ベトナム訪問記

3月22日(金)

PM5:55に離陸予定の全日空(ANA)931便は、遅れてPM6:45分に離陸した。遅れの原因の一つは、一人の年輩のベトナム人が、登場口まで来て、飛行機に乗りたくないと言っていると言うことであった。ANAのキャビンアテンダントが私の隣に座っている女性と何か話していた。

後で聞いたところでは、彼女はベトナム人で、日本語の通訳をしているという。急遽通訳を依頼されて、その老人の処へ行ったのである。結果は、老人は、理由を言うことなく、登場を拒否したまま時間切れになったという。旅行にハプニングは付き物であるが、こういうケースは初めてである。

ANAのキャビンアテンダントは、あなたが通訳だと知って依頼にきたのですか」と私が聞くと、「もしそうだとすれば怖い。ベトナム人なら他に幾らでも乗っているのに」と、心配そうにつぶやいていた。

彼女は、大学の日本語学科で4年間、日本語を勉強し、日系企業に勤め、今は独立して通訳を生業にしていると言う。

今回は、化粧品会社の仕事で来日。日本の製品は、質の良さで評価は高いが、価格が高くてベトナムでの販売には大きな壁があると言う。私が行こうとしている地域は、今急速に開発が進んでいる所だそうだ。

左隣に座ったのは、この4月に大学4年生になる学生。あるNPO法人の紹介で、一週間のボランティアを体験しにホーチミンへ行くという。

飛行機は離陸から2時間ほど、小刻みに揺れ続けて静かになった。

今回のベトナム訪問は、知人の知人からの紹介で「ベトナムで日本語教師のボランティアをしてみませんか」と言う話がキッカケになっている。海外旅行が趣味の私は、次の旅行は何処にしようかなと考え始めていた所へ舞い込んで来た話である。私は「ベトナムはまだ訪問したことがないし、行ってみるか」位の気持ちで引き受けたのである。

「資格も経験もない私でいいのだろうか」と疑心暗鬼になっていたら、是非来て欲しいという。ホーチミン行きの飛行機に乗っている現在、ベトナム語は一言も解らない。そんなオジサンが繰り広げる珍道中に乞うご期待!

PM10:45(日本時間)、ホーチミンシティに安着。約6時間の飛行であった。イミグレイション、税関を通過してから空港内の銀行で1万円をベトナムドンに両替。5万ドン札が大量に渡され、確認のしようがない。多分5万ドン札が43枚と、2万ドン札が1枚のはずであるが。

計算書を見ると、レートは、246.89と書いてあるから、手数料がなければ、2,468,900ドンになるのだろうが、実際に手渡された額は、2,170,000ドンである。つまり、その差額が手数料として差し引かれている。なんと13%もの手数料である。先進国での両替は3%前後の手数料で済むのだが。驚いた!

空港の出口へ来ると、大きな字で私の名前を書いた紙を掲げて、4人の青年男女が笑顔で迎えてくれた。あまりの歓迎ぶりに、心は舞い上がりそうであった。この内、3人は日本語の教師で、1人は英語の教師である。

近くで待機していたトヨタの7人乗りの車に乗り、一路宿舎へ向かう。途中、ベトナム名物のフォー(Pho)を食べて行くことになった。ベトナムで最初に食べたフォーは、予想通り、期待通りの味で、美味しかった。あっさりした味で、中華料理の脂ぎった物とは対照的である。

     

                    ベトナムで最初の食事は「フォー」

3人の日本語教師とは日本語で、1人の英語教師とは英語で懇談しながら宿舎へ向かう。これから向かう日本語学校には日本人が1人もおらず、教師たちは日本に行ったこともない。日系企業の社員研修に出向いた時、そこの日本人幹部と少しの会話を交わす位だと言う。私の役割は、彼らの日本語会話の練習台になることだろうか。

AM1:30、宿舎まで1時間位走ったであろうか。やっと1人になってベッドに横になった。この建物は、昔は何かに使われていた物を、日本語学校として借りているようだ。1、2階は事務所兼教室、3階は空き部屋になっており、そこのガランとした大きな部屋に、ベッドが1つ置いてあり、空調器が2台、壁に掛かっている。そこが今夜の私の寝室である。

空調器をつけると寒いし、止めると暑くなる。空調器が苦手な私にとっては、ベトナムに来て最初の試練である。空調器をつけたまま寝たら、案の定、寒くなって目を覚まし、スイッチを切って再度寝たのである。

3月23日(土)

AM6:30、起床。起床時の室温:29℃。暑い!

