7月28日(土) 成田空港の出発ロビーでポメラに向かっている。ポメラを打つのはアメリカ旅行以来である。今回も文章作成はポメラで、通信その他はパソコンでと使い分ける事になりそうだ。 今回の旅行は、今までのバックパッカーと色々な点で異なる。まず、約半年間と長期になること、ほとんど移動のない滞在型であること、英語圏の国ではないこと、自由主義の国ではないこと等、並べればきりがない。 衣類は夏用から冬用までが必要だから、それだけでトランクT個がいっぱいになる。結局23kgのトランクが2個になり、空港の受付カウンターで、5,600円の追加料金を払うことになった。旅行保険も、通常は数千円で済んでいたのが、今回は7万円余りになった。 昨夜、次女から「出発に当たっての心境は?」と聞かれたので「やれるところまでやってこよう、と言う心境だ」と答えると「その向上心や良し」と言う。娘に誉められたのかなと少し気分が良かった。 AM10:00、妻の運転で成田空港へ。途中韓国の仁川空港を経由し、予定時刻より30分遅れでPM5:30に大連空港へ。どちらも満席状態。大韓航空は評判がいいようだ。空港内の両替所で若干の両替をすませて、PM6:00に大連空港から出てくると、私の名前を大きく書いた紙を掲げた男性が待っていてくれた。 笑顔で手を振るとさっと駆け寄って、私からカートを引き取って歩きだした。大連空港の外へ出て周りの景色を見ると、何故か懐かしいところへ来たような、不思議な感情が私を満たした。 大連の近くの按山で生まれた事と関係があるのだろうか。ただ私の父母もこの気色を見ていたに違いないと思うからそう言う気分になったのか、何とも説明できない。まさか生後半年で満州から引き上げてきた私が、その時に、この景色を脳裏に焼き付けていたとは思えないのだが。 迎えの男性は、そんな私の内面の心境にはお構いなく、カートを押して空港前の広い車道を渡って行く。100m程歩いた駐車場にはマイクロバスが待っていて、車内には10人余りの人が既に乗っていた。 どんな人たちなのだろうと思っていると、「私たち語学学校の生徒は、土曜日の今日、大連の見学に来ていました。今はその帰り道です」と言う。私は、ざっくばらんで打ち解けた空気に包まれてホッとした。 PM7:00、空港から1時間ほど高速道路を走って、旅順の学校兼宿舎に着いた。予め決められていた部屋に荷物を運び入れ、すぐに夕食を取ることになった。メニューは中華料理だが、素材や味は期待していたものとは大分差があって残念でした。 食堂には日本人、中国人、その他の外国人がいて、それぞれの集団になってテーブルを囲んでいた。ここに来ている中国人は、勉強が目的ではなく、南の地域から避暑に来ているのだという。宿舎の空き部屋の有効利用と言うところであろうか。 PM8:00、先輩方とロビーで懇談。学校の様子を種々教えていただく。 PM10:00、ミネラルウォーターを買いに外出。当校は大きな住宅団地の一角にあるのだが、ここの住宅は売れてはいるが空き家が多いと言う。不動産バブルがここにも現れているのだろうか。 PM11:30、シャワーを浴びて就寝。クーラーが無いこの部屋は、蒸し暑くて寝苦しい。 7月29日(日) 今日は日曜日で授業はない。「旅順の歴史探訪に行こう」と話がまとまり、朝8時に宿舎を出発。 まず203高地へ。入場料30元。203とは海抜203mと言うことで、日露戦争前は206mであったのが大砲の爆撃によって頂上が削られ、3m低くなったのだそうだ。ここに立つと確かに不凍港の旅順港が眼下に見える。当初ロシアが握っていた権益を日本軍が勝ち取ったのだが、その犠牲たるや夥しいものであった。 次に訪問したのは水師営会見所(1996年に復元されたもの)。拝観料40元。ここで乃木希典大将とロシア軍のアナトーリィ・ステッセリ中将が停戦条約の調印を行った。ここは元来、野戦病院で、調印したテーブルは手術台であったとのこと。日本人以外は誰も来ないと聞いたが、確かにこんなオンボロ小屋に興味を持っているのは日本人ぐらいのものであろう。 3カ所目に行ったのは、旅順博物館。拝観料20元。見学時間は1時間しかなかったが、係りの女性が、たどたどしい日本語で説明してくれた。彼女は「自分の説明で理解できたのか」を気にしていたが、説明がないよりは、ずっと良かった。印象に残った物を2点だけ書いておきたい。 1点目は、2体のミイラである。これは日本の浄土真宗本願寺派の大谷光瑞(1876-1948)を中心とする探検隊がトルファンで発掘した1300年前の物で、頭髪や顎髭等から男女の識別が可能で、コンピューターグラフィックによる復元図が示されていたが、当時の王様と后と思われるミイラである。 2点目は、昔のお金である。お金の起源が貝であったことがよく解った。小さく綺麗な巻き貝で、後にその巻き貝が少なくなると、それと同じ形を金属で作り、流通させていた。今日のような平板の貨幣ができたのはその後のことである。お金に関係のある文字(購・財・貨・貧・販・質・貢)に貝偏が付いているのはその痕跡である。 AM11:15、宿舎に帰着。運転手に100元のお礼をして4人で割り勘にした。安くて助かります。 AM11:30、昼食後、部屋替えをした。理由は、前の部屋はクーラーが無く、狭く、シャワーだけで風呂桶がないからである。料金は一月当たり、9万円から10万7千円に上がるが、長期滞在を考えると、快適な方を希望したくなる。ここは同じ建物の中に教室と食堂と宿舎があるので、移動時間を気にしなくて済む。年輩者のリピーターが多いのは、そう言う点にもあると思う。72歳になる方で、毎年1ヶ月間来ていて、今回で5回目という人もいる。と言うことは、ここは居心地が悪くないと言うことの証でもあろう。
