西欧旅行記(後編) 



5月
14日(木)

AM11:50、ホテルをチェックアウト。タクシーで次のツアーのスタートになるホテル・アバスカル(NH collection ABASCAL)へ移動する。20分掛かって10ユーロ。この分は、旅行会社のCOSMOSが負担してくれる。

PM0:30、ホテルが代わったら、メールの受送信が出来るようになった。日記を送ってから、妻、次女、詩子とスカイプ。皆元気そうだ。

PM4:30、ホテルの周りを散歩。東西南北に、3ブロックずつ歩いてみた。大きなビル街でこれと言った物は見当たらないが、小さなスーパーを見つけて、ボトル水とリンゴ2個を購入。1.41ユーロ。

リンゴは計り売りだから、自分で袋に入れ、目方を計る。ここまでは分かるのだが、果たしてこのリンゴは何番の品なのか、それが分からないと、値段を書いたラベルが出せない。

はかりの前で戸惑っていると、近くにいたおばさんが「そのリンゴなら47番ですよ」と教えてくれた。その時初めてスペイン語が役に立った。47番(cuarenta y siete)が聞き取れたのである。やはり、一人歩きしないと、現地の人と話すことはないのかも知れない。

PM5:15、戦利品のボトル水とリンゴ2個を、ビニール袋に入れて4星ホテルへ凱旋。

PM6:45、ホテルの集会所で、後半のツアー・ミーティング。スペイン人のツアーガイド(イネス:INESと言う)による説明が始まった。参加人数は45名。前半のツアーが25名であったから、2倍近い数である。名前を確認するだけでも倍の時間が掛かる。加えて、前半の担当者・ウルスラに比べると英語が聞き取りにくく、話が冗長である。

ツアーガイドとしての能力も、ウルスラよりも下がると思う。この点に関しては諦めるしかあるまい。それにしても参加者の半数以上がオーストラリア人で、残りをアメリカ合衆国とニュージーランドの人が閉めている。日本人は今回も私一人である。

PM8:00、ミーティングと同じ会場でディナーの開始。パン、スープ、チキン、ケーキとお馴染みのセットメニューで、お味の方は、可もなく不可もなし。昼食を抜いていたので完食。私の右隣は、ニュージーランドのクイーンズランドから夫婦での参加。左隣はフィリピン系のオーストラリア人。シドニーから参加した、法律事務所の同僚で、中年の女性が2人。若干の懇談が出来た。

PM9:00、自室でポメラタイム。

PM10:45、入浴。

PM11:30、就寝。

5月15日(金)

AM6:30、起床。

AM7:00、朝食。四つ星ホテルの割には、食材の質に感心できなかった。

AM8:15トレドToledoの観光に出発。トレドはマドリードから南に71Kmの距離にあり、スペイン中央部の都市。カスティーリャ=ラ・マンチャ州の州都で、トレド県(人口約60万人)の県都である。                           

AM9:30トレド着。三方をタホ川Rio Tajoに囲まれたトレドは、自然の要塞でもあった。3日前に訪問したクエンカも似たような地形の町であった。トレドは、中世にはイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の文化が交錯した地である。「町全体が博物館」と言われ、1986年に世界文化遺産に登録されている。

     
                 トレド
Toledo 

まず、トレド全体を眺めるのに、もっとも良いロケーションで、バスを降りる。川の向こうに見えるトレドの町は一枚の絵はがきの様である。駐車場から大きなエスカレータに乗り、上昇すると町の中に入って行く。そこは大聖堂を中心に観光客相手のカフェや、みやげ店が軒を連ねている。
 

        
          大きなエスカレータに乗って(トレド)

近くで見るトレドは、道路が狭く、曲がりくねっており、美しいと言うより古い町であることを感じた。富士山も遠くから見ると美しいが、実際に登ってみると、平凡な景色であるのと同様である。
 

     
            迷路のように狭い道路(トレド)

トレド大聖堂(Catedral de Santa Maria de Toledo)は世界で5番目に大きなカテドラルであるが、内部には、ルネサンス期のスペインを代表するギリシア人画家、エル・グレコの代表作「聖衣剥奪」が展示されていた。エル・グレコは、36才からトレドに住むようになり、以後、宮廷画家として活躍した。 
 