AM7:30、日本語教師のアン(Anh)君に誘われて、タン(Thanh)君と共に朝食へ外出。ベトナムでは、朝食を家庭内で食べる人も少なくないとは言うが、外で食べることは普通のことだそうだ。馴染みになっている徒歩数分のお店で私はフォーを注文し、アン君はコムスン(Com Suon)と言う豚丼を注文した。フォーも美味しかったが、コムスンも美味しそうであった。

 

    

アン君、タン君(日本語学校前で)

食事中アン君がスタッフの人間関係を教えてくれた。チュン(Trung)さん(30歳)が経営者、トゥー(Thu)さんはその義理の妹で社長。似たような名前のトゥ(Tu)さんとアン君(26歳)は同級生で婚約中。タン君はチュンさんの弟。ティン(Tin)君(24歳)は、英語の先生。

ざっとこんな風で、要するに兄弟と友人で立ち上げた日本語学校と言うことだ。経営者で日本語に堪能なチュンさん(日本に9ヶ月間の語学留学あり)は、日系企業で働いており、通訳、コンサルタント、接待と毎日忙しく働いている。勤務している会社が、ベトナムに進出する時に通訳をしたのが縁で、スカウトされたと言う。

ベトナムに来る前に私が思い描いていた日本語学校とは大分異なる。その一つは、中心者が外の企業でフルタイムで働いていること。二つ目は、日本人スタッフが一人も居ないことの2点である。ボランティアとは言え、ここがどういう学校なのか、私のやるべき仕事は何なのか、まだ見えてこない。

食事中に天秤棒に雑貨をぶら下げた、物売りが来たり、宝くじを売りに来たりした。一緒に食事をしていたタン君は、宝くじを買っていた。

食後、アン君の案内で近所を散策。マンションの一角に、幼稚園があったので覗いてみると、年輩の園長さんが室内に上げてくれた。1歳児から6歳児まで60人ほど預かっていると言う。室内は清潔だが狭く、遊びたい盛りの幼児にとっては気の毒に思えた。

一ヶ月の月謝は75万ドン(約3000円)。大学卒業の初任給が400万ドン(約16,000円)と言うから、決して安くはない。このあたりの家庭は裕福な家庭が多いのだそうだ。付近には英語塾の看板も目に付いた。

AM9:15、宿舎兼日本語学校に戻ると、英語クラスの生徒(10歳前後)が3人来ていた。担当のティン君が、私と会話をするようにし向けている。少しの間会話をしたが、3人とも利発そうである。後で「3人とも裕福な家の子供ですか」と聞くと、「一人は貧乏な家の子供です。だから月謝は頂いておりません」と言う。こういう事は、私が小学生の頃の日本にも、存在した光景で、大変懐かしさを覚えた。

  
 

英語クラスの生徒とティン君

AM11:30、本日の昼食は、チュンさん宅でご馳走になる。チュンさん宅に行って解ったことは、同居者がチュンさんの奥さん(ティ:Thiさんと言い、二人は高校生時代からのお付き合い)、生後4ヶ月の男児、奥さんの妹(トゥーさん)、奥さんの兄(ホイ:Huyさん、36歳)の5人である。
 

     

生後4カ月です

奥さんは高校卒業後、叔父の居るアメリカの大学へ進学したので、二人は別れ別れになったが、長距離恋愛を実らせてのゴールインである。

奥さんが作ってくれた昼食は、フォーと似た麺料理(ホゥティユウ:Hutieu)と、「ベトナム風春巻き」であった。共に美味しく頂いた。ベトナム風春巻きは、米から作られた薄くて硬い、直径20cmほどの紙状の上に、米製の麺、野菜、肉等を乗せて春巻き状に包みあげたものである。感覚としては、手巻き寿司を想像した方が分かりやすい。これを魚醤(ヌックマム:Nuoc Mam)に付けて食べるのである。

 
   

昼食をご馳走になる

私たちが食べ終わる頃、ホイさんがテーブルに着いた。日本製の炊飯器(タイガー)を開けて、大量のご飯をボウルに移している。どうするのかなと見ていると、そのご飯の上に何かを載せて、かき混ぜ、食べ始めたのである。4、5人で食べるような量を、彼は簡単に平らげてしまった!オソルベシ!日本の相撲取りだってこんなに食うのかしら?本当にビックリしました。

PM2:00、昼食後しばらく休んでいると、主のチュンさんが帰宅。皆で昼寝の時間である。中国でも、12時から14時までは昼休みになり、学校の事務所も閉まっていたが、ベトナムではもっとはっきり、昼食後2時間位を昼寝に当てるようだ。暑い国での生活の知恵なのかも知れない。

PM4:00、昼寝から覚めたチュンさんが「お茶を飲みに行きましょう」と言って、5階のマンションの部屋から下に降りて行った。道路脇の露天にプラスチック製の小さな椅子とテーブルが置いてあり、そこでコーヒーを頼む。出てきたのは、カフェ、練乳、氷の3種類である。

 

     

