9月1日(土) 本日は土曜日に付き、学校のマイクロバスで大連市内へ。 AM8:30、宿舎発。片道だけ利用する人もいる。先週は満員であったが、今回は日本人が少なくなった為か、座席にゆとりがある。いつもと違うコースを走っていると思ったら、運転手が自分の息子を旅順市内でピックアップ。何でもありのルールが中国流だ。 AM10:00、大連駅前に到着。今日の私の予定は、バスで市内観光。10元のチケットで市内を一周。所要時間は約1時間半である。その日の間は、途中で乗り降り自由であるが、とりあえず一周することに。たまたま同じことを考えていた林さんと同行。切符売り場を見つけて切符を買うところから小さな冒険が始まる。まるで学齢前の幼児が挑戦する(時々テレビで見る)「初めてのお使い」である。 AM10:20、首尾良く切符を手に入れ所定の観光バスに乗る。バスは満員になったところで出発。若い女の子が後ろを向いてなにやら喋っている。彼女は短パンにスニーカー姿。顔は日焼けして黒く、口紅一つ付けていない。しかし、よく見るとヘッドマイクを付けて、観光バス会社のTシャツを着ている。 どうやらバスガイドのようである。我々は彼女の話を全く聞き取れない。しかし、聞き取りやすい話し方をしている事ぐらいは感じ取れる。「彼女の案内が半分ぐらい聞き取れるようになりたいものですね」が我々2人の感想であった。 さて大連は遼東半島の南端近くにある。最南端が旅順でその少し北に位置するのであるが、地図をよく見ると、大連は遼東半島から更に小さく黄海に突き出た半島になっている事が分かる。今回はバスでこの小さな半島巡りをしたわけだ。半島の南側は高い崖になっており、片道1車線の狭い車道とその海側に遊歩道が巡らされている。伊豆半島でも見られるような光景である。 バスが右に左に急カーブを描きながら走っていると、林さんの顔色が急に青ざめてきた。どうやら車酔いらしい。例の若いガイドさんを呼んで、「吐きたくなったからビニール袋を貰いたい」と言いたいのだが、何と言ったらよいか言葉が見つからない。パントマイムよろしく身振り手振りで訴えると、その内容をガイドさんは理解したようだが、生憎ビニール袋の用意はしていないと言う反応だ。林さんはこらえきれずに、途中下車。 乗客の大半が降りて車内が空いてきたところで、ガイドさんが私のところへ来て若干の懇談。言葉は英語。彼女は「今年の6月に大学を卒業したばかりで21歳の新人社員。サラリーは良くありません」と言う。 大学を卒業しても簡単には高給にあり付けないのが実状のようだ。反日的な言動を繰り返しながらも、日本語を身につけようとしている若者が少なくないのは、やはり「日系企業に勤めて、少しでも高給にありつきたい」という現実がそうさせているように思われる。 丁度お昼時だ。昨日調べておいたラーメン店が駅前広場の地下街にあるはずだ。幸い何度か人に聞きながら、その場所にたどり着いた。さながらフードコーナーのようで、似たような店がいくつも有って、昼時の人で賑わっている。そんな中で、それぞれの店の店員が声を張り上げて、我が店のメニューを客に訴えている。そんなに大声を出さなくても分かるのに、他店の声より少しでも遠くまで届けと言わんばかりだ。 見本の中からおいしそうなラーメンを指さし、12元払って待つこと数分。出てきたラーメンに載っているチャーシューの大きいこと!少し大げさに言えば、ステーキのようだ。味もマズマズ期待したとおりでした。 お腹にもう少し余裕が有ったので、別の店で冷麺を注文すると、「今日はやっていない」との返事。そうか、「多分、断水と関係しているのであろう」と勝手に推測し、これ以上食べることを断念して、地上にあがった。 次に訪ねたのは中国で一番大きなチェーン書店の「新華書店」。こちらで「ローマの休日」の中国語版を買いたい。道々、何人かに「新華書店」への行き方を尋ねたが、一回で聞き取ってくれた人はいなかった。たった4文字の発音でこんなに苦労するのかと、行く末を案ずる自分がいた。多分、四声を間違えて発音しているのだと思う。 書店の受付で「ローマの休日のDVDを買いたい」と言ってメモを見せると、そのコーナーに案内してくれた。