第1部 共産主義の到来は歴史的必然か
第1章 資本論の前提条件
(1) 3種類の前提条件 資本論を分析する際にまず重要なことは、その全体像を正確に把握することである。資本論の全体像を一言で言うなら、次のように言えよう。つまり “資本論は多くの「前提条件」の上に、いくつかの「基本命題」を掲げる方法で、資本主義社会の必然的没落を証明するという構造になっている。” これを建物に例えれば、前提条件が土台で、基本命題が柱に相当する。建物が大きければ大きいほど、土台はしっかり固めておかなければならないし、柱も強靱でなければならないことは言うまでもない。
そこでまず前提条件の検討から始めよう。資本論における前提条件は各章に沢山あるが、ここでは3種類の代表的なものを紹介しよう。 <前提条件その1>………単純化 「どの価値形成過程でも、より高度な労働は、つねに社会的平均労働に還元されなければならない。たとえば1日の高度な労働は、X日の単純な労働に。つまり資本の使用する労働者は、単純な社会的平均労働を行うという仮定によって、よけいな操作が省かれ、分析が簡単にされるのである。」(第1巻P.213) <前提条件その2>………捨象化 「これらの形態を純粋に把握するためには、さしあたりは、形態転換そのものにも、形態形成そのものにも、なんの関係もない契機をすべて捨象しなければならない。それ故、ここでは、商品はその価値どおりに売られる、と言うことが想定されるだけではなく、この売りが不変の事情のもとで行われる、と言うことも想定されるのである。したがって又、循環過程で起こることがあり得る価値変動も無視されるのである。」(第2巻P.32) <前提条件その3>………平均化 「それぞれ違った量の生きている労働を動かす諸資本が、それぞれ違った量の剰余価値を生産するということは、少なくともある程度までは次のことを前提している。すなわち、労働の搾取度または剰余価値率が同じだということ。または、そこにある相違が現実的または想像的(慣習的)な保証理由によって、平均化されたものと見なされるということである。このことは労働者たちのあいだの競争を前提し、また、ある生産部面から他の生産部面への、労働者たちの不断の移動による平均化を前提する。」(第3巻P.184)
以上のとおり、3つの前提条件を紹介したが、いずれも理論を簡単化するためのものである。また偶然そうなったのであるが、<前提条件その1>は資本論第1巻に、<前提条件その2>は資本論第2巻に、<前提条件その3>は資本論第3巻に述べられている。これは資本論全体が一定の前提条件の上に、理論構築されていることを示している。 更にマルクスは、理論と現実との関係について、次のように述べている。 「理論では、資本主義的生産様式の諸法則が、純粋に展開されるということが前提されるのである。現実にあるものは、いつもただ近似だけである。しかしこの近似は資本主義的生産様式が発展すればするほど、そして以前の経済状態の残り物による資本主義的生産様式の、不純化や混和が除かれれば除かれるほど、ますます進んでくるのである」と。(第3巻P.184) はたしてマルクスの確信は現実のものとなったであろうか。次にその検討を行いたい。
(2)前提条件の検討
<前提条件その1>………単純化(複雑労働と単純労働について) 複雑労働でも肉体労働であれば、それを分解して単純化し、労働時間によって価値を測定するということも考えられよう。(否、実際にはそれも不可能である)しかし頭脳労働の場合にはどうであろうか。頭脳労働を時間によってその価値を測るということは不可能であり、ナンセンスでもあろう。もっとも、それ以前の問題として、資本論では頭脳労働について特に言及していないのだが。頭脳労働の例として、学者、芸術家等が思い浮かぶが、彼らの労働価値を労働時間によって測定することができるであろうか。発明、発見或いは芸術作品等は、時間さえかければ完成するというものではない。マルクスの時代に比べて、頭脳労働にたずさわる人の比率が、多くなっていることを考慮する時、この前提条件は無視できない。
<前提条件その2>……… 捨象化(価値変動の無視) 商品はその価値どおりに売られると仮定されているが、現実には価値どおりに売買されないことが多い。否、実際に売買される価値が真実の価値で、売買される以前の価値は単なる見積もりでしかない。理論値と実際値とのあいだには差が生ずるのが常である。しかしマルクスは、理論値がそのまま実際値になると前提し、価値の変動を無視している。 「経済学的には、収益は生産の進行につれて、逐次形成されていくはずである。にもかかわらず、企業会計上は、その発生が多くの場合このように実現の事実をまって初めて認識される関係にある。そころから、そこには企業資本の動きが、 G(現金)――W(原材料)……W’(製品)――G’(売上金)としてよりは、むしろ G(現金)――W(原材料)……W(製品)――G’(売上金)というかたちでもって捕捉されることになろう。そして、収益の認識にあたって、ことさらにそのような基本的態度をもって臨まなければならない。なぜなら、そこにあっては、 @「計算の確実性」ということ、 A「客観的な証拠の存在」ということを、 ひとしお重視しなければならない必然が存在するからである。 つまり、企業会計にあっては、費用や収益の発生を認識するということは、そのままこれを貨幣価値的に記録することを意味するものである。そのようにこれを貨幣価値的に記録するとすれば、当然そこには、その認識を可能にする明確な条件というものがすでに存在し、具体的な測定が充分に可能でなければならない。 ことに、こんにちのような市場生産形態のもとにあっては通常はその金額どころか、収益の成立自体も、製品なり用役なりが現実に顧客に引き渡され対価の成立を見るまでは、しょせん不確実のままである。それゆえ、その段階の到来を待つことなしに収益の認識を行うということは、売れ残ることによって事実上ついに成立しないままに終わる架空の利益要素までをもあえて計上し、それらをも利益処分の対象のなかに加えることを意味する。一般に収益については、販売というような決定的な事実の到来によってのみ初めてそれが、企業会計上具体的に認識できるほどに客観的なものになる。」(山桝忠恕著「近代会計理論」P.96〜P.97)
<前提条件その3>……… 平均化(剰余価値率の平均化) 自由な労働者間の競争および移動によって、労働の搾取度または剰余価値率が平均化するということも事実であろう。しかし逆に、自由競争によって剰余価値率にますます差ができるというケ−スも考えなくてはなるまい。事実、このことはマルクス自身によって資本論の中でたびたび指摘されている点でもある。即ち、企業は優勝劣敗の原理により、倒産合併等を繰り返しつつ資本を集積していくのであると。倒産する企業もあれば繁栄する企業もあるということは、剰余価値率に大きな差ができることの証拠であろう。
こうして見てくると、理論構築を容易にするための前提条件の中に、次の要因を内包していたと言えよう。即ち、「資本主義社会が高度になるにしたがい、その理論がますます現実から遠ざかっていく。」資本論の理論的妥当性は一切のスタ−トである前提条件の段階から大きく揺れ始めてしまった。この不安定な土台である前提条件の上に、如何なる柱を組み上げようとしているのであろうか。次章は資本論の柱とも言うべき「基本命題」に
論及していく。 |