3、ベトナム北部A
6月29日(土)ラオカイ〜サパ(Sa Pa town)
AM6:30、狭いベッドから抜け出して、通路に出ると、昨日、ボートで一緒になった韓国人女性が居た。彼女は、ハノイ駐在の、韓国大使館員の家族と、相部屋であったそうな。二人の幼子を連れた大使館員であった。休暇でサパへ行くようだ。
AM7:30、夜行列車は、定刻より1時間遅れで、ラオカイ駅(Lao Cai)駅に到着。客引きは乗客が降りていくのを待ちきれずに、列車の中まで乗り込んでくる。私はハノイのガイドから「ラオカイ駅に着いたら、ドライバーに電話をするように」と、言われていた。

中国との国境・ラオカイ駅に到着

ラオカイ駅の朝(出口)
そのつもりでいたが、ドライバーが、私の名前を書いたカードを掲げてくれていた。私が乗せられたマイクロバスは、あっと言う間に、すし詰めの15人になった。その他に各人が大きなバッグを持参している為、荷物が荷物室には入りきれない。
その荷物が客室に置かれた為に、ドアが閉まらない。中でも私のラゲッジが大きく、一段と迷惑気味である。それらを何とか押し込んで車は発車した。乗客は、ヨーロッパ人が多く見受けられた。
車は次第に高度を上げて、狭い山道に入っていく。カーブが多くなって来たとき、一人の少年が、突然、大きな音と共に吐き始めた。可哀想にその彼は、10分間隔で4回も吐いていた。
切り立った山の斜面には、狭い階段状の段々畑が見えてきた。そこは主に米が植えられている。道路は舗装されているが、マイクロバスは急な坂道を喘ぎながら登っていく。雲が掴めそうな所まで上がってくると、雨が降ってきた。
AM8:45、突然、景色が都会じみて来た。最初のホテルに、吐いていた少年の家族3人が下車して行った。ここまで来ると、黒い衣装を着た少数民族「ブラック・モン族」と言われる人たちが大勢歩いている。
私はハノイからここまでの距離を、日本に置き換えれば、福島から信州の松本まで夜行列車で行き、そこからバスに乗り換えて、上高地に来たような感覚を覚えた。
AM9:15、乗客の最後の一人になった私は、やっと目的のホテルで降ろされた。今日の私の旅程では、朝食後、昼の12時まで、ゆっくりし、昼食後、トレッキングに出かける事になっていた。
ところが、私が朝食を食べている所へ、モン族の衣装を着た婦人が来て、私の名前を書いた紙を見せながら「ミスター江島はあなたですか?」「そうです」と言うと、「これからすぐ、私と一緒に来てください」と言う。
私が変に思って予定表を見せると、「予定が変更になったのです」と言う。私は「分かりました。しかし、チェックインをして着替えもしたいので、少し待ってください」と言って、自分の部屋に着替えに行った。
サパの高原に来て、半袖、半ズボン、サンダル姿では如何にも涼しすぎる。私は急いで、半袖、長ズボン、スニーカー姿に着替えて、ロビーへ戻った。しかし、先ほどのモン族の婦人の姿は見えなかった。
AM10:00、フロントの人が「ここで暫く待っていて下さい。迎えの人が来ますので」と言う。待つこと数分。バイクに乗って来た若い女性が「私のバイクの後ろに乗って下さい。私が、先に歩いている人達の所まで、あなたを乗せていきますから」と言う。私にとっては何もかもがドサクサである。
しかし、「若い女性のバイクに乗せられて行くのも悪くないか」と思いながら、指示に従うことに。彼女は現地旅行代理店の事務員で、客とモン族のガイドとのアレンジをしているようだ。つまり、「あなたは誰々さんのガイドをして下さい」と言うように。