きちんと伝えるにはメモを見せるに限る。そのコーナーには欧米の有名な作品や、宮崎駿のアニメーションの中国語版が並んでいた。私は「ローマの休日」と「となりのトトロ」を買った。2枚で30元也。 PM1:30、途中下車した林さんと合流し、間もなく帰国する林さんの、お土産購入におつき合い。久光百貨店とマイカルを案内する。 PM3:00、マイクロバスに集合。運転手の息子も乗せて発車。 PM4:30、宿舎着。断水が続いている。 早速、購入した2枚のDVDをパソコンにて視聴。分かったことは、中国語の音声と字幕がほとんど一致していない。それぞれきちんと入っていて、意味は同じ様ではあるのだが。これでは聞き取りの練習にしか使えない。これも中国製品の中国製品らしい所だと諦めるしか有るまい。日本の製品と比較して、外見では見分けが付かない水準まで来ているのだが、最後の詰めが甘いのである。 9月2日(日) 昼食の時間を12時と思いこんで、ポメラを打ち込んでいた。ウィークデイなら、11時半に午前の授業が終了すると同時に昼食になるから、忘れることはないのだが、今日は日曜日でいつもとリズムが異なる。そろそろ昼食の時間だと思って食堂に行ったら誰も居らず、片づけも終わっていた。ここの昼食は11時半であることを、すっかり忘れていたのである。様子を察して、賄いのおばさんが食事を用意してくれた。謝謝! 夕食時に新入生が3人合流した。ご主人より半月遅れで来られた、石黒夫人(都内在住)、2回目の来訪である。二人目は、兵庫県・三田市から2週間の予定で来られた加藤夫人。3人目は埼玉県から1ヶ月の予定で来られた中村氏である。3人とも初級コースを希望である。 9月3日(月) 早朝、林さんが帰国の途へ。午前中の初級クラスは私と3人の新入生。授業は、自己紹介と雑談で終わった。中村氏は先生の判断で、入門クラスへ移動することに決定。 9月4日(火) PM8:00、日本人交流団歓迎会が、我が宿舎の大教室で行われた。御客さんは広島からの日中友好交流団、総勢15人。平均年齢は70歳前後、戦前の満州を覚えている人も2人いると言う。まず双方の代表が訪問と歓迎の挨拶。広島代表は、原爆の悲惨さを訴えた中国語版の冊子と紅葉饅頭を持参していた。 続いて、こちらの大学の学生、教職員による歓迎の出し物。司会を務めた男子学生の日本語は、言葉遣いといい、アクセントといい、「本当に中国人なのか」と疑いたくなるほど上手であった。男子学生によるヒップホップダンス、女子学生による歌唱と続く。 中程に出てきたのは、80歳にもなろうかと言う年輩者だが、お元気な男性。一冊のスクラップブックを片手に、さながら紙芝居のように淀みなく、そして、あたかも見てきた様に日露戦争の顛末を日本語で語りだした。語り終えると日露戦争の写真入りの本を販売していた。後で聞いたらこのおじさんは、白玉山で、お土産店を開いている人だそうだ。 驚いたのは、学生かと思えるほど若く、細身で男の先生が、京劇の歌を披露した時である。中央に進み出て、おもむろに右手を斜め右下に出すや、この世の声とは思えない高音で歌い出したのである。裏声ではなく、さりとて首に青筋を立てているわけでもない。顔色一つ変えずに、涼しい顔をして歌っているのである。あまりの不思議さに、口パクのアテレコかと疑ってみたが、そうでもなさそうだ。歓迎会が終了後、聞いてみると、小さい時から練習するのだと言い、奥深い芸のようである。 私は広島からのお土産の紅葉饅頭を一つ頂いた。歓迎会はPM10:00 に終了した。広島からのお客さんは、今夜ここに1泊だけして明朝には移動するのだが、一人一部屋で、15人分の部屋を整えていた係りの女性は、とても忙しそうであった。 9月5日(水) 昨日の歓迎会で懇談していた女子大生(日本語科、4年生)が来訪。 彼女(小羽ちゃん)は、昨今の中国に対して嫌悪感さえ抱いているようだ。自分の将来は今の中国の延長線上には考えられない。毛沢東、共産党、共産主義に対しても、言下に否定した。優秀な人は皆、海外に移住してしまい、今の中国には居ないとまで言う。 若さ特有の一途な思考から、やや極端な考えに陥りがちであることを、憂慮せざるを得ないが、ストレートに自分の考えをぶつけてこられると、こちらとしてもいい加減に答えるわけにもいかない。 