11月23日(土)
AM6:00、夜行列車は定刻に、ブカレスト駅に到着。ルーマニアの首都駅だけあって、大きな駅である。早朝であるにも関わらず、駅構内は沢山の人が行き交っている。まず、両替をしてルーマニア通過を用意しなければならない。

ブカレスト駅(ルーマニア)

ブカレスト駅(2)
私はまず、残っていたモルドヴァ通貨をルーマニア通貨に両替したかったが、余りに両替率の悪さに躊躇していると、リーダーが「モルドヴァ通貨の両替は、次に行く国である、ブルガリアでやった方がよい」と、アドバイスしてくれた。
私は次善の策として20ユーロをルーマニア通貨に両替した。手にしたのは84ルーマニア・レイ(LEI)であるから、此処での1レイは33円になる。それを持って、駅構内のマクドナルドへ。ハンバーグとコーヒー(小カップ)で10レイ(330円)也。
此処まで旅行しての印象は、庶民の生活や、喜怒哀楽は、何処に行っても同じである。女性はブーツを履いて、ミニスカートを装い、お洒落をしているし、恋人同士は恋を語り、キスを交わしている。人はタバコやアルコールを楽しみ、人民服を着たような人は何処にも居なかった。
ただ、国家単位になった時、その統治の仕方が異なり「時に、権力の魔性が、その牙をむき出しにする事がある」と言う事ではないだろうか。
イギリスのケンブリッジから来てキエフで合流していた男性が、此処で別れて帰国する。9日間の同行であった。彼の前途に幸多かれと祈る。
AM7:10、タクシーにてユース・ホステルへ。割り勘で3レイ(100円)也。
AM7:30、メールのチェックをしていたら、長女の光子からスカイプの呼び出しがあった。繋いでみると、孫の詩子が満面の笑顔で手を振りながら画面に出て「うたちゃん」と言う。誕生してから1年5ヶ月後に、初めて聞いた孫の言葉である。
「確かに”うたちゃん”と言ったよね」と長女に確認すると、「言いました」と言う。年を重ねて、感動することが少なくなった今、「どうしてこんなに感動するのだろう」と自分でも不思議に思う。
此処、ブカレストのミッドランド・ホステル(Midland
Hostel)は、今までのホステルに比べると、快適である。まず、2階にあり、4階、5階までトランクを持ち上げなくて済む。部屋も幾分広めで、特に共同のスペースであるロビーがゆったりしている。
スタッフは笑顔でフレンドリーに応対してくれ、とても印象がよい。ティラスポールのホステルでは、スタッフに笑顔が無く、何を聞いても、気だるそうにしか、返事がなかったが、それと比べたら大違いである。
「湿ったままの衣類があるので、乾かしたいのだが」と言うと、「乾かすだけなら無料で良いですよ、持ってきて下さい」と言う。こんなに嬉しいこともない。
此処のホステルで、イギリスから来ていた国鉄の運転手「ローランド君」とお別れだ。彼とはモスクワで合流し、2週間の同行であったが、特にトランクの上げ下げの時にお世話になった。自己主張の少ない好青年である。
そして、新しく4人の青年が合流して来た。その内の1人はベルギー人、3人はイギリス人である。このYPTの参加者は、種々の国から来ているが、中でもイギリス人が多いのは、中心者のギャレスがイギリス人である事と、関係があるように思う。
AM11:40、ブカレストの市内ツアーに出かける。今日の市内ツアーは、正規のガイドが付かない、リーダーの案内によるツアーである。印象としては、ハンガリーの首都ブダペストと似た雰囲気だと言うこと。これは、同じ東欧圏に属する国だからであろうか。

アテネ音楽堂

旧市街

旧王宮跡に隣接したクルテア・ヴェケ教会(ブカレスト最古の教会)
もう一つ印象的なのは、何と言っても、独裁者チャウセスクが造った大統領官邸だ。何度もテレビでは見ているはずだが、現物の迫力は想像に勝る。大統領は20回も増改築をさせて、今日の官邸を造り上げたと言う。

旧大統領官邸

統一大通り(大統領官邸前)

政府関係者住宅
PM1:30、1879年創業の由緒あるレストラン「カル・ク・ベレ(Caru'cu
bere)」での昼食。私は、大きめの丸いパンの中をくり貫いて、中にビーンズ(豆)のスープを入れた物(12レイ、400円)と、焼き魚(ニジマス)と茹でジャガイモがセットになったもの(29レイ、960円)、それに、飲み物としてペプシ・コーラ(7レイ、230円)をオーダーした。