若い女性のバイクに乗せられて
途中、マイクロバスがやっとすれ違えるような、狭い道に大型トラックが止まっていて、大渋滞になっていたが、10分ほど走ったところで、先行する、モン族のガイドに追いついた。
彼女は、スペインからハネムーンにやって来たカップルをエスコートしていた。そこに私が加わったのである。若いカップルは、1週間前に結婚したばかりで、仕事は男性が会計、女性が看護婦である。

スペインからハネムーンに
今日のトレッキングは、ここに来る時に、車窓から見た段々畑を間近に見ながら、歩くコースである。朝方に降った雨のせいで、山道がぬかるんで居る。新品のスニーカーが早速ドロンコになってしまった。

ラオチャイ村の棚田
モン族のガイドは流暢に英語を話す。そして日本語の単語もいくつか披露している。「英語はいつ勉強したのですか」と聞くと「ガイドをしながら客から教えてもらった」と言う。
ブラック・モン族の名前の由来は、伝統的な黒い民族衣装を着ているところから来ている。植物の藍から取られたインディゴ(indigo)で染められた衣装は、軽く染めると青色だが、何度も染めると黒くなると言う。
そういうことを生業にしている人であろうか、時々、腕の肘あたりまで黒くなった女性を見かける。足のすねには脚半を巻き、筒型の帽子をかぶった、独特の民族衣装は、黒を基調にしているので一目で分かる。しかし、最近はブラック・モン族の中にも、カラフルな衣装に身を包む人が出てきたようだ。途中の休憩所で、赤ん坊を抱いた母親を見かけた。年は18歳だと言う。

モン族の母親は18歳
PM0:30、途中の食堂で昼食。私はスペイン人カップルと一緒に食べる。提供されたのは、典型的なベトナム料理で、まずまずのお味でした。
PM1:30、トレッキングの再開。後で旅程を見ると、この日はラオチャイ村(Lao Chai)とタヴァン村(Ta Van)を、歩いたようだ。
PM3:00、ホテルに帰着。何はともあれシャワーを浴びる。二つ星のホテルにしては、部屋は広くて綺麗である。キングサイズのベッドと応接セットが置かれている。これが二つ星ホテルとは思えず、ネットで調べてみると、評判はあまり良くない。その理由は後ほど分かってくる事に。

ベッドはキングサイズだが
PM7:00、夕食の時間だ。楽しみにしてテーブルで待っていると、私の他には客がいない。キッチンでは私がテーブルに付いてから、料理が始まったようだ。暫く待たされて出てきた料理は、味がピンぼけで、タケノコが入ったスープ。胡椒が中途半端な鶏肉。妙に脂っこい野菜炒め。例え私が料理しても、こんな不味い物にはならないだろう。
このホテルが星2つである理由がやっと分かってきた。フロントで「部屋は素晴らしいが食事が問題だね」と言うと「そうかもね」と、全く他人事であった。ベトナムの現状は、仕事が細かく分担されていて「自分のこと以外には関心を示さない」と言う傾向が、顕著に見られる。この辺が、今後のベトナムの発展に立ち塞がる課題であろう。
6月30日(日)サパ〜ラオカイ
AM7:00、朝食。あまり期待してなかったら、まずまずの物が出てきた。トースト、オムレツ、バナナ、ベトナム・コーヒー。ベトナム・コーヒーは強くて、ミルク無しでは飲めないので、練乳付きで頼んだ。ところが練乳が何時になっても来ない。
しびれを切らして再度頼むと、コーヒーの入ったカップをかき混ぜ始めた。すると下の方から白い物が浮き上がって来たのだ。既に練乳は入っており、下の方に沈んで居た訳だ。おかげでコーヒーはすっかり冷めていた。
AM8:00、雨の降る中、モン族達が開く朝市へ。3種類の果実を味見してみるが、何れも酸っぱいだけで美味しくない。味見だけして何も買わないでは申し訳ないので、梨を1個買った。50円也。ホテルへ持ち帰って食べた。美味しくはないが、ほんのりと甘く食べられないことは無い。半分だけ食した。

