11月4日(月) PM4:00、妻の運転で佐倉駅へ。 PM4:18、成田空港行きの快速電車に乗る。 PM4:48、成田空港第1ターミナル着。デルタ航空カウンターでチェックイン。北京までの片道チケットしか提示しなかったので、係りの女性から「北京にお住まいですか?」と聞かれた。「いいえ」と答えると「いつお帰りですか?」と。「12月4日です」と言うと「チケットはお持ちですか?」と。リュックからイタリアのローマ発のE-チケットを取り出して見せると了解してくれた。 PM5:20、両替を試みる。ロシアのルーブルと中国の元を少々。ルーブルは、みずほ、三菱という大手の銀行では取り扱っていなかった。その他の両替商でレートを見ると若干ではあるが、差があった。それにしてもルーブルの両替手数料は約20%と言う高率である。 中国元の手数料も約10%と決して低くはない。去年、大連で両替したときは、1万円が800元にもなっていたが今日は550元にしかならなかった。円安(1元が13円台から16円台になっている)と高い手数料とのダブルパンチが原因である。 「シベリア鉄道で、ルーブルが必要になるから、日本で両替して置いた方が良い」との旅行ガイドブックのアドバイスに従ったのだが、中国の元だけでも、中国に着いてから両替すれば良かったかもしれない。 PM6:00、搭乗。 PM6:50、離陸。飛行機は、上昇時は揺れたが水平飛行に移ると揺れなくなった。選択したデルタ機内は綺麗で、サービスも期待通りであった。時間潰しに、ミュージカル映画の「マンマ・ミーア」を見た。この中でアバの「ダンシング・クイーン」が歌われていたことが分かった。 私の隣には、中国に派遣されて3ヶ月になるという日本人青年が座っていた。「今回は所用で一時帰国しての戻りである。そして、中国のバブル崩壊がらみで、仕事の展望が不透明であることを、それと無く感じる」と話していた。 PM11:20(北京時間、PM10:20)、北京空港に安着。 予約済みのホテルまでどうやって行こうかと思い、インフォーメーションに相談すると「シャトルバスが迎えに来てくれますよ」と言ってホテルに電話してくれた。「20分ほどで迎えに来ますので、此処で待っていて下さい」と言う。やれやれ助かった。北京到着が遅くなるので、空港近くのホテルを予約したのだが、それが良かったようだ。 今回の荷物(トランク20s、リュック5s、食料用段ボール箱5s) PM12:30(北京時間、PM11:30)、30分ほど待たされて、シャトルバスが到着。 PM12:40、ホテルにチェックイン。英語は通じない。エアコンは付いているが作動しない。空港から近いだけが取り柄のホテルのようだ。 AM1:00(北京時間、PM12:00)、疲れを感じ、シャワーも浴びずに就寝。 11月5日(火)晴れ AM7:00、起床。 AM8:00、朝食。マントウ(あんの無い饅頭)、豆乳、ゆで卵で10元(180円)。 受付で「北京駅まで行きたいのだが」と言うと、350元(6300円)かかるよとの事。ボーイの話では150元くらいと言っていたのだが、人によって言うことが、ずいぶん違うものだな。どちらにしてもタクシーを使うことはあきらめた。他の選択肢は、此処のシャトルバスで空港まで行き、そこからバスに乗り換えて行く方法だ。 AM9:00、ホテルから空港へのシャトルバスが出発。隣に乗り合わせた中国人女性は、オランダでツーリストの仕事をしているという。次は彼女が語った話である。 「昨夜遅くに北京空港に着いたら、一人のオランダ人女性が、泣きそうな顔をしていた。話しかけると、始めてきた中国で、全く言葉が分からず、途方に暮れていたようだ。彼女の助けで首尾良く危機を脱出できたようだ」と。 そして彼女自身も、ホテルを探していたのだが、「近くにあるホテルで、スチュワーデスやパイロットもよく利用している、と聞いてこのホテルに泊まったのだが、ひどいホテルだった」と言っていた。確かに空港から近いだけが取り柄のホテルであった。 空港のバス券売場で、北京駅行きのチケットを購入。16元也(280円)。販売員の男性は丁寧に乗り場を教えてくれた。列の後ろに並んでいると、3人の男女青年が私の後に並んだ。