本居宣長(もとおりのりなが)の中国語版を持参し、その考え方に共鳴していると言う。残念ながら私はその名前を知っているだけで、著書を読んだことはない。彼は日本固有の「もののあわれ」が日本文学の本質であると提唱したことで知られている。 彼女は「今の中国には心がない」と言う。日本の文学にふれて大いに共鳴したようだ。我が日本国の現状も、彼女が想像しているほど、心が豊かであるかと問うた時、逡巡なく肯定することは難しい。しかし、比較の問題として問われれば、日本に軍配を揚げて良いのではないか。 ただ彼女が「中国は100%だめで、日本は100%すばらしい国である」と思っていることに、私は戸惑いを覚えるのである。 懇談中に彼女から発せられた言葉に「サルトル、ボーボワール、ニーチェ、実存主義、弁証法」等があり、久しぶりに自分も学生時代に戻って、哲学論議をしているような気分であった。 土曜日から旅行に出かけていた、大内さん夫妻が帰って来られた。友人の案内があった様だが、内モンゴルとの国境付近まで行って来たとの事。帰りは夜行列車で半日ほどかかったと言う。 夕食で久しぶりにお見かけした時、ご主人の頭の様子が変わっていたので食卓の話題になった。「こちらに戻ってからすぐに床屋に行って”少し短くしてくれ”と頼んだらこんなになってしまった」と言う。つまり坊主頭になっていたのである。 頼んだ本人は、「こんな頭にするはずではなかったのだが、最初にバリカンで一筋刈られてしまったので、後は、されるがままにしているより仕方がなかった。やっぱり中国語は難しい!」と言う。中級コースで頑張っている大内さんの発言だから、重みがあった。 9月6日(木) 夕食時に、猪岡先生と韓国料理屋へ。宿舎から徒歩10分ほどの所にあり、珍しく本格的な店であった。焼き肉を二人分頼んだら多すぎて食べきれなかった。後は冷麺を1人前注文し、大半を私が頂いた。瀋陽で食べたものと同じように美味しかった。二人で129元也。 私のブログを見たと言う猪岡先生から「次の旅行の予定は?」と聞かれたので「この年になりますと、一年先の予定は立てられません。今回の留学が済んでから考えます。いつも”今回の旅行が最後になるかな”と言う気持ちが心の片隅にあります」と答えると、71歳前後になられる先生も、半ば同感されたようであった。 9月7日(金) 午後、ここのシニア留学生が良く行くマッサージに行ってみた。宿舎から徒歩2分の近さだ。客は私一人。30歳代の若い主人に笑顔で迎えられ「足コース」を頼んだ。熱めのお湯に足を浸すところから始まり、終わってみると1時間余り経っていた。 後半の20分ぐらいは眠っていたようだ。お代は35元也。日本での料金に比べると、申し訳ないほど安い。日本人の客が多いせいか、彼の方が日本語を覚え始めたようだ。こちらの中国語がおぼつかないと、日本語で語りかけてくる。 「定年までのお仕事は?」と聞かれ、はて、と困った。経理と言いたいところだが、中国語の経理は「社長」と言う意味だし、会計と言いたいところだが、その発音が分からない。迂闊にもこんな質問にも答えられない自分を確認する羽目に。 ジェスチュア・クイズよろしく、彼から発せられた正解は「kuai ji、クァイジー」であった。マッサージ後のすっきりした足で、会計の発音も知らなかった無念さを抱えて宿舎に戻って来た。 9月8日(土) 今日、4人の日本人留学生が来訪。入門コースの川口氏(神奈川県)、初級コースの梅沢氏(茨城県)、中級コースの蝶野夫妻(福岡県)。これでまた日本人が11人になった。 毎週土曜日は学校からのマイクロバスで大連市内に行くが、本日初めて宿舎に残った。行っても特段の用事がなかったからである。午後、宿舎の周りを散歩していると、同じ宿舎の大学生から挨拶された。 近くの海で泳いできたのだと言う。寒くないのかと聞くと、「水の中は暖かいです」とすました顔。若さに乾杯!散歩の途中で、座布団を見つけ、一個購入。20元也。これでお尻の痛さから、いくらか解放されるかも知れない。 9月9日(日) 隣の敷地にある大学で、日本語を教える先生が、日本から戻ってきた。