11月8日(金) AM2:31(モスクワ時間、7日の22:31)、ナウシキ発。私はこの後睡眠に入った。 寝入っている間に、ジダ駅とウラン・ウデ駅に停まったはずであるが、全く気が付かなかった。ウラン・ウデはブリヤート共和国の首都である。そして我々の北京発モンゴル経由の列車(通称、モンゴル鉄道)は、この駅でシベリア鉄道に合流する。 AM7:30、目が覚めた時、車窓からいきなりバイカル湖が飛び込んできた。我々は、予め地図上で教えられているので、これがバイカル湖であると認識できるが、初めて遭遇した人は、間違いなく「眼前に広がっているのは海だ」と思ったであろう。180度に渡って水しか見えず、しかも波立っているのである。 バイカル湖 バイカル湖は琵琶湖の50倍に相当すると言われ、縦約600km、最大幅約80km、世界で最も深い湖で、最深部は約1680mである。冬の透明度は約40mとなり、この記録は淡水湖としては世界1、2を争う。その水量は地球上の淡水の約20%を占めるという。 バイカル湖の反対側 私は泰然と眼前に広がるバイカル湖を愛でながら、「インスタントうどん」の朝食を取った。このうどんの能書きには「ドカッ盛、味わい深い関西風つゆにたっぷりわかめ!昆布だし」と書いてある。 食後の感想は、旅の空で食するには、美味しい方に属すると思う。残った汁を捨てるのも、はばかれたので一滴残らず飲み干した。自宅でそんな事をしたら妻に注意されると思いながら。 右側(北側)にバイカル湖、左側(南側)の車窓に白樺林と雪景色を見ながらの旅が、4時間ほど続く。 バイカル湖(2) PM0:10、スリュジャンカ駅に到着。私は果物を買いたいと思い、防寒服を着て下車の準備をしていた。ところが、いよいよ降りる時になって、降り口に行くと「停車時間が短いので降りられません」と車掌が言う。 「それでは食堂で、昼食にしよう」と言って、皆で食堂車に行った。ところが、クローズド!我々は、後ろから4台目の14号車に居り、食堂車は前から4台目の4号車である。従って食堂車までは、延々10車両を歩いて行かねばならない。
しかも、車両の前後には2重扉が付いているので、車両を移動する度に、4枚の扉を開閉しながら行かねばならないのだ。運動不足を解消するには好都合ではあるが、意を決して行動を起こした結果が空振りに終わると、力が抜けてくる。 しかしまた、こんな事も有ろうかと、持参した食料が役に立って良かったとも思う。今朝はインスタントうどんであったから、昼食は、「ペヤング・焼きそば」にした。これは、若い頃、職場の宿直時に何度も食べた、懐かしい味の焼きそばである。 更に、持参していた「コーンの缶詰」を開けたので、お腹が一杯になった。後から分かったことだが、我々の車両より後ろの16号車も、食堂になっていることが分かった。 後ろ(16号車)の食堂 PM2:40、イルクーツク駅に到着。停車時間は25分間有るはずだが、車掌は「10分ぐらいで戻って来い」と言う。私は果物を探して走ったが、美味しそうな果物が見あたらず、今回も何も買わずに引き上げた。駅舎のイルクーツクの文字を写しただけで。 イルクーツク駅 イルクーツク駅前 イルクーツクは、バイカル湖から流れるアンガラ川を挟んで二分されており、バイカル湖観光の拠点であると共に、我々日本人にも何かと縁のある名前である。アリューシャン列島に漂着した大黒屋光太夫ら一行は日本への帰国の許可を得るためにサンクト・ペテルブルクを目指していたが、その途中の1789年にこの土地を訪れている。 アンガラ川(イルクーツク) また1878年には、駐露公使の任を終えて帰国する榎本武揚が、シベリア横断途中に訪れている。更に、第2次世界大戦後は日本人抑留者の収容所があり、数多くの抑留者が強制労働に従事させられた所でもある。 イルクーツク駅(2) イルクーツク駅(3) PM6:00、車掌室の隣の部屋にいた我々4人に対して、車掌から「うるさくて眠れないから、部屋を移動してほしい」との申し入れがあった。皆快く同意して部屋の移動に取りかかった。 しかし、私は「大きな荷物の移動が面倒だし、静かにしているから此処に置かしてもらいたい」と言うと、最初は「宜しい」と言っていたようだが、暫くしたら「ちょっと来てくれ」と言って、私に別の新しい部屋を見せて「此処に移動してもらいたい」と言う。 