チュンさんの住むマンション(5階)

 

     

マンション下の公園

これ以上濃くできないドロドロのコーヒーに、これ以上甘くできない練乳を混ぜ、そこに水を切った氷を入れてかき混ぜる。甘くて濃いコーヒーの出来上がりだ。こうして飲むのがベトナム式のコーヒーであって、サラッとした日本式のコーヒーは、飲み物ではあってもコーヒーとは言わないそうだ。私はこの甘いカフェに2、3度口を付けたが、とても全部は飲みきれなかった。

チュンさんは、私をそこに残して迎えの車に乗り、会社へ行ってしまった。今晩も接待の仕事になると言う。私は5階の彼の家に上がり、夕飯をご馳走になる。夕飯には、米のご飯に、海の焼き魚が出された。30歳の奥さんが、4ヶ月の乳児をあやしながら、妹と食事の支度をしている。一族が仲良く、肩を寄せあって暮らしていると言う雰囲気が感じられる。

     

チュンさんの奥さんと4カ月の息子

PM6:00、日本語学校へ初出勤。若い生徒たちが出入りして、受付は忙しそうである。今夜はその様子を見物するだけで終わり。  

        

日本語学校の受付

PM9:30、チュンさん宅に戻る。こちらの家では無線のインターネット(WIFI)が使えると言う。早速つないでみると、中国より速度が速いようだ。メールのチェックもスムーズにできてホッとした。

私の今夜の寝場所は、この家のリビングだ。モルタル製の床にシーツを敷き、「はいどうぞ!」と言うわけだ。それも壁に掛かったクーラーの真下である。床は硬いし、クーラーの風には直撃されるし、寝た心地はしないが何とか朝を迎えた。主人のチュンさんは、午前1時の帰宅であったそうだ。

3月24日(日)

AM6:30、起床。

AM7:30、朝食。「美味しいところに行きましょう」とチュンさんが誘ってくれたが、目的のお店に来ると「売り切れです」と言う。おいしい店はすぐに売り切れるらしい。代わりの店で食べたが、そこも美味しかった。フォーに似たものであるが、麺の色は黒ずんでいた。ベトナムではフォーが有名だが、沢山の種類の麺があるそうだ。

AM8:30、朝食が終わると店を変えて近くのカフェへ。大勢の人がカフェを飲みながら懇談をしている。ベトナムの休日の朝の風景らしい。我々が懇談している最中も、チュンさんのスマートフォンにはひっきりなしに電話が入ってくる。そのうちに、40歳位の男性がバイクで来て、我々のテーブルに加わった。

彼はチュンさんの部下に当たる人で、会社では技術課長だと言う。日系企業の彼に対する処遇に不満があるようだ。彼はかつて、3年間も日本で様々な技術的な訓練を受けており、確かな技術を持っているのだが、前の会社が倒産して、チュンさんと同じ日系企業に勤務している。

そこの会社で日本人上司との人間関係がギクシャクしていると言う。どこにでもあることだが、本人にとっては重大問題である。不満を聞いてくれるだけでもストレスの大半を消化できるようだ。チュンさんが間に入って聞き役、調整役になっているらしい。

AM10:00、チュンさんの奥さんの実家へ、一緒に訪問する事になった。1台のタクシーを頼んでチュンさん、奥さん、奥さんの兄妹、そして4ヶ月の幼児と私の6人。タクシーは、バイクが道路一杯に広がって走る中を、時には遠慮がちにスピードを落とし、時には果敢にスピードを上げて追い越す。信号がほとんど無い中を衝突しないように、接触しないように運転する事は、相当神経を使うと思う。

AM11:00、田舎の実家に着いた。もうそこには50人前後の親類縁者が集まって会食が始まろうとしていた。82歳の家長を囲んで4世代に渡る一族が集まった。今日の集まりは、息子(トヨタのアメリカ工場で工員として働いている)が、数年ぶりにアメリカ合衆国から帰国した事を記念して開かれたものである。

     

親類縁者の会食

82歳の長老には、前妻(ベトナム戦争時に爆弾攻撃に会い、34歳で死亡)との間に6人、後妻との間に6人の子供が居る。その内の半数が外国で働き、仕送りをしてくれると言う。チュンさんの奥さんの両親もアメリカに住んでおり、今日の会食には参加していない。

長老の隣に座らせられた私は、日本語或いは英語の通訳を介して、長老の話を聞くことができた。彼は若い頃(第2次大戦前)タイで服飾のテイラーとして成功し、従業員を使ってかなりの富を蓄えることができた。しかし終戦と同時にすべての財産を失った。その後に発生したのは、さらに悲惨なベトナム戦争である。