サパの朝市
AM9:15、サパホテルにガイドが迎えに来た。今日は一人対一人である。トレッキングのコースも半日コースとあって互いにリラックスしている。サパのホテル街から、モン族の村を通って、谷底の滝を目指す。今日のトレッキングは、カットカット村(Cat Cat)とシンチャイ村(Sin Chai)を歩く。

ガイドのリーさん
AM11:00、ゆっくり下ってきたが、2時間足らずで目標の滝に着いた。滝の側の小屋では、モン族のパフォーマンスを披露していた。私は滝を写真に収め、帰路に就いた。道中、一帯に茂っていた草を指さして「これがインディゴの元になる藍です。手にとって揉んでみませんか」とガイドが言う。

カットカット村の滝
言われるまま、数枚の葉を摘み取って、手のひらで揉んでみた。すると、間もなく手のひらが緑色に染まってきた。「初めは緑色ですが、次第に青色に変わり、最後は黒くなります。石鹸で何度も洗えば、ホーチミンに帰る頃には、色が落ちます」と言われた。

藍の草

藍の葉を揉んだ直後

藍の葉を揉んで20分経過後
更に帰る途中、中学校に寄ったが、夏休み中で誰も居なかった。小学校は、人口2600人の村に、幾つかあるが、中学校は村に一つしかない。その為、遠い所の生徒は通学に3時間も掛かるそうだ。そこで、そういう生徒の為に、自炊ができる寄宿舎があった。

