6、ベトナム南部@
7月8日(月)ホーチミン・シティ
AM5:00、起床。今朝はチェックアウトの時間が早くて、ホテルでの朝食は取れない。
AM5:55、チェックアウト。タクシーが迎えに来た。空港まで、整備された道路を40分間ほど走った。途中で見かけるのは、海岸沿いにリゾートが広がっていく様子である。
AM6:35、ニャチャン郊外の、カムラン(Camranh)空港に到着。途中で運転手に「ニャチャンはロシア人が多いですね」と言うと「そうです。あの建物も、この空港もロシアが建てたものです」と言う。やはりそうなんだ。
ニャチャン空港では、ロシア系の家族連れが大半を占めていた。それほど交流があるのだろう。搭乗して、前方のビジネスクラスを見渡すと、殆どがロシア系の人である。彼らにとっては、ハワイへ行って遊ぶより、ニャチャンで遊ぶ方が、居心地が良いのかも知れない。
AM7:40、定刻に離陸した飛行機は、近距離飛行の為か、割合に低空を飛んでいる。下には綿雲と町並み、道路、緑の山、湖沼がよく見えている。飛行時間は正味45分間だから、パリ〜ロンドン間位の距離だ。機内サービスは、ビジネスクラスには、グラスの水が差し出され、エコノミークラスには、ボトルの水が各人に配られてオシマイ。
AM8:30、ホーチミン・シティ空港に着陸。迎えのタクシー運転手が、私の名前を書いて掲げていてくれた。
AM9:30、バックパッカーホテル街にある、レレ・ホテルに到着。
AM11:40、午後のホーチミン市内見学に合流するため、ガイドがピックアップに来た。近くの食堂に私を連れて行き、「ここで昼食を取りながら、バスが来るのを待っていて下さい」と言う。
昼食のメニューを見ると、どれも似たような物であった。その中から「シーフード・チャーハン」を頼む。シーフードと書いてあるので、何か美味しい魚介類を期待してしまうが、その中身は、大体、小エビとイカである。
私が一人で食べていると、一人の紳士が食堂に入って来て、私の前に座った。私が話しかけると、次のような話をしてくれた。
「家族がアメリカのロス・アンジェルスに住んでいる、61歳の韓国人である。ベトナムに単身赴任して4年になる。社員が32人の建築会社を経営している。年に4回、ロスの家族のもとに帰り、妻が年に2回ほどベトナムに来る。
ベトナムの経済は2年前から落ち込んでおり、建築関係も暇になっている。あと4、5年頑張ったら、会社を畳んで、ロスに帰るつもりだ。
囲碁が趣味で、アマチュアの5段である。小さい時に、父親から手ほどきを受けた。ホーチミン・シティにも囲碁のクラブがあり、日本人やベトナム人が参加して、60人ほどの規模になっている」と。束の間の楽しい語らいになった。
PM0:50、午後のツアー開始。最初の見学は、ベトナム版の漆工芸品の製作工場。工芸品は大きく分けると、漆物と漆絵画に区分される。そして技法としては、東洋の漆工技法(塗り)と、西洋のラッカー技法(吹き付け)に分けられる。木材の上に絵を描いて、貝殻や卵の殻を張り付けて色を付け、綺麗な艶を出す。こうして作られた作品は、ベトナムのあちこちで売られている。
PM2:00、統一会堂(Reunification Palace)の見学。ここは、1966年に再建されたもので、再建当初は南ベトナム大統領府及び官邸」として使用されていた。 1975年4月30日、解放軍の戦車がこの官邸の鉄柵を突破して無血入城を果たし、事実上ベトナム戦争は終結した。南北ベトナムが再統一された後、1976年に現在の名前に変わった。再建前の名前は、1955年以来「独立宮殿(Independence Palace)」であった。その時代の状況に応じて名前は変えられている。