ベトナム戦争の傷跡は徐々に消えつつあるが、少し注意深く観察すると、まだ至る所に見受けられる。そして、我々日本人がアメリカ合衆国に旅行するとき、3ヶ月以内ならVISAが不要であるが、ベトナム人がアメリカに入国するときには、インタビューがあるという。

大勢の子孫に囲まれた長老は、終始穏やかな笑顔を絶やさずに姿勢を正して座っていた。「人生、如何なる不幸があろうと、晩年が幸せならば良いではないか」と教えているようであった。

     

82歳の家長

この会食中に不思議に思ったことが1つある。それは、先ほど我々を運んでくれたタクシーの運転手が、親戚一同の中に混じって、ごく当たり前のように料理を食べている姿である。日本でなら、外で待っているのが普通であろう。

     

会食中のタクシー運転手(こちら向き右側)

後刻、チュンさんに「あの方も親戚の方ですか?」と聞くと、「いや、全く関係ありません。しかし、ベトナムではそれが普通です。友人の友人は友人である、と言う考え方がまだ強く残っています」と言う。今の日本では見ることができない、ほのぼのとした光景に出会う事ができた。

PM2:30、皆さんに別れの挨拶をして、チュンさん宅を目指す。途中、建っている家を見ると、どの家も同じ方角を見ている。しかし、いわゆる南向きではなさそうだ。チュンさんに聞くと、「日中の強い日差しを避けるために、東向きになっています」と言う。確かに南側は壁になっている。

PM3:30、チュンさん宅着。休憩、昼寝。

PM4:30、ポメラで日記を書く。

PM6:30、夕食を頂く。

PM7:30、階下へ出て行き、ティータイム兼懇談。チュンさんは、自身の置かれた現状を種々語り、応援をして欲しいという。

日本語学校からは一銭ももらっていないが、赤字状態である。日系企業へのフルタイムでの勤務、短大での日本語教師、日系企業での日本語教師と幾つも掛け持ちで仕事をして、やっと家計を支えている状態である。日本語学校は自分の宝であり希望であるから、なんとしても大きく育てたい。需要はあるが正規の日本人講師を雇えるような資金はない等々。

どの程度のボランティアになるのか、見当がつかなかったが、このまま続けると、結構持ち出しのボランティアになることを覚悟しなければならないかも知れない。

PM11:00、就寝。

3月25日(月)

AM7:00、起床。

AM7:30、チュンさん宅を出発。これから朝食を取って短大の日本語の授業に向かう。私はチュンさんが運転するバイクの後ろに乗って行く。私は30歳代の頃、50CCのバイクを運転していたことがあるが、乗用車に乗るようになってからは、バイクに乗ったことはない。それも誰かの後ろに、サイズの合わないヘルメットを被せられて、ほこりの中をマスクもせずに!

チュンさんは、バイクの洪水の中を、ある時は流れに乗って、ある時は流れを横切って走っていく。後ろに乗っている私は、行き交う車と接触しないように、跨っている足をバイクにぴったりと付けて、なるべく小さくなっているが、ヒヤヒヤドキドキの連続で生きた心地がしない。

「美味しい物を食べましょう」と言って連れて行ってくれた店は、今日も売り切れになっていた。次に行った店は、ご飯に豚肉のバーベキューを乗せたような物を売っていたが、メニューはこの一品だけである。ここにも大勢の客が出入りしている。

食事中、私はチュンさんから「警察が居るから、後ろを見ないように」と注意された。暫くすると、制服姿の3人の警察官がバイクに乗って出ていった。彼らも私たちと同じように、朝食を取っていただけだろうに。

この国では彼らに対して、何らかのプレッシャーを感じるのであろうか?そういえば、ここベトナムも共産党の1党独裁で、公務員に対する賄賂は、大きな問題になりつつあるらしい。

AM8:00、短大着。広い敷地内に新しい校舎が建っていた。国立の学校だと言う。駐車場にバイクを預けて階を上がり、日本語の授業が行われている教室へ行くと、アン君がすでに黒板を使って教えていた。本来、チュンさんが教えるべき所を、後輩のアン君に任せているのである。

     

短大のバイク置き場

そこへ私が突然行って、日本語の授業をすると言う寸法である。何ともいい加減な短大だと思うが、四角張った事を言っていたのでは何も始まらない。できることから始めようと言う段階なのだと感じた。

そして私たちは代用教員だと考えれば、戦後の日本にも大勢の代用教員がいたことを思い出す。実際、私たちが小学生時代の担任教師は、教員の資格を得るために、放課後、夜間の短大に通っていた。

さて、この教室には40人程の生徒が居るが、男子生徒は一人だけである。第一外国語が英語で、第2外国語として日本語を選択した生徒が集まっている。日本語の習熟度は、まだ始まったばかりで、黒板を見ると「ここ、そこ、あそこ、これ、それ、あれ」等と書かれている。