村に一つの中学校
その寄宿舎は、日本人が寄付した物だと言う。学校の授業料は無料であるとか、少数民族への補助も
始まっている様だが、それでも、家事優先で通学できない生徒が居ると言う。
帰りの登り道には、「バイクに乗って行かないか」と誘ってくるバイク・タクシーの運転手が、大勢で待ちかまえて居る。私は、まだ歩けるが、体力を温存しておきたいとの考えもあって、誘いに乗ることにした。歩けば1時間掛かるところを、バイクの3人乗りをして、わずか10分で登ってきてしまった。料金は、約250円也。
PM0:00、サパ・ホリデイ・ホテルに着いて昼食。「時間があったら一緒に食事をしていきませんか」と私がガイドを誘うと、気持ちよく応じてくれた。私は、もう少し、少数民族の話を聞きたかったのである。
歩きながら、そして食事をしながら、ガイドの彼女から聞いた話は次の通り。
1、流暢に話す英語は、ガイドをしながら客から教えてもらった。学校で勉強したことはない。
2、間違い電話が縁で、現在の夫と19歳で結婚。この村での結婚の平均年齢は18歳。早い人は、12、3歳で結婚している。現在20ヶ月になる女の子が居り、自分は、間もなく22歳である。結婚する前は夫を愛していたが、結婚と同時に愛は冷めてしまい、出産後はどうでもよくなった。
3、夫は山岳ガイドで、今日も客と一緒に山頂を目指している。たいてい、1泊2日か、2泊3日の行程である。子供は、生後6ヶ月の子を持つ近所の人に、お金を払って世話をしてもらっている。
4、夫の父は62歳だが元気いっぱいだ。連れ合いを亡くしているが、普段は自宅で農業をしながら、一人で暮らしている。週末になると、片道3時間掛けて、市場へ農産物を売りに来る。そこで、彼女との逢瀬を楽しみにしている。
5、朝市で売られている物の多くは、中国産で、見た目には大きくて綺麗だが、身体に良くない薬が使われている為、それを食べて病気になる人が多い。この村で収穫した自然の物は、小粒であるが高価である。
6、最近は、黒を基調にした民族衣装を、着ない人も出てきた。実際、私たちの前を歩いていたガイドは、後ろから見ていたのでは、観光客なのか、地元のガイドなのか区別が付かなかった。
7、3000mを越す山の向こうは、ラオスであり、中国である。自分達も中国から来た者で、昔の親たちはマンダリン(中国語)を使っていた。
こんな話を聞いて地図を改めて開くと、我々が降りた「ラオカイ駅」や、そこから車で1時間半も走って来た「サパの町」は、正に中国との国境にある。
話をしながら食事をしていると「私の家に来ませんか。ここから歩いて10分ぐらいです」と言う。今日の午後はフリーだし、どんな家に住んでいるのか見てみたい、と言う好奇心もあって、「お邪魔しましょう」となった。
PM1:00、彼女に案内されて訪ねた彼女の家を見て、私は絶句した。それは、5軒長屋風の中の1軒の家としてそこに存在していた。「ここが私の家です」と言われて覗いた所には、8畳ほどの土間の上に、粗末なベッドが一つ置いてあるだけであった。
ベッドには、彼女が話していた通り、近所のベビーシッター親子と、彼女の娘が居た。「さあ、どうぞ」と促されて、プラスチックの小さな腰掛けを出された。私はそこに座り、彼女は、土間に敷かれたビニールシートにあぐらをかいた。
土間の奥にはビニール袋に入れられた衣類(洗濯をする物か、した物か判断できない)が積み上げられていた。タンスや机は見当たらない。奥に目をやると小さなコンロがあった。そこで煮炊きをするのであろう。
「寒い冬はどうするの?」と聞くと「あれで暖をとります」と言って、ビニール袋の方を指さしたが、そこに何があるのか分からなかった。無邪気に笑う、生後6ヶ月と、20ヶ月の赤子に、笑顔を作って返すのが、私に出来る精一杯の事であった。
「じゃあ、これで帰ります」と言って家の外へ出た私を、彼女が坂道の途中まで送ってくれた。会ってわずか半日しか経っていないのに、幾ら心を開いたとは言え、自宅に招待することは、考えられない事である。それも、あんなに粗末な家に。私は彼女の真意を測りかねている。
つまり、それは「ガイドとしてのサービス精神なのか、それとも、粗末な家を見せて、同情を買いたかったのか」である。しかし、そんな浅薄な考えで招待したとは思えない、何かを私は感じている。この感情を整理するのに、暫く時間が掛かりそうである。
2年前のアメリカ横断中、少数民族のナバホ族にモニュメントバレーを案内された時、その家族の中に日本語を勉強している女子高生が居てびっくりした。そして今回は、中国との国境の村で、ブラック・モン族の家に案内されて、腰を抜かしそうになった自分が居た。
PM3:00、ホテルに戻り、日記を書く。
PM6:30、帰りのマイクロバスに乗る。下りの、ヘアピンカーブを乱暴な運転で降りていく。気分が悪くなりそうだ。
PM7;30、夜行列車の乗車駅「ラオカイ駅」着。近くの食堂で車から下ろされ、夕食を取りながら時間調整。
後で分かったのだが、ここの食堂は、たまたま入った食堂ではなく、しっかりと今回の旅行の行程に組み込まれた食堂であった。
それは、
1、ここの男性店員が、私の切符のバウチャー(予約券)を、正式な切符と交換して来てくれた。
2、女性店員が、私の列車の発車時刻を確認し、時間の調整をしている。
3、店を出る時に、別の男性から「切符を見せてください。ハノイ駅に、迎えに来させる都合がありますから」と言われた。
4、正式な切符と交換してきてくれた男性が、私の大きなスーツケースを、列車の中まで運んでくれた。
しかし、ここまでされても、私は、まだこの食堂の店員が、サービスでやっている事だとしか思っていなかった。
PM8:30、食堂を出て、ラオカイ駅に行き、夜行寝台車に乗った。来る時と同じ4人部屋であった。他の3人はベトナム人であったが、その中の一人は、来る時に、たまたま同室であった女性だ。「やあ、またお会いしましたね」と挨拶して横になった。疲れていたのか、すぐに寝てしまったらしく、列車が発車したことを覚えていない。
7月1日(月)ハノイ〜ハロン湾(Ha Long Bay)
AM6:00、ハノイ駅に到着。私が寝台車の自分の部屋から出ようとしていた時、一人の青年があわてて私の部屋に駆け込んで来た。そして、自分の携帯電話に送られてきた数字と、私の切符に書かれた数字を確認し、自分が迎えに来た人はこの人(つまり私)で間違いないか確証を得たがっている。私は「ベトナム・オープンツアーに参加しています」と言うと、やっと笑顔がこぼれてきた。

