第2章 資本論の基本命題

 

(1)8つの基本命題

 私は資本論という巨大なビルディングを構築するために必要不可欠な柱を8本選んだ。それが、これから述べる「基本命題」である。ここに取り上げた基本命題の8つは、その内1つでも欠ければ資本論が成り立たない。つまり資本論の結論がでないという、重要なものばかりである。

   

(2)基本命題の解説

基本命題bPからbWまでを解説することは、即ち資本論の要旨を述べることになろう。


<基本命題bP>
[「商品における使用価値と価値との関係」:
商品は質的側面からみると使用価値をもち、量的側面からみると価値をもっている]

マルクスは資本論の冒頭において、「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの『巨大な商品の集まり』として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。それゆえ、我々の研究は商品の分析から始まる。」(第1巻 P.49)と述べ、研究の出発点を商品の分析に求めている。基本命題bPは、その商品を分析したものである。

基本命題bPは、商品における「使用価値」と「価値」との関係を規定したものであるが、 ここで言う「使用価値」及び「価値」とは、それぞれ如何なる意味を持っているのであろうか。

 

@使用価値(use-value,worth)

 (イ)使用価値の特質

  使用価値とはもっぱら「質的」な概念であり、次のような特質をもっている。即ち、使用価値はその諸属性によって、人間のなんらかの種類の欲望を満足させるものである。従って、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが使用価値であり、使用価値は質的に異なるものである。また、使用価値は自然科学でいう物とは違い、人間が物の有用な属性とその使用方法とを発見したとき、物は使用価値になる。使用価値は、それを得るために人間が費やす労働の「量」とは関係がない。

 (ロ) 使用価値の形態

 使用価値の形態は自然の形態である。人間の目に見える形態であるから、それについては、特に研究の必要がない。

 (ハ) 労働の二重性との関係

 商品を生産する全ての労働は、一面では、特殊な目的を規定された形態での、人間の労働力の支出である。この「具体的有用労働」(work)という属性においてそれは「使用価値」を生産する。

 

 

A価値(value)             

 (イ)価値の特質

 価値とは、もっぱら「量的」な概念であり、次のような特質をもっている。すなわち、商品の価値は抽象的人間労働の量によって決まり、労働の量は労働の継続時間によって測られる。また、価値は、質的に等しい故に交換され得る。

 (ロ)価値の形態

 価値の形態は社会的形態であって目に見えるものではない。それは商品と商品との社会的な関係(交換関係)の内でのみ現象する。だから交換価値 (exchange value)−−現象形態−−を分析してその背後にある価値−−本質−−を追求する必要がある。資本論第1巻第1章第3節の「価値の形態または交換価値」が、その追求を行っているところである。

 (ハ)労働の二重性との関係

 商品を生産する全ての労働は、一面では生理学的意味での人間の労働力の支出である。この同等な人間労働、つまり「抽象的人間労働」(labour)という属性において、それは商品価値を形成する。

 

B 使用価値と価値との関係

 使用価値および価値のそれぞれの意味については以上の通りであるが、両者の関係を簡単に言えば次のようになろう。すなわち「ある物、例えば水・空気・土地等は、価値でなくても使用価値であり得る。しかし、いかなる物も使用価値であることなしには価値であり得ない。また、交換の面から言えば、交換では使用価値は捨象されて交換価値だけが残る」と。諸商品は使用価値としてはいろいろに違った「質」であるが、交換価値としては、ただいろいろに違った「量」でしかあり得ない。

 

C 商品に表される労働の二重性

 「商品はわれわれに対して二面的なものとして、つまり使用価値(use-value)および交換価値(exchange value)として現れた。」「このような、商品に含まれている労働の二面的な性質は、私が初めて批判的に指摘したものである。この点は、経済学の理解にとって決定的な跳躍点であるから、ここでもっと詳しく説明しておかなければならない。」(第1巻P.56)

 

 (イ)具体的有用労働 (Concreate useful labor)

 「上着とリンネルとが質的に違った使用価値であるように、それらの存在を媒介する労働も質的に違ったもの−−裁縫と織布である。もし、これらの物が質的に違った使用価値でなく、したがって質的に違った有用労働の生産物でないならば、それらはおよそ商品として相対することはあり得ないであろう。上着は上着とは交換されないのであり、同じ使用価値が同じ使用価値と交換されることはないのである。」(第1巻P.56)