こういう人を相手に何を話せばよいのか、こちらの気持ちがひるみそうになる。20歳から21歳の好奇心に満ち溢れた眼差しが一斉にこちらに注がれている。私と生徒は互いに自己紹介をし、その後、質問会となった。

私が日本語で話すことは、アン君がベトナム語で通訳し、直接の応答は英語でやることになる。そんなやり取りでも、生徒にとってはネイティブの日本語が聞けて、少しは刺激になったのかも知れない。生徒達の反応を見て、そのように感じた。

AM9:00、授業終了後、短大の事務所へ行った。美しくデザインされた建築物の中にその事務所はあった。同じ敷地内の別棟には、日系企業が、会議や接待に使う建物もある。

この事務所内には会計部門があり、そこの事務員にチュンさんは、幾ばくかの金銭を払っていた。聞くと「職員としての組合費です。給料は少ないのに、何だかんだと言って組合費を徴収されます」と、ぼやいていた。

ここの女性事務員は殆どの人がアオザイを着ている。始めて見たのだが、アオザイのスリットから脇腹がチラチラ見えるのは、如何にも艶めかしく良きものである。蒸し暑いベトナムの衣装としては、至極合理的でもあると感じた。ただ、贅肉の持ち主にとっては着用しにくいかも。

AM9:30、バイクで20分ほど走った所にあるアマタ(AMATA)と言う日系企業の工業団地を見学に行く。花王、YKK、ワコール等、有名企業の工場、数十社が林立している。地元の千葉県佐倉市にも大きな工業団地があるが、その数倍の広さはあろうかと思われた。この日系企業に勤務する現地採用の社員に、日本語を教える機会が増えていると言う。

AM10:30、日本語学校へ帰着。次回ベトナムに来る時には、バイク用に特注のヘルメットを持参しなければならないと思う。多分、既製品で私の頭にあう物は無いであろうから。

チュンさんと同行していた3時間、彼の携帯電話は殆ど鳴りっぱなしであった。彼はスマートフォンを2台携帯している。その1台で話していると、もう別の携帯電話が呼んでいる、と言う状態である。今日は会社に無理を言って休暇をもらったのだが、電話の殆どは会社関係らしい。

AM11:30、アン君と昼食へ。ご飯、川魚、スープ。

PM1:00、アン君がデザートに甘味どころを買ってきた。日本で言えば、「みつまめ」と言うところか。

PM2:00、ポメラに向かう。

PM3:30、日系企業のNOK株式会社へ。ここは、今日の午前中に見学した、アマタ工業団地にある自動車の部品メーカーである。日本語センターから再びバイクに乗って行く。今度の運転手は、アン君の婚約者のトゥさん(26歳)。

私が運転するならまだしも、私が後ろに乗せられての出前講義である。日本ではあり得ない光景だ。気持ちはハラハラ、ドキドキ、ワクワク!しかし、彼女の腰に手を回すわけにもいかず、両手を後ろに置いて身体を支える、不安定な態勢で乗っている。

PM4:00、会社の会議室へ行くと、一人、また一人と合計6人の30歳代の青年社員が集まってきた。普通の社員は、PM4:45迄の勤務だが、日本語研修を受講する人は、4時迄になっているという。

ここでも、自己紹介と質問会で進めた。社員の中には、日本へ研修に行ったことがあると言う人も居て、日本語での質問会は幾分スムーズであった。担当で付き添いのトゥさんは、静かに見守っているだけで、殆ど何も発言しない。普段はどんな講義をしているのだろうかと、私の方が知りたくなった。

講義中、にわかに雷が鳴り響いて、雨が降って来たが、誰もあわてる風でもない。雨期の始まりだと言う。ベトナムの気候は、1年中暑く、雨季と乾季が半年ずつ続く。

「どちらが過ごしやすいですか」と聞くと「雨期の方が過ごしやすいです」と言う。雨期と言っても日本の梅雨と違って、1日中雨が降っているわけではなく、午後にスコールが降るのだと言う。今日も講義が終わって帰る時には、雨があがっていた。

PM5:30、講義終了。

PM6:00、日本語センターに帰着。お疲れさま!チュンさんが肉マンを用意していてくれた。日本の肉マンと似ているが、肉の他にウズラの卵が入っていたりして、更に美味しかった。

今日は暑い中を、あちこち連れて行かれて、さすがに疲れた。特にバイクの後ろに乗っての移動は、あまりしたくないのだが、そうは言っておれないのかも。暫く自分の部屋で休憩する。

PM8:00、本日最後の授業に出て、挨拶と質問会をする。前2回の授業同様、何とか勤めたが、正直に言うと疲れます。

1、もう何年も大勢の人の前で話していないので、大きな声が出ない。

2、日本語の習得が進んでいない人に、何か話せと言われても話題は限定される。

3、気候的に暑い、等がその理由か。

当日本語センターは、月、水、金に来る生徒が多く、6クラスあり、火、木、土に来る生徒は少なく、3クラスであると言う。いずれにしても、かなりの受講生(約120名)が居るのである。

PM10:00、チュンさん宅に戻り、シャワーを浴びて就寝。お疲れさまでした!