統一会堂(ホーチミン・シティ)
ここは、ホーチミン自身は、住んだことがない。担当のスタッフが各部屋の説明をして歩くが、数が多いと言うだけで、特に心に残る部屋はない。逆に、自分たち最高権力者だけが楽しめる映写室や、ダンスホール、ポーカーをするための専用卓や、バーカウンターが、3階、4階を占有していると言うことは、ホーチミン氏の生き方とは違うように思う。
立派な先覚者が命を懸けて築いた後を要領よく占有し、私腹を肥やすというのは、いつの歴史にもあることだが。ここも、ハノイのホーチミン廟と並んで、単に「権威・権力の象徴として利用されているだけ」と見ることは、私の考えすぎであろうか。
PM3:00、中央郵便局を見学。19世紀末(1886〜1891年)のフランス統治時代(1882〜1954年)に建てられた。内部の天井はクラシックなアーチ状になっており、右側には、1892年のサイゴンとその付近の地図、左側には、1936年の南ベトナムとカンボジアの電信網が描かれている。1階の中央はみやげ物売り場になっている。

中央郵便局

中央郵便局の内部
PM3:10、サイゴン大教会(聖母マリア教会:ノートルダム寺院)の見学。19世紀末のフランス統治時代に建てられた、赤レンガ造りのカトリック教会である。、それなりに立派な建物で、ノートルダム寺院はパリのそれと似ていなくもない。

聖母マリア教会
しかしこれらは、昨年、中国の大連で見た「日本が満州国建設時代に建てた建築物」と同様、ベトナム人としては、素直に誇りを持てる建築物ではなく、植民地時代の屈辱的な気持ちが混じる、複雑な心境で存続させ、使用しているものと思われる。
PM3:45、ホテル着。午後の半日ツアーでは、特に印象に残る物はなかった。
PM5:00、外が急にうるさくなって来たと思ったら、スコールだ。ものすごい音を立てて降っている。ホテルに帰着後のことで助かった。ホーチミン・シティは、やはり雨期である。
PM7:00、夕食は、ホテルの隣にある「サブウェイ:subway」で、サンドイッチとコーラ。サブウェイは、アメリカやオーストラリアで、何度か利用したチェーン店で、変わらない味がした。54,000ドン(約270円)は、こちらの物価では安くはない。
7月9日(火)カオダイ寺院(Cao Dai Temple)〜クチトンネル(Cu Chi Tunnel)
AM6:00、起床。
AM7:00、朝食。バックパッカーズ・ホテルだけあって、狭い食堂は大混雑。バイキング形式の中から、フォーを探して食す。ユースホステルのことを考えて、まだ良しとしよう。

大きな荷物のバックパッカー(ホテルのフロントで)

ホテルの向かいでバスを待つバックパッカー
AM8:20、ガイドにピックアップされて、バスの乗り場へ行くが、バックパッカーズ・ホテル街は、ツーリストでごった返している。世界各国からの旅行者で、ホーチミン・シティが、大都会である事を思わせる。
AM9:20、1時間ほど走って、市内は脱出したかに見えるが、交通の混雑ぶりは変わらない。最後に乗ってきた、足の長いオランダ人は、狭い助手席に座らせられて、足のやり場に困っている。
しばらくは、大人しく座っていたが、やがて足をフロントガラスの前に、投げ出してきた。しかし、そこには運転手が大事にしている、小さな仏様が安置されていた。さすがに運転手は、「そこに足を置くな」とあわてて言った。

足の置き場に困るよ!
今日の同行者は、ヨーロッパ人ばかりだ。私の両脇は共にベルギー人。同じベルギーでも、日常の言語は異なる。右隣のカップルは、オランダ語、そして、左隣の中年の男性はフランス語だと言う。
この男性は「親族にベトナム人が居て、今回は、一族13人でのベトナム旅行だ」と言う。フランス語圏の人らしく、英語がとても下手で、まるで日本人のようである。
AM10:15、ラッカー技法の工場で、トイレ休憩。ここのラッカー工場も、昨日見たものと同じ製法である。同じ物を何度見せられても、買わないぞ!
PM0:00、3時間半も掛けて、到着したところは、得体の知れない宗教の聖地らしい。旅程を見ると、「ホーチミン・シティから、95km離れたカンボジア国境にある、カオダイ教寺院(The Cao Dai Temple)は、ディズニーランドの様に、ファンタジーで、その外観は、あらゆる形のカラフルな龍で飾られている云々」と書かれている。