 

 (ロ)抽象的人間労働 (Abstruct human labor)

 「裁縫と織布とは、質的に違った生産活動であるとはいえ、両方とも人間の脳や筋肉や神経や手などの生産的支出であり、この意味で両方とも人間労働である。それらは、ただ、人間の労働力を支出するための二つの違った形態でしかない。」(第1巻P.58〜P.59)

 「価値としての上着やリンネルでは、それらの使用価値の相違が捨象されているように、これらの価値に表されている労働でもそれらの有用形態の相違、裁縫と織布との相違は捨象されているものである。使用価値としての上着やリンネルは、目的を規定された生産活動と布や糸との結合物である。これに反して価値としての上着やリンネルは単なる同質の労働凝固である。それと同じように、これらの価値に含まれている労働も、布や糸に対するその生産的作用によってではなく、ただ人間の労働力の支出としてのみ認められるのである。」(第1巻P.60)

 

D 抽象化

 「商品が備えているいろいろな性質の内、使用価値は互いに質を異にしているので同等性がない。またそれは主観的なものであるから計量の可能性がない。そこでこのような使用価値を取り除いて考えると、残るのは、それらの商品が全て人間の労働の生産物であるという性質だけである。しかしこの労働というものも、米を作るとか、着物を縫うとかいうような具体的な有用労働である限り、それはなお異質的である。従って互いにそれらの大小を比較することができない。そこで労働から異質的なものを取りのけて考えると、そこに無差別な抽象的な人間労働の一定量が残留する。すなわち、商品の備えている性質のうちから質的なものを取り除いた後に残る最後のものは、抽象的な平等な人間労働である。商品の中に結晶しているこの労働こそが価値の実体なのである。」(図解資本論P.19)

 

        * 労働−具体的有用労働=抽象的人間労働

                  (質的なもの)       (量的なもの)

        * 具象−捨象=抽象 

 

 

基本命題bPの解説が長くなってしまったが、以上のことを要約すると次の表になる。

 

  

 

 

最初から「使用価値」と「価値」について、長々と論じているので、使用価値と価値の両方が、ずっとこの論文に関わってくるのかと思われるかもしれない。しかしこれから後、使用価値について論じられることはほとんどなく(第1巻第4章と第5章でもう一度出てくるが)、論じられるのは、もっぱら価値についてである。「剰余価値」も「交換価値」も価値の一種である。つまり、使用価値と価値との区別を明確のした後の資本論では、使用価値にはほとんど言及されない。それは次の二つの理由からである。

 @使用価値は自然の形態であり、研究の必要がないから。

 A資本の運動は、そもそも使用価値ではなく、価値の増殖を目的としているから。

 

 

 

<基本命題bQ>

 基本命題bQは、基本命題bPにおける「商品」を「労働力」という特定の商品に置き換えた場合の「使用価値」と「価値」について述べたものである。

 

<基本命題bQの@>
[労働力の価値は労働者の必要労働時間に等しい]

(1)「労働力」は、資本主義に特有の商品である。労働力は、人間の労働の生産物ではないから、本来の意味の商品ではない。つまり、労働力という商品の中には、具体的有用労働も、抽象的人間労働も含まれていない。また、労働力は、労働者の体のなかにある精神的ならびに肉体的な能力であるから、他の商品のように工場で生産することはできない。しかし、資本主義社会では、労働力は商品として扱われ、一定の価格で売買されている。

 

(2)「労働力」が商品となるための2つの条件(第1巻P.183)

   [T]「人格的に自由」である。………人格を持つが故の自由。

   [U]「生産手段および生活資料からの自由………生産手段を持たざるが故の自由。つまり、二重の意味での自由が「労働力」が商品となるための条件である。

(3)「労働力」の価値は労働者とその家族との生活必需品(生活資料+扶養費+教育費)を生産するのに必要な労働時間によって決められる。

 

<基本命題bQのA>
[労働力という商品は他の商品とちがって、その使用価値(労働)が価値を生む]