ハノイ駅構内

ハノイ駅前
前夜の食堂で、「切符を見せてください」と言われたが、その切符の内容が、今ここに私を迎えに来ている青年の携帯電話に送られていたのだ。ここまで来て、私はあの食堂が、「たまたま入った食堂」では無かった事に気が付いたのである。
私というボールを、ドライバー、ホテル、ガイド、食堂と、何人もの人がパスし合いながら、ボールを落とさないように運んでいる。日本のパッケージ・ツアーなら、一組の団体に一人の添乗員が付いていくのが普通である。
つまり、旅程も、人もパッケージされているが、ここでは、旅程だけがパッケージされていて、人はパッケージされていない。ここでは、個人の都合が基本になっており、その個人を組み合わせて、例えば1台のマイクロバスを動かしている。
だから、毎日同行者が替わる。毎日どころか、半日で替わる人もいれば、行く時のバスだけが一緒と言う人もいる。今回の列車のように、一人の場合は「申し送りをして終わり」と言う具合である。
さて、ハノイ駅で降りた旅行者は、タクシーに乗って次々と消え去っていく。しかし、私を迎えに来た青年は、なかなかタクシーを拾おうとしない。なにを考えているのかを聞くと「信頼できるタクシーが居ないのだ」と言う。
「どうやって見分けるのか」と聞くと「グループ(Group)と言う名前のタクシー会社なら信頼できる」と言う。地元のプロがそれだけ慎重になると言うことは、ハノイを走る殆どのタクシーは、雲助だと言うことになる。ハノイに来る前から、そして、来てからも、それに類する話を聞いていたが、実体は想像以上のようだ。
AM6:30、サパに行く前に宿泊していた「ハノイ・オールド・タウン・ホテル」に到着。スタッフはまだ寝ている。大きなスーツケースを置いて、朝食に出かけた。早朝のオールド・タウンは、夜の光景とは全く違っていた。露天商はきれいになくなり、道幅も幾分広く感じる。

早朝のハノイ・オールド・タウン
1軒の手頃な店に入ってフォーを食べていると、一人の若い女性(30歳位)が入ってきて、私の前に座った。空いているテーブルが、他に幾つも有るのに。私が話しかけると、次のような話を聞かせてくれた。
1、近くに住んでいて、職場で働いている。
2、子供は、建築設計士の主人が幼稚園に送ってくれた。
3、2年前まで、日本車の日産に勤務していたが、当時の日本人上司(後藤さん)は、大変良くしてくれた。体調を崩して、そこは退職し、今は別の会社で働いている。
4、大学ではフランス語を学んだが、殆ど使うことが無く、今は英語を勉強している、と。
彼女は、私の姿を見て、昔の上司を思いだしたのかも知れない。
AM8:15、ホテルに女性ガイドが私をピックアップに来た。私が大きなスーツケースを持っていこうとすると、「そんなに大きな荷物は車に乗せられないので、置いていけ」と言う。着替えもパソコンも全部その中に入っているのに、困ってしまった。私はその中から洗面用具だけを取り出して出かけた。
AM8:30、マイクロバスが一杯になったところで、ハロン湾に向かった。私の隣に座ったのは、インドネシアから来た4人組である。4人中3人がマンダリンの先生。「マンダリン」は正規の中国語であるが、私が学んだ「普通語」とは、少し違うようである。
PM0:15、約4時間掛けてハロン湾の港に着いた。道路状況は良いとは言えず、少々疲れを感じる。港のこの時間は、丁度、湾に出ていく人と、湾から帰ってきた人で混雑している。天気予報では、台風がこちらに向かっていると言うが、晴れて蒸し暑い。皆、うだったような顔をしている。
PM1:00、小さなはしけに乗船。ほんの数分、沖へ出たところで、少しだけ大きな2階建ての船に乗り換えた。涼しいラウンジに通され、各人の部屋の鍵を渡されてチェック・インである。部屋はきれいな個室であるが、エアコンは殆ど利かず、お湯のシャワーも出なかった。