夏休みで帰国していたのである。1年契約で後半の勤務が残っているという。中国語は全くできないらしい。日本語の文法が教えられればそれで良いのだと言う。日本でも国語の先生をしているという若い女性である。 夕方の散歩で、昨日と同じ店で2個目の座布団を購入。昨日購入した座布団の座り心地が、マズマズ良かったし、部屋が2部屋あり、椅子も2脚あるので、もう一つ有った方が便利だと思ったからである。同じ様な座布団なのだが、昨日は20元で、今日は35元だと言う。これを30元に値切ってゲット。 9月10日(月) 午後2時から、小羽ちゃんと相互学習。今日の話題には、万葉集、唐詩、三島由紀夫、太宰治等が出てきた。私の漢字を見て「小学生の字みたいだ」と言う。つまり下手だという事だ。 アメリカ人学生の時間割表を見せてもらった。午後も5時過ぎまでビッチリ組まれており、我々シニアコースとは全く違っていた。土曜日も半日授業があり、のんびり「大連まで買い物に」なんて言う余裕は無さそうである。若いから頑張れると思うが、私はシニアコースで良かったと思う。 後日談:上記には私の誤解があった。時間割表が午後5時過ぎまでビッチリ組まれているのは事実だが、此処には入門コース、初級コース、中級コースが全部入っている。受講するアメリカ人は能力に応じて、コースを選択する。 アメリカ人に教える先生が一人であるために、このような時間割表になっていると言う。アメリカ人学生は、週に10時間、大学で英語を教え、10時間、中国語の授業を受けることがノルマになっており、それが母校での単位取得の一環になっている。 夕方の散歩で散髪屋を見つけたので、こちらへ来てから初めての散髪にトライ!先日「丸坊主にされてしまった」と言う大内さんの話を聞いてから、散髪に行くことをためらっていたのだが、何時までも伸ばしておく訳にもいかない。 「周りを少しだけ短くしてほしい」とジェスチュアーを交えて言うと、「分かりました」と言う反応と同時に、一番奥の椅子に案内され、仰向けの姿勢で軽く洗髪。すぐに中程の椅子に移り、担当者が代わって散髪が始まった。初めは様子を見ながらハサミを入れている。やがてバリカンに持ち変えて、上から下から器用に動かしている。 これなら「ニュージーランドでの床屋より巧くやってくれるかもしれない」と期待させる位であった。散髪が終わり、もう一度洗髪の椅子へ移動。初めは暖かいお湯での洗髪であったが、最後は冷たい水での洗髪だ。若干の違和感を覚えながらも、2回も洗髪するとは随分丁寧なものだと感心していた。 ところが洗髪を終えて体を起こされた時、冷たい水が背中へ、ツッツッツー!シャツの襟もビショビショ!濡れた髪の毛をろくに拭かないで、体を起こされた事が原因だ。使用時間20分、料金15元也では文句は言えないか。丸坊主にされないだけ運が良かったと思うことにした。 9月11日(火) 大内夫人、1日中顔を見せず。お腹の具合が悪いらしい。 PM6:30〜PM8:45、宿舎に併設されている教室で、隣の大学の日本語学科の学生との「交流会」が催された。交流会がどんなものか知るために出席してみたが、気分は最悪であった。中国人10名と日本人6名が、小さな教室で6グループに分かれて懇談する。 とは言っても、お互いに習い初めた外国語で話しているので、静かなところでも聞き取りにくいのに、周りがうるさくて大声を出さないと聞き取れない。しかも内容のない話に長時間、耳を傾けねばならず、非常に疲れた。今日来ていたのは、皆大学3年生だと言うが、人によって日本語の習得レベルに大きな差があることを実感した。 9月12日(水) PM6:00〜8:00、近くの中国料理店で送別会。今回は1ヶ月間滞在の猪岡先生と、2週間滞在の加藤夫人が主役。とは言っても、費用は一人52元也の割り勘である。少しだけ美味しいと思ったのは、私が注文した、一人1個の小さなアワビぐらいのものであった。 福岡から来訪の、蝶野さんのご主人の話を少し聞くことができた。氏は7歳の時に満州で終戦を迎えた引き上げ者だ。父親が医者をしていたのだが、引き上げ中にコレラが発生して大変混乱したと言う。