「労働力の価値」は「賃金」となって現れ、「労働力の使用価値」は「労働」となって現れる。賃金を支払って労働力を買い入れた以上、労働力の使用価値(労働)は、資本家の自由処分に任せられる。したがって「労働力という商品は、他の商品と違ってその使用価値(労働)が価値を生む。」(第1部第4章P.189、第1部第5章P.208

尚、労働(能)力と労働との関係は、消化(能)力と消化との関係に等しい。  

 

 

 

<基本命題bR>


基本命題bRは、剰余価値がどこから生まれてくるのか、という命題である。「どこから生まれるのか」の視点に2つ有る。1つは、再生産過程の中における「どの過程からか」という視点である。そしてもう1つは、企業にはいろいろな態様の資本があるが、「どの種類の資本からか」という視点である。前者が基本命題bRの@であり、後者が基本命題bRのAに相当する。

 

<基本命題bRの@>
[剰余価値は生産過程で生産され、流通過程では生産されない。但し、実現されるのは流通過程においてである]
 

剰余価値はどの過程で生ずるのか。ここでは「生産過程」および「流通過程」(購買過程+販売過程)について考察してみよう。

 

 @ 購買過程

  資本の運動は、貨幣資本(G)が投資されることからはじまる。投資された貨幣資本(G)は生産手段(Pm)および労働力(A)の価値に支払われる。この過程が購買過程である。購買過程を通って(G)は生産資本(P)となり、生産過程が始まる。

 

 A 生産過程

 生産過程は、労働力(A)と生産手段(Pm)との使用価値が結合されて、生産的労働が行われる過程である。生産的労働は使用価値を生産する具体的有用労働であると同時に、価値・剰余価値を生産する抽象的人間労働であるという二重性をもった労働である。したがって生産過程は、具体的有用労働が行われる労働過程と、抽象的人間労働が行われる価値形成・増殖過程との二重性をもつ。

労働過程の面で使用価値が生産され、価値増殖過程の面で剰余価値が生産される。資本による商品の生産過程は、単に商品(使用価値)を生産するばかりでなく、剰余価値を生産する過程として意義をもつ。生産された商品は剰余価値を含んだ商品であり、資本はここで生産資本(P)から商品資本(W’)となる。

 

以上のことをまとめると次のようになる。

[生産過程の二重性]

 1.労働過程−−具体的有用労働で使用価値を生産する。(第1巻第5章第1節)

 2.価値増殖過程−−抽象的人間労働で(剰余)価値を生産する。(第1巻第5章第2節)

 

 B 販売過程

 資本の運動はとどまってはならず、生産された商品は販売されなければならない。販売されて剰余価値が実現されなければならない。商品が販売されると資本はW’からG’にかわる。G’は出発点であったGと同じ貨幣資本の形態であるが、実現された剰余価値を含んでいるので、それだけ大きくなっている。商品の販売過程は、同時に 剰余価値が利潤として実現する過程である。資本の運動としては、購買過程と販売過程とはともに流通過程である。流通過程は、生産過程を前後から包んで補完しており、全体として資本主義的生産の総過程をなす。

以上のことを図表化すると次のようになる。  

 

 

 

<基本命題bRのA>
[剰余価値は可変資本から生まれ、不変資本からは生まれない]

 剰余価値はどの資本から生ずるのか。資本の主な態様を考察してみよう。

 

(A)価値の増殖様式の差異による区分  

 @ 不変資本 (Constant capital)

 端的に言えば、剰余価値を生産するか否かで、不変資本と可変資本とに区分される。生産的資本の物的要素として投下された生産手段の価値は、その摩滅と消耗とに応じて新生産物の上に移転される。その移転される価値は、生産過程の前後を通じて不変である。したがって生産手段に投じられる資本部分は不変資本と呼ばれる。

 A 可変資本 (Variable capital)

 不変資本に対して、生産的資本の人的要素である労働力の機能は、新生産物の上に労働力の価値を再現させるばかりでなく、更にそれを越えて剰余価値を付け加える。だから、労働力に投じられる価値と、労働力の機能によって生産される価値とは、生産過程の前後を通じてその大きさを変える。したがって労働力に投じられる資本部分は可変資本と呼ばれる。

