11月19日(火)
AM7:00、起床。洗面所には、何年も使われていない様なバスタブがある。バスタブがあると言う事は、昔はそれなりに、格式のあるホテルであったのだろうか。
相部屋の青年(前出の、ノルウェーで研究生活をしている)に、「昨夜は何時にホテルに戻ってきたのか」と聞くと「今朝、5時頃です」と言う。飲んで、食べて、踊ってと言う事らしい。私は呆気に取られているしかなかった。
AM10:00、皆は朝食に出かけたが、私は既に手持ちの菓子パンで朝食を済ませていたので、ホテルのロビーで、引き続きポメラを叩いている。
ホテルの外に出てみると、ドニエストル川沿いの、素晴らしいロケーションが広がっていた。昨夜、ホテルに到着した時は、既に暗くなっていたので、何も分からなかったが、外の景色は、お化け屋敷のホテルからは想像も出来なかった。

ホテル前の景色

昨夜のホテル(中はお化け屋敷)
AM11:10、宿舎を移動。町の中心から20分ほど車で行くと、そこはもうブドウ畑が広がる農園であった。その中に今夜の宿泊所があった。その室内は、「素晴らしい」の一言に尽きた。各部屋がスウィートルームになっており、4人ずつが入室した。

宿泊所の一画

私とローランドの部屋

宿泊所にて
しかし、この宿泊所には受付が無かった。後から推察するに、この宿はホテルと言うより、個人的な持ち家で、そこを知人友人に貸していると言う感じであった。其れにしても豪華な室内である。前日のお化け屋敷と比べ、変化の大きさに目を見張るばかりである。
AM12:00、豪華な宿に荷を解いた我々は、市内見学へ出発。まず目に付いたのは、シェリフ・スタジアム。サッカーの好きなイギリス人が、「おー、ここが、あのスタジアムか。是非写真を撮りたい」と言う。私はシェリフの名前さえ知らなかったが、大型スーパーも所有し、ここ、トランスニストリアでは有数の巨大複合企業らしい。

シェリフ・スタジアム
落ち着いた雰囲気の公園内(ポビェダ・パーク)を歩いた。ここにはコトフスキーの像が建っていたが、どんな人なのか知らない。市内には多くの歴史的人物の像が目に付く。

ポビェダ・パーク

ツアーの仲間
トランスニストリア国は既に、共産主義には決別したらしいが、それでも、レーニンの像があちこちに見られる。それも、大学正面の胸像だったり、市庁舎前の巨大な台座の上の立像だったり、いろいろである。共産主義国家において、如何に彼が神格化されていたかを想像させるのに、十分である。

レーニン像(ソビエトCOBETOの文字が見える)
大通りは綺麗に整備され、好感の持てる雰囲気がある。例えば、閉館中のコンサートホールに立ち寄った時、我々が外国からのツーリストであることが分かると、わざわざ鍵を開けて、中を見せてくれた。

綺麗な大通り
人口がたった50万人の国で、その内の半分は、このティラスポール市に住んでいると言う。日本なら、少し大きな市ぐらいの規模である。そんな所だから、これと言って印象に残る物は少ないが、そんなに小規模でも国家として成り立つことが不思議に思える。
PM2:50、ピザ店で昼食。私は、盛り合わせ(ハム、ポテト、トマト等)と、スープをオーダー。31ドニエストル・ルーブル(370円)也。スープが美味しかった。旅行中、何度かスープを食しているが、概して美味しい。これは、口に合う物が少ない海外旅行において、大変嬉しいことである。
席を共にしたメンバーの中に22歳の青年が居た。彼はイギリス人で、このYPTのツアーでキューバに行って来たと言う。ITとサテライト関連の仕事をしている、賢い若者である。何か発言した後に、「大したことを言ったわけではありませんよ」と言う雰囲気で、自嘲気味に「フン」と言って笑うのが癖である。
もう一人、イギリスのケンブリッジから来ている男性(30歳代)と同席。建築関係の仕事に携わっている。彼とは、私が数年前にケンブリッジを訪問したときの印象等を語り合った。
PM4:40、この国最大規模のキツコンスキー・モナステリー(男子修道院)を見学。敷地内には多くの建物が林立し、その規模の大きさを伺わせるが、ソ連時代は、此処もひっそりと息を潜めていて、最近になって修改築をしたようだ。