行動半径は限られていたが、幾つかのことは鮮明に記憶しているようである。蝶野さんは夫婦で中級コースである。 9月13日(木) 猪岡先生帰国。尖閣諸島の問題で、日中間がギクシャクしている。中国のあちこちで日本を非難するデモが行われ、大連にまで広がりを見せている。毎週土曜日は大連まで、買い物用のマイクロバスが出るのだが、今週は大事をとって中止になった。 午後2時から小羽ちゃんと相互学習。詩を愛し、花を愛で、太陽系外の星へ行く夢を語るかと思えば、死にたくなることがあるとも言う。若さ特有とは言え、振れ幅が大き過ぎる。不良仲間から、いじめられないように、中学生の時に吸い始めた煙草は、今では止められなくなっているそうだ。 努力もしないのに、日本語の資格試験では驚異的な高得点で合格して、クラスメートから羨ましがられるが、自分から見れば、どうしてそんなに出来が悪いのかが不思議であると言う。秋の国慶節には南京で在学中の彼氏に会いに行く予定だそうだ。 私は彼女から少しでも中国語を吸収しようと努力を開始したところである。私の詩の朗読を聞いて、一つ一つのピンインの発音が間違っているところもあるが、それ以上に気になるのがスピードのようである。「余りにスピードが遅いので、何を言っているのか分からない」と言うことらしい。 9月14日(金) 早朝から激しい雷雨が発生。ここ数日、急に冷え込んできた。掃除係の孙(スン)さんにお願いして、掛け布団を2枚にしてもらった。昼間も、モモシキをはくようだ。 9月15日(土) テレビの放映はどのチャンネルも、反日デモばかり。権力者に都合の良いことは放映し、都合の悪いことは放映しないと言うコントロールされた中での報道。つまり、全部「ヤラセ」とは分かっているが、かつての日本陸軍のように、軍に対する押さえが利かなくなって、軍が暴走するようなことがあると心配である。 昼食は宿舎の食堂で、アメリカ人学生と一緒に食す。一人の黒人女子学生は、テキサスのヒューストンからきていると言う。私が去年のアメリカ横断の話をする中で、ナバホ族とアパッチ族との結婚の話をすると、その女子学生が「私の先祖はアパッチ族です」と言う。欧米人は味のない白米が大の苦手と言うが、彼女も白いご飯に醤油をかけて食べていた。もう少しアメリカ人学生の食事に、配慮して上げられないのかな。気の毒に思う。 兵庫県の三田市から2週間の体験留学に来ていた加藤さんが帰国された。二週間の間に何度「息子が、息子が、息子が」を聞かされたことであろう。中国語が出来て、一流企業で活躍中の自慢の息子。その息子に「お母さん、中国に行ったら日本人と話をしていたらアカンヨ」と言われて来ましたと言う。 その息子が中国に留学して3ヶ月目に訪ねて行った時には、もうタクシーの運転手と中国語でやりとりをしていたそうだ。その話を繰り返し聞かせられた我々であるが、彼女がこちらに居る間、日本語が一番多かったのも、彼女ではなかったろうか?そして、夫の話が一度も出てこなかった事も、何となく気になる人であった。 足のかかとを削るヤスリを持ってこなかったので、代用品としてカミソリを購入。8元也。 9月16日(日) テレビは、反日デモと大型台風の事ばかり。今日は宿舎でおとなしくお勉強。 9月17日(月) 起床して部屋のカーテンを開けようとしたら、カーテンレールごとドスンと落下!見るとカーテンレールが、漆喰の壁に如何にも粗雑に取り付けられていた。一目見て、これではカーテンの重量には耐えられないであろうと思った次第。これも現代中国の文化か? 嗜好品の一つとして、ネスカフェのインスタントコーヒーを日本から持参していた。手軽だし結構美味しいので、毎日2杯ずつぐらい飲んでいる。驚いたのは、こちらで売っている同じネスカフェのインスタントコーヒーが、全く美味しくないのである。同じブランドでも国によって味が異なる事は承知しているが、こんなに違ってしまっては飲めません。持参品の残りが少なくなってきたので、大連に行く時に日本製を探す事にする。 9月18日(火) 授業中に一人ずつ自分の生年月日を言う場面があった。最初の女性が本当の誕生日を言ったので、後続の人も釣られて本当のことを言う羽目に。