そこまで頼まれて反対する理由はないから、私も快く同意した。かくして、私は新しい4人部屋に一人住まいと相成りました!賑やかだった4人部屋から、急に一人になり、少し寂しいが、4人部屋を広々と使えて、これはこれで良いかとも思う。 それにしても乗客の数が少ない。我々の車両には我々7人だけ。各車両には9部屋を備えているから、使われていたのは2部屋だけだったのだ。北京では、もっと乗っていたのだが、モンゴルのウランバートルを過ぎると、めっきり少なくなった。 各車両ともそんな風で、1等車などには、一人だけと言う車両もあった。オフシーズンの今は、乗客より乗務員の方が多いくらいだ。 凍結した川 PM6:42、ジマ駅に到着。此処でも果物を探した。何とか口に合いそうな、小振りのボンタンがあったので、迷わず購入した。80ルーブル(285円)。他には大きな菓子パンを1個購入。37ルーブル(130円)。 ジマ駅 売店(ジマ駅) この駅に停車している間に、小型トラックから、各車両へ石炭の補給が行われた。暗く寒い中での作業である。我々が凍え死ぬことがないように、大事な仕事をやってくれているのだ。 石炭の補給(ジマ駅) 私は「何故、電気暖房にしないのか」の問いかけに「もし停電したら乗客はどうなるか、想像したことがあるか?」と答えられた記事を思い出している。車内の気温が23℃であったのに、10分間ほど車外にいたら、マイナス6℃まで下がっていた。 PM7:12、ジマ駅を発車。今日の夕食は、先ほど買った菓子パン、ザボンと、持参の即席味噌汁である。ザボンは、不味くはないのだが、ジューシーさに欠けていた。とても一人では食べきれず、協力者を募ったら、スタッフのジョセフが応援してくれた。 PM9:20、一人部屋になったことでもあり、早々と横になる。我々が乗っている2等寝台車にシャワーは付いていない。従って、北京で乗車以来、着の身、着のままである。多分、モスクワまでそうなりそうだ。全員が同じ状態だから、さほど気にはならない。1週間、シャワーを浴びない経験は、仙台で下宿していた学生時代以来である。 PM10:46、ニジニウジンスク駅に到着。外は真っ暗だが、大きなデジタル電光板が、モスクワ時間と気温を交互に表示している。外気温が「マイナス16℃」と示されているのを見て、背筋に震えが走った。車内の温度は21℃である。 ニジニウジンスク駅 11月9日(土) AM3:30、イランスカヤ駅に停車したはずだ。この間は熟睡中。 AM7:00、起床。チョロチョロしか出てこない、トイレの手洗いで洗顔。 AM7:54、クラスノヤルスク駅に到着。直前に大河、エニセイ川を渡ったはずだが、暗くて見過ごしてしまった。準備をして楽しみにしていたのだが。残念! クラスノヤルスク駅 エニセイ川はモンゴルに源を発し、北極海へ注ぐ延長約5075kmの川。ここに架かる全長1km近い鉄橋は1890年代に建設されている。 AM8:10、朝食。今日も、インスタントのお粥にしよう。運動不足の身には丁度手頃である。それに昨日、同行者からもらったバナナと持参したフィッシュ・ソーセージ。これで十分だ。 車外は白樺林が左右を占有し、時々針葉樹が顔を見せる。土地は雪に覆われているが、まだ深くはない。室温は21℃、日中の外気温は0℃である。今日は頑張って、この紀行文の「長ーい、プロローグ」を、書き上げた。 シラカバ林が続く PM0:30、昼食。持参した即席ラーメン「赤いきつね」と貝柱の缶詰。美味しく思う。食糧事情がよく分からなかったので、最悪の状況を想定して準備してきた事が、功を奏している。同行者は停車する駅で食料を買っている。 PM1:55、マリインスク駅に到着。降りたホームには売店が無かったので、車掌が反対側のドアを開けて下ろしてくれた。私は、売店でヨーグルト(120ルーブル:420円)と水(50ルーブル:180円)を購入。ヨーグルトは昨日の方が美味しかったし、水は知らずにガス入りを買ってしまった。 マリインスク駅 マリインスク駅(2) PM4:18、タイガ駅に到着。停車時間が短いため、下車できない。駅の名前を確認しようと、一字一字読んでいたら、「ロシア語を読めるんですか?」とジョセフが言う。「2ヶ月間勉強したので、読むことだけは出来るよ」と言うと、感心していた。