レストラン「カル・ク・ベレ」

スープ 焼き魚
いずれも、まずまずのお味でした。焼き魚のニジマスに醤油があれば申し分なかったのだが、実際にはレモン汁をかけただけ。チップを入れて50レイ(1650円)は、2日分の予定を、1食で使ってしまった事になる。それでも、東京での半額以下で済んでいると思う。
PM3:30、レストラン発、
PM4:00、ホステルに帰着。シャワーを浴びる。
PM5:00、ポメラを叩く。
PM8:00、若者は、夜のブカレストの町に繰り出して行った。
PM9:30、就寝。
11月24日(日)
AM6:00、起床。洗面を済ましてロビーに来ると、若い女性が居た。何処となく日本人のような気もするので声をかけると、ベトナム人であった。
彼女は夜行バスで、ブルガリアのソフィアから今、着いたばかり。早すぎて、まだチェックインができないのだ。イタリアで経済を勉強して、5年になると言う。ベトナムのこと、日本のことを、しばし語り合った。
メールが自宅に届くようになった。それはGmailだからでもないようだ。Gmailから送った物も届いていなかった。解決したのは、次女からメールが届いたので、それに返送する形で送ったものが届いたのだ。
その時、未送信のまま、送信ボックスにあった物は削除してから試みた。いずれにしても問題が解決して良かったのだが、理由が分かっていないので、同じ問題が再発する可能性は残っている。
AM10:30、市内ツアーに出発。コースは昨日とほとんど同じ。ただし、今日は正式なガイドが付いて。しかしガイドが付けば良いと言うものでもない。今日のガイドは、1カ所での説明が長く、聞いているのが苦痛になってくる。
確認できたのは、これだけ大きな都市になると、通常大きな川沿いにあるのだが、此処ブカレストには、小さな運河しか無く、大河は此処から50kmも離れた、ドナウ川まで行かなければ無いと言う事だ。ブカレストはドナウ川(ルーマニアとブルガリアの国境になっている)の支流であるアルゲシュ川に流れ込むドゥンボヴィツァ川の河畔に位置している。

ドゥンボヴィツァ川
我々は、昔の隊商宿を改造したレストラン、ドラキュラ伯爵のモデルとなった、ヴラド・ツェベシュの像、ブカレスト最古の教会である、クルテア・ヴェケ教会、スタブロポレオス教会、デパート、ルーマニア国立銀行、革命広場、アーケードと見学したが、昨日見学した、悪名高い大統領宮殿以上に、印象に残る物はなかった。