カオダイ教寺院
確かにその通り、ここの本部はカラフルで、けばけばしく、真新しいが安っぽいペインティングに彩られていた。私には何の感動も与えないが、若い西洋人の中には、感動している人も居た。何の為に、こんなところに連れて来られたのか、もう少し調べる必要がありそうだ。
カオダイ教寺院・内部
カオダイ教は、1919年、ゴ・ミン・チェンによって唱えられた、ベトナムの新興宗教である。「あらゆる宗教は、争い事をやめて、仲良くやっていきましょう」と言うことが根本で、仏教、キリスト教、イスラム、ヒンドゥー教、儒教、道教を取り混ぜた混合宗教である。そして、キリスト、釈迦、孔子、ビクトル・ユゴーや李白まで聖人に祀られている。カオダイ教の象徴は「天眼」である。ベトナム国内には、300万人の信者が居て、海外布教も盛んになっていると言う。
PM0:30、スコールが来た。幸い折り畳み傘を持参していたので、それをさしてバスの中へ避難した。私にとって、カオダイ教寺院は、トイレ休憩の意味しかなかった。
PM1:00、入った食堂で私が選んだ昼食は、卵が乗ったチャーハン、それとココナッツである。ココナッツは冷えていて、飲み心地がすっきりし過ぎており「これは本当に自然のココナッツなの?」と疑うようであった。
PM3:00、クチ・トンネル(Cu Chi Tunnel)に到着。ここは、ホーチミン・シティから北西へ約70kmの所にある。ベトナム戦争の時、このジャングルに作られた、様々な罠やトンネルを見せられた。近代兵器に勝る米軍が、最後まで攻略できなかった、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)の基地である。

枯葉に覆われたトンネルの入口
「こんな狭い穴に、本当に入って行けるのだろうか」と疑問を抱いていると、若い青年が来て、いとも簡単に実演して見せた。土産品等を売っている店では、ライフル銃の試射用に、実弾が売られていた。銃弾の大きさに応じて、一発数百円の値段が付いていた。我々は試射の区域外で、音だけを聞いたが、それでも、音の大きさに驚いてしまう程であった。

蓋をはずしてトンネルに入り

自分でトンネルの蓋を閉める
クチトンネルのハイライトは、各人がトンネルに潜ってみることである。この地下に掘られたトンネルは、地下3m、6m、9mと3層になっていて、全長は約250kmに及ぶ。我々は、その入り口の数百mを体験するのである。
順番が来て、私がトンネルの中に入っていくと、前を歩いていたのは、ミニワンピースを着た大柄の女性であった。背の低い人でも腰を屈めて歩かねばならないのに、大柄のヨーロッパ人がそういう状況になったらどうなるか、想像にお任せするが、盛んに後ろを気にされている御様子。

順番にトンネルの中へ
人がやっと一人歩くのが精一杯の空間では、「お先にどうぞ」と言って、前後を交代するわけにも行かない。それでも、平らな所を歩いている間は、まだ何とかなるが、最後にトンネルから出るときは、ああ!
先に昇る彼女の両手は、自分を支えるので精一杯。私だって自分の目を覆っている余裕はない!オー・マイ・ゴッド!雨が降ったり止んだりしている、ジャングルの中で繰り広げられた一こまであった。

クチトンネルを見学中の雨
命を懸けていたベトコンには、何とも申し訳の立たない状況でありました。ただし、中腰で背中を90度に曲げたまま、100m程歩いた時は、足がガクガクしていた事も、付言して置きたいと思います。
PM4:40、思い出のクチトンネルを後にして、ホテルへ向かう。
PM6:30、ホーチミン・シティのホテルに帰着。
PM7:00、近くのピザハットで、ピザを食す。1人前の小さめのピザだが、チーズがたっぷり乗っていて、とても美味しかった。
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