彼女らは「上海から来た単科大学生です。北京は初めてで、1週間滞在の予定です」と言う。 私が「一人で来ました」と言うと、少し驚いた様子で「大学の教授ですか?」と聞くので、適当に「そんな者ですが、既にリタイアしています。67歳になります」と言うと、「ええっ?、そんな年には見えない」と言われた。嬉しいリアクションではあるが、残念ながら身体は十分老いています。 AM9:40、北京駅行きのバスに乗車。社内放送は中国語と、英語であるが、幸いこれくらいの内容なら両方とも聞き取れる。それに、行き先が終点だから、降り損なう心配はなかった。大型バスの車内は満席である。 今日の北京は晴れ。しかし、太陽はスモッグの為に霞んでいる。聞きしに勝る状況である。バスが発車して10分も走ると渋滞でノロノロ運転になった。この状況が30分も続いていたが、その後は順調に走って、60分の予定を75分掛って北京駅に到着した。 AM10:55、バスから降りると、早速客引きが待っていた。私は、リュックを背負った上に、大きなスーツケースと食料を詰め込んだ段ボール箱を抱えていた。客引きから見れば絶対に商売になる相手であろう。私が依頼したい意向を示すとすぐに自転車バイク(自転車の後ろにリヤカーを付けた物)を持って来た。 近くのユース・ホステルまで「幾らで行ってくれるのか?」と聞くと「100元」だと言う。案の定、大変なフッカケようである。私は、目的のユース・ホステルがさほど遠くない所にあることは分かっているので「10元」と提示。相手は、50元、30元と下げて来たが、私が「それなら歩いて行く」と言って歩き出すと、20元まで下げてきた。 北京駅は大きいし、遠くない所にあるはずだが、ユース・ホステルの正確な位置は分からない。近くにいた男に聞いても、笑って見ているだけで教えてくれない。「この辺が手の打ち所か」と判断して、20元で交渉成立。リヤカーに荷物と私が乗って出発。 北京駅前の、車が行き交う中を、自転車バイクに乗って走っている光景は想像したこともない。他人から見ればその光景は、危険と、おかしさで目が離せなかったのでは無かろうか。 私は映画「ローマの休日」でオードリ・ヘップバーンがスクーターの後ろにグレゴリー・ペックを乗せて、ローマ市内を走っている危なっかしい光景を思い出していた。 自転車バイクは5分も掛からないくらいで目的地に着いた。結果的にはユース・ホステル(北京城市青年酒店 Beijing City Central Youth Hostel)は、北京駅の目の前にあったのだが、大きな駅の反対側に位置していた。分かっていれば、歩けない距離ではないが、やはり、運んでもらって助かったと言うのが本音である。 ユース・ホステル(北京) ユース・ホステルは北京駅前の一等地にある巨大な建物であるから、以前はそれなりの名が通った建物であったと思われる。受付で予約済みのEチケットとパスポートを提出したが、なかなか手続きが終わらない。「今夜は何人が泊まりますか?」と聞いてくる。 それは、私が聞きたいことである。適当に「10人ぐらいでしょう。正確には分かりませんが」と答えたが、それでも首をひねっている。後で分かったことは、此処に泊まったのは、私を入れて2人だけであった。他の人は、別の所に泊まっていたのである。結局、100元のデポジットを預けさせられて、チェックインが済んだ。 AM11:30、昼食も取りたいが、まだ少し時間があるので、北京駅前を散策。旧正月になると帰省客でごった返しているのがこの駅前広場なのだ。PM2.5による大気汚染が問題になっているが、見たところマスクをしている人は何処にも居ない。 北京駅 私は、心配した娘が持たしてくれたマスクを持っていたが、私一人がマスクをして歩いていたら、余りにも目立ちすぎると思い、結局使用することはなかった。「貴ちゃん、ごめんなさい!」 北京駅へ渡る陸橋の上で、おもちゃを売っていた。小さな人形がおやじの言うとおりに動いている。どんな仕掛けになっているのか、見ている限り分からない。「日本語でも人形は動くのか」とおやじに聞くと「大丈夫だ」と言う。10元だと言うし、一つ買うことにした。 