 

(B)価値の回転様式の差異による区分

 @ 固定資本(Fixed capital)

 労働手段などに投下された資本部分は、その価値が摩滅に応じて断片的に生産物の上に移転され、生産物の流通を通じ、貨幣形態において部分的に回収される。残りの価値はたえずこの資本の残存分に固定され、この資本の機能によって生産された商品から独立している。このような特質によって、この不変資本部分は固定資本と呼ばれる。

 

 A 流動資本 (Circulating capital)

 流動資本か固定資本かの区分は、要するに、それに投下された価値の回転が早いか遅いかによってなされる。生産的資本要素から固定資本に属するものを除いた残りの

 (a)一部は、原料および補助材料などのような不変資本要素からなり、

 (b)他の一部はまた労働力として存立する可変資本要素からなる。

 価値の回転様式からみれば、この両者はふつう、一生産過程ごとに全部的に生産物の上に再生産され、そしてその生産物の流通を通じ貨幣形態で全部的に(可変資本は剰余価値を加えて)回収される。この特質にもとづいて、両者は流動資本と名付けられる。

 

 

<基本命題bS>
[「いわゆる資本の本源的蓄積」:資本の本源的蓄積の歴史のなかで画期的なのは、人間の大群が突然暴力的にその生活維持手段から引き離されて、無保護のプロレタリアートとして労働市場に投げ出された瞬間である] 


封建社会が解体して、資本主義的生産の基礎的な条件、即ち資本と賃労働とが生み出される歴史的な過程を、資本の本源的蓄積(または原始的蓄積)という。資本の本源的蓄積の時期は資本主義的生産様式の発生期であり、それの発展諸条件の形成期、つまり封建社会の直接的生産者が、その生産手段を暴力的に収奪される時期である。

 実際この時期には、おびただしい数の小生産者(農民や手工業者)がみずからの生産手段を奪われた。そしてまた大土地所有者や商人や高利貸しなどの手に集められた莫大な貨幣財産、農民からの強制的な土地収奪、国債制度、租税制度、植民地貿易、保護貿易制度などが、一体となってその本源的蓄積を押し進めた。およそこのような結果として、資本主義社会の基本的な階級である賃金労働者と資本家が、社会的に形成されることになったのである。

 とりわけ、農民が生産手段としての土地から切り離されていく過程、即ち封建農業それ自身の解体の過程は、本源的蓄積の基礎をなすものである。そしてこの場合、多くの国ではこの過程が単に経済的発展によってではなく、大土地所有者や商人などの支配階級の手に掌握されていた、国家権力の極めて粗暴な暴力的方法によって、より急激に押し進められたのである。

 

 

<基本命題bT>
[「資本主義的蓄積の一般法則」:不変資本の相対的増大と可変資本の相対的減少]


 基本命題bTは、資本論に述べられている2つの法則のうちの1つである。この法則は、資本の増加が、労働者階級の運命に及ぼす影響を述べている。

 即ち、「消費される生産手段の価値、すなわち、不変資本部分だけを代表する価格要素の相対的な大きさは、蓄積の進展に正比例するであろうし、他方の、労働の代価を支払う価格要素、すなわち可変資本部分を代表する価格要素の相対的な大きさは、一般に、蓄積の進展に反比例するであろう」(第1巻P.651)と。

 尚、この場合の不変資本は、「消費される生産手段の価値」を指し、「未消費部分の生産手段の価値」は含まれない点に注目しておいていただきたい。

 

 

<基本命題bU>
[「労働力の価値の労賃への転化」:労賃は労働力の価値の転化形態である]


 賃金は、本質的には、「労働力」の価値または価格の転化形態、または現象形態である。しかし賃金は、現象的には、「労働」の価値または価格であるようにみえる。

 賃金という形態の独自の役割は、不払い労働を支払い労働のようにみえさせ、資本による賃労働の搾取を隠蔽することにある。

 

 

<基本命題bV>
[「剰余価値の利潤への転化」:利潤は剰余価値の転化形態である]


