11月15日(金)
AM4:45、トイレに行く。
AM6:30、ロシア側の税関係員が乗車してきて、パスポートのチェック。
AM7:00、発車。
AM9:15、小便を済まして手を洗っていたら、車掌がトイレのドアを閉めに来た。タッチの差でトイレに入り損なうところであった。列車が間もなく停車して、ウクライナ側の税関チェックが始まったのである。税関のチェックが終了して列車が動き出すまで、トイレは使えないのだ。
AM10:00、迷彩色の服を着た、軍人のような係員が来てパスポートのチェック。ウクライナ(YKPAIHA)のスタンプを押していった。
AM10:30、別の男の2人組(秘密警察)がリーダーのところに来て、なにやら大声で話し合っている。言葉が通じ合っていないようだ。私の前に居た若いカップルの内の男性が、通訳をしてくれて、事態は収まったが、リーダーが言うには「賄賂を要求してきたが断った」のだそうだ。
AM11:30(ウクライナ時間、AM9:30)、発車。モスクワとの時差は2時間だ。これから後は、ウクライナ時間で書くことにする。
AM10:30、食堂車へ行く。その途中で分かったのだが、この列車にも4人個室の2等車、2人個室の1等車が付いていた。どうして我々は大部屋の3等車だったのか?2等車が36人乗りに対して、3等車は更に18人多く、54人が乗れる。
食堂車で、私はロシアの定番スープ、ボルシチ(ロシア語の発音では、ボルシュ)を頼んだ。中にジャガイモや肉が入っていて、美味しいのだが、肉は冷たかった。冷凍物で料理しているのであろう。スライスしたパンが付いて、150ルーブル(530円)也。
食堂車の電光掲示板は、車外気温7℃、車内気温30℃を表示していた。道理で暑いわけだ。ウクライナに入ってからの光景は、どこまでも左右に広がる平野。所々に見かける雑木林の落葉樹は、深秋の裏寂しさを物語っている。
PM0:30、キエフ着。14時間余りの夜行寝台列車の旅であった。何よりも、車内が暑く、冬支度で乗車していた私は、着替えることもできず、上着を脱いで堪え忍ぶしかなかった。
キエフ駅について「キエフ」(КИЕВ)の文字を探したが、何処にも見当たらない。ただ「セントラル・ステーション(ЦЕНТРАЛЬНИЙ
ВОКЗАЛ)」の文字があるだけである。駅前には、多くのタクシーが客待ちをしている。