ハーヌル・マヌク隊商宿

旧王宮とヴラド・ツェベシュの像 
スタブロポレオス教会

CEC貯蓄銀行

ルーマニア国立銀行

アーケード通り
ガイドはチャウセスク大統領の失脚以前を「共産主義の時代:Communist
Period」と表現し、暗に「バカな時代であったというだけで、真面目には語れません」と、あざ笑うような雰囲気を漂わせていた。
絶対的権力者が、一夜にして犯罪者として処刑された後の、庶民の気持ちを察するに余りある。日本の敗戦後も、それまでの価値観がすっかり変わって、大混乱が生じたのと同じであろう。変化に乗っていける人、いけない人、進む人、退く人、様々な人間模様が念頭に浮かぶ。
ブカレストの町を歩いていると、経済がまだ活性化していないこともあり、停滞した空気を感じる。同じ東欧でも、ハンガリーのブダペストには、町の中心をドナウ川が流れていて、重厚な歴史を伺い知ることができたが、ここにはそのような大河も無い。
ルーマニアは、もがきながらも、再建の途に着いたが、先は長いようだ。この国も他の共産主義国家と同様、共産主義の権威が没落した分だけ、相対的に宗教が復権しているようだ。あちこちの教会で、修復、再建がなされつつある。ルーマニアもロシア正教が主流である。
PM2:00、3時間に渡る、若干退屈な市内ツアーが終了。昼食用の通貨を用意するために、10ユーロ(1380円)だけ両替する。手元に来た現地通貨は44レイだから、ここでの1レイは、31円である。
PM2:30、昼食。メニューは、
アラビアン・スパゲッティ 20
スープ 10
合計 30レイ(930円)也。
PM3:30、スーパーによって、今夕の食材と、夜行列車での飲食物を調達。水、牛乳、バナナ、ヨーグルト、ピーナッツ、菓子パン3個。34レイ(1050円)持参の所、レジで計算したら37レイ(1150円)であった。幸い、同行者のフィンランド人が不足分を出してくれて助かった。
PM4:00、ホステルに帰着。朝方懇談したベトナム人女性とシリル君(フランス人)を交えて懇談。彼女は受付に洗濯物を頼んだが、水道管工事のため断水中で、洗濯が出来ないと言われて困っていた。
「イタリアで勉強する費用は何処から出ているの?」と聞くと、「奨学金として、全額、イタリアから貰っています」と言う。ベトナムで旅行している時に出会った女性も、そんな事を言っていた。
シリル君は、アルバニアのティラナでの解散後、ロンドン経由の安い飛行機でパリに帰る様に手配をしたのだが、ロンドンでの乗り継ぎが、電車で1時間以上離れた、別の空港(ガトウィク空港〜ヒースロー空港)であることが分かり、落ち込んでいた。
PM4:45、ポメラ・タイム。夕べ就寝中に蚊に食われたようだ。右手首と首の右側が赤く腫れている。この旅では初めての事である。受付に相談すると、アルコール消毒をしてくれた。
PM7:00、夕食。メニューは、菓子パン、バナナ、牛乳。
PM8:00、出発までソファーで仮眠。
PM10:00、タクシーでブカレスト駅へ。割り勘で5レイ(165円)也。外は雨である。ブルガリア共和国のソフィアへ出発。
PM11:10、モスクワから到着した列車は、我々を乗せて定刻に発車。我々は椅子席に座り、数分の間、息を整えていると、リーダーが来て、「間もなく寝台車の方へ移動するから、このまま待っていて欲しい」と言う。
車掌に賄賂を渡して、寝台車に移るのだそうだ。何度かそのやり方が成功しているらしい。10分ほど経つと、「賄賂を渡して交渉が成立したので、皆、隣の車両に移るように」と言う。話としては面白いが、これで誰が得をし、誰が損をしているのか。
得をしているのは、リーダーと車掌で、損をしているのは、列車を運行させている当局。つまりこの場合は国家。我々は、多分、損もしてなければ、得もしていないであろう。なぜなら、我々の旅程には、最初から寝台列車(sleeper train)となっており、その運賃は、旅行費に入っているであろうから。
11月25日(月)
AM1:40、寝ているところを起こされて、ルーマニア側のパスポートチェック。
AM3:40、再び寝ているところを起こされて、ブルガリア側のパスポートチェック。
AM7:40、起床。朝食。メニューは、買い置きの菓子パンとバナナ。菓子パンは、美味しいところを床に落としてしまうし、バナナは、食べごろになると思って楽しみにしていたら、既に半分ぐらいが熟れすぎていた。
昨晩、夕食として食べた時は、まだ青いので、少し早いかなと思っていたら、丁度食べ頃で「久しぶりに美味しいバナナに出会った」と、喜んでいたのに。半日後には、もう熟れすぎていた。バナナは、食べるタイミングが難しい。
AM9:30、ソフィア駅に到着。直前になって、数日無かった便通を催してきた。列車は、間もなく目的駅に到着するし、食事より大事な便通は催してくるし、「トイレに行くべきか行かざるべきか、それが問題だ」。