悪い気持ちはしなかった。 夕焼けのシベリア鉄道 PM7:58、ノボシビルスク駅に到着。ガスの入ってない水を購入。80ルーブル(285円)ノボシビルスクとは「新しいシベリア」と言う意味である。オビ川の川岸に開けた町だと言うが、またしても闇に紛れてオビ川を見損なってしまった。 ノボシビルスク駅 PM9:30、リーダーが「今日の夜はディナーにする」と言うから、会社がご馳走してくれるものと思っていたら、自払いであった。私は後方の食堂車で、ロシア料理のボルシチ(煮込みスープ)を食して250ルーブル(890円)支払った。味はマズマズであるが、決して安くはない。 PM11:33、バラビンスク駅に到着。プラットフォームは真っ暗で何も見えないが、沢山の戦車を積んだ貨車が動いていた。就寝。 バラビンスク駅 戦車を積んだ貨車(バラビンスク駅) 11月10日(日) AM3:28、オムスク駅に到着。丁度目が覚めてトイレに行く。此処は1849年、政治犯罪に為に逮捕され、辛うじて銃殺刑を免れた作家のドストエフスキーが、4年間の懲役に服した場所であると言う。 AM3:44、発車。 AM6:58、イシム駅に到着。現地時間は、未明の午前5時なのに、完全防寒に身を包んだ家族連れが、大勢で我々とは別の列車を待っていた。私はその姿を見て、自分が準備してきた防寒着で大丈夫なのか不安になった。 AM7:10、発車。 イシム駅 この日記は現在のところ、私の腕時計の時刻(北京時間)で書いている。従って列車の時刻表(モスクワ時間)とは、常に4時間の時差がある。 また、モスクワに近づくに連れて、ローカル時間と北京時間の差は、徐々に0時間から4時間まで広がっていく。従って、此処イシムの現地時間は、AM5:00頃である。 AM8:30、起床、洗面、トイレ。やっと大便を催してきた。列車に乗ってから5日目だ。通常は毎日、又は1日置きに便通があるのだが、やはり、環境の変化によって精神的、肉体的な、何らかの変化があるのだろう。 思い当たるのは、シャワーを浴びていないことだ。それにしても、今まで見たことが無いほど、太くて固い便が大量にお出ましになりました。 AM9:00、スッキリしたところで朝食。今朝のメニューは、持参した、即席大盛りうどん、コーンの缶詰、コーヒー、それと、駅の売店で購入したヨーグルトである。美味しく頂きました。 AM10:39、チュメニ駅に到着。駅の雰囲気が大分都会じみてきた。チュメニの名前は、中学生時代に、地理の授業で「チュメニ油田」として聞いていた。それから既に50年余りの月日が経っている。「光陰矢の如し」の感を深くしている。 チュメニ駅にて この駅の電光掲示板の時刻(06:40)と、私の日記の時刻(10:39)とでは、4時間の開きがある。これは、電光掲示板がモスクワ時間で表示され、私の日記は連続性を重視して、北京時間で書いている為である。 チュメニ駅の電光掲示板 今回の旅行は、「地図上でしか認識していない処へ、ともかく行って見てくる」と言う次元のものであり、それ以上でも、それ以下でもないが、それが出来て幸せである。 AM10:59、チュメニ駅発。 チュメニ駅 チュメニ駅(2) AM11:20、快晴の東天に、旭日の太陽が上昇していく様を、白樺林の隙間越しに見ることが出来た。 快晴の東天に、旭日が昇る 一人部屋に移ってから、私は多くの時間を一人で過ごしているが、時折若い連中が訪問してきたり、私が彼らの部屋に招き入れられたりして、交流は続いている。私が彼らに触発されることも多いが、彼らも年輩の私から何らかの触発を受けてくれたら嬉しいと思う。 マルコ(37歳)は現在、中国の西安で英語の先生をしていることは前に聞いたが、それ以前に、韓国で1年間、UAEのアブダビで4年半の間、教えていたと言う。その時の印象を次のように語ってくれた。 「韓国の学生はマナーも良く、先生に対して尊敬の念を持っている。しかし、アブダビの学生はひどかった。金持ちの家に育ち、召使いにかしずかれている為、教師に対しても全く尊敬の念を持っていない。 小学生でも、彼らがテキストを落とせば、召使いがそれを拾うと言う生活が日常なのだ。英語を教える以前のことで疲れてしまう。大学生の時に受けた奨学金を返済し終わった時、アブダビでの英語教師を辞めた。 