3月26日(火)

AM7:30、起床。

AM8:30、チュンさんの義妹と朝食へ。いつもの店でいつものフォーを、と書いても良いのだが、フォーではないらしい。フォーには肉が入っているが、今朝の麺には肉が入っておらず、野菜や豆腐が主体である。すると名前が違うと言う。味付けは殆ど同じに感じるのだが。

朝食後、歩いて日本語センターに向かっていると、アパートの一室から、先生の講義が聞こえてきた。部屋では中学生がすし詰め状態で講義を受けている。黒板の文字も先生の顔も道路から丸見えである。

火曜日の朝から何をやっているのかと聞いてみると、学校の教室数が足りなくて、午前中は小学生が、午後は中学生が登校するのだそうだ。必然的に中学生は午前中、小学生は午後の時間が空いてしまう。そこで学校の教師は自宅に生徒を呼んで補修講義を行う。この時の報酬は給料とは別になるそうな。講義に熱が入るわけである。

AM9:30、センターの自室でのんびりする。

AM11:30、昼食に行きましょうと言ってティン君が呼びに来る。いつもの店に行って食べる。今日はご飯に、小エビの唐揚げと豚肉をトッピングしたもの。ゴーヤに似たものの中に豚肉を詰めた物が入ったスープ。少し苦みがあって美味しかった。

PM1:00、昼寝。ポメラを叩く。

PM5:30、夕食。柔らかいフランスパン、炒めた牛肉少々、トマトとナマスのサラダ。美味しかった。

PM6:30、センターに戻ると、日本人女性(沖縄出身)が来訪。彼女はJICAの派遣で、医療関係(リハビリ療法士)のボランティアに、2年間の予定で来ている。「残り1年半の間にベトナム語を習いたくて来ました」と言う。すでに入門レベルは自習で終了しているようだ。勤務先の病院からバイクで20分かけて、毎週、火曜日と木曜日の2日、通ってくるそうだ。

PM8:00、日本語を習い初めて6ヶ月になる生徒(156人)の講義に出席。例によって自己紹介と質問会。最後は日本の歌を歌って欲しいと言われ、「ふるさと」を披露。お返しに二人の生徒が、ベトナムの歌を歌ってくれた。

PM9:30、日本語センターから、今晩の宿泊場所であるチュンさん宅へ移動し、シャワーを浴びる。すると、「お腹は空いていませんか、何か食べたい物は有りませんか」と聞いてくる。

私は「夕食を食べたので何も欲しくありません」と言って、お茶だけ頂く。しかし彼女らは、結構ボリュームのある物を食べている。毎晩、こんなに夜遅く食べても、太っていないのは不思議である。

PM11:00、チュンさんが仕事から帰宅。彼の帰宅はいつもこんな時間である。家では、シャワーを浴びて寝るだけだ。

3月27日(水)

AM6:30、チュンさんが起床し、シャワーを浴びただけで出勤だ。前日、深夜に帰宅し、今朝は早朝の出勤。「会社は何時からですか?」と聞くと「8時からですが、管理職は7時半の出勤です」と言う。まさに猛烈社員である。若いから元気でいられるが、いつまでも続けられるものではないと思う。

AM7:45、朝食へ。毎朝同じ店に行く。この店の男性に見覚えがあるので聞いてみると、彼は日本語センターで警備をしていると言う。何を警備しているかと聞くと、「生徒が乗ってきたバイクを、授業中に誰かに持って行かれないように見張っているのだ」と言う。

     

             いつも朝食を食べに行く店

     

この日の朝食

更に「鍵をかけていても持って行かれるのか」と聞くと、「泥棒は特別な鍵を持っています」と言う。この地域は治安が良い所だと聞いているが、それでもこういう心配をしなければならないのが実状だ。

昨日、夜の講義中にアオザイ(ao:衣服、dai:長い)の話が出た。しかしこちらの人は「アオヤイ」と発音していた為、もしかしたら別のことを言っているのかと思い、話を進められなかった。「アオザイ」でも通じると言うが、この辺ではアオヤイと言うのが普通のようだ。そして、今は女性の民族衣装となっているが、昔は男もアオザイを来ていたのだそうだ。

AM8:45、朝食後、英語教師のティン君のバイクに乗せられて、彼の住む村を訪ねた。そこには渡し船に乗って行く。渡し船にはバイクごと乗せてしまい、船が満杯になると動き出す。川幅は300m位で、乗船時間は1分足らずである。彼の住む村は中洲だと言う。

