5月6日(水)

AM6:30、起床。

AM7:30、朝食。いつもの洋食バイキング。参加しなかったおばさまから「昨夜のキャバレーは如何でしたか?」と聞かれたので「楽しめましたが、1度行けば十分です」と答えた。

AM8:30、パリの市内観光へ出発。最初にノートルダム(Notre-Dame)寺院へ。私が見学した「ノートルダム寺院」は他に2カ所ある。一つは先日のリヨンのノートルダム寺院であり、もう1つは、カナダのモントリオールにあるそれである。従って、ノートルダム寺院とは普通名詞であって固有名詞ではない。ノートルダムとは「我らの貴婦人(Our Lady)」と言う意味だそうな。

つまり、キリストの聖母マリアを指す。パリのノートルダムは、他の寺院と区別するために、「ノートルダム・ド・パリ」と言う。この寺院を有名にしたのは、1831年に出版されたビクトル・ユゴー作の「ノートルダム・ド・パリ Notre-Dame de Paris」。邦題「ノートルダムのせむし男」だと言う。

AM9:10、ノートルダム着。晴れていた空が急変し、冷たい雨混じりの突風に。動き安いようにと、比較的薄着できたのは判断ミスであったか。この寺院は若いときに初めてパリを訪れた時から何度か見学しているが、自分の信じる宗教と異なるためか、心中ではいつも距離間を感じながら見ている。建築には数百年を掛けて今日の姿にまでなったようで、それなりの荘厳さは感じるのだが。

 

     
           ノートルダム寺院・正面(パリ)
 

     
       ノートルダム寺院・内部のステンドグラス(パリ)

寺院から出て、バスの方へ歩いていると、若い女が首から署名用の板をさげて近づいてきた。「これに署名してください」と言う。私はとっさのことでどうしたものかと逡巡していると、横にいた新婚カップルが「止めなさい」と言って、その女から離れるように促す。つまり、これがスリの常套手段だと言うわけだ。

私が彼らに促されて女から離れようとすると、女はすごい顔をして罵声を浴びせてきた。確かに私は女の罠にハマるところであったのかも知れない。バスから降りる際にもガイドから「声を掛けられても相手にしないように」と注意は受けていたのだが。スリのプロは、目ざとく獲物を見分けているようだ。

AM10:10、エッフェル塔の見学へ。上まで登る事を少しは期待していたのだが、下から写真を撮るだけでした。

AM11:25、今日のツアーはこれでおしまい。午後と夜の行事はオプショナルである。

午後はヴェルサイユ宮殿の見学だが、私は既に2回も見学しているのでこれには参加せず、個人でオルセー美術館に行くことにした。出発に当たり、夜の待ち合わせ時間と場所を確認し、コーヒーを1杯飲む。2.8ユーロ。

AM12:10、セーヌ川を挟んでルーブル美術館と反対側にあるオルセー美術館に来た。20分ほど並んで入館。11ユーロ。日本語のオーディオ解説器を借りて(5ユーロ)展示室へ。ここは、1階、2階、5階が展示室になっているだけで、見学順路はない。館内地図を参考にして、勝手に好きなところへ行って見ればよい。

私は、まず5階の印象派の展示室へ。ルノワール、モネ等の作品を見て回った。そして、2階、1階と下りてきた。幸い、これまでに何らかの形で見たことがある作品が少なくとも10点はあった。

オーギュスト・ルノワール    大きな裸婦

オーギュスト・ルノワール    ピアノに寄る娘たち

オーギュスト・ルノワール    草原の坂道

エドガー・ドガ         14歳の踊り子

エドガー・ドガ         ダンス教室

ドミニク・アングル       泉

ジャン・フランソワ・ミレー   晩鐘

ジャン・フランソワ・ミレー   落ち穂拾い

エドゥアール・マネ       笛吹く少年

エドゥアール・マネ       オランピア

エドゥアール・マネ       草上の昼食

クロード・モネ         カササギ

クロード・モネ         ヒナゲシ

フィンセント・ファン・ゴッホ  自画像

しかし、私を釘付けにしたのは、ギュスタヴ・クールベの「世界の起源」と題する絵であった。極めて大胆に分断された裸体は、ポルノ写真とどこが違うのであろう。写真ではないから芸術なのか?創作当時から今に至るまで議論の絶えない作品らしい。私にとって、この作品に出会えたことは、オルセー美術館に足を運んだ甲斐があったというものだ。日本語のオーディオ解説と相まって、私は退屈することなく時間を過ごすことが出来た。
 