それにしても、韓国は休日が少なすぎる。日本もソウなのかもしれないが、年間の休日がたったの10日間なんて、ひどすぎる。まるで働くロボットだ」と。 PM2:00、昼食の時間。本日のメニューは、駅の売店で買った大型菓子パンの残り物、ヨーグルト、持参したフィッシュ・ソーセージ、いちごジャム、チーズ、コーヒー。このペースで行くと、明日、モスクワに着く頃には、持参した物を、あらかた食べ終わりそうだ。 さて、今回参加の青年達は、スマートフォン、タブレット、電子書籍等を持参して、それぞれに楽しんでいるが、フランス人の、シリル君について紹介しておこう。 彼はフォトジャーナリストを目指して頑張っている。従って、売れる写真を撮ることが仕事である。我々は趣味の範囲で写真を撮っているが、彼にとっては生活の源泉である。従って対象物を見つけた時の目つきは、獲物を見つけた動物のように鋭くなる。 そしてカメラを向けると、1秒間に5枚、10枚と連写していくのである。「この列車に乗ってからだけでも、何千枚取った」とか言っている。「1000枚に1枚ぐらいの割で、素晴らしい写真が撮れればよい」と言うことらしい。どんな仕事でも、それで生計を立てることは大変である。 PM3:39、エカテリンブルグ駅に到着。いつの間にか白樺林の中にあった雪が無くなっている。この辺の気温の方がシベリアより高いのであろうか?此処は人口約137万人の重工業都市で、ウラル地方の中心地である。 エカテリンブルグ駅 エカテリンブルク駅(2) 此処は、1721年に開かれ、エカテリーナ2世(ピョートル一世の後妻、英語名キャサリン)にちなんで名付けられた。此処はまた、ロシア革命によってロシア皇帝一家が銃殺された、ロマノフ王朝の終焉の地としても知られている。 この駅でもトラックから各車両に、石炭の追加がされていた。この駅では、27分間の停車時間が有り、車掌たちが久しぶりに集まって懇談していた。 PM4:06、発車 石炭の追加(エカテリンブルク駅) 車掌達も一息(エカテリンブルク駅) 私の個室 さて今度は、我がチームのリーダーであり、YPTの創立者であるギャレスに付いて語ろう。まず彼の腹の出っ張り方は異常である。本人は妊娠6ヶ月の腹だと言うが、私には9ヶ月にも見える。 たった32歳で、どうすればあんな腹になるのか、不思議である。初めて会ったとき、50歳ぐらいに見えたと書いたが、今でもその印象は変わらない。 ギャレス(左手前)アレン(右手前) シリル(右奥) ラクラン(左奥) 何処と無く、ボス的雰囲気を醸し出しているが、アルコールが進んでふざけ出すと、手が着けられなくなる。客であろうとスタッフであろうと見境無く、大声を出して抱きついてくる。先日、車掌から、部屋を変わるように依頼された原因がその辺にありそうだ。2回ほど、離婚経験があるとも言う。 PM4:45、「間もなく、アジアとヨーロッパを分ける地点にオベリスクが見えるはずである」と、私がマルコに話している矢先に、その地点を通過してしまった。「地球の歩き方」によれば、もう少し先のはずである。しかし、大事なところでミスプリントだ。 キロポスト表示が1777〜8km地点と書いてある頁と、1737〜8kmと書いてある頁があった。少なくとも、後者は間違いである。私とマルコは目の前をオベリスクが通り過ぎるのを、「あっ、これだよ、オベリスクは」と、呆気に取られながら見送るしかなかった。 そのオベリスクは、林を過ぎて開けたところに、突然現れ、しかもいわゆるオベリスクと言って、我々が想像しているほど高くもないので、余程注意を払っていないと、気が付かない内に過ぎてしまうであろう。 PM7:00、夕食タイム。誰が決めているわけではないが、食べたくなった時に食べるのが個室にいる人の特権。メニューは、お粥、ペヤングのソース焼きそば、タニタの味噌汁、以上。カシオの「ロシア語辞典」に内蔵されていたクラシックを聴きながら。なかなか乙なものである。 今回の旅に持参した物の中に、アマゾンの電子書籍(キンドル)があるのだが、列車の中では、それを開くまでの暇はなかった。ベトナムで、至極退屈な思いをしたものだから、それに懲りて用意したのだが。 通過する駅ごとに、旅行記のポメラを叩いていると、結構時間がつぶれてしまう。