   

渡し船はバイクも乗せて

確かに周囲が川に囲まれているから中洲(航空写真で見ると綺麗な釣り鐘状の島になっている)であろうが、そこには小学校、中学校、高等学校が有り、人口も数千人居る巨大な中洲である。

ここは多くの草木が生い茂っている為、ベトナム戦争時には重要な拠点になっていたと言う。そして大昔にさかのぼれば、ベトナムの北部から人の住んでいない南部に移って来た人々は、この川を船で下り、この中洲に上陸したのが始まりであると言う。

     

中洲に上陸

私はティン君の家を訪問した。目に入ってきたのは、田舎だと聞いて勝手に想像していた家とは違い、近代的で瀟洒な外観の一戸建てであった。周りには叔父、叔母たちの家があり、大変安全であると言う。

両親は仕事、弟は登校中(高校生)で留守であったが、応接室の壁には、家族の写真や飾り棚があり、冷蔵庫、テレビ、洗濯機等の電気製品もそろっていた。ベトナムでは、ハイクラスの家庭に属するのでは無かろうか。

     

ティン君とその家

ベトナムの歴史に話が及んだ際、地続きの隣国である中国に、1000年もの長きに渡って支配され、今また公海上に於いて、ベトナム漁船が中国船から発砲されて、犠牲者を出していると言う話になった。

中国を巡るトラブルは日本も抱えており、そういう意味で日本とベトナムは似たような境遇に置かれている。横暴な兄貴分と仲良くやることは、生易しいことではない。

さて、中洲の反対側には近代的な橋が架かっている。我々はその橋を渡ってドンナイ省の首都、ビエンホアに入った。道路が綺麗に整備され、気持ちの良い町になりつつあるようだ。道路の分離帯で草むしりをしている人達がいた。

     

分離帯の草むしり風景

来た道を帰りながら、川辺のカフェでヨーグルトシェイクを飲んだ。冷たくて美味しかった。ティン君も英語の先生ながら、日本語学校の将来を考えており、私が一度帰国した後、再度、来てくれるのかどうかを心配しているようであった。

     

中洲のカフェから対岸を望む

AM11:00、センターへ帰着。自室でくつろぐ。最近やっと、生活のリズムが分かって、息の抜き方を覚えてきた。

     

日本語学校内の自室

PM0:30、昼食。遅めの昼食に行くと、美味しそうなものが無くなっている。やはり12時前に行くべきかも。

実はこちらに来てから、私は自分のお金を1円も使っていない。住居は、昼間はセンターの3階を使い、夜はチュンさん宅に居候しており、食事代もチュンさんが負担してくれているからである。私は食事代がどれ位かかっているのか知りたくて、聞いてみると「1食1ドル前後ですから、心配しないで下さい」という。

PM1:30、センターの自室でくつろぐ。

PM4:00、スタッフと日本語で会話をしてあげようと思い、1階のフロントへ降りて行く。まだ馴染みになれていない女性に声をかけるが、反応が思わしくない。

日本語の先生なのか、英語の先生なのかも分からなかったが、どうやら日本語教師のようだ。しかし、私との会話にかなり手こずっている。アン君と比べると大分、会話力の差を感じる。チュンさんが心配していたのは、このことだなと思った。

PM6:00、アン君が夕食に、ベトナムの「チマキ」(バンテュン:Banh Chung)を持ってきてくれた。もち米を大きな葉っぱに包んで蒸した物で、まだほんのり暖かい。中には豚肉が入っており、一人で食べるには多すぎると思われた。4分の一程残したいが、ベトベトして始末に困り、結局お腹の中へ。明らかに食い過ぎだ!ベトナムではお正月に食べたものだそうだ。

PM7:30、日本語学習半年のクラスと、1年半のクラスに顔を出す。1年半のクラスは、さすがに質問がスムーズに出てくる。テキストを見せてもらうと、漢字がかなり増えてきている。この学校で英語を教える傍ら、日本語を勉強している女子生徒もいた。

PM9:30、スタッフ全員で、日本語センターを出る。私はそこから徒歩2分のチュンさん宅へ。後はシャワーを浴びて寝るだけである。センターのシャワーは水だけで、お湯が出ないので、チュンさん宅にお邪魔している。

PM11:00、就寝。

3月28日(木)

AM7:00、起床。

AM7:20、ティン君がタイミング良く朝食のテイクアウトを持って来た。そうするように打ち合わせが出来ていたのだろうか。スタッフは皆家族のようである。

今朝の朝食は、米製の餃子とでも言えようか。発泡スチロールに入った餃子に、別袋に入った野菜を入れ、その上からスープをかけて食べる。基本になる物は全て米であるが、その米を伸ばしたり、広げたり、包んだり、細かったり、太かったり、様々に変化させて色々な食材になっている。そしてその一つ一つに固有の名前が付いている。