     
        「世界の起源」クールベ(オルセー美術館)

PM4:30、気が付いたら、フロリダから来ている2組の夫婦もこの美術館で見学していた。美術館を出る時、思い出にカタログを1冊購入した。9ユーロ。

セーヌ川を渡って反対側が待ち合わせ場所である。橋を渡っていると、欄干の網状の所に夥しい鍵が付けられているのを目撃した。こうすると願いが叶うと言われているらしい。伝説とは言え、此処まで来ると、「人間の心の弱さ」を見ているように思うのは考え過ぎだろうか。帰国後間もなく、この鍵は取り払われるとのニュースをTVで見た。「その重量に橋が耐えられないから」と言う事がその理由である。
 

     
             欄干に付けられた鍵(パリ)

待ち合わせ場所に行くと、既に元大学教授とその妻がお茶を飲んでいた。妻は「最近退職したばかりで、元の仕事は検察官でした」という。このツアーに参加している人は、ハイソサイエティーの人が多い。

PM5:15、オプショナルのディナーへ出発。これに参加するのは25人中、年輩の夫婦8人とバンクーバーのおばさん、それに私の10人だけ。
 

     
          コンコルド広場のオベリスク(パリ)

PM6:00、会場に到着。私が選んだ料理の内容は、前菜にエスカルゴ、メインにビーフシチュー、デザートにアップルパイで、まずまずのお味でした。アコーデオンとギターの流しが入って来て場を盛り上げていた。

このディナー会場で不思議に思ったことが1つ有った。それは、今朝から時々見かけた家族連れが、この会場にも居たのである。分かったことは、我らと同じ旅行会社であるCOSMOSの別グループであったことだ。だから同じ時間に同じ所を回っていたのだ。

PM8:30、ディナー終了。バスに向かう10分位の間に、またも雨を伴った突風が吹いてきた。今の天候はこんなに変わりやすいのだろうか。周囲の空は晴れているのに。

PM9:00、エッフェル塔の夜景を見学。
 

     
            エッフェル塔の夜景(パリ)

PM10:00、ホテルに帰着して、湯船につかる。

PM11:30、就寝。

5月7日(水)

AM6:00、起床。左手の甲と小指が虫に食われていた。旅行に出ると必ず一度はやられる。日本でのそれと違って、腫れ方がひどく治りも遅い。

AM7:00、朝食。洋食のバイキング。

AM8:00、出発。今日はロワール地方を見学して、ボルドー(Bordeaux)迄行く。走行距離は610kmになるそうだ。

AM11:00、ロワール川(Loire River)沿いのアンボワーズ(Amboise)に到着。ロワール川沿いには、100以上の城がある。私が若い頃、パリで仕事をしていたある日曜日、フレスコ画の研究をしていた高橋さんが、私をロワールへ連れていってくれた。その時は、シュノンソー(Chenonceu)と言うところであったと記憶している。

単純な疑問として、「どうしてロワール地方には多くの城があるのか」と言うことだ。現地ガイドに質問すると「まず時の王様が此処に城を築いた。そして、あちこちを視察して回る為に、あちこちに城を建てた。その後、取り巻きの高級官僚が小さな城を造ったからです」と説明してくれた。

歴史は様々なことを教えてくれるが、教科書の無味乾燥な記述だけでは興味がもてない。現地を視察することで歴史に興味を持つようになる。と言うのが私の経験である。帰国したら、ロワール地方の歴史を学んでみたい。