「明日にはもう、モスクワに着いてしまうのか、早いものだな」と言う心境である。 PM9:21、ペルミU駅に到着。モスクワ時間では、まだ午後5時21分だと言うのに、外は真っ暗である。腹を空かせた仲間は、駅舎の外まで走り出て、食料を調達してきた。これから夕食がてらの酒盛りが始まりそうだ。 ペルミU駅 スタッフのジョセフは、本職は船長だそうだ。その船は、カリフォルニア大学・サンジェゴ校に所属し、世界的にも歴史ある海洋調査船である。4ヶ月間乗船したら、4ヶ月間の休暇を取れる。 その休暇の間に、この旅行業をやっているのだと言う。海の調査と陸の旅行で、文字通り世界中を股に、渡り歩いている強者である。世界各地に彼女が居て、37歳の今も独身である。 スタッフのジョセフ(左)とギャレス PM12:00、就寝。シベリア鉄道、最後の夜である。 11月11日(月) AM1:21、バレズィノ駅に到着。私が寝ているところを、マルコが起こしてくれた。急いで身支度をし、出口に行くとドアが閉まったままで車掌もいない。ドアを開けてもらいたくて車掌室をノックしても応答がない。他の部屋を探し回ると、トイレ中であった。結局、この駅では車外に出ることは出来ず、アイスクリームを買う事も出来なかった。 バレズィノ駅 AM5:03、キーロフ駅に到着したはずだ。熟睡中だから、何も分からない。 AM9:00、起床。洗面。 AM9:30、朝食。今朝のメニューは、お粥、コーンの缶詰、タニタの味噌汁、コーヒー。質量共に完璧だ。 AM10:55、ニージニー・ノヴゴロド・モスコフスキーと言う長い名の駅に到着。現地時間では午前7時だ。ホームも人の往来が多くなってきた。 ここで、サプライズが発生。リーダーの彼女(アーニャAnna)がモスクワから迎えに来ていたのだ。リーダー本人も全く予期して居なかったらしく、「誰かの彼女が来ているぞ」等と言っていた。それが自分の彼女と分かって、驚いていた。8月に会って以来だと言う。 ギャレスとアーニャ 二人は人目もはばからずに、しばらく抱擁しあっていた。列車が動き出すと、彼女は、自分の席がある隣の号車から、沢山の朝食用の差し入れを持って、彼氏の部屋に移動してきた。我々も少しずつお相伴に預かった。 暫くすると、その部屋から一人また一人と消えていき、二人だけの時間を作ってあげた。ロシアからここまでは、まだ460km程あり、彼女は、夜行列車に6、7時間乗って来たようだ。若い人達の、こういう情熱を目の当たりにすることは、決して悪い気持ちはしないが、少々羨ましい。 二人に部屋を占領されて行き場を失った連中が、私の部屋に集まり談笑となった。 PM2:23、最後の通過駅、ウラジミール駅に到着。思ったより暖かい。モスクワに近づくに従って、白樺林から松ノ木が多くなってきた。 ウラジミール駅 ウラジミール駅前 機関車の展示(ウラジミール駅) PM3:00、昼食。車内での最後の食事だ。メニューは、持参した即席きつねラーメンと、パン、ジャム、チーズ、そしてコーヒー。日本に滞在経験のある、フランス人のシリルに「即席お粥をたべてみるか?」と言うと「頂きます」と言うのでプレゼントした。「おいしいです」と言って完食。こうして、日本から持ち込んだ食料は綺麗になくなった。車内食堂で支払ったのは、ボルシチを食べた時の1回だけで済んだ。 この頃から、車掌が車内の掃除に動き出す。車掌は各車両に2人ずつ居るが、よく働いている。まず、ストーブに石炭をくべる。列車が停車する度に、車両の扉と、トイレの開閉をして歩く。車両の後部に置かれたゴミ袋の処理。 目に見える仕事はそんなものであるが、客から様々な要望があれば、それに応じてあげる。勿論、応じられない事もある。しかし、時間が空いている時は、パソコンで、中国語の映画を見ている事が多かった。そして、車掌たちは、小さな台所で、トマトやネギ、人参等を持ち込んで、料理をしていた。結局、車掌は北京からモスクワまで交代することはなかった。 PM6:00(モスクワ時間、PM2:00)、モスクワのヤロスラヴリ駅に到着。気温は10℃あり、心配していたより暖かい。 モスクワのヤロスラヴリ駅 モスクワのヤロスラヴリ駅(2) 此処までは、連続性を考えて北京時間で書いてきたが、此処からは、モスクワ時間で書く事にする。 