言葉の練習をしている時は、「年齢をごまかす余裕がない」と言うのが当たっているかもしれない。その結果、我々初級コースの4人は、私が最高齢者で、後の3人は1年づつ若い事が分かった。つまり私を除く3人は、団塊の世代である。 夕飯の食事中、田副院長が様子を見に来て「食事は美味しいですか?」と言う。勇気のある者が「毎日同じ様なもので、そろそろ飽きてきました」と言う。すると田さんは「毎日、食事の内容は変わっているでしょう」と。 そこで私が「日本人の感覚では、中華料理の範囲で少々食材が変わっても、変化があるとは感じません。日本では和食、洋食、中華と、もっと広い範囲での変化を楽しんでいますから」と言うと、キョトンとしたような顔をしていた。言われていることが良く理解できないと言う風情であった。 9月19日(水) 本日、我が初級コースに、福岡県から2人の女性留学生あり。二人は我々と同年輩の友人同士で、過去にも来たことがあるようだ。 茨城県から来ている梅沢さんが、風邪でダウンし、授業を欠席。土曜日には友人を訪ねて天津(てんしん)に行くと言っている。それまでに回復すると良いが。 9月20日(木) 梅沢さん、点滴注射を打ちに大学付属の病院へ。「5時間掛かった」と言って、午後2時に戻って来た。 午後2時から、小羽ちゃんと相互学習。彼女が漢詩を1首と寓話を1ページ教えてくれた。今の私にとってはレベルが高すぎるのだが、教える方としては、これ以下には下げられないと言うところか。続けたければ付いていくしかない。しかし彼女も良く教えてくれる。感謝である。授業の内容と全く異なり、中国文化の一端を学べることは、新鮮で大変有り難い。 9月21日(金) 今まで担当であった張先生が突然退職することになり、代わりの先生が来られた。名前を廬先生と言い、日本に10年間居たという。その内8年間は(2年間の日本語学校、4年間の大学、2年間の大学院)福岡県、後の2年間は東京の会社に勤務していたそうだ。丁度30歳位の女性である。 初めて教室に入ってこられた時、ジーパンにノーメイク、しかも体格が良く、髪を肩あたりまで垂らしていたので、一見、男性プロレスラーかと思うような風貌である。しかし声を聞くと女性であることが分かった。今日は自己紹介から始まる雑談で終わったが、なかなか味のある人柄である。 9月22日(土) 2週間ぶりの大連で、少々の買い物。まず新華書店で「風と共に去りぬ」の中国語版DVDを購入。30元也。次に日本語の上手な中国人が経営している、日本語書籍の古本屋さん。古本を新品並の値段で売り、新品は定価よりも高く販売されていた。客層は日本人か日本語に興味を持った中国人と限定されるが、需要があると見えて、客足は途絶えなかった。 昼食に塩鯖定食、40元也。久しぶりの和食を胃袋が歓迎していた。昼食後、日本から持参したネスカフェのインスタントコーヒー(100グラム)が少なくなってきたので、補充を探しに久光デパートへ。ネスカフェが無くてUCCが置いてあった。90グラムの瓶入りで80元也。近くのマイカルを覗くと、同じ物が55元で売られていた。両方を見てから買えばよいのだが、それを面倒に思って、それぞれの店から1本ずつ購入。 最後は時期物の月餅。大きめの物が1個5元也。石のベンチに座り、ぼろぼろこぼしながら平らげた。食べ過ぎて「夕食に差し支えるかな」と言う心配が頭をよぎったが、一気に完食。美味しかった。 9月23日(日) 佐倉の中国語サークルの人から、「如何お過ごしですか」とメールが届いた。反日デモを心配している様子。ここ旅順は心配が無いことを書いて返信。 昨日大連に同行した中村氏が、日本語書籍の古本屋で中国語で歌われたCDを購入。それを借りて聞いたのだが、テレサ・テンとは余りにも印象が違うので驚いた。テレサ・テンの歌は、聞いていて心地よく、気持ちが和んでくる。それに比べ、借りたCDの歌手は、本格派、正統派の歌い方かもしれないが、逆に少しも心地よくならず、ストレスが溜まるように感じたのである。よかったらコピーさせてもらおうと思ったが、コピーせずにお返しした。 9月24日(月) 船橋在住の高木さん来訪。82歳だとか。私がここで出会った最高令者である。食事中、洋食でもないのにナイフを使用。