今日見学しているアンボワーズ城の庭には、レオナルド・ダ・ビンチの墓がある。彼は75歳で亡くなっているが、最後の2年半を此処で過ごしている。庭は見事に整備されており、此処から眺めるロワール川は一幅の絵葉書のようである。この城には、庭師だけで9人が働いているそうだ。

 

     
           アンボワーズ城・1(ロワール)
 

     
  レオナルド・ダ・ビンチの棺が安置されているチャペル(アンボワーズ城)
 

     
         王宮時代の芳香が残る(アンボワーズ城)
 

     
           ロワール川(アンボワーズ)・1
 

     
           ロワール川(アンボワーズ)・2
 

     
           アンボワーズ城・2(ロワール)

AM12:30、自由時間。アップルパイで昼食。2.4ユーロ。

PM1:30、ボルドーへ向けて出発。ツアーガイドの英語の説明はゆっくりで、私には聞き取りやすいが、彼女の発音には一つの癖がある。

ヘリティッジ(Heritage)がエリティッジ、ヒー(he)がイー、ハンドレッド(hundred)がアンドレッド、ハングリー(hungry)がアングリーと言う具合だ。つまり「H」が発音されない。これはスペイン語、フランス語では共通のことである。従って私の名前もマサハルがマサアルになる。最初は聞いていて戸惑いを覚え、それが違和感に変わり、ついには馴染んでくる。欧米人の間では、この程度の発音の違いは問題にならないのであろう。

ボルドーはワインの生産で有名だが、確かに車窓から多くのブドウ畑を見ることができた。ラ・ガロン(La Garonne)川に架かるサスペンション構造の大きなアキテーヌ橋(pont d’aquitaine)を渡るとそこはボルドー市(Bordeaux)の中心街である。

 

     
            ラ・ガロン川(ボルドー)

市内に入ると交通渋滞に巻き込まれ、バスが進まない。丁度帰宅のラッシュに会ったのかも知れない。少しの距離を行くのに30分も掛った。

PM7:00、ボルドーのホテル・メルクーレ(Mercure)に到着。チェック・インして、生乾きの下着を衣紋掛けに干す。

PM8:00、セットメニューの夕食。前菜はスープ、メインはアヒルのロースト、デザートはチョコレートケーキと何か初めて口にするもの。アヒルのローストは、鶏に似ており、少し塩辛かったがまずまずの味であった。

PM10:00、若い人は市内観光に外出していったが、私は疲れを感じてバスタブで入浴。

PM11:00、就寝。

5月8日(金)

AM6:15、起床。昨夜は近くに落雷したような、大きな雷が鳴っていた。

AM7:15、朝食。洋食のバイキング。

AM8:30、出発。今日はフランス南西部の大西洋岸、ビスケー湾に面したビアリッツ(Biarritz)に寄って、スペインのビルバオ(Bilbao)を目指す。

AM11:30、ビアリッツ着。昔は漁師町であったが、今はフランス有数の高級保養地に変貌している。人口は約3万人の小さな町であるが、綺麗な町並みと美しい海岸は観光客の目を楽しませてくれる。ヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo)は「私はビアリッツより魅力的でより素晴らしい場所をおよそ知らない」と言ったそうだ。
 

     
            ビアリッツの海岸(フランス)
 

     
          サント・ウジェニー教会(ビアリッツ)

ツアーガイドのウルスラが「聖母の岩(Rocher de la Vierge)を見逃さないように」と言っていたが、行ってみると海岸の岩に聖母像が立っているだけのものでした。村の漁民が漁の安全を記念して建立したものである。

 

     
        聖母の岩(
Rocher de la Vierge)・ビアリッツ

PM1:50、ビアリッツを出発。

PM2:20、スペインとの国境を通過し、バスク地方に入った。国境にはイタリアとの国境と同様、国境を示す看板が立っているだけ。バスは緑の山並みの中を走っているが、時折右手に海が見える。