キエフ駅

キエフ駅前
同行者は、待合室に置いた荷物を、私に見ていてくれるように言って、両替等に出かけて行った。待合室に書かれた文字を読んでみると、キリル文字が主体だが、ロシアの文字と完全に同じではないようだ。
PM1:30、今夜のユース・ホステルまでは、歩くと20分掛かるが、タクシーだと10ユーロで行ってくれるという。他の青年たちは歩きを選んだが、私はタクシーを選んだ。リーダーは、グーグルのGPSで、ホステルの位置を確認し、そのスマートフォンを青年たちに与えた。
リーダーは私と一緒にタクシーでホステルへ行ってくれるつもりだ。交渉のできているタクシーの運転手と共に、車の所まで歩き、荷物を荷物室に入れ、我々2人が後部座席に座った時、運転手が「何処まで行くのか?」と言ったらしい。
そのとたん、リーダーはタクシーから飛び出して「アラン!アラン!」と大声で叫びながら走って行った。しかし、スマートフォンを貸し与えたアランたちの姿は、既に見えなくなっていた。
リーダーは戻ってくると、「ユース・ホステルまで10ユーロで行くと言ったではないか、それを、今になって何処に行くかとは何事だ!」と、真っ赤な顔をして怒っている。余りの血相に、タクシーの運転手は呆気にとられていた。リーダーは興奮状態を呈しながらも、内心は極めて冷静であった。
彼は私に「ここでは、WI-FIが使えるが、携帯電話を持っていますか?」と言う。私が「パソコンなら持っています」と言うと、「WI-FIでグーグルにつないでもらいたい」と言う。
私はタクシー乗り場でトランクを開き、パソコンを取り出した。幸いにもグーグルに繋がり、ユース・ホステルの電話番号が検索できた。その電話番号に運転手自ら電話をさせ、行き場所を確認させたのである。
リーダーの、こう言う時の喧嘩の仕方は、多くの経験をしてきただけあって、さすがだなと思わせる。我々は10分足らずで、無事ユース・ホステルに着き、10ユーロを払った。我々の到着時刻は、歩いてきた若い連中と同時であった。
PM3:00、蒸し暑い列車に、14時間余りも監禁状態であったためか、若干頭痛がする。夕食の時間まで休むことにする。
PM7:00、今日は、新しく14人が加わって、ツアーの参加者は一気に20人となった。この時期に参加してきた連中の目的は、チェルノブイリ原子力発電所事故の見学である。
夕食は、近くの賑やかな酒場で取ることになったが、現地通貨しか使えないと言うので、ホステルの兄さんに10ユーロ(1380円)だけ両替してもらった。110グリヴナを手にしたので、1グリヴナは、12.5円になる。飲めない私は、食事だけして早々に退散してきた。ステーキとポテトとコーラで60グリヴナ(750円)也。お味は、まずまずであった。
PM9:00、ホステルに戻り、そのまま就寝。
PM11:00、目が覚めたので、シャワーを浴びて再び就寝。
11月16日(土)
AM6:30、起床。
AM7:45、総勢20人は、マイクロバスでチェルノブイリに向かって出発。途中、サンドイッチと牛乳で朝食。17グリヴナ(210円)也。リーダーの彼女も、昨夜、飛行機で駆けつけ、今朝、ツアーに合流した。彼女は不動産の広告宣伝を手広くやっているそうで、かなりリッチなようだ。

ユース・ホステル前の通り
車内では、チェルノブイリ原発事故の記録映画が映し出されている。1986年4月26日、ゴルバチョフ大統領の時代だ。市民には事態の深刻さが知らされず、5月1日のメーデー祭は予定通り実行されていた。
AM10:00、チェルノブイリに到着。キエフからは北に150km(直線距離で100km)位の道のりか。車外に出て待機すること30〜40分。今日は、この旅行期間で最も寒さを感じる日である。私は防寒具に身を固めていたので良かったが、イギリス人女性(20才)が、軽装で来て震えていた。

この先、立入禁止!

入場許可を待っている
私はリュックにウインドブレーカーがあることを思い出して、貸してあげた。着ないよりは余程ましだったようで、喜んでくれた。側にいた女性が「私の娘です」と言う。友人なのかなと思っていたのだが、親子だと言う。
それもそのはずだ、段々分かってみれば、母親は38才で未婚だそうだ。競馬場で馬券売りをしている。仕事は退屈なので、辞めて来年から大学に行くつもりだと言う。娘は現在カレッジで英語を勉強中で、終了後は日本に留学したいと言っていた。
「どうやって、このツアーを知ったの?」と聞くと、母親が「私はリーダーのフェイスブックを見ており、彼のファンです」と言う。このツアーに参加している人たちは、何らかを通して繋がっている人が多い。
フィリピン系アメリカ人のビデオレポーター(現在はオーストラリア人と結婚してメルボルン在住)も、この数日だけの参加だ。やはり目的はチェルノブイリの見学だという。
彼女はアメリカの大学で1年間、日本語を学んだことがある。日本には従兄弟が居て、ミュージッシャンとして活躍していると言う。名前を「スィートボックス、sweetbox」と言うそうだが、生憎私は知らない。聞いたところでは、ドイツ出身の音楽グループで、クラシック音楽とラップの組み合わせで成功したと言う。
彼女の故郷であるアメリカのサンジェゴは、気温が1年中22℃〜25℃で、とても住みやすいそうだ。彼女は、ビデオ報道のプロらしく、キヤノンの高価そうなカメラに、固定用の1本足を付けて持ち歩いている。
ドイツのミュンヘン近郊から来ている男性は、北朝鮮に7回も行っていると言う。「何がそんなに面白いのか?」と聞くと「ピョンヤンと田舎の変化が大きいのが面白い」と言う。「日本人にとって北朝鮮は、誘拐される怖い国とのイメージがある」と言うと
「北朝鮮は、第2次大戦に於いて、日本からもっとひどいことをされている。今や、日本はアメリカと並んで2大敵国と喧伝されています」と言う。そして「北朝鮮は何も変化してないように言われていますが、毎年、行く度に大きく変わっている」そうだ。
フィンランドから来た30才前半の男性は、トラム(路面電車)の運転手。「忙しいですか」と聞くと「猿でもできる仕事です。余り退屈だから仕事を変えようと思っています」と言う。サイドビジネスで、音楽とビデオの作成に従事している。
他にもノルウェーからの女性、英国からの男性等が参加していた。他のバスも数台到着した。まだ多くはないが、今やチェルノブイリは、観光地となりつつあるのだろうか。