ハロン湾の港

沖合に停泊中の豪華な?平底船
PM1:30、昼食。おかずの種類も豊富で、美味しかった。私はインドネシア人の4人のグループに混じって食事をした。4人のうち2人は母娘で、後は母の友人だという。話は主に英語だが、時々中国語を楽しんだ。

船内の食堂
PM3:15、ハロン湾内にある、洞窟の探訪に出かける。その途中で見たハロン湾内の景色は、見応えがあった。何億年もの昔、海であったところが地殻変動で、隆起して出来たのがハロン湾の奇景である。海水の浸食によって出来た洞窟内は、湿気が強く、汗が噴き出して歩きにくかった。

ハロン湾(香炉島)

ハロン湾(闘鶏岩)

鍾乳洞のあるダウゴー島

ダウゴー島のティエンクン洞
PM4:30、希望者は、カヤッキングやスイミングに出かけたが、我々シニア組は客船に戻った。
PM6:00、船のデッキでワインパーティ。
PM7:00、夕食。

夕闇のハロン湾
PM8:00、解散して、各人の部屋へ。

一見豪華だが、エアコン効かず、ホットシャワー無し、停電あり
PM9:00、突然の停電。すぐに復旧したが、私はそのまま寝てしまった。
7月2日(火)ハロン湾〜ハノイ
AM7:30、朝食。テーブルにはチップを要求する封筒がおいてある。それも、ガイドと客船のスタッフに分けて2枚も。こう言うとき、適当な小銭がないと困るものだ。
今朝もインドネシア人グループと一緒のテーブルで食す。彼女たちは自分たちの名前を、中国語で書いてくれたが、普段も中国語で書いているのかしら。

インドネシア人のグループ
AM8:30、真珠の養殖、加工、販売をしているところを見学に行く。私にとっては何も目新しい物はなかった。気になるカップルが居たので声をかけると「男性がドイツ人、女性がインド人で、結婚してアメリカに住んでいます」と言う。世界は多様である。
AM9:30、ここからインドネシア人グループと別行動になった。彼女たちはハロン湾で2泊し、残った我々は1泊するグループである。1人になった私を、シンガポールの4人家族が、自分たちのテーブルに誘ってくれた。
彼女たちは76歳の母親を中心に54歳の長女、その妹夫妻である。長女の夫はシンガポール航空の社員で、今は南アフリカに住んでいる。日本の福岡、仙台にも3年間ずつ住んでいたことがあり、片言の日本語が出来る。姉妹はそれとすぐ分かるくらい似ているが、母親とは似ていない。二人とも父親に似たのかしら。
この席には、他にオランダ人夫妻が居る。夫(54歳)は、仕事で年に2回ほど日本に来ていると言う。今回のベトナム旅行は、シンガポール出張のついでらしい。なかなかいい身分である。奥さんは「今回の旅行の記念に、真珠を買ってもらった」と言って、嬉しそうであった。
AM11:00、早めの昼食だ。昼食後、我々は帰路に就くが、入れ替わりに乗船してくる客が、PM1:30に、遅い昼食をここで取る。客船の中は、極めて効率よく回転しているのだ。こうしてベトナム最大の観光地における関係者は、忙しく働いている。