キツコンスキー・モナステリー
「塔の上に上がって良いよ」と言われて、狭い階段を上って行ったが、辺りは日が暮れて、暗闇の中に、町の灯りが遠くに見えるだけであった。そして、冷たい風が体に吹き付けてきた。
カナダ出身の現地ガイドは、ロシア語が堪能で、旧ソ連領であったこの国でも、ロシア語が通じている。中国語人口も多いが、ロシア語人口もかなりの数を占めており、特にソ連が崩壊した後では、ロシア語の通じる国家の数は、非常に多くなっている。
PM6:30、シェリフ・スーパーマーケットで買い物。
袋代 0.40
ケフィール 6.30
ヨーグルト 8.60
アイスクリーム 2.10
バナナ、4本 11.62
柿、2個 15.61
合計 44.60ドニエストル・ルーブル(535円)
此処での私の目玉商品は、「ケフィール」である。NHKのロシア語口座を受けていた時に出てきた飲み物で「ロシアでは大変人気のある飲み物であり、ロシアに行ったら是非試して下さい」と言っていたのが気になっていたのである。
結果は、ほんのりと塩分を含んだ、ヨーグルトに近い食感で、決して悪くはない、むしろ、慣れてくれば好きになるかもしれないと思われた。
レジの係員(中年の女性)が、何か言ったが、私には皆目理解できなかったので、両手をあげて、「分かりません」と言うゼスチャアーをすると、にっこり笑って、バナナと柿を持ち、奥の方へ歩いて行った。
どうやらそれらは、計り売りらしく、置いてある所で目方を量り、値札を付けてからレジに持ってくるべきであったようだ。しかし、私はそのシステムを知らなかったので、その過程を飛ばしていたのだ。好意的なレジ係のおかげで、スムーズな買い物が出来た。
PM7:00、宿舎に帰着。WI-FIが使えたのでメールの送信を試みるが、此処でも失敗。受信は出来るのだが送信が出来ない。送信ソフトが壊れているのだろうか。
PM8:00、頭を洗い、心行くまでシャワーを浴びる。若い連中は、今夜も隣の部屋に集まって談笑だ。翌朝、おびただしい数の、空になった酒瓶が転がっているのを目にした。
11月20日(水)
AM6:30、起床。しばらくポメラを叩いてから、朝食。メニューは、昨日スーパーマーケットで買ったケフィール、ヨーグルト、バナナである。
今朝から喉の痛み、鼻水、関節痛あり。風邪の症状だ。一昨日のお化け屋敷でのシャワーが原因か。お湯は十分に暖かくなく、すきま風が入ってきて、いやな感じがしていたのである。
AM10:15、ワイン博物館見学(10ユーロ)。どこか、近くの農場に出かけるのかと思いきや、宿舎の隣に建っている、高さ28mの大ビンの形をした、風変わりな建物が、その博物館であった。

ワイン博物館

各国の酒が1万本以上展示
60歳代の、のっぽの爺さんが来て解説し、ロシア語に堪能な現地ガイドが通訳する。古今の、各国の酒が1万本以上展示されているらしい。中には変わった入れ物もあった。一見すると、細い杖なのだが、その中にさらに細い酒瓶が隠されていたり、たくましい男性器の形をした瓶も展示されていた。日本の有名な酒も有った。

風変りな酒瓶

遊び心も此処まで来れば
当然、これらは私的なコレクションだが、その人の名を「グリゴリー・コーズン,Grigorii Korzun」と言う。趣味も此処まで来ると、賞賛に値しよう。
PM0:20、市内観光に出発。バスの中でマルコが現地ガイドの女性(ジュリア)に、愛を告白する「詩とチョコレート」を送った。昨日の昼食時に、「二人だけで随分熱心に話し込んでいるな」とは感じていたが、たった一日を共にしただけで、随分その気になるのが速いものだ。
マルコに「求婚したのか?」と聞くと「そこまでは言っていない。愛を告白しただけだ。彼女の年齢は25歳ぐらいに見えたのだが、19歳だと分かって、37歳になる自分としては、無理かなと思う」と言う。彼は行く先々で女性に声をかけているが、伴侶を捜しているのであろう。