観光地化が始まっている
AM10:50、我々のグループは、やっとパスポートのチェックが終わってチェルノブイリへの入場を許された。あらかじめ入場者の名簿を作成し、それを提出するようになっている。冬山の入山届けのようなものか。

チェルノブイリへの入場を許可

チェルノブイリ(ЧОРНОБИЛЬ)の門
しばらくは、雑木林の中に、打ち捨てられた廃墟を見ることになった。廃墟になった幼稚園のホットスポットでは、いまだに放射線測定器のガイガーカウンターが、振り切れる値を示していた。

原子力発電所へ通じる道路

事故処理に使用されたロボット

ガイガーカウンターが振り切れた

廃屋となった幼稚園
チェルノブイリでは、事故当時、更にいくつかの発電所の建設を進めていたようで、未完成の巨大なクーリングタワーが、放置されていた。付近には巨大(幅5km、長さ18km)な人造湖があり、運河を巡らせて、水を引いている。そして、鉄道線路を引いて資材の輸送を行っていた。

未完成のクーリングタワー
爆発した発電所(チェルノブイリ4号基)は、石棺と呼ばれる石の棺桶に封じ込められている。そして、そこからわずか3kmの隣町、プリピャチも完全に廃墟になっている。この街は、ソビエト連邦時代の1970年に、チェルノブイリ原子力発電所の従業員用の居住地として創建され、事故直前の人口は約49,400人であった。

4号機の石棺の前で

これより、プリピャチ(ПРИПЯТЬ)
現在でも、道路1本隔てただけで、ガイガーカウンターの示す値は全く違う。片側が安全な数値を示したかと思うと、道路の反対側は数値が高すぎて、計測が困難なことを示している。遊園地では、メリーゴーランドや巨大な観覧車、ゴーカート等がそのままの姿で置き去りにされており、サッカースタジアムの観覧席は、その椅子が朽ち放題である。

遊園地

遊園地(2)

遊園地(3)

サッカースタジアム
廃墟になった学校を見学すると、飛び込みの練習ができるプールや、防災訓練に使われたと思われる、夥しい数の防毒マスクが、無惨な姿で放置されていた。

飛込み台のあるプール

学校

防毒マスク(教室内で)
近くのアパートを覗くと、トイレと浴室が分かれた、恵まれた設備の家であったことが分かる。約5万人の市民は、平和で快適な生活を楽しんでいたと想像できる。事故から27年もたつと、町全体がゴーストタウン化し、空しさだけが残る。