ソフィア駅(ブルガリア)
私は、行くことにした。結果は、間に合いました。すばらしい物がお出ましになり、気分壮快で、初訪問のルーマニア、ソフィア駅に降り立ったのであります。第1印象は、ブカレストより幾分、明るさと活気を感じた。
まず両替だ。ここでも、モルドヴァの通貨は受け付けなかった。ロシア・ルーブルが残っていたので、それを両替した。1000ルーブル(3560円)が40ブルガリア・レヴァになったので、1レヴァは、89円と言うことだ。
毎日のように両替していると、通貨の価値が混乱してくる。しかし、今のところ、メモを付けているので、何とか追跡できている。しかし、それも日本円からロシア・ルーブルへ、更にブルガリア通貨へ等と、再両替、再々両替のようになっているので、世界標準の通貨価値と現実の両替通貨とは、相当の開きがあると思う。
AM10:00、タクシーにて、ユース・ホステルへ。危うく間違ったところで降ろされそうになったが、同乗者のイギリス人が、スマートフォンで間違いに気が付き、方向転換。運転手は、「君たちの友人(つまり、我々のリーダー)が、そう言ったので」と、盛んに弁解していた。ここでもスマートフォンは、その威力を発揮していた。割り勘で5ユーロ(690円)也。
AM10:15、無事、目的のホステルに到着。雑居ビルの3階にそのホステルはあったのだが、前日のブカレストでのホステルに比べると、小規模で狭い。共同スペースのロビーは、4畳半位しか無く、そこに4人用のテーブルとパソコンが1台置いてあるだけ。
受付が別にあるわけでもなく、1人のスタッフが、そのパソコンの前に座っているだけである。特に狭さを感じさせたのは、バスルームである。トイレとシャワーの仕切りのない部屋が、1つあるだけ。一人で満員状態なのである。
50歳近くに見える、愛想のない女性が一人で仕切っていた。前日から居た連中に、「11時には出て行きなさいよ」と追い立てていた。背は小さいが態度は大きい人である。
私が、どうも虫に食われたようだけど、「何か付ける薬はありませんか」と言うと「見せてごらん。それは、トコジラミ(bedbug)だね。蚊じゃないよ。何処でやられたの?衣類全部に付いている可能性があるから、あなたのトランクの中にもいるよ」と言いながら、「付ける薬はない」と言う。
食われたところが赤く腫れて、化膿したようになっているのだ。一緒に話を聞いていたイギリス人は、「俺と同じ部屋に来ないでくれ」と言う。私に決定権はないが、出来れば私も彼と相部屋になりたくなかったので、丁度良かった。彼のイビキに少々悩まされていたからだ。
AM11:50、昼食に出かける。寿司店でサーモンとエビのノリ巻きを注文。海外で食べる寿司としては、まずまずの味だ。寿司店とは銘打っているが、店の中に入ってみると、寿司以外のメニューの方が多かった。味噌汁もなかったので、グリーン茶を注文したら、砂糖、レモン、蜂蜜を添えてきた。勿論なにも使わなかった。醤油はキッコーマンでした。

ノリ巻き(昼食)
PM1:00、昼食後は、市内見学に。主な物は以下の通り。
1、バーニャバシ・モスク:1566年設計の浴場に隣接した、トルコ様式のイスラム寺院。 
2、大統領官邸 
3、聖ゲオルギ教会:ローマ帝国時代の4世紀に創建。内部には10世紀から14世紀にかけてのフレスコ画があり、周囲には浴場跡をはじめとする古代ローマの遺跡がある。 
4、解放者記念像:ホテル・ラディソンBLUを背にして、国会議事堂広場に建つのは、ロシア皇帝アレクサンダー2世(1818〜81)の騎馬像。アレクサンダー2世は、露土戦争の勝利によって、ブルガリアをオスマン朝から解放した英雄である。当日はデモ隊が集まっていた。

5、アレクサンダー・ネフスキー寺院:バルカン半島で最も美しいと言われる教会。この寺院は、ブルガリア独立のきっかけとなった露土戦争(1877〜78年)で、戦死した約20万のロシア人兵士を慰霊する目的で建築された。

「日本・ブルガリアの国交回復40周年を記念して、日本よりソフィア市に桜を50本寄贈する」と、日本語とブルガリア語で書かれた石碑のある公園に来た時、皆から「英語に訳してくれないか」と言われたので、訳してあげた。1999年10月12日の植樹にしては、桜の成長が遅いと思われた。

日本・ブルガリアの国交回復40周年を記念して
日本では、ブルガリアというと、ヨーグルトを思い浮かべるぐらい「ブルガリア・ヨーグルト」の名前が定着しているが、現地でスーパーを覗いてみても、ヨーグルトの陳列が特別に目に付くと言う事はなかった。
PM4:00、一旦ホステルへ帰る。
PM6:00、正式なガイドの案内で、再度市内見学。歩いたところは大体同じであるが、分かりやすい解説を聞くと、興味が深まる。
街の中心にセント・ソフィアの像があるが、かつてはそこに、レーニンの像が建っていた。そしてまた、ソフィアの首都名とセント・ソフィアの名前は、たまたま同じだったと言うだけで、何の関係もないそうだ。ずいぶん適当な事をするものである。「レーニンの像を残しておくよりはまし」とでも考えたのであろうか。
地下鉄工事等のために、ソフィアの街を掘ると、至る所にローマ帝国時代の遺跡が出現するので、調査をしなければならず、工事が進まないと言う。ここは、そのローマ帝国時代から、東西交通の要所であったらしい。
キリル文字を考案した二人の立像があった。キリル文字は、正教会の宣教師、キュリロスとメトディオスの兄弟が、スラヴ人に布教する為に、ギリシャ文字を下地に考案した。そして、キュリロスが作った文字と言う意味から、キリル文字(Кириллица)と呼ばれるようになった。