するとおやじが私を側に呼んで、説明書を見せながら、人形の動かし方を教えてくれた。家に帰ったら見せてやるつもりだが、果たしておやじがやっているように上手くできるだろうか? AM12:20、通りの食堂で中国風ラーメンを食す。20元也(360円)。飛行機内で会った青年が、北京市内の物価高に驚いていたが、ラーメン一杯でそれを思い出した。ベトナムでもホーチミン市内と郊外では、びっくりするくらいに物価の差があったが、此処でも同じなのであろうか。味の方はまずまずの美味しさであった。 PM1:00、ユース・ホステルの喫茶室で、今回のツアーの説明会。YPT側から4人、参加者側から私を含めて3人の集いであった。会ってみるとスタッフの4人は個性的で面白そうな青年たちである。 「YPT---Young Pioneer
Tour」との打合せ ギャレス(Gareth):イギリス人。この会社の創設者。32歳。一見50歳ぐらいに見える。 ジョセフ(Josef):アメリカ人。37歳。太い眉に濃い顎髭。太い腕に大きな入れ墨。 クリス(Kriss):北アイルランド人。去年は日本の大分県で小中学生に英語を教えていた。30歳ぐらい。4人兄弟の末っ子で、他の3人は、ニューヨーク、ロンドン、マンチェスターに住んでいる。 ジョセフ(Josef):アメリカ人。まだ20歳台か。 クリスと若い方のジョセフは見習い中で、今回の引率者はギャレスとジョセフの2人である。老けて見えるギャレスのことを、ジョセフは「酒の飲み過ぎです」と言っていた。 参加者の方は、 シリル(Cyril):フランス人。31歳。映像デザイナーを目指して勉強中。アニメの研究で、日本に7ヶ月間居たことがある。 ラクラン(Lachlan):オーストラリア人。大工。27歳。アフリカのケニア、ネパール等、多くの国へのボランティアに参加し、旅行している。大工としての技術が生かせているようだ。これからも、そういう形で多くの国へ行くつもりだと言う。 彼はまた、オートレースのカー・メカニクスの技術も持っており、8人のチームで中国やマカオでのレースに参加したこともあるという。このツアーに参加しているような人は、皆多くの国を訪問済みである。 この打ち合わせで気になったことは、「ロシアにおいて警察からパスポートの提示を求められても、決して実物を渡してはならない。ロシアの警察システムは壊れているので、何をされるか分からない。 たいてい賄賂を要求される。従って、コピーを用意しておいて、提示を求められたらそれを見せるように」との事であった。この旅行会社は5年前に立ち上げ、現在12人で運営している。 PM3:00、両替の為に銀行へ。近くの「北京銀行」に行って、ドル建てのトラベラーズ・チェックをドル・キャッシュに両替する事を依頼した。両替は可能だが、7.5%の手数料を要求された。私は依頼することを止めて、「中国銀行」を教えてもらった。 しばらく探し回って、近くのビルの4階にある中国銀行に行った。先客が居てしばらく待たされた。私の番が来て、両替を依頼すると、再びしばらく待たされた。そして言うには「トラベラーズ・チェックの2カ所にサイン済みで持ち込まれた物は、両替できません。1ヶ所は此処で、私の見ているところでサインされなければなりません」と言う。 私が「そんな話は他の何処の国に行っても聞いたことがありませんよ」と抗議しても、「ダメです」の一点張りであった。中国ではそれだけ、信用できない事象が横行していることの裏返しであろうと推測できる。幸い、まだサインしてない物を持っていたので、そちらで両替してもらった。手数料は1%にもならず、その点は満足出来た。 PM4:30、ユース・ホステルに戻って、しばらく昼寝をする。 PM5:30、ポメラを叩いて旅行記を書く。 PM7:00、ジョセフの案内で地下鉄に乗り、皆で夕食に出かける。食べたのは「ザリガニのスパイス茹で、子羊の丸焼き」とかなりワイルドである。炭火で焼いた羊の肉は、非常においしく、少し食べ過ぎたようだ。食事代は会社持ちであった。 PM9:30、ホステルに帰着。 PM10:20、シャワーを浴びて就寝。此処のユース・ホステルは、昨夜のホテルよりも快適である。 