リーダーの彼女(アーニャ)と、ジョセフの二人で、次の行き先である、ウクライナのキエフまでの切符を買いに行った。我々は、ジョセフにパスポートを預けて待つこと1時間。 モスクワ駅はさすがに大都会を思わせる雰囲気がある。沢山のホームに、列車が出入りし、大勢の人の往来が絶えない。時々、ドレスアップした、ハットするような美人を見かけるが、後ろから見ると、ヒップの大きい人が多い。 PM3:00、ジョセフたちが戻り、キエフ行きの切符を渡された。此処からはアーニャの先導で、地下鉄に乗り、ユース・ホステルへ向かった。アーニャは、リーダーの彼女というだけでなく、モスクワに於ける現地ガイドのような役割も果たしている。 地下鉄の切符売り場 モスクワの地下鉄は、かなり深いところを走っているようで、エスカレーターは巨大である。地下鉄の乗車時間は短いが、乗り換えを1回して、ユース・ホステルの、最寄りの駅(キタイゴーラト)に着いた。此処は「赤の広場」に近いらしいが、まだ土地勘が分からない。 地下鉄駅構内 地下鉄の巨大なエスカレーター PM4:00、ユース・ホステルに到着。その名も「ナポレオン・ホステル」である。それは、大きなビルの中にあって、受付が4階になっていた。残念なことにエレベーターが付いていないのである。 ユース・ホステルの受付(モスクワ) 私は、必死で20kgのスーツケースを運んだが、さすがに2階の踊り場で息を切らしてしまった。見かねたリーダーが、それを4階まで運んでくれた。地下鉄駅のあちこちにある、10段ぐらいの階段、そして、駅から此処までの路上を、運ぶだけでもうんざりしていたのに。 ユース・ホステルに着いたら、エレベーターがなかった!6日間のシベリア鉄道から解放された直後と言うこともあって、私の疲れは頂点に達した。汗が噴き出し、呼吸を整えるのに、しばらくの時間が必要であった。 こんな場面に出くわすと「そろそろ、若い人に混じっての旅行は、終わりになるのかな」と言う、弱気な気持ちが出てくる。受付の自動販売機で、ジュースを買ってのどの渇きを癒した。60ルーブル(210円)。東京より高い!! PM5:00、受付で手続きを終えたリーダーは、後のことをジョセフに任せて彼女と消えて行った。「明日まで戻らない」と言い残して。そんなことがあって良いのか!日本では考えられない事である。 PM6:00、6日ぶりのシャワー!!「やっぱりこうなったか(6日間、シャワーを浴びなかったこと)」と思う。皆、この貴重な経験を語りながら笑うしかない。ラクランが「今までに、こんな経験がありましたか?」と言うので、「学生時代に1度あったよ」と言うと「私もそうです」と言っていた。 それにしても、大勢の人がシベリア鉄道は利用しているのだが、皆さん、老若男女を問わず、こんな経験をされていた訳だ。あまり話題にはなっていないが、貴重な情報ではなかろうか。 ユース・ホステルの受付に、クリーニングを依頼した。分量に関係なく300ルーブル(1060円)だと言う。「3時間後に出来ます」と言う。随分手際よくやるものだ。どんなに綺麗になるのか楽しみにしていたのだが、結果は悲惨なものであった。 帰ってきた靴下は真っ黒、シャツの襟も汚れたまま。とても洗濯したとは思えない。しかも、靴下の片一方がなくなっていた。受付に行って抗議したら、「古い靴下だから汚れが落ちないのでしょう」とか言っている。 「冗談じゃない、買ったばかりの新品だ。もう一度洗い直してもらいたい」と言うと、渋々承諾してくれた。2回目の結果は、1回目よりは良かったと言うぐらいであった。 それにしても1回目はどんな洗濯をしたのだろうか。ユース・ホステルに備え付けの全自動洗濯機で洗っているようなのだが。なくなっていた片方の靴下も見つかって、大分綺麗になってはいた。 PM8:00、イギリスから来たローランド君(Roland)が合流して、夕食に出かける。ピザとコーラで380ルーブル(1350円)であった。今やモスクワは、東京を抜いて、世界一の物価高になった面目躍如である。1食、100円で済んでいたホーチミン郊外の生活が懐かしい。こんな町は一日も早く脱出するに限る。 ローランド君は、イギリス国内で国有鉄道の運転手をしている。通常は週に35時間の労働だが、時には60時間になる。ハンサムで紅顔の青年である。30歳ぐらいか。 |