 剰余価値(率)と利潤(率)との関係、すなわち、剰余価値(率)の利潤(率)への転化について、資本論では次のように述べている。

 「こうして、われわれは剰余価値率(m/v)とは別のものである利潤率(m/C)={m/(c+v)}を得るのである。可変資本で計られた剰余価値の率は剰余価値率と呼ばれ、総資本で計られた剰余価値の率は利潤率と呼ばれる。この二つの率は、同じ量を二つの違った仕方で計ったものであって、尺度が違っているために同時に、同じ量の違った割合または関係を表すのである。」(第3巻P.52〜3)

 

 これを式化すれば次の通りである。

    * 剰余価値率 m’=m(剰余価値)/v(可変資本)

    * 利潤率   p’=m(剰余価値)/C(総資本)

              =m(剰余価値)/{c(不変資本)+v(可変資本)} 


従って剰余価値といっても利潤といっても、剰余価値に対応させるものが、前者は可変資本であり後者は総資本であるというだけで、絶対量は違わない。それはあたかも一本の川の名が、上流と下流とではその名称が変化するようなものである。

 また、剰余価値は確かに生産過程でのみ生ずるかもしれない。しかしそれは未だ目に見える状態にはなっておらず、測定も不可能である。剰余価値は実現してはじめて剰余価値が生じたと言えるのであり、その実現のしかたは他ならぬ利潤として実現する訳である。従って、剰余価値と利潤とは、スタ−トの段階においては本来全く異質のものであるかもしれないが、結果として、同質・同量のものとなると言えよう。それは、

再生産表式

               Pm

     G───    ……(P)……W’───G’

               A



の最初にG(貨幣)が表示されていることでも自明であろう。実現した利潤だけが貨幣として次の再生産過程に入り込む能力がある。実現しない剰余価値は、机上の空論であり、現実には全くナンセンスである。

 こうして、基本命題bVの「剰余価値の利潤への転化」が導かれる。これは同時に、基本命題bWの中核をなす利潤率の公式が導かれたことを意味している。

 

 

<基本命題bW>
[「利潤率の傾向的低落の法則]:利潤率の低落は歴史的必然である]


 基本命題bWは資本論に述べられている2つの法則のうちの1つである。基本命題bVで導かれた利潤率の公式は次のように変形できる。

        

         利潤率 P’=m/C………………… (A)

                 =m’{v/(c+v)}……… (B)

 

但し、この(A)式から(B)式への変形にはm=m’v(mは剰余価値、m’は剰余価値率、vは可変資本)という公式が適用されている。このm=m’vの公式に我々が注目しなければならないことは、この公式の背景に、「剰余価値は可変資本からしか生じない」という基本命題bRのAが前提として存在する点である。

 次に、(B)式を更に変形した後、資本主義的蓄積の一般法則であるところの、基本命題bT「不変資本の相対的増大と可変資本の相対的減少」を適用する。すると確かに「利潤率の傾向的低落の法則」という基本命題bWは正しいように思える。

 

        利潤率P’=m’{v/(c+v)}……………(B)

                =m’{1/(c/v+1)}………(C)

 

即ち、(B)式の分母、分子をvで割れば(C)式になる。この(C)式に基本命題bTを適用すれば、不変資本(c)は相対的に増大し、可変資本(v)は相対的に減少して、(C)式、即ち利潤率は、時間(歴史)と共に低落していく傾向を示していることは明らかである。(第3巻P.222)

但しこれも、公式中の剰余価値率(m’)が一定ならば、という条件付きである。

 

 以上のように基本命題bWは、基本命題bR.bT.bVの上に成立していることがわかる。従って基本命題bR.bT.bVの信憑性に疑義が生ずれば、基本命題bWの成立も危ぶまれることになる。

 この節では、「基本命題の解説」と題して、基本命題bPからbWに関する解説を行った。ここではただ解説しただけで、検討はしていない。それは、私が以上の基本命題を全て正しいと認めているのでもなければ、逆に否定している訳でもない。基本命題の解説を行うことによって、あらかじめ資本論の全体像を把握しておきたかったのである。

 

 

(3)資本論のイントネ−ション

 ここでは、基本命題bP〜基本命題bWの資本論における位置づけを示しておきたい。次の表は、資本論の目次の右に基本命題のナンバ−を置くことによって、そのことを示したものである。

 

 