恵まれた設備のアパート
これらは、更地にすることなく、そのままの姿で残されているので、その無残さを、見学者にダイレクトに語りかけてくる。福島の原発事故も、似たような姿を晒さざるを得ないのであろうか。廃炉になると言うことは、町全体がなくなるということでもある。
PM3:50、ボディチェックを受けて、約6時間にわたるチェルノブイリ見学を後にする。昼食も取らずに、見て回ったので、空腹と疲れを覚えた。
PM4:00、チェルノブイリ見学者を当てにしたような、近くにあるレストランで夕食。メニューはサラダ、肉とジャガイモの煮っ転がし、紅茶。この時間まで昼食を待たされると、何を食っても美味い。やっと、空腹が治まった。
この昼食は、旅行代金に含まれていたが、チェルノブイリを案内してくれたガイドに対するチップは別である。たまたま2ユーロのコインが2個(550円)あったのでそれをあげることにした。少し弾みすぎたかな?若い連中は、食後にビールを飲みだした。
PM5:30、レストランを後にする。
PM5:50、2回目の放射線のボディチェック場所に来たが、係官が居らず、機器も作動していなかったので、ノーチェックである。観光でチェルノブイリに来る人は極めて珍しいと思うが、そんなことを企画するところが、このツアーの変わったところであろう。
PM8:00、ユース・ホステルに帰着。無線のWI-FIで、メールの送受信を試みるが、受信ができて、送信ができない。不思議な現象だ。受信もかなりの時間が掛かっている。
@niftyの会員サービスを利用して、何度も送信を試みるも、「大変込み合っているので、後ほど試してください」とのメッセージが出るばかり。これでは会員のサービスにはなっていないだろうに。
PM9:30、若者はパブへ出かけた。
PM11:00、シャワーを浴びて就寝。
11月17日(日)曇り、時々霧雨
AM6:30、起床。
AM7:00、ユース・ホステルで朝食。パン、ハム、チーズ、ジュースをリーダーが用意していてくれた。
AM8:20、ミサイル基地を目指して出発。リーダーと彼女の二人は、ユース・ホステルに残った。彼女は今日、モスクワに戻るようだ。
キエフの町並みは、落ち着いているが、古びて、くすんでパットしない。しかし、春になれば街路樹の多いこの町は、見違えるように美しく変化するかもしれない。
AM10:00、ガソリンスタンドでトイレ休憩。売店で、牛乳、水、バナナを購入。30グリヴナ(370円)也。バナナと水があれば何とかしのげる。私のサバイバル法である。
ミサイル基地に着くまでの間、バスの車窓から見える景色は、肥沃な農地であった。ウクライナは穀倉地帯だと聞いていたが、なるほど、殆ど起伏のない平らな大地が、地平線の彼方まで広がっている。

地平線の彼方まで(ウクライナ)
これは、オーストラリアの、ど真ん中(スチュアートハイウェイ)を走った時とは、カーブが殆どない直線であることと似ているが、一方は砂漠、こちらは肥沃な穀倉地帯である。こんなに直線が続くと、運転手が居眠りをしないかと心配である。 
何処までも真っ直ぐな道路
PM0:20、ミサイル基地に到着。キエフからバスで4時間もかけて来たのだが、いかにも殺風景な所である。「此処は何という地名ですか」と聞くと「地名はありません、番号が付いているだけです。しかし、その番号も教えられません」と言う。

ミサイル基地

ミサイル基地(2)
ミサイル基地の博物館だと言いながら、この秘密主義である。しかし、スマートフォンで検索すると、我々の現在地がすぐに分かった。キリル文字で「ВIННИЧЯ ヴィーンヌィツャ」と表示されているので、調べてみると、キエフの南西260kmにある事が分かった。
「通常は英語の教師をしています」と言う若い女性が、この基地について説明している。「この仕事に携わって3年半になるが、この基地のことなら何でも知っている」と言う風情である。

「この基地の事なら何でも聞いて下さい」
地上に展示されているロケットや、それらを運ぶ巨大なトラックを見学した後、我々は地下40mの指令室まで降りて行った。此処の職員を含めて、たった4人しか乗れないエレベーターで、20人を地下に下ろし、そこの指令室を見せて、また地上に上げるのである。

ミサイル基地(3)

ミサイル基地(4)