                                   

    トレド大聖堂

   

          聖衣剥奪
(エル・グレコ)・トレド大聖堂

サント・トメ教会(Iglesia de Santo Tome)では、どこかで見た記憶がある、エル・グレコ作の巨大な絵「オルガス伯の埋葬」を鑑賞した。多くの人の中に、さりげなく自分の家族を紛れ込ませて描いてあるという絵であるが、撮影禁止は残念でした。

      

      オルガス伯の埋葬(エル・グレコ)ウィキペディアより

タホ川に掛かるサン・マルティン橋(Puente de San Martin)を渡ってトレドを離れるとき、取り替えたばかりのカメラのメモリーに「容量が一杯になりました」と表示が出た。原因を調べると、南米旅行時のメモリーを消し忘れていたのだ。予備のメモリーを持参していたので、事なきを得たが、ウッカリしていました。
 

     
            サン・マルティン橋(トレド)

PM2:00、ホテルに帰着。

PM3:00、マドリードの市内観光に出発。この行程は、前半のツアーの最終日にもあったのだが、何か変化があるかもと期待して参加した。結果は、現地ガイドが男性から女性に代わっただけで、コースは全く同じでした。

スペイン広場で、聞いたような声が聞こえてきたので、振り返ってみると、前回担当の現地ガイドであった。観光客にとっては、一生に一度のことであるが、同じことを毎日繰り返し喋る、現地ガイドの仕事も楽ではないと思った。

PM5:30、ホテルへ帰着。ポメラに向かう。

PM8:00、買い置きの菓子パンとリンゴで夕食。

PM10:00、入浴。

PM11:00、就寝。

5月16日(土)

AM6:00、起床。

AM7:00、朝食。

AM8:00、ポルトガルに向かって出発。いつもの週間でメモ帳に記録しようと思って、メモ帳を取り出そうとズボンのポケットをまさぐるも手に触れる物がない!バッグにでも入れたかなと思い、バッグをまさぐるも見当たらない!ホテルに忘れて来たのだろう。

今のところ、旅行記は溜めずに書いているので、特に問題はないが「気を付けていても忘れてしまう」事の方がショックである。

AM9:30、マドリードから西北西に87km、海抜1117mのアビラ(Avila)に寄る。ここは「城壁と聖人の町」の別称で知られる。外壁は中世の12世紀に造られたものだが、そのままの形で残っている。石造りだからそれが可能になっているのであろう。ただ塀の内側の建物は近世の比較的新しい時代のもので、一般の人が住んでいる。昔の領主が此処にも居たのであろう。
 

     
               アビラの市壁・
1

バスの中は暖かいし、日差しも強いので半袖で良いかと思い、ウインドブレーカーを脱いで外へ出たが、それは判断ミスであった。外は冷たい風が吹いていたのだ。アビラの町は1985年に世界遺産に登録。
 

     
               アビラの市壁・
2
 

     
            市壁に囲まれたアビラの旧市街
  

     
            市壁の内側の様子(アビラ)

集合時間までの時間調整にカフェに立ち寄る。シドニーから参加している2組の老夫婦と懇談。1組は「2年前の春に、3週間日本を旅行した。すばらしい国である。特に桜の花が美しかった。安芸の宮島、日光、JR、お好み焼き」と、思い出を語ってくれた。

出発前にトイレへと各自が席を立ったので、私も集合場所へ向かった。そして、アビラの写真をもう一枚撮ろうとした時、カメラが無いことに気付いた。鞄をくまなく探したが見つからない。さては、さっきのカフェに置き忘れてきたか?