バスク地方には約100万人が住んでおり、バスク語を話すと言う。ピレネー山脈の北部一帯に広がるバスク地方には、独特の文化が栄えていることをテレビで見たことがある。特に、印象に残っているのは、キリスト教を日本に伝えたフランシスコ・ザビエルは此処の出身であり、彼が過ごした教会が今も残っていたことである。残念ながら今回はその付近を通過するだけである。

今、季節は春。青空と午後3時の時刻が描き出す、目映いばかりの新緑の中で、濃く、薄く、暗く、明るく、陽の光が踊っている。車窓の景色を写真に残せないことが残念である。
 

     
             バスク地方(車窓)・スペイン

PM4:00、ビルバオのホテル・コンフォルテル(Confortel)に到着。チェック・イン後、夕食までは時間があったので散歩に出た。目的はビルバオ・グッゲンハイム美術館(Guggenheim Museum Bilbao)の見学である。

この美術館の設計は、フランク・ゲーリ(Frnk O.Gehry)が中心者であるが、日本人の中谷芙二子氏も関わったことで有名らしい。私は彼女の名前を耳にしたのは初めてであるが、ツアーガイドの紹介で知った次第。ネットで調べてみると、大阪万博時代から活躍されており、世界的に高名な人であった。

ネルビオン川(Rio de Nervion沿いに建てられたこの奇抜な構造の美術館は、衆人の注目を引くであろう。大理石とチタンとガラスによって建てられているが、こんな奇妙なデザインを認めるのは、スペイン位であろう。日本ではまだ受け入れられないのではなかろうか。私はその構造の奇抜さに圧倒されながら、シャッターを押して来た。

ネルビオン川を挟んだ対岸には、デウスト大学(Universidad de Deustoがあり、これは1886年にイエズス会により開校されている。
 

     
             デウスト大学(ビルバオ)
 

     
           ビルバオ・グッゲンハイム美術館
 

     
              ネルビオン川(ビルバオ)

PM6:00、一歩きして汗をかいたのでシャワーを浴びた。

PM7:45、セットメニューのディナー。私が座った席は、高齢女性で一人参加者ばかり5人がいる所。

前菜はジャガイモを使ったスープ。メインは魚のバター焼き。デザートはチョコレートケーキ。メインの料理に、もう少し多くの量を期待していたが、まずまずのお味でした。魚料理が食べられない人には、子牛の肉が出された。ヴィール(Veal)と言うそうだ。

家族の話になった時、6人の孫と16人の曾孫がいるおばあさんに「子供は何人お持ちですか」と聞くと「2人です」との返事。たった2人の子供から16人の曾孫ができるとは。落ち着いて考えれば特別に多いわけでもないが、少子化の日本にあっては羨ましい姿である。

もう一人のおばさまに、「ご主人は?」と聞くや、顔色が変わって「すっかり忘れているのに、思い出させないでくれ!」と言う。不幸な別れ方をしたのだろうと推察するしかなかった。

PM9:00、ディナーが終了。ポメラを少々叩く。

PM10:10、就寝。

5月9日(土)

AM6:10、起床。

AM7:45、朝食。西洋梨を甘く漬けたものを初めて食べたが、美味しかった。食後、自室に戻ろうとしてエレベーターの前に来ると、長い行列が出来ていた。私は諦めて階段を7階まで歩いて上がった。ところが、ドアを開けようとして気が付いたのだが、カード式のキーを部屋の入り口の所に差し込んだまま出てきてしまっていたのだ。

私はもう一度1階まで降りて、受付でキーを再発行して貰った。出発前に足の運動をタップリしてしまった。この後、出発前のつかの間に詩子とスカイプ。笑顔を見て元気を貰った。

AM9:00、予定より30分遅れで出発。高層ホテルで客が多い割に、エレベーターが小さく、動きが遅い事が原因だ。加えて、ホテルのボーイの働き方も緩慢である。チェックアウトの時間が、ほかのグループと重なっていたこともあるだろう。とにかく、皆のスーツケースが降りてこなかったのである。