マルコとジュリア
このティラスポール市は、人口25万人ほどの小さな町であるから、メインストリート以外には、見るべき所も余り無いのか、昨日見学した所と同じような所を、行ったり来たりしている。
PM1:40、市場の見学。衣類や靴等、お決まりの物が有るだけで、特に印象に残る物は見あたらなかった。売る方が「何処から来た観光客かな」と、物珍しげに見ていた。
フィンランド人の男性が持っている、アップルのスマホの液晶画面が、ぐちゃぐちゃになっていた。昨晩、4階から落としてしまったという。それでもまだ、通信機能は健在であった。
落とさないようにする工夫として、ストラップを付けたら良いと思う。私もデジタルカメラを2度落としたことがあるが、ストラップを付けてからは、そう言う事がない。
PM2:30、昨日と同じピザ店(アンディズ・ピザ、Andy's Pizza)で昼食。小さな町だから、他に適当な店もないのであろうか。昨日、美味しく感じたスープを再度注文したが、今日は少し塩辛く感じた。
こちらでの昼食の時間は、いつもこの時間になる。まず朝食が遅い。そして夕食は8時頃から始まる。従って、私の場合、日本での日常生活と2時間ほどリズムがずれている。そして、若者の夕食後の帰着は、早い人で12時、遅い人は午前様である。中には、二日酔いで、翌日の日中の観光には参加しない者もいる。
PM4:00、市内見学の一環として、ティラスポール駅へ。此処に到着した時は、夜であったので、なにも見えなかったが、明るい時に来ると、寂しいたたずまいの中にも、それなりの風情が感じられた。

ティラスポール駅前
PM4:30、ドニエストル川沿いの、ユダヤ人ホロコースト記念碑が建っているところへ来た。此処でホロコーストの話を聞くとは思っていなかったので、私には、ショックであった。今は、夕暮れにも係わらず、この川で数隻のカヤックが行き交っている。平和が何と尊いことだろう。

ホロコースト記念碑
マルコが好意を抱いた、現地ガイドのジュリア(Julia)は多趣味である。シンガー、アクター、詩作等、いろいろな事に、首を突っ込んでいる。何かモノになると良いのだが。
PM6:30、トランスニストリアのティラスポール駅に到着。トランスニストリアで使い残した通貨185ドニエストル・ルーブル(2220円)を、モルドヴァの通貨に両替。213モルドヴァ・レウが手元に来たので1モルドヴァ・レウは、約10円になる。
PM7:25、列車は定刻に発車。風邪気味で体調が優れないせいか、ポメラを叩く気がしない。寝台車ではないのだが、席が空いていたので横になって休んだ。
PM9:45、モルドヴァ共和国の首都、キシナウに到着。

キシナウ駅(モルドヴァ)
PM10:30、タクシーの運転手でも、捜し当てる事が難しいようなユース・ホステルへ到着。ベッドは綺麗だが、一部屋に8人が詰め込まれて、いかにも狭い。
PM11:00、ここには2泊するのでクリーニングを頼んだ。34モルドヴァ・レウ(340円)也。若い連中は、この時間からパブへ繰り出した。
PM11:30、シャワーを浴びて就寝。
11月21日(木)
AM7:30、起床。朝食。このユース・ホステルでは珍しく朝食が出た。とは言っても、ジャム・バターのトーストと紅茶だけであるが、無いよりは助かる。
AM11:40、キシナウの市内見学へ繰り出す。「午前10時に出発する」と言われていたのがこの時間である。なにが理由でこんな時間になるのか、日本では考え難いことが日常茶飯事である。私も大分慣れてきたが、それでも時々不信感が出てくる。
しかし、欧米人は、何とも思っていないようで、むしろそう言う事を楽しむ雰囲気がある。「日本では全てが整備されているから」と言う。このツアーも、列車の乗車時刻等、大まかには予定が組まれているのだが、多分に出たとこ勝負である。
今日の市内ツアーは、記念公園と、そこに併設されている、墓園から始まった。公園は第2次大戦にまつわるもので、特別なものではない。墓園の方には、特に国家に貢献のあった人たちが埋葬されている。その形は様々であるが、顔写真を石に刻んだ物が多い。

記念公園
中には本人の立像であったり、家族全員の写真が石に刻まれていたりする。また、お墓の前で、親類一同が集まって、飲み食いをしている光景が見られた。これは、「亡くなった人と共に飲み食いしている」と言う思いが込められているそうだ。

お墓
しばらく歩くと、「オデッサの階段」を連想させるところに来た。ここは確かに、オデッサの階段を意識して造られたようで、オデッサより階段数が多いそうだ。
現地のガイドからその説明があった時、マルコが「オデッサの階段は192段です」と言った。彼はオデッサの階段が出てくる映画「戦艦ポチョムキン」を学生の時に研究したと言う。

オデッサより階段数が多い
今日のガイドは、博物館のスタッフらしく、一つ一つの建造物について、その説明が非常に詳しい。それをユース・ホステルのスタッフが通訳している。なかなか上手な英語である。顔立ちも、どちらかと言うと美人に属するが、その言動が非常に気だるそうに見える。仕事で疲れているのであろうか。

ガイド(左)と通訳
ガイドは早口で喋って、さっさと次の所へ行ってしまい、他の我々は、あっちへフラフラ、こっちへフラフラしながら歩いているので、距離が離れてしまう。先に行ったガイドは、その都度、立ち止まって我々を待っている。