あわてて戻り、私が座っていたところに座っている人に、カメラがなかったかと聞くと、「有りました。店員さんに渡しました」と言う。やれやれである。バスが出発する前に気が付いたので誰にも迷惑をかけずに済んだが、それにしても今日は、メモ帳に続いて2回目の忘れ物である。私もとうとう認知症が始まったか?もしカメラが無くなっていたらと、想像しただけで冷や汗が出る。

AM11:30、予定より15分遅れて出発。2人のおばあさんが遅れて戻って来たのだ。ガタイの大きいガイドのイネスはそのたびに息を切らして走り回っている。

PM1:00、サラマンカ(Salamanca)に到着。マヨール広場とその周りを少しだけ案内して、自由時間になった。私はとりあえずトイレに行きたい旨をイネスに伝えると、「この辺は、公共のトイレがないので、マクドナルドがいいでしょう」と言う。否応なくマクドナルドに行き、そこで昼食も済ませた。ハンバーグとコーヒーで4.5ユーロ。フィリピン系オーストラリア人4人も、一緒であった。

食後、マヨール広場を散策。多くは食べ物屋か土産店である。広場にはプレハブで作られた簡易の本屋が50店ほど軒を並べていた。子供向けから宗教に関する本まで、店により特色がある。ここの店は、1週間だけのオープンで、明日には閉店しプレハブは解体されると言う。

うろついていると、ベンチに座っていたシドニーから来た年輩の婦人が、声をかけてくれたので、懇談して時間をつぶした。彼女は「幼い頃イタリアのマルタ島からオーストラリアに移住した。当時のマルタ島は今と違って、住みにくい処でした。最近は、オーストラリアも物価が上昇し、税金が高くなって年金生活者には住みにくくなってきた」等と話してくれた。夫は居ないと言う。

サマランカでは、マヨール広場、カテドラル、スペイン最古のサラマンカ大学が有名だ。
 

     
新カテドラルを望む旧市街(サラマンカ)
 

     
            新カテドラル(サラマンカ)

PM3:00、発車

PM4:40(ポルトガル時間、PM3:40)、国境を越えてポルトガルへ入る。車窓の景色は荒涼としており、大きな石や岩が散在し、背の低い草木が点在している。バスはかなりの高地を走っている様子だ。
 

     
          スペイン・ポルトガルの国境、車窓
(1)
 

     
          スペイン・ポルトガルの国境、車窓
(2)

PM5:00、トイレ休憩。売店でスペインとポルトガルの地図を買う。6.5ユーロ。

PM5:30、出発。車窓は石や岩が見えなくなり、代わって深い緑の森になってきた。

PM6:30、コインブラ(Coimbra)のホテル・ドム・ルイス(Dom Luis)に到着。

PM7:30、ディナー。洋食のバイキング。オーストラリア人の8人に混じって丸テーブルを囲む。バイキング方式のディナーがスープから始まって懇談する。皆さん色々な処を旅行しているが、南米とかシベリア鉄道を経験した人はおらず、私の体験を興味深く聞いていた。

PM9:00、自室に戻って、ポメラを叩く。

PM10:30、バスタブにお湯を溜めて入浴。少しぬるかったのでお湯を加えながら。

PM11:30、就寝。ツアーの後半も一人部屋になりそうだ。つまり、一人で参加しているのは私だけと言うことである。後日、男性の1人参加がもう1人いる事が判明したが、彼と相部屋にならないのは、彼が1人部屋の追加料金を払っていたのだと思う。

5月17日(日)

AM6:30、起床。

AM7:00、妻とスカイプ。スカイプで部屋の中を一通り見せると、次女が「洗面所に便器が2つ有るのか」と質問。確かにそうなのだが、片方の使用方法は分からない。或いは、いわゆる洗濯桶なのか?誰かに聞いてみよう。

AM7:30、朝食。テキサスから参加している、フィリピン系アメリカ人が「自分達は兄弟親戚の6人で参加している。去年の春、日本に行ったが、桜は蕾の頃で、満開の桜は見られなかった。その後に友人が行ったが、桜は散っていた。満開の桜を見ることは難しいようだね」と言っていた。「満開の桜は2、3日しか続かないから、日本に居ても見逃すことがあります」と、私の弁。

AM8:00、詩子とスカイプ。彼女は私に「ほうき」を見せながら「これは掃除だよ」と言うので、私が「それは箒と言うのだよ」と訂正しても「これは、箒じゃなくて掃除だよ」と言って譲らない。少しおかしいが成長したものだ。もうじき3歳になる。