地下ミサイル格納庫

地下40mの指令室へ

地下40mの指令室にて
そこの50才代と思われる親父さんが「俺はこんな狭いところで、下りたり、上がったり、週に4日もやっているんだよ」と、自嘲気味に語っていたのが印象的であった。
いずれにしても、ただ他国を破壊するために、死力を尽くし、全知全能を傾け、膨大な金を注いできた訳だ。しかも、一度造ればそれで終わりではなく、常に新しい武器に更新し、レベルアップしなければならない。つまり、この恐るべき無駄使いには、終わりがないのである。
このようなミサイル基地が、ウクライナだけでも、10カ所以上存在している。かつて、ケネディ大統領とフルフチョフ首相の時代に、いわゆる「キューバ危機」が発生し、米国とソ連が一触即発の事態に陥った。その時、ソ連はこのミサイルを、キューバに持ち込もうとしたのだ。
それにしても、今回のツアーは、通常の名所旧跡や、世界遺産を巡るものではなく、非常にマニアックな旅である。「何となく怪しげなツアーだな」とは感じていたが、ここまでやるとは予想していなかった。それにしても、せっかくキエフまで来たのだから、ドニエプル川の流れ位は見たかった。
PM2:40、ミサイル基地を出発して、ユース・ホステルへ戻る事に。
PM3:30、途中の休憩所で、ランチタイム。クロワッサン2個と、コーヒーで2.7ユーロ(370円)也。スナック2個で1.1ユーロ(150円)也。モスクワより、大分安くなったと感じる。
PM4:30、休憩所を出発。我々のバスは、街灯のない暗い道を、自ら照らすライトと対向車線を走ってくる車のライトを頼りに走っている。この長い時間を、私はフランク永井とテレサテンの歌を聞いて過ごした。おかげで心地よく過ごすことができた。
PM7:30、ホステルに帰着。すぐに、オデッサに向けて出発の準備をする。同室に日本人の青年が来ていることが分かり、挨拶をした。
彼は「2年前から世界一周の旅に出て、北米、南米、アフリカ、ヨーロッパと巡り、今日、キエフのこのユース・ホステルに着きました。この後は、数ヶ月掛けてアジアの諸国を回り、日本に帰ります」と言う。
「予算は500万円ぐらい。旅に出る前に働いて貯めました。今の時代は、インターネットがあり、お金は世界の何処に居ても引き出せるので、旅行がしやすいです」と言っていた。千葉県の市川市在住だそうだ。
PM8:30、ホステルを出発。私は他の2人とキエフ駅までタクシーを使った。3ユーロ(414円)也。割り勘にすると一人当たり138円だ。2日前に駅からホステルに来た時は、その10倍も払っている。リーダーが喧嘩腰で交渉していたのに、そんなに高額を払っていたとなると、複雑な思いが残る。
キエフ駅の売店で、菓子パン3個を購入。2ユーロ(270円)也。待合室での待ち時間に、同行の2人の男性と懇談。一人は、ニューヨークで印刷業に従事している42歳の男性。ブルックリンのアパートに在住である。ロッククライミングが趣味であるそうだ。
もう一人は、アイスランドから参加している大工さん。国語はアイスランド語で、英語よりもノルウェーやデンマーク語に近いそうだ。
PM9:56、キエフ発のオデッサ行きは定刻に発車。今夜も9時間の夜行列車での移動だ。北京から数えて12泊目だが、その内、宿のベッドに寝たのは3泊だけで、9泊は列車の中である。
オーストラリア縦断やアメリカ横断の時に経験した、キャンプ場でのテント泊も、不自由ではあったが、シャワーが使えた分、夜行列車よりは、快適だったかも知れない。今回の寝台車のグレードは、シベリア鉄道並のレベルで、4人個室である。
列車が発車すると、各々が持ち寄ったビールやウォッカで、談笑が始まった。20人の内、10人近くが私たちの部屋や、その戸口に集まっている。私も、しばらくその輪に加わっていたが、眠くなったので、11時半に上段のベッドに上がって寝た。
若い人たちの談笑は、午前2時まで続いていたらしいが、私はすっかり夢の中であった。翌日「昨夜は遅くまで騒いで申し訳ありませんでした。よく眠れましたか?」と言う人や「あんなに騒いでいたのに、上のベッドでスヤスヤ寝ている人が居たのには驚きました」と言う人が居た。
11月18日(月)
AM6:30、起床。
AM7:15、夜行列車は定刻にオデッサ駅に到着。
AM7:30、大きな荷物を駅構内の荷物預かり所に預ける。2ユーロ(270円)也。今夜はこの町に泊まることなく、次の町に移動するためである。