我々日本人は、ベトナム料理と言えば「フォー」と言う。勿論それが代表的な料理ではあることには違いないが、ベトナム人からみれば、それは無数にある料理の一つに過ぎない。そしてその呼び方は、「フォー」よりも「ファー」に近く、イントネーションは中国語の第3声に近い。

昨日のクラスで、生徒から「ベトナム料理で好きな物は何ですか」と聞かれた時に、そのように発音したら、生徒達から驚いたようにして拍手された。小さな、小さな交流であるが、生徒の笑顔にふれると、大いに癒されることも事実である。

AM7:30、私が食事をしていると、奥さんが4ヶ月の赤子を抱いて、そそくさと玄関から出て行った。赤子はオムツをしただけで殆ど裸である。不審に思ってティン君に聞くと「赤子の日光浴に行ったのです」と言う。日中は日差しが強く、紫外線も強くなるので、早朝に短時間日光浴をさせるのである。これもベトナム独特の育児法であろうか。

AM8:00、今日の午前中は、スタッフの各々がそれぞれの仕事を抱えており、私はフリーである。「誰も居ないセンターで過ごすか、チュンさんの家で過ごすか自分で決めて下さい」と言う。私は鍵の開閉等の煩わしさを避ける為に、チュンさんの家で過ごすことを選んだ。

AM9:00、佐倉の家とスカイプ(こちらでは、スカイピーと言う)が繋がった。妻、長女、孫娘の3人が、元気な顔を見せてくれた。チュンさんの奥さんにも紹介できて良かったと思う。

AM12:00、昼食。奥さんの手料理だ。ご飯とスープ。その外に3品のおかず(厚揚げの肉詰め、炒めたイカ、野菜炒め)。いずれも薄味で食べやすい。若いのに料理が上手だ。

PM0:30、ティン君達がホーチミンシティから帰ってきた。食器棚や冷蔵庫を勝手に開けて自分の食事の支度をしている。「勝手知ったる他人の家」とは言うが、こんなに自由に出来ると言うことは、全く家族の一員と考えているようだ。

彼らは私にもそのように振る舞えと言う。「ここはあなたの家ですよ」と。しかし私は正直に言うと、チュンさんの家に居るときより、センターの自室に居るときの方がリラックスできている。それは便通で分かる。センターでは便通があるが、チュンさん宅では便通がないのである。

PM1:30、ティン君の昼食が済んだので、一緒にセンターへ行く。自室に入るとむっとする暑さだ。気温は34℃を表示していた。急いでエアコンを入れる。2台のエアコンをつけると26℃迄下がるが、小さい方のエアコンだけでは30℃迄しか下がらない。

PM4:00、スタッフと日本語で懇談しようと、ロビーへ降りて行ったが、それぞれ忙しそうだったので自室に戻った。

PM5:30、日本語会話の不得手なタオ(Thao)さんが、「夕食に行きましょう」と声をかけて来た。珍しいこともあるものだ。たぶん、アン君あたりに「一緒に行ってきなさい」と言われたのに違いない。

我々が食べていると、後からアン君と婚約者のトゥさんがやって来た。アン君は「パンの耳」とか「猫に小判」とか言うので、その意味を聞いてみると、いずれも正確ではなかった。フランスパンにパンの耳があるとは言わないし、猫に小判の意味を「宝の持ち腐れ」の意味に解釈していた。

PM6:15、食事から戻ると、JICAから派遣されている沖縄県の女性が来ていた。彼女はベトナムに派遣される前に、JICAで3ヶ月間ベトナム語の特訓を受けてきている。その後ベトナムで6ヶ月間、仕事に携わっているから、簡単なベトナム語の会話は出来るようだ。

ここの学校に通って、彼女は中級レベルのベトナム語を勉強し、バイクに乗せてきてくれる同僚のベトナム人女性は、入門レベルの日本語を勉強すると言う。

PM8:00、一つのクラスに顔を出す。トゥさんが講義中である。今日のレッスンは1から10までの数字と助数詞。トゥさんは繰り返し、繰り返し、何度も生徒に発声させながら授業を進めていた。教え方が上手だと思った。

終了後、トゥさんに「日本人にベトナム語を教えることと、ベトナム人に日本語を教えることを比べると、どちらが疲れますか」と聞くと、前者であると言う。その理由として、適当な教材がないので、教材を作るところから始めなければならない事を挙げていた。

PM9:30、チュンさん宅へ。今夜は珍しくチュンさんが帰宅していた。シャワーを浴びて暫く、くつろぐ。

PM10:30、就寝。


次へ進む


目次へ戻る