11月6日(水)晴れ AM6:15、起床。 AM7:00、チェックアウト。すっかり忘れていたデポジットの100元を返金してくれた。北京駅の入り口で2人の青年と合流。モスクワまでの人数は、スタッフ2人と参加者5人の合計7人である。 新たに合流した2人は、 マルコ(Marko):クロアチア出身のカナダ人。中国に来て4年になる。中国語は少々できる。英語の教師、試験管等をして生計を立てている。西安在住。 今回の旅行は、久しぶりに故郷のクロアチアに住む父親(離婚して母親はカナダ在住)に会うのが目的だ。37歳、父親が65歳。カナダで働く友人の方が余程高給を稼ぐが、貯金は自分の方が多いと言う。物価の差がそうさせるのであろう。 日本にも行ってみたいが、どの仕事を見ても月給25万円にしかならないし、1時間も掛けて通勤するなんてまっぴらゴメンだ。それに、休日も信じられない程少ない。中国の大学では、夏、冬2ヶ月の休みがあるし、普段の生活だってかなり楽なもんだ、等と言っている。好青年である。 「”マルコ”と言う名は日本ではポピュラーな名前です。特に少年向けの本に主役で登場するし、マルコ・ポーロも有名です」と言うと、マルコ・ポーロはイタリア人だが、クロアチアの生まれです。今でもクロアチアにその生家が残っています」と言う。思いがけないことを聞くことが出来た。 クロアチアは、ユーゴスラビアに含まれていたが、オランダ在住の友人、ネストー君もユーゴスラビア内のセルビア人である。彼は、NATO軍、特にアメリカに対して敵意に似た感情を抱いていたので、その件をマルコに話すと、クロアチア人のマルコは、それとは逆の感情を持っていた。こんな所にも内戦の複雑さを感じるのである。 アレン(Alon):中国で3年間、若い英語教師を指導していた。現在はアメリカに戻っているが、いずれ中国に来て働く予定である。今日は車内食堂で、1日中、酒を飲んでいたようだ。33歳ぐらいかと思っていたら、27歳だと言う。頭髪が薄く、顎髭を伸ばしているから老けて見える。 「大学では哲学を専攻。最初の1年間はビジネスを学んだが、どうしても馴染めず、哲学科に変わった。父親にとっては不幸だったようだ」と言う。話してみると好青年である。 スタッフも含めて、皆、独身の男子青年であり、私の子供の世代である。案の定、私への質問は、「奥さんは居るのか、どうして一緒に来ないのか」と言うところから始まる。 AM8:05、モスクワ行きの列車「列車番号0033、中国では、K3次と呼ばれる」が定刻に北京を発車。「列車内は暖かく、半袖でも良いくらいだ」とガイドブックに書いてあったが、実際にはかなり寒く、外套を脱ぐことは出来なかった。 7人のパスポートNoが印字された乗車券 若干の緊張感の為か、昨夜から頭痛が発生。こう言う時は横になって寝るに限る。車内は2段ベッドが向かい合わせに2つ並んだ4人用個室で、ごく普通の造りだ。只、我々の持ち込んだ荷物が大きいので、その分狭く感じる。 2等車の4人用個室 列車に貼られた「北京―ウランバートル―モスクワ」のプレート 発車を待つ(北京駅) AM11:30、食堂で昼食。今日の昼食と夕食は列車側のサービスである。とは言っても、かなり質素な、いや、これ以上質素には出来ないレベルのメニューであった。しかし、余り食欲のない私には丁度良かった。飲み物は出なかったので食後に緑茶を頼んだら、10元(180円)であった。車内での水は貴重なのであろう。 食堂車内 食堂に来る人を見ていると、小さな子供を連れた家族連れ、新婚旅行風のカップル、一人旅の女性、ビジネスマン等、様々である。食堂車内のスタッフや車掌は皆中国人だが、ロシアに入っても交代はしないのであろうか? PM2:10、最初の停車駅ダートン(大同)に到着。6時間ぶりに車外へ出る。停車時間が20分間と言うので、のんびりしていたら5分も経たないうちに突然ベルが鳴り、車掌が「すぐに車内に入れ」と言う。我々は指示に従って車内に入ったが、なかなか発車しない。列車が発車したのは最初の予定通り、20分後であった。何かの間違いでベルが鳴ったのであろうか。 PM4:15、内蒙古のジンイン(集寧Jining)駅に到着。