AM8:30、出発。今日はアチコチに寄りながら、リスボンまで行く。

AM9:00、コインブラ大学に到着。モンデゴ川(Rio Mondego)を望む高台にあり、1290年設立のポルトガルでは最も古い大学。元々は城であったが、途中で王宮になり、首都がリスボンに移った後は大学になったと言う歴史を持つ。コインブラはリスボンに遷都されるまで(11391255年)ポルトガルの首都。古さを感じるが美しい町である。その美しさを特に石畳に感じた。
 

     
         コインブラ大学からモンデゴ川を望む

   

              コインブラ大学
 

     
         黒いマントの女子大生(コインブラ大学)

大学の制服(黒いマント)を着た2人の女子大生が、コインブラ大学を紹介した本を見せて「記念に買いませんか」と言うが、そこまでの関心もないのでお断りした。観光バスが次々と到着して、団体さんが増えてきた。10時になると周りの土産店も開き始め、教会では日曜礼拝が行われていた。
 

     
            新カテドラル(コインブラ)
 

     
          オープン前の商店街(コインブラ)

   
             モンデゴ川(コインブラ)

AM10:00、次の見学場所へバスが発車。車窓は緑の多い街並みが続く。道路標識には「Lisboa」と書いてあるので、「リスボア」と発音したいところだが、これで「リスボン」と読むのであろうか?Sao Pauloと書いてサンパウロと読ませるのと同様なのかもしれないと思ったが、正解は、ポルトガル語はLisboaでリスボア、英語はLisbonでリスボンと発音する。

車中、ガイドのイネスから、パエーリャ(paella)についての説明があった。米を使った炊き込みご飯の一種と考えて良いと思うが、なにを混ぜるかによって、いくらでもバラエティは広がる。つまり、肉、魚、野菜、或いはそれらの混合と。

若い頃、仕事でパリに滞在した時、夕食に個人の家に招待して頂いたことがある。今から思うと、その時の料理がパエーリャであった様な気がする。日本人だから米料理が良かろうと、精一杯の心を込めて作って頂いたことは、料理に現れているのだが、どうにも味が口に合わず、少ししか食べられずに困ってしまった事を思い出してしまった。

AM11:05、バターリャ修道院(Batalha Monastery)と言う巨大な修道院のあるバターリャに到着。此処でも日曜礼拝が行われていた。露天で売っていたデーツ(Date ナツメヤシ)が美味しそうだったので1パック購入。2.5ユーロ。
 

     
              バターリャ修道院

1385年に、王位継承問題から大国カスティーリャ王国軍と戦った、ポルトガル王ジョアン1世軍は、聖母に祈りを捧げ、奇跡の勝利を得た。戦勝後、戦闘場所の 近くに建設されたのが、この「勝利の聖母マリア修道院」である。18世紀の地震やフランス軍の侵攻にも耐えて、ポルトガル国民の誇りを今に伝えている。

AM11:45、出発。

AM12:15、ワイン店に到着。ポルトワインの作り方をビデオで見た後、種々のワインの試飲と販売。ワインを楽しめないことが残念である。

ここで、イネスにトイレの便器の横にある物について質問してみた。彼女は口を私の耳元に近づけて「あれは女性が使うものです。今はシャワーがありますからそれで間に合いますが、シャワーがなかった頃の名残です」と言う。それにしてもどうやって使うのだろう?具体的に聞くわけには行かず、私の疑問は残ったままである。

PM1:15,出発。

PM1:30、ファティマ(Fatima)着。ファティマはサンタレン県の都市。ファティマの聖母は、1917年にファティマで起きた聖母の出現の一つ。これについては色々な言い伝えがあるが、ローマ教皇庁は奇跡として認めており、今ではカトリック信者の大規模な巡礼地である。そして、クリスチャンの多くは、それを信じているが、説明している、ガイドのイネスは信じていない様だ。

それにしても、おびただしい量の蝋燭が火にくべられている。それを燃やすと功徳があるのだろうか。大小、長短、様々な蝋燭が売られている。安い物は1本0.5ユーロから、高い物は1本2.7ユーロまで、様々であるが、レジがない。