   

 この表では、目次の右に基本命題が置かれてない箇所が4箇所ある。それは、4箇所のそれぞれが基本命題を前提とした応用過程、或いは、派生的形態を論述した部分だからである。資本論におけるこれらの部分が重要でないわけではない。しかし基本と応用とに区別した場合、それらは応用部分に該当するので、そこからは基本命題が生じなかったのである。基本命題が置かれていない4カ所の、それぞれについて具体的な理由を言えば次のようになる。

 

 @第一部第四編及び第五編は、それまでの第一編から第三編までの中に剰余価値生産の基本過程が描かれているので、その応用過程を説明した第四編及び第五編からは、基本命題が抽出されていない。

 

 A第二部全体は、資本の流通過程を論じた部分である。マルクスが自ら言っているように、「剰余価値は生産過程で生産され、流通過程では生産されない。」(基本命題bRの@)従って、剰余価値の生産に焦点を当てて論じられた資本論第一部及び第三部に比べると、第二部は、論述の観点が異なっている。そういう理由から、第二部からは基本命題が抽出されていない。しかし第二部では、第一部と第三部に述べられている2つの法則が、成立するか否かを左右する大事な点が論じられている。そこで本書では、第3章でその部分について言及している。

 

 B第三部第一編で、剰余価値と利潤との関係の基本が描かれている。従って、その応用関係を論じた第三部第二編からは、基本命題が抽出されていない。

 

 C「商業資本も利子生み資本も資本主義社会では派生的な形態である」(第1巻P.179)従って、それらを論じた第三部の第四編〜第七編からは、基本命題が抽出されていない。

 

 この節の表題を「資本論のイントネーション」としたのは、資本論全体をよく見ると、始めから終わりまで、同じトーンで論じられているわけではなく、アクセントがあり、抑揚もあるという意味を込めたつもりである。

 

 

 

(4)基本命題による資本論スケッチ

 この節では、今までに取り出した資本論の骨格(基本命題)を再び組み立ててみる。つまり基本命題bPから基本命題bWによって資本論をスケッチしてみよう。次の図がそれである。

 

 

   

 即ち、中央の基本命題bP・bQ・bRは剰余価値の生産という資本論の骨格中の骨格になっていることを示している。それらが更に左右の柱を支えている。左側の柱は基本命題bS・bTが論ずるところの、資本の蓄積である。右側の柱は、基本命題bU・bV・bWが示すところの労働力の価値の労賃への転化と、剰余価値の利潤への転化である。

基本命題bP〜bTを資本運動の「本質」というならば、基本命題bU〜bWは、資本運動の「現象形態」と言える。そして直接的には、この内の基本命題bTとbWとの2つの法則によって、資本主義社会から共産主義社会への移行を余儀なくさせる「恐慌及び革命の必然」という資本論の結論が導かれている。

 「2つの法則」の関係は次の通りである。

 @まず基本命題bT「資本主義的蓄積の一般法則」では、労働者(個人)が搾取によって窮乏化し、遂には資本家(法人)に対して一斉蜂起し、革命を起こすであろうと論じられている。

 A次に、もしこの段階で革命に至らなくとも、更に労働者の窮乏化が進んでくると、基本命題bW「利潤率の傾向的低落の法則」によって、資本家(法人)が自縄自縛に陥る。結局、経営が成り立たなくなり資本主義社会は崩壊する、と論じられているのである。

 

 

 これまで、幾多の資本論批判がなされてきたにもかかわらず、いずれも部分的な誤謬を指摘するにとどまり、その本質的な欠陥を指摘できなかった。資本論が予測したものと、現実とのギャップに驚いたり、嘆いたりするだけであった。その理由として、私は次の2点を揚げておきたい。

第1は、資本論の全体像をつかみ得なかったこと。

第2は、資本論の本質的欠陥を指摘できる的確な視点を持っていなかったこと。

の2つである。

 

 第1の関門である資本論の全体像は、本著の「第一章、資本論の前提条件」及び、「第二章、資本論の基本命題」とによって紹介することができたと思う。そこで次章では、資本論第2巻と会計理論とを対比させながら、第2の関門である、資本論の本質的欠陥を指摘してみたい。       


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