オデッサ駅

オデッサ駅前公園
AM7:50、喫茶店にて朝食。皆は、各々のメニューを頼んでいたが、私は昨夜、乗車前に買った菓子パンがあったので、コーヒーだけを注文した。

喫茶店で朝食(オデッサ)
AM9:30、近くにある市場まで散策に出かける。私は、美味しそうな果物があれば欲しかったが、新鮮味に欠ける物しか見当たらなかった。

市場(オデッサ)
ウクライナを歩いていて気が付いた事の一つに、ロシア語との違いである。ウクライナ語の中にはロシア語にない「I」の字が入っている。全体的にはロシア語と同じキリル文字と言って良いのであろうが、ローマ字が一部混じっているのだ。そうなると、持参のロシア語辞典は役に立たない。残念!
AM10:15、拠点の喫茶店にいったん戻り、現地ガイドの到着を待つ。私には暇つぶしのポメラがある。イギリス人ジャーナリストのジョージが、興味深そうに私のポメラに関して聞いてきた。
ポメラは、コンパクトに出来ているが、折りたたみを開くと、キーボードが大きくなり、彼が持っているタブレット型より、入力しやすい事が分かる。ポメラは記事を書くことが商売の、彼のようなジャーナリストにとっては、必需品であろう。またポメラの宣伝をしてしまった。
ジョージはまだ40歳だと言うが、しわの多い赤ら顔に、ゴマ塩のあごひげでは、どう見ても、50歳代にしか見えない。朝から酒を飲み、素面の彼を見るのは珍しい。「40歳になったことを区切りとして、仕事を辞め、1年間の休暇を取ることにしたのだ」と言う。誰からも好かれる人柄である。
PM0:20、予定より1時間以上遅れて、現地ガイドが到着。彼は、通常はカナダのバンクーバーに住んでいる、YPTのスタッフである。会話によるオデッサの人とのコミュニケーションは取れているようだが、現地の歴史的な質問をしても、まともな答えは返ってこない。

オデッサ駅
町全体は、歴史のある町らしく、落ち着いた、たたずまいである。ロシア正教の大きな教会がある、広い公園のあちこちでは、小さな車にコーヒーメーカーの設備を積んで、客待ちをしている。冷えた体を暖めるには良いかも知れない。

公園と教会

公園のベンチで

コーヒーは如何?
オデッサの町は、ロシアの女帝エカテリーナ2世によって18世紀末に建設された。そのため、この町にはエカテリーナ2世の像が設置されている。彼女の像の下にはポチョムキンの像があった。ポチョムキン公爵は、ロシアの軍人であり政治家であり、エカテリーナ2世の愛人でもあった。
彼が病没したのは
1791年であり、彼の名前を付けた戦艦で反乱が起きたのは1905年のことである。だから彼は、死んでから100年以上も経って世界的に有名となった人物 である。

エカテリーナ2世の像
今日の観光の目玉は、何と言っても「ポチョムキンの階段」だ。私もエイゼンシュタイン監督の、サイレント映画「戦艦ポチョムキン」で見た記憶がある。この映画は1925年に作成された名作で、1905年の第1次ロシア革命の最中に起こった、ポチョムキン号の水兵蜂起事件を映画化したものである。
このポチョムキンの階段で、撃たれた母親の手を離れた乳母車が、転げ落ちていくシーンを、はらはらしながら見ていたことを思い出す。モンタージュと言う手法が、この映画で初めて使われた、と言う事でも有名な、古典的作品である。
この階段は、上から見ると、踊り場しか見えないし、下から見上げると、階段しか見えない事でも知られている。私は今日、それを確認できて、嬉しかった。この階段の下は黒海である。

ポチョムキンの階段(上から見ると踊り場しか見えない)