キシニョウ大聖堂

勝利の門

シュテファン・チェル・マレ公園
我々は、プーシキン通りを歩いている。モスクワに着いて以来、プーシキンの名前は何度も聞いたが、ここモルドヴァに来ても彼の名前は輝いていた。私は彼の名前は知っていたが、彼の著作は読んだことがない。日本に帰ってからの宿題がまた出来た。
モルドヴァも、つい最近までソ連邦の一員だったわけだが、通訳は「ソ連の時代」を「ソビエト・タイムズ、Soviet Times」と訳していた。モルドヴァはトルコ、ルーマニア、ロシアの間で領土の占領、併合が繰り返され、歴史の奔流に押し流されてきた地域である。
また、昨日通過して来たトランスニストリアは、モルドヴァから分離したのだが、その理由は、トランスニストリアが「親ロシア」に対して、モルドヴァは「親ヨーロッパ」であった為だと言う。
PM2:30、キシナウの考古学歴史博物館へ行った。正面の庭に、雌狼の乳を飲むロムルスとレムスの像があった。ローマの建設者とされるロムルスとレムスの兄弟は、ローマの建国神話に於いて、狼によって育てられたとされている。この像があることは、この国がローマ帝国の末裔であることを表している。

考古学歴史博物館

キシナウの通り
PM3:00、屋台で立ち食いの昼食。
ホットドッグ 15
スナックパン 4
コーヒー 15
合計 34モルドヴァ・レウ(340円)

屋台で立ち食い
PM4:30、スーパーマーケットで買い物。海鮮サラダ、牛乳、ヨーグルト、バケットパン、みかん。合計47モルドヴァ・レウ(470円)也。
PM5:00、ユース・ホステルに帰着。シャワーを浴びる。
PM5:30、スーパーで購入したもので軽く夕食をすます。
PM6:30、就寝。風邪で体調悪し。
PM8:00、若者は夕食に外出。
11月22日(金)
AM5:00、そんなに長い時間は寝ておれないので、一旦、起床。リーダーたちは、まだ戸外で談笑中である。いつになったら寝るのやら。
私は自分のパソコンからメールの送信が出来なくなっていることが、気になっていた。ホステルの夜勤の青年にそのことを話すと「Gmailを使うと良いでしょう」と言ってその設定の仕方を教えてくれた。幸い、送信が出来たようだが、届いたであろうか。
リーダー達の談笑がいつの間にか消えていた。皆、寝床に入ったのであろう。夜勤の青年も寝たそうにしていたので、私も自分の部屋に戻って、ベッドに横になった。
AM7:00、起床。朝食。買い置きの大振りの柿をむいて皆に勧めるが、喜んで受け取る人が少ない。果物は余り食べないのだろうか。もっとも、この柿はまだ渋みがあって、甘みが少なかったので、強く勧めることも出来なかったのだが。
AM8:00、ニューヨークの男性(今日が42歳の誕生日)が、此処から帰国の途に。1週間だけの同行であったが、映画スターにでも成れそうな、ハンサムで好印象の男性であった。
フランス人のシリルが、「ハッピー・バースデー」の発音を「アッピー・バースデー」と言っていたのは、如何にもフランス人的であった。フランス語には「H」の発音がないと言うが。彼が話しているのを遠くで聞くと、フランス語を話しているのかなと思う位、フランス語の発音に引きずられた英語である。
ところで、昨日洗濯した衣類が全く乾かない。昨夜確認した時も湿ったままであったので、そのままにしておいたら、夜中の雨だか、朝露だかで更に湿ってしまった。今日の午後には移動するので、乾くのを待てない。
このホステルには乾燥機がないし、近くにも無いと言う。私は諦めて湿ったままの洗濯物を、2つのビニール袋に入れてトランクに詰め込んだ。
AM10:15、マイクロバスで、クリコヴァ(Cricova)・ワイナリーへのツアーに出発。此処は、モルドヴァにあるワイナリーの1つである。
AM11:00、クリコヴァ着。美人で綺麗な英語を話すガイドの案内で、ワイナリーを見学。まず驚いたのは、このワイナリーは、全長120kmのトンネルの中にあること。つまり、このトンネルは、住宅用石材の石灰石抽出活動によって出来たものであり、その後を利用しているのである。我々はマイクロバスに乗ったまま、その地下(50m〜80m)のトンネルに入っていく。綺麗に整備されたトンネルの中には、ビッシリとワインの樽が並んでいる。

