなみに今日の最高気温は36℃となっている。
交差点には警察官複数が立っているが、ガイドが「彼らは何をしていると思いますか」と聞く。それから一呼吸おいて「彼らは何もしていません」と言う。確かに彼らの中にはスマートフォンを眺めている者もいた。ガイドの話でも、スペイン経済の凋落ぶりには自嘲気味である。 次に見学したのは、スペイン広場(Plaza de Espana)である。スペイン広場はローマにもあるが、マドリードのそれは、「ドン・キホーテとサンチョ・パンサの像」などセルバンテスを記念した像が建てられている。セルバンテスは、スペインが誇りにして止まない作家である。
最後はマドリード王宮(Palacio Real de Madrid)である。バスの駐車場の関係でか、我々が目にした王宮はその側面で、しかも広い道路越しに見ただけのようで、何の感慨も湧かなかった。実際には国王や王族は住んでおらず、彼らは郊外にある小さなサルスエラ宮殿(Palacio de Zarzuela)に好んで暮らしていると言う。
ガイドは2時間半にわたって、息をつく暇もない位に、マドリード市内を説明。しかし、その多くは車窓から見ただけであるから、旅行記に書くことはしない。もし機会があれば、その時はゆっくり見学したいと思う。 AM11:00、ホテルへ帰着。オプショナルでトレドの観光に行く人は、間もなく出発したが、私は明日の夕方から始まる、後半のツアーで行くことにしたので、今日はホテルで休養を取ることにした。旅の疲れが出てきた頃で、丁度良かったかも知れない。 AM11:30、溜まった日記を書いたり、昼寝をしたりして過ごす。タブレットのインターネットは繋がって、ヤフーのニュースは閲覧できるのだが、メールの送受信が出来なくなって困っている。 PM8:00、前半のツアー最後の夕食。マカロニにチーズがたっぷり振りかけられていた前菜。これに大きめのフランスパンも付いていたので、量としてはこれで十分だが、メインには、これまた大きめのローストチキンが出された。しかし、美味しかったのでこれも完食。最後は大量のアイスクリーム。昼食を抜いておいて良かった。 最後のディナーを囲んで、それぞれに盛り上がっていた。16人の曾孫を持つおばあちゃんは、同伴のおばあちゃんと、この後引き続き、ギリシャを旅行すると言う。円熟味のある美しさを持った二人である。 フロリダから来た二人のおばちゃんは、中学校の同級生だそうだ。一人はフロリダでの生活は長いが、もう一人は、孫が出来たので、ニューヨークからフロリダに越してきたと言う。2歳になる孫の話をするときは、ことのほか嬉しそうである。 ハネムーンの二人(新郎27歳、新婦26歳)は、1ヶ月近くの旅行がこれで終わり、シドニーに帰ったら仕事に就くと言う。新婦は毎日のようにドレスが替わり、目を楽しませてくれた。目や唇が大きく、豊かな胸やヒップの線は、イスラム系の衣装をまとっても隠しようがなく、どこまでも妖艶である。爺さん婆さんが多い中、貴重な存在であった。 元牧場経営者のジョンは、時々すました顔で冗談を言い、爆笑をかっている。この席で、私に「ツアーガイドの名前を言いなさい」と言う。私が「ウルスラ」と言うと、爆笑が起こった。私の発音がおかしいらしい。 私は、皆と同じように発音しているつもりだが、どこかが違うようだ。ウルスラも「それでは私のパスポートの名前を変えなければならない」と言って笑っている。 最後は、今後の健闘を称えて一人一人と握手や、ハグを交わして終了。明日は、それぞれに散っていく。ローマのコロシアムを背景に写した集合写真を1枚購入。10ユーロ。 PM9:30、自室に戻って入浴。暑い中で我慢していたが、やっとエアコンの入れ方が分かりほっとする。 PM11:00、就寝。 5月14日(木) AM6:30、起床。 AM7:30、朝食。食堂に行くと、多くのツアー仲間が食事中であった。最後の時間を惜しみながらの食事である。皆それぞれの時間にチェックアウトして出て行く。 同席したおばちゃん(オーストラリアとカナダを行き来している)は、「幼い頃、マケドニアからカナダに移民してきた。マケドニアの田舎に住んでいた頃は、トイレもなく、まともな道路もなかった。二度と行きたいとは思わない」と語っていた。 パースから来たおばちゃんは「スペインが大好きで3回目です。夫は定年を迎えたが、旅行は好きではない。行っても、タイとかバリ島とか近くて安いところです。自分はパートで働き、旅行代金を稼いでいる。子供が居ないので、自由を楽しんでいます」と言う。 AM9:00、私はチェックアウトまでまだ時間があるので、ポメラに向かう。 西欧旅行、前半のまとめ。 今回のヨーロッパツアーは、昨年の南米ツアーと比べると、大きな違いがある。途上国と先進国。高地と低地。相部屋と一人部屋。路線バスと専用の近代的なバス。凸凹道と舗装道路。苦しい旅と楽な旅。すべてが対照的である。 どちらが、より心に残るかと問えば、やはり南米の旅行になる。ヨーロッパに関しては、事前の知識も自然のうちにかなり入っているので、初対面の感動もそれほど強くはない。そういう中で一つだけ挙げるとすれば、やはりベニスが印象的であった。その歴史。その風景。 帰国したら、購入した音楽のCDを聞きながら、より深めたい知識を、読書によって補うことを楽しみにしている。 |