キュリロスとメトディオスの兄弟
ブルガリアは、いわゆる正教であるが、ロシア正教とも、ギリシャ正教ともまた違うという。その正教徒が人口の大半を占め、他にユダヤ教徒、イスラム教徒、カトリック教徒が少しずつ存在している。
PM8:00、氷雨の中を歩く、市内ツアーが終了した。帰る途中で、ピザと牛乳を買ってユース・ホステルで食した。3レヴァ(270円)
PM10:30、就寝。
11月26日(火)
AM7:30、起床。昨夜来の降雪で、屋根には1cmの積雪。
AM8:30、マケドニア共和国のスコピエにゆくバス停まで、私とリーダーは、ユース・ホステルからタクシーにて出発。10レヴァ(890円)也。途中の雪道で、足を滑らせて転んでいる人を数人見かけた。他の若者達は、地下鉄で移動。
大きなバスの発着場所が、少し離れて2カ所に分かれていたが、我々は自分たちのバスの発着場所ではない方に、タクシーから降ろされてしまった。300m程の移動で済んだが、雪が積もっていたので、滑らないように気をつけて、トランクを運ばなければならなかった。

バスターミナル

バスターミナル(2)

バスターミナル(3)
ここは、国際バスの発着場所らしく、ブルガリアのソフィアから、マケドニアのスコピエ迄行く、我々のバスの他に、スロバキアのブラチスラバや、チェコのプラハを経由して、ドイツのベルリンや、ブレーメンまで行くバスも停車していた。国際バスがない日本では見られない光景である。どのバスも、大きく新しいバスで、下には広い荷物室を備えている。

9時30分発のスコピエ行き
今までは、(夜行)列車での移動であったが、今日は、今回の旅で、初めてのバスでの国境越えである。我々は、自分達の乗るバスを確認してから、腹ごしらえをした。とは言ってもサンドイッチとコーヒーの立ち食いである。

バスでの国境越え
AM9:30、スコピエ行きのバスは、7割方の乗車率で定刻に発車した。市内を抜ける間、工事中の道路が多く、あちこちを迂回して走っていた。幾つかのトンネルを抜けると、起伏とカーブの多い、山道を走っている。国境越えは山道になるようだ。
周りはうっすらと雪化粧して、本格的な冬のシーズンを迎えたようだ。峠では小さな樹氷も見られた。外気温は0℃を示しているが、車内はホカホカと暖かい。
AM11:30、トイレ休憩。売店で、残っていたブルガリア通貨を使って、ジュースとスナックを購入。時間があったので、周りの風景を写真に収めた。

国境の売店
AM12:00、国境でのパスポートチェック。まず、ブルガリア側の税関係員が乗車してきて、一人一人の顔を確認しながら、パスポートを集めていく。やがて、出国スタンプの押されたパスポートが返却された。
次に、100m程離れた、マケドニア側の税関で、同様の手続きが行われ、マケドニアの入国スタンプが押されてきた。この間、バスは100m程動いただけで、約45分間経過している。
ここで気が付いたのだが、我々のパスポートには、「トランス二ストリア」のスタンプが押印されていない。理由は、ロシアが独立を認めているだけで、その他の国々は、まだ独立を認めていないからである。つまり、世界的な認識では、トランス二ストリアは独立国にはなっていないのである。
PM0:45、国境を通過。国境を越えると、一時的に緊張していた気分が緩むのか、リーダーが先頭を切っての酒盛りが始まる。アルコールと紙コップは、既に買って用意されていた。後は、山道を反対側に降りていくだけである。運転手は、スピードが出過ぎないように、何度もブレーキを掛けていた。
PM2:30、小雨の降る中、バスはスコピエに到着。早速両替。20ユーロ(3760円)を差し出すと、1220ディナールのマケドニア通過が渡された。1ディナールは、3円になる。
トイレに行くと、入り口に女性がいて「10ディナール(30円)」とか言っている。今両替したばかりで、通過の単位も貨幣価値も分からないので、とっさにポケットにあった小銭を差し出したら、その中から適当に取ってくれた。本当にそれが10ディナールに相当するのかどうかは、分からないのだが。
PM3:00、総勢15人のメンバーは、4台のタクシーに分乗して、バス停から10分程の、シティ・ホステルへ到着。前日の宿とは異なり、フレンドリーな応対である。部屋の広さも、ホステルとしては十分である。
時差の関係で時計の針を1時間戻す。これで日本との時差は8時間になったと思う。
PM4:00(現地時間PM3:00)、氷雨の降る中、市内観光へ。ブルガリアのソフィアより、街の雰囲気は明るく、より洗練されているように見えるが、リーダーの話では、「この1年間でずいぶん新しくなり綺麗になった」と言う。
まず、マザーテレサの記念館とか銅像が、街のあちこちに見られる。彼女の生誕がこの街だからである。しかし生前彼女が活躍していたのはインドのコルカタで、この街ではない。アレクサンダー大王の事も、もう少し調べてみないと何とも言えない。