AM11:00、昨日と同様の景色を車窓から堪能しながら進み、パンプローナ(Pamplona)に到着。ここは、毎年7月の牛追い(牛に追いかけられる?)祭りで有名な町である。正式名は、サン・フェルミン祭(Fiesta de San Fermin)と言う。

7月16日から8日間に渡り、毎朝8時に、2000人の男が白の上下服と赤いバンダナを首に巻いて、狭い市庁舎前の広場に集まる。そして、ロケット花火を合図に、12頭の雄牛と共に狭い路地を800m駆け抜ける。

ほんの数分間の出来事だが、しばしば雄牛に突き倒されて犠牲者が出る。2年前の祭りでは、15人の犠牲者と多くの怪我人が出たそうだ。アーネスト・ヘミンフウェイ著の小説「日はまた昇る」の舞台になったことで、この祭りが有名になったとか。

私は何度かテレビの放映で見たことがあったが、今回はその路地を歩くことが出来た。800mの間に1ヶ所だけ、直角に曲がる危険な所がある。普段の路地は、両側に食堂や土産物屋が並んでいて、どこにでもある平和な通りである。

 

     
         市庁舎正面のバルコニー(パンプローナ)
 

     
        牛追い祭りで駆け抜ける路地(パンプローナ)

我々は、その内の1軒に立ち寄り昼食を取った。小さなフランスパンの切り口の上に、様々なものが乗っていて、ピンチョス(pincho)と言う。10種類ほどのピンチョスが並んでいて、その中から好きなものを選んで食べる。

私はそこから2種類を選んだ。一つには、キノコと生ハム、もう一つにはベーコンとソーセージが乗っていた。併せて3.6ユーロ。お味、値段、共にまずまずのところである。この種の大衆食堂をスペイン語で「タベルナ(Taberna)」と言う。食べる物を出す店をタベルナと言い、お酒とつまみを出す店をバール(bar)と言う。
 

     
             ピンチョス(パンプローナ)

パンプローナの中心広場(カスティーリョ広場Castillo)から、放射状に延びている路地のあちこちからは、ブラスバンドの演奏や合唱が聞こえてくる。そして、狭い空き地に設けられた小さなステージでは、昼間からベリーダンスが披露されていた。これらの催し物は、週末に限らないと言う。「人生は、楽しむことが大切だよ」と言っている様である。
 

     
          カスティーリョ広場(パンプローナ)
 

     
          ブラスバンドの演奏(パンプローナ)

PM1:20、2時間余りの滞在を楽しんだ我々は、パンプローナを出発して、バルセロナに向かう。

PM3:30、トイレ休憩。売店を覗くと懐かしい歌手のCDが安い値段で売っていた。フランク・シナトラ、ナット・キング・コール、レイ・チャールズ、そして、ペレス・プラード楽団。4枚で12ユーロ。CDが増えていく!
 

     
          パンプローナからバルセロナへ(車窓)

PM7:40、バルセロナのホテル・ポルタ・フィラ(Porta Fira)に到着。今日は、バスク地方のビルバオからバルセロナまで670kmを走り、スペインの東部を縦断したことになる。そして、1週間ぶりに地中海に戻ってきた。ここへ来て知ったのだが、このホテルは日本人の建築設計者・伊東豊雄氏が手掛けており、かなり評判が良い。

PM8:40、スープ、鶏、ケーキのセットメニューによる夕食のお味は、まずまずでした。

PM10:00、洗濯をして、シャワーを浴びる。テレビをつけてチャンネルを回してみると、20ほどあるチャンネルの内、5チャンネルがサッカーを放映していた。しかも、スポーツ放映はサッカーだけである。サッカーが人気のある国民的スポーツであることは知っていたが、これ程とは思わなかった。

中国では、5チャンネルしかないのに、その内の3チャンネルで「抗日ドラマ」を放映していて、ウンザリしたことを思い出してしまった。図らずも、押しつけの大衆娯楽と、真に国民が求める大衆娯楽との異質さを実感することになったのである。

PM11:30、就寝。

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