皆が思い思いの蝋燭を勝手に手に取り、お賽銭のように箱の中に現金を入れて行く。こんな所で、金額をごまかす人は居ないのだろう。それにしても、買った蝋燭をただ火の中に入れているだけである。ファティマの広場と言い、ファティマの像と言い、その巨大さをどのように説明したら良いのだろう。
 

     
               ファティマの大聖堂

一通り見学し終わった後は、日陰に入ってポメラでも叩きたいなと思って適当な場所を物色していると、食堂のお姉さんに呼び込まれた。ここなら日陰もあると思い、食堂の軒先に座って、メニューから「ポルトガルの典型的な料理」と付記された物を注文。

出された料理は大きな丼に、一口サイズのジャガイモと肉、それにアサリのような貝と生野菜がはいっていた。別々に味付けして、一つの丼に盛りつけしたと思われるが、庶民的な料理で美味しかった。水と合わせて7.7ユーロ。
 

     
         ポルトガルの典型的な料理(ファティマ)

PM3:30、ファティマを出発。

PM5:00、リスボンのホテル・ローマ(Hotel Roma)に到着。チェック・イン。下着を洗濯。

PM6:45、オプショナルで夕食付きのファド鑑賞へ出発。
 


  高台にサン・ジョルジェ城(
Castelo de Sao Torge)が見える・リスボン

イタリアにカンツォーネ、フランスにシャンソン、アルゼンチンにタンゴ、ブラジルにサンバがあるように、ポルトガルにはファドがある。主に「Casa de Fado」と呼ばれる、レストランなどで歌われる大衆歌謡で、ギターとヴィオラで伴奏される。歌唱はサウダーデ(Saudade:哀愁、郷愁、懐旧、あこがれ)と言う、ポルトガル人の気質の特徴が表現される。

サウダーデは、新田次郎と息子の藤原正彦による共著「孤愁」の副タイトルにもなっていた。この本は、ポルトガル人で駐日大使を勤め、そのまま日本で生涯を送ったヴェンセスラウ・デ・モラエスを書いた本である。

また、モラエスが母国ポルトガルの妹へ送った600通余りの絵葉書を収録した「モラエスの絵葉書書簡」には、ポルトガルの地名が数10か所も出て来たが、今回の旅行で、その内の幾つかに立ち寄ることが出来た。

さて、ファドに対する私の期待は、それなりに大きい物があった。しかし、今夜の率直な印象は、退屈であった。男2人、女3人の歌手が交代に歌うのだが、日本の演歌でも馴染みがないとフルオーケストラをバックに歌っても聞き飽きてしまうが、まして、生まれて初めて聞くファドである。ギターとヴィオラと、この日はベースも加わっていたが、少ない伴奏で歌うファドは心に響かなかった。

女性歌手は、天童よしみ、森公美子を更に豊満にした様な体型で、その割に声に艶がなかった。更に、場を白けさせたのは、ファドだけでは場が持たないと考えたのか、中年の男女3人ずつが出てきて、アコーデオンを伴奏に、民族舞踊で時間をつぶしていたことである。私には中学生のフォークダンスにしか見えなかった。
 

     
              ファドを歌う(リスボン)
  

     
              民俗舞踊(リスボン)

思い返してみると、今夜は食事の段階から不満が溜まっていた。座っていると、肩が触れ合い、足がぶつかりそうに詰め込んだレストランで、魚料理を注文していたのに、出てきた物はマッシュポテトで、魚の影も見あたらない。「これがフィッシュか」と確認すると「そうだ」と言う。

バルセロナで鑑賞したフラメンコの時と比べて、料理と言い舞台と言い、なんとお粗末なことであったか。それでも、お酒を飲んでいる人は結構、上機嫌であった。美味しい料理と上手な歌手に出会っていたら、私の印象も違っていたかも知れない。

PM10:00、ファド終了。狭い路地に観客が一斉に出てくるので、道は車が走れない。迎えのバスは近くにいるのだが、我々の所まで来られないので、我々が車の方へ歩いて行った。

PM10:30、ホテルへ帰着。

PM11:00、風呂。

PM12:00、就寝。

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