ポチョムキンの階段(下から見ると階段しか見えない)
PM2:00、ポチョムキンの階段の見学を終えて、我々は昼食に向かった。途中で見かけたのは、プリモールスキー並木通りと、ウクライナ国立オデッサ歌劇場である。

プリモールスキー並木通り

国立オデッサ歌劇場
昼食は、地中海サラダとお茶で、8ユーロ(1090円)也。サラダは、新鮮な野菜が大盛りで、スモーク・サーモンが数個入り、オリーブ油と塩で味付けされて、とても美味しかった。お茶は、この土地独特の味で、桜の木をいぶしたような香りがした。大変珍しく、初めて飲んだ物としては、美味しい方だ。

地中海サラダとお茶
この時間は、ノルウェー在住のカナダ人と同席。彼がノルウェーに来た理由は、彼の医学関係の研究がしやすいからだと言う。現在のノルウェー経済は、石油の産出により、大変潤っており、国からの研究費が十分に支給されているそうだ。ノッポの26歳、発言が非常に明晰な人である。
PM3:15、レストランを出て、拠点のカフェーに向かう。数百メートル歩いた所で、一行の中に、居るべきはずの2人が居ないことに気が付いた。現地ガイドが急いで戻り、探しに行ったが見当たらない。
幸いなことに、我々が路線バスに乗ってカフェに戻ると、その2人は、先に帰着していた。道に迷っても、スマートフォンがあると、そのGPS機能で、行き先が簡単に分かるようだ。
PM4:00、拠点のカフェを引き上げて、オデッサ駅へ。駅構内で、朝方預けた荷物を受け取り、乗車ホームに向かう。オデッサは、短時間の滞在であったが、印象に残る町であった。
PM4:48、列車は定刻に発車。寝台車ではない、椅子席の列車で移動する事は、初めてである。
PM6:20、車内に税関の係官が乗り込んできて、パスポートチェック。
PM7:30、ティラスポール駅に到着。ここはトランスニストリア共和国(沿ドニエストル共和国とも言う)である。高校生時代から、地理はご無沙汰しているので、こんな名前の国が誕生していた事は知らなかった。ドニエストル川東岸の小さな国家で、内戦を経て、1990年にモルドヴァから独立したようだ。

ティラスポール駅
駅に隣接した小さな両替所で、ロシア・ルーブルを現地通貨に両替した。1500ロシア・ルーブル(5340円)が454ドニエストル・ルーブルに変わった。と言う事は、1ドニエストル・ルーブルは約12円である。
PM8:30、タクシーにてホテル着。イギリス人女性がタクシー代を払ってくれ、「安いからいいです」と言って、割り勘にしようとしなかった。
さて、このホテルについて、何処から何と説明したら良いのやら、考えてしまう。一言で言えば「お化け屋敷の様な物」ではなく「お化け屋敷そのもの」であった。
フロントには年輩の女性が一人居るだけ。彼女が、我々20名のパスポートを見ながら、何やら別紙に書き取っている。その作業の進捗が遅く、明かりのないロビーで待たされること1時間。
その間に、各人の部屋のキーが渡され、部屋に荷物を運び入れた。若い連中は、これからパブへ繰り出すが、私はシャワーを浴びて寝たい。各人の部屋では、お湯が出ず、シャワーが使えない。使えるのは、1階にある共同のシャワーだけである。
私は、シャワーを浴びる支度をしてロビーで待機。シャワー室に入るには、鍵が必要なのだ。私が鍵を要求しても、「今は忙しいから、あと5分待て」と言って待たされる。10分以上待っても知らん顔だ。
PM9:30、現地ガイドが見かねて鍵を要求すると、目の前に掛かっていた鍵を取って渡した。たった其れだけのことを、忙しいからと言ってやろうとしない。建物も、従業員も、皆壊れている。
暗いシャワー室に行って鍵を開けようにも、扉がガタガタで私には開けられず、従業員のじいさんが来て開けてくれた。2つある内の1つのシャワーは壊れていて使えず、他の1本で何とか用を足した。すごいホテルに来たものである。
PM10:00、就寝。
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