PM6:00、そろそろ夕食の時間かなと思っているところへ「江島さん、夕食はどうなさいましたか?食堂に見えないので来てみましたが」と言う。「これから行こうと思っていましたが」「夕食は5時半からで、私たちはもう食べ終わりました。明日日本に帰る人が入るので、飲み物だけを持ち寄って簡単な送別会を行いますので、良かったら来てください」と言う。 昨日の夕食は、私の到着に合わせて遅くなっていたのだ。急いで食堂に行ってみたら、既に食べ物は綺麗に引き上げられており、このまま黙っていたら今日は夕食無しで済まさねばならない。大変申し訳ない事ではあるが、私はまだ殆ど使えない中国語で窮状を訴えて、何とか1人分の夕食を用意してもらった。 出てきた物をみると、どう見ても一人では食べきれない分量のおかずが大皿に盛りつけられていた。賄い婦人の心遣いに感謝しつつも、困惑を隠せずにいた。「こんなに食べれませんので半分に減らしてください」とジェスチュアを交えて言うと「残してもいいから」と言われたようであった。3分の1程を頂き、お礼を言って食堂を出た。大きな借りを作ってしまったような気分である。
7月30日(月) 初めての授業があった。午前は、3時間の講義だ。公民館のサークルでは何日も掛かって終了する範囲を一日で終わった。ここの学校では、コースが入門、初級、中級、上級と4クラスに分かれているが、現在は初級(4人)と中級(7人)の2クラスだけである。 初級を受講している4人は、私の他に高校の数学の教諭(60才位)、高校2年生(父親が中国人で祖父が上海に在住)、60才台の婦人(夫婦で来られており、ご主人は中級クラスに参加。この婦人は去年も来られており、その時は入門コースをマンツーマンで受講していたと言う)である。初級コースに参加してみて私のレベルに丁度合っているかなと感じた。 講義終了後、1ヶ月分の授業料(部屋代、3食込み)107,000円、インターネット使用料100元、教材費82元を支払った。授業料の支払いは1ヶ月単位である。 月曜日の午後は、「中国の文化に親しむ」と言うことで、2時から二胡、3時半から太極拳のレッスンが組まれていた。いずれも初体験である。二胡は、1時間かけてドレミファソラシドの音が出るようになった。もちろん綺麗な音とはほど遠いものである。最後に先生が聴かせて下さった演奏は見事で、無料では申し訳がないように思った。日本で聴けば大きなホールに足を運んで、最低のチケットでも5千円位は支払うことになるであろう。 太極拳はテープの音楽に合わせて先生が仕儀されるのを、ヨロヨロしながら見て真似るだけ。先生の動作には、ある時は優雅で、ある時は力強く、美しさと風格が感じられた。二胡も太極拳も片手間にやれる程簡単なものではないと強く思った。 夕食後、数人の仲間と露天の市場を見学に行った。文字通りの露天で、衣類、オモチャ、時計、DVD等どこにでも見かける風景だ。道路端の土の上にそのまま並べて売られている果物もあり、衛生上の問題があると思われた。 7月31日(火)雨 今日は雨ということもあってか、涼しいくらいだ。旅順の夏は最高気温が30℃位でそれも短期間であると言う。 今日から我が初級クラスに新入生が一人増えた。名前を佐藤さんと言い、72才、東京在住で、今回が5回目の留学だと言い、教職員とも顔なじみのようだ。毎年、夏の1ヶ月間をこちらで過ごしている。「女房に追い出されて来るんだ」と冗談を言う。どうやら避暑を兼ねて来ているのかな? 一方で、野田さん(66才)と言う方が帰国された。お別れする時に初めてお会いしたのだが、先輩たちの話を要約すると「この方は風変わりな人で授業には出席せずに、捨ててあった自転車を自分で改良して、出歩いている。写真を撮ることが好きなようで、秋になるとまた来るそうだ」と言う。「何でも有り」の自由な学校だとは聞いていたが、そこまで自由だとは! 昼食後、日記を書く。 困ったことには、部屋のトイレが詰まって流れなくなった。係りの人に話すとすぐに処置をしてくれたが、「トイレットペーパーを便器に流さないでくれ」と言う。日本でなら問題にならないことが、時々問題になる。他の人に「あなたもトイレットペーパーを便器に流していないのか」と聞くと「私は流していますが何の問題もありません」と言う。かなりいい加減な対応である。この宿舎の便所は確かに水洗にはなっているが、流水の量が少ないと思う。 |