ワインの樽
マイクロバスを下りて、最初に向かったのは、スパークリングワインの製作所である。このワインは瓶詰め後、最初の3年間を、金属性のキャップをして寝かせ、その後、コルクの栓に変えると言う。コルクの栓に変える時は、マイナス25℃まで冷やしながら、瞬時に行うと言うが、残念ながらその瞬間を見ることは出来なかった。

瓶詰めワインのチェック
その後は、各国の歴史的なワインのコレクション(100万本)を見学。それから、地下室内に設備された、大小の豪華な会議室を案内された。「ワイナリーに、どうしてこんなに沢山の会議室があるのだろうか」と不思議に思ったのも当然である。此処は、100%国立のワイナリーであった。

豪華な会議室

豪華な会議室(2)
政府高官や高級官僚が、海外からの要人の接待に使用している訳だ。国立のワイナリーとは聞いたこともないが、権力者達の為のそれだと考えれば、理解できないことはない。「貧しくて小さな国」故の存在か。日本では国営の酒造業は考えられないが、タバコの専売公社を考えれば分かりやすいかも知れない。
主に醸造過程を見せてくれるものと期待していたら、ほんの5、6人のおばさんが、瓶詰めワインのチェックをしている行程を見せられただけで、後はこれでもかと言うぐらい豪華な会議室と、膨大なワインのコレクションを見せられて終わった。味見をさせてくれるわけでもなかった。
クリコヴァ・ワインの世界に於ける評価は、如何なるものであろうか。モルドヴァは小国にも拘わらず、世界12位のワインの輸出国である。日本ではまだあまり知られていないが、輸出先は30カ国に及び、一部は日本にも入っている。
PM0:00、クリコヴァを出発。今回の旅行で初めての本格的な雨が降っている。
PM1:30、昼食。ソーセージ、餃子に似た団子、スープ。締めて80モルドヴァ・レウ(800円)也。ソーセージが美味しかった。
PM2:30、タクシーでホステルへ。割り勘で10モルドヴァ・レウ(100円)。
PM3:00、すぐにトランクを持って、キシナウ駅に向かう。ルーマニアの通貨を用意したいと思い、両替屋に行くがルーマニアの通貨は無いという。もう1件訪ねたが、同じ返事だ。隣国で友好国でもこれが現実だ。
これから夜行列車に乗るので、いくらかの飲食物を持ち込みたいのだが、モルドヴァ通貨をすっかり使ってしまったので、それが出来ずにいるのだ。やむを得ず20ユーロをモルドヴァ通貨に両替。手にしたモルドヴァ通貨は351モルドヴァ・レウであった。この時の1モルドヴァ・レウは7.8円。
両替したお金を持って、マガジン(雑貨屋)に行き、水、牛乳、ヨーグルト、菓子パンを購入。支払ったのは、45モルドヴァ・レウ(350円)だけ。残りの通貨は、また何処かで両替することになる。
PM4:35、ルーマニアのブカレスト行きは定刻に発車。明日の午前6時まで、約13時間半の列車旅である。
PM7:30、モルドヴァ側の税関が乗り込んで来たかと思ったら、「少しお金はないかね」と、あからさまに、賄賂を要求してきた。相手になった、同室のインド系イギリス人は、「無いよ」と言って断っていた。東欧の国々では普通の事であると言う。
相部屋になったイギリス人は、以前、原子力発電所で働いていたが、福島の事故をきっかけに退職し、今は小規模な株の取引をして生計を立てている。負けることもあるが、今のところ巧く行っていて、こうして旅行が出来ている。45歳の独身で、結婚の意志は無い。
「結婚すると、旅行等の好きなことが出来なくなるから」と言う。彼は去年もこのツアーに参加しているが、面白いのは、去年と同じコース、同じ国のツアーに参加している点である。他に、幾らでもコースがあるのに。
PM8:00、台車の交換。11月6日の夜、中国国境のエレンで行われたと同様のことが、此処でも行われた。軌道の幅が異なるためである。
ローランド君に「君は運転手だから、どうやって台車を交換するのか知っているのでしょう?」と聞くと、「ジャッキで車体を持ち上げて、ピンと穴を合わせて下ろすだけ。すごく簡単なことです」と言う。プラモデルでも組み立てるかのような、いかにも簡単な手つきで説明してくれた。
PM9:00、ルーマニア側の税関が乗り込んで来てパスポートチェック。後から警察が乗り込んで来て、同行の誰かに「ビザがどうの」とか言って、難癖を付けていたが、リーダーが「この3年間、何も問題になったことはないぞ」と言って追い払ってしまった。頼りになるリーダーである。
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