マザーテレサ記念館
街の中央広場(マケドニア広場)の真ん中には、アレクサンダー大王の巨大な像が建造されている。これに付いては、何かといちゃもんが付いているらしい。更に、それ以前の話として「マケドニア」と言う国名を使うべきではないとか。マケドニア広場の南側にはマケドニア門(2012年1月完成)、北の方にはヴァルダル川が流れており、オスマン朝時代の石橋も架かっている。

アレクサンダー大王像

マケドニア門

ヴァルダル川に架かるオスマン朝時代の石橋
PM5:00、夕食。イスラム系のトルコ料理店で、ミックス野菜サラダ(80ディナール)とケバブ(280ディナール)を注文。ケバブの美味しい物を食べたことがないので、期待したのだが、はっきり言えば期待はずれであった。
食後にカナダ人学者の卵が、「美味しかったですか、不味かったですか」と、親指を上に向けたり、下に向けたりして聞いてきた。私が、親指を水平より少しだけ上に挙げると、「私が食べたものも、そうでした」と言って笑っていた。
此処でのケバブは、焼き鳥の串刺しの代わりに、羊の肉が串刺しになっているだけで、私には、羊より鳥の方が美味しく感じられた。ホステルへ戻る途中で、スーパーに寄って明日の朝食用の食料を購入。パン、牛乳、果物等で合計206ディナール(618円)也。
PM8:00、ホステルに帰着。快適な宿に来て良かったと思っていたら、思わぬ所に落とし穴があった。シャワーを浴びていたら、段々お湯がぬるくなり、冷たくなってきたのだ。リーダーを呼んでもお湯は復活せず、結局諦めて、シャワー室から震えながら出てきた。
20歳の娘と38歳の母親がこのツアーに参加している事は前に書いたが、その娘の行動について、書かざるを得ない。
彼女は、いつの間にか、オーストラリア人のラクランと恋人気取りである。こんな事ならどこにでもある話で、特段取り上げるような話ではない。ところが彼女は、夜になるとラクランの部屋に入り浸りなのである。
今夜は、我々男性6人の部屋にパジャマ姿で来訪し、ラクランのベッドで二人は懇ろである。そう言うことならば、娘は、母親と二人だけの部屋をあてがわれているのだから、ラクランが娘の部屋に行けば済むことであろう。
ところが、他の男性が5人も居る中で、公然と包容する姿は、私の育ってきた文化の中にはあり得ない。他の男性は、何事もないように振る舞っているが、私は「なんと遠慮のない振る舞いか!」と、怒りさえ覚えている。
これを「文化の違い」と言うのであろうか。二人の愛を「秘める」のではなく、「ひけらかす」のである。男達が寝る頃には、自分の部屋に戻るのかと思いきや、結局翌朝まで、そのままであった。母親も、そのように、し向けている節がある。
私は、日本の歴史が育んできた「遠慮」の文化は、「おもてなし」「もったいない」等と同様、他国には無い貴重な文化であると思う。従って、このような文化は、今後どんなに日本が国際化しようとも、失ってはならない、過去からの遺産である。
しかし、ひとたび対外交渉において、「遠慮」なんかしていたら、相手の思う壺である。日本外交が弱腰に見えるのは、案外、遺伝的に我々日本人の血に流れている「遠慮」に、その原因が有るのではないだろうか。20歳のイギリス人娘の振る舞いを見て感じた次第である。
PM11:00、就寝。若者の談笑は続いている。
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