見納めのハロン湾
PM0:30、ハロン湾の港に上陸するや、雨が降ってきた。なんとラッキーな事よ。港には、ハノイ市内から多くの客を運んできたバスが、客を降ろした後、今度は我々を乗せてハノイ市内に帰るべく待機している。バスの回転も客船と同様、無駄がない。客は知らない内に、この流れに組み込まれている。
PM1:00、我々を乗せたマイクロバスが発車。
PM3:00、トイレ休憩中に、イギリスから来た若い女性と、しばしのトーク。「イギリスのどちらから来たの?」と聞くと「バーミンガムです。訛りが強いでしょ?」と言う。確かに訛がきついのである。
私が数年前、イングランド、スコットランド、アイルランドを旅行したことを話すと「アイルランドから来ている子も居るわよ」と言って紹介してくれた。「アイルランドでは、アイリッシュダンスを見たかったのだが、見られなかった」と言うと、「自分は、ダンスは踊れないが、楽器の方を演奏しています」と言っていた。
彼女たちは「今回の旅行は、アフリカのモロッコから始まって、8ヶ月間の予定です。今、丁度半分の4ヶ月が経過したところです」と。今後の予定を聞くと「何も決まっていません」と言う。これが彼女たちの旅行のスタイルである。
PM5:15、ホテル着。今回も最初に泊まったハノイ・オールド・タウン・ホテルである。最低限の着替えと食事をして、午後6時にはダナンへ向けて出発である。時間がないので最寄りのフォー店に駆け込んだが、悲惨でした。「フォーなら何処でも美味しい」と言うわけではない事が良く分かった。
PM6:00、タクシーを呼んでもらってハノイ駅へ。タクシー代金はツアー代金に含まれていて、しかも、ホテルが呼んだタクシーだから安心である。今夜は、ベトナム中部の名所、ダナン行きの夜行列車に乗る。「ダナンは良いところです」と誰もが言う。楽しみである。
PM6:20、ハノイ駅着。首尾良く夜行列車に乗り込んだ。ところが今回の夜行列車は3段ベッドの2段目が指定席。3段目よりは良いが、天井が低くてあぐらをかけない。横になっているしかない。
そこへ入ってきたのは、ベトナム人家族。何家族が居るのであろうか、皆、小さな子連れで、そのやかましい事。他人が居る等という事は全く気にしていない。1段ベッドを2つ共占有して、やりたい放題である。
PM7:00、列車は定時に発車。下の家族は、大音量で音楽を鳴らしだした。何時になったら静かになるのかしら。そんな事を考えながら、寝そべってポメラを叩いている。
PM9:30、トイレに行きたくなり、2段ベッドから降りたいのだが、天井が低くて背を起こせない。成功したのは、腹ばいになって、そのまま足から降りていく方法だ。つまり、芋虫のように、腹ばいになって上がり、腹ばいになって降りるのである。これを「芋虫の法則」と名付けよう。

3段ベッドの中段が私の指定席
やっと下に降りて、薄暗い中で、自分のサンダルを探すも見つからない。6人部屋に、10足ぐらいの靴が散らかっているのだ。結局、自分が脱いでおいた位置から遠く離れたところに転がっていた。
トイレを探す時に、幾つかの情景を目撃した。夜行列車の中に、寝台ではない、普通の座席に座っている人々が大勢居た。狭くとも横になれるだけ、まだ恵まれていたのだ。
トイレから戻って、枕元の明かりを消すと、同室の家族も静かになってきた。1段ベッドにたむろしていた人の内、2段ベッドや3段ベッドに移動した者もいるが、数人は、そのまま1段ベッドに留まっている。どちらにしても定員オーバーは間違いない。オーバーの分は子供の数であろうか?
正確な内訳は、3人の未就学児童と3人の母親、彼女たちの父親(70歳位)、私と他の男性2人。合計10人である。彼女たちもダナンまで行くと言う。
次へ進む
目次へ戻る
|