「歯が悪いので小さく切って食べます」と言う。仕事で台湾に4年間居たことがあり、中国語は中級コースである。 夜、いつもの様に風呂桶にお湯を入れたら、底が見えない位に濁っていた。この中に浸かるか、流してしまうか迷った末に、体を温めたくて、浸かることに決めた。静かに浸かった後で風呂の栓を抜いて、お湯を流したら、底の方に泥が溜まっていた。タンクの掃除をしたのか、ほかの原因があったのか分からないが、宿舎側からは何の説明もなかった。これも中国流か? 9月25日(火) 日本のインターネットを見ていたら、中国語初級者向けのDVD、CDが販売されていた。これは中国製で中国からの輸入品であるから、こちらで購入すれば安く買えるのではないかと思い、教室の先生に調べてもらった。結果は予想通りで、価格は日本の3分の1である。通販で注文してもらい、土曜日に届くことになった。 PM6:30〜PM8:00、隣にある科技大学の日本語学科の生徒との交流会。今回のお相手は女性の2年生。2年生になったばかりだから、日本語の勉強はまだ1年間である。進捗度は私の中国語と同じくらいか。互いに一言話す度に辞書を引き引きだから、話は進まないし、深みのある話も出来ない。それでも「日本語を覚えたい」という熱意が感じられて、終了後の疲れは心地よかった。 9月26日(水) PM6:00〜PM8:00、何度目かの歓送迎会。明日、石黒夫妻が帰国されるのと、前後1週間ぐらいに来た人や帰国する人々の、送迎を兼ねてと言う名目である。皆それぞれに中国語習得の難しさを語って賑やかに終了した。 今回驚いたのは、普段は無口で誰とも接触したくないように見える蝶野さんのご主人が、私を相手に止めどなく話しかけて来たことである。それも私としてはあまり聞きたくない、知っても得ることのない話であった。 「3年前に初めてここへ来たとき、一つのグループができて、自分だけ仲間外れにされた」と言う内容である。知っている人の名前が語られた時は「そんな事があったのか」とびっくりしたものの、気持ちの良いものではなかった。 9月27日(木) 今朝、石黒夫妻が帰国。ご主人(中級コース)が先に来ていて、ご婦人(初級コース)が後から合流された。ご主人は毎朝・毎夕、2時間以上も歩いておられる。減量が目的のようであるが、その姿は修行僧の様である。中国語の経歴も長く、学生時代から漢詩が好きであったと言う。 中国の国慶節を中心としたゴールデンウィークが始まり、付近の屋台が減ってきた。大学は実質2週間近くも休校となり、学生たちは故郷へ帰ったり、旅行に出かけたりして、寮に居なくなってしまうからである。日本語教師の谷村さんも、「この間にアメリカに行って来ます。本当は中国国内を旅行したいのだが、民族大移動の様相を呈して、切符の購入もままならないから」と言っていた。 9月28日(金) 本日の最高気温は17℃。夕方散歩したら、冷たい風で身体が凍える様であった。日本で言う木枯らし1号だ。早くも冬到来か?この先が思いやられる。 9月29日(土) 土曜日恒例の大連行きに参加せず、予習の時間に当てることに。朝寝坊して行きそびれたアメリカ人2人と、3人だけの昼食でした。 中国のテレビを見ていると、どのチャンネルを回しても、「中国(zhong guo)」と言う言葉が頻繁に聞こえてくる。ほかの言葉が聞き取れないから、余計にそのように感じているのかもしれないが、正直に言うと耳障りである。 今の中国は、「中国」イコール「中国共産党」であるから、中国を宣揚することは、そのまま中国共産党を宣揚することになる。テレビ局もそうしておけば、つまらないチェックをされず、安泰で居られるのであろう。しかし、本音を聞きたい者にとって、建前だけを聞かされることは、退屈至極である。 掃除係のおばさんが、とても忙しそうである。これは「辞めて行った人の分まで担当しなければならなくなったからだ」と言う。この学校も経営が苦しいようだ。 9月30日(日) 夕食は、「中秋の月」を観賞する宴会となった。料理は、いつもより多くの品数と、ビール等のお酒が振る舞われ、食後は果物と月餅を食べながらの「お月見」となった。これは当校の数少ない粋な計らいである。 |