ホームを見渡しても駅の名前が見あたらないので、車掌に教えてもらった。朝方寒かった車内が大分暖かくなってきた。石炭ストーブによるスチーム暖房が利き始めたようだ。石炭ストーブの真後ろには給湯器が有り、常にお湯が使える状態になっている。幸い頭痛も取れてきた。 サモワール(給湯器) 石炭ストーブ PM5:40、昼食に続いてサービスの夕食。ジャガイモの中に肉団子が1個入った物と、野菜サラダ、ライスが本日のサービス・ディナーである。食後、お茶を頼んだ。10元也。アレンは、朝から飲み続けていたようで、泥酔状態である。 サービスの夕食 PM8:37、モンゴルとの国境で中国側の駅、アルリェン(二連Erlian)に到着。ここで約3時間半を掛けて列車の台車を交換する。その間、我々がすることは、出国カードを書くだけ。トイレのドアも閉められ、個室からも出歩かないように言われる。 トイレ 台車の交換 当初、ガイドの話では「広い待合室で待機することになっている」と言っていたのだが、何時から変わったのであろうか。夜も更けてきたので、寝台でおとなしく横になっているしかない。この間我々が乗っている車両は、切り離しや連結作業に伴うガシャン、ガシャンと言う衝撃を受け続けている。 PM11:59、台車を交換した列車が発車したはずである。「はずである」というのは、その時には寝入っていて気が付かなかったからである。 11月7日(木) AM0:25、モンゴル側の国境の駅、ザミン・ウデ駅に到着したはずである。この時も寝ていて正確なところは分からない。ここでも1時間15分に渡って停車。我々がすることはモンゴルへの入国カードの記入と、持ち込み金の申告であった。 我々日本人は、一定期間のモンゴルへの入国ビザは不要であるが、オーストラリア人はビザが必要なようで、ラクラン君は、駅のイミグレーションに呼ばれて、この列車の部屋との間を、何度か往復していた。彼のように旅の先々でビザを取得することも可能なわけだ。 即時発行のため、高額ではあるが、手続きを代理業者に頼むことなく自分で行うので、手数料は掛からない。ちなみに、彼はこの時のビザ代金として380元(6800円)を支払った。 私は、ロシアのビザを代行業者に依頼して取得したときは、代行料を含めて8000円であったから、むしろ彼の方が安く済んでいる。ただ、旅先で取得する煩わしさを除外すればの話である。我々は、この間もトイレに行けず、部屋からも出られなかった。 AM1:40、列車は定刻にザミン・ウデ駅を発車。やっとトイレに行けるようになった。「トイレを済ませておくように」とガイドから事前に注意があったから良かったものの、中には知らない人も居たのではないかしら。前日のPM8:37から今までトイレに行けないのは、年寄りにとっては拷問である。 AM7:30、起床。目は覚めたものの、何をすべきなのか頭が回転しない。普段なら洗顔から始まるのだが、狭い車内ではそれも面倒になる。しばらく思案した後で、最初に行ったのは、娘が持たしてくれた「即席お粥」を食べることである。 プラスチックのケースに具材を入れて、お湯を注ぐだけ。5分ほど待ってから食べてみると、まずまずのお味。胃にも優しく思えました。後は、これも持参のフィッシュ・ソーセージを食す。同室の者にも1本ずつ分けてあげたら「美味しい」と言って喜んでくれた。 列車はモンゴル草原をひた走っている。右も左も地平線の彼方まで何もない。時々小さく隆起した丘が見える程度である。地表の草はすでに枯れて、その上に雪が凍り付き、白くまだら模様になっているのが見える。 モンゴル草原 AM9:04、チョイル駅に到着。モンゴルに入ると駅名の表示は漢字からロシアと同じキリル文字に変わる。NHKのロシア語講座を2ヶ月間勉強したので、キリル文字を読むことだけは出来るようになった。寒暖計を持って車外に出ると、車内で23℃だった気温が、瞬く間に0℃まで下がった。 チョイル駅にて 上段が私のベッド 下段ベッドで横になるアレン PM1:20、モンゴルの首都、ウランバートルに到着。30分間の停車予定である。私はこの間に水と果物を買いたいと思う。その為には、まず両替をしなければならない。駅舎内にある両替屋でレート表を見ると、両替率が良いことが分かる。それは売値と買値の幅が小さいことで分かる。 ウランバートル駅 ウランバートル駅前 成田空港内の銀行が、ぼったくりに近いくらいの手数料を取っているのに比べると、非常に良心的である。ここでモンゴル紙幣に両替しても、いくらも使うことはないので、中国紙幣100元(1,800円)だけ両替した。手にしたのは28,000トゥグルグのモンゴル紙幣であった。 それを手にして急ぎ売店に行き、水を購入。1,000トゥグルグ也。次に果物を探したが、小さくて古そうなリンゴしか置いてなかったので買うことを諦めた。そして買ったのが、フルーツヨーグルト(2,000トゥグルグ也)である。 後で、日本円に換算してみると、水(1.5リットル)が、65円。フルーツヨーグルト(500cc)は、130円であった。ヨーグルトの方は体が欲していたのか、美味しくて一気に食べてしまった。モンゴル紙幣を使用したのはこの時だけ。残りの25,000トゥグルグは、残ったままである。 ウランバートル駅は、改札もなく、列車から降りると、そのまま車道に出て行かれる。そんなことで良いのか、国状、社会状況を掴めない私には、心配でもあるが、それがモンゴルの首都駅の現状である。駅と言い、駅前道路と言い、私が想像していたものとは、かけ離れた状態であった。 あえて、一言で表現するなら「寂れた片田舎の停車場」と言うことになろうか。駅前の路上では、飴や駄菓子を売っているおばさんが何人か居た。そして小さなベンチには、一人の男性が、人生を放棄したような姿で横たわっていた。ほんの一瞬しか見ては居ないが、モンゴルの国状が、かなり厳しい状況であることを伺わせた。 PM2:25、列車は、ウランバートル駅を35分遅れで発車した。同行のメンバーは皆、思い思いの食料を買い込んだようで、ご機嫌である。車内ではそれらを持ち寄って談笑が始まっている。 ウランバートルを過ぎて ウランバートルを過ぎて(2) PM4:50、ズンハラ駅着。駅の写真を撮っただけで何の印象も残っていない。外気温も10℃を保っていた。 ズンハラ駅 PM5:20、ズンハラ駅発。 PM7:15、ダルハン駅到着。外は暗くなり、車外に出ても、列車以外はなにも分からない。 ダルハン駅 PM7:25、ダルハン駅発。 この時、ガイドのリーダーが来て曰く。「次はいよいよロシアのボーダーである。もしお金を沢山持ってきているなら、我々に預けて欲しい。ロシアの税関は、なんだかんだと言って金を要求してくるから」と。そして「何か聞かれたら分からない振りをしなさい。 どうしても解決しない時は、私を呼んで欲しい。私が、なにがしかの賄賂を渡して事態を収拾させます」と。そして「ロシアの税関には注意し過ぎることはありません」と言う。私は忠告に従って、日本円とユーロを預けた。果たして結果はどうなるのだろうか? PM8:50、ロシアとの国境で、モンゴル側のスフバートル駅に到着。数人の税関が乗り込んできて、パスポートを持って行った。その後で一人の男性係官が来て、ベッドの下や毛布の下を探索して行った。 PM10:05、スフバートル駅を発車。室内の気温は26℃に上昇しており、我慢できずにセーターを脱いだ。 PM11:14、ロシア側の国境の駅、ナウシキに到着。ロシア側の税関はモンゴル側より更に大人数で列車に乗り込んできた。パスポートとビザをチェックする人、不審な物を探索する人、荷物の中をチェックする人、それぞれ役割が分担されているようだ。 ナウシキ駅 上の棚に押し込んであった、私の大きなスーツケースを下ろさせて、中を見せろと言う。なにをチェックしているのか分からない。お金でもなさそうだし、麻薬だろうか。当然、我々のグループは、誰も賄賂を要求されることもなく、無事に終了した。念の為にスタッフに預けてあった金もスタッフが返してくれた。 ビザをチェックする時は、厳密には、まだ11月8日にはなっていなかったが、パスポートには、11月8日でスタンプを押してくれた。少し心配していたが、ほっとした。此処ナウシキには3時間以上の停車である。今回の旅は国境越えが主たる目的でもあるかの如く、多くの時間を取られている。 |