第2部 共産主義と資本主義との相違点
第5章 生産部門
(1)共産主義の特徴と理想像 生産部門における共産主義の特徴について言及した一冊の本がある。宮川実著「経済学入門」(青木書店)がそれである。この中 の「社会主義経済制度の特徴」(P.326〜P.330)からその要点を抜粋して紹介してみ よう。尚、宮川氏は、社会主義は共産主義の第一段階であるとして、その用語を区別しておられる。しかしここでは、社会主義も共産主義の概念に含まれるものとして、論じていることを御了解願いたい。
(その1)生産手段の共有 社会主義社会では、生産手段(工場の建物・機械、鉱山の設備・土地・原料など)が社会によって所有(共有)されている。働く人々は、自分たちが共有する生産手段を用いて、互いに協力して、自分たちの物質的文化的欲望をよりよく満たすために生産を行う。資本主義社会での労働者は、資本家をもうけさせるために労働するのであるから、労働者にとって労働は犠牲である。ところが社会主義社会では、労働者は自分のために労働している。従って労働が楽しみとなり、労働者たちが互いに助けあって、労働の生産性を高めるために努力する。
(その2)計画経済 社会主義社会では、国民全体が生産手段を共有し、自分たちが労働して、自分たちの物質的文化的欲望をよりよく満たすために物質的財貨をつくっている。しかも生産は高度に社会化されている。従って、生産の目的を達成するためには、必然的に国民経済を厳密に計画し、生産と消費のあいだ、および生産諸部門のあいだにつりあいを保たせて発展せざるをえない。第一に生産手段部門と消費手段部門との均衡が実現され、第二に工場と農業との均衡が実現される。その結果、恐慌がなくなり、失業者が存在しなくなる。 以上の通り、生産部門における共産主義の特徴を要約すれば、「@生産手段の共有」と 「A計画経済」との2つにある。宮川実氏はその結果としての社会の状況を、非常に楽観的に述べておられる。しかし、現実の共産主義国の状況は、かなり厳しいようである。
(2)共産主義社会の現実 共産主義に対する楽観論の根本的誤りは、「生産手段を共有」すれば即「計画経済」が円滑に実行できると見込んでいるところにあると言えよう。「生産手段の共有」によって共産主義の体制は整うが、だからと言って即「計画経済」が成功するとは言えないのである。例えば日本における、あらゆる生産手段の国有化を想定すれば、現在の何百倍、何千倍もの労力が、経済の計画・統制に対して払われねばならないであろう。組織・機構は、その規模が大きくなり過ぎるとダイナミズムを失って、硬直化してしまう。 国家的な巨大組織がダイナミズムを失って硬直化した場合、その結果としての官僚主義や無責任主義が如何なる弊害をもたらしているであろうか。次にそのいくつかを紹介しておこう。
(その1)「わが祖国」サハロフ(P.136) 「これまでのところ社会主義とは常に一党独裁であり、貧欲で無能な官僚主義の権力掌握であり、いっさいの私有財産の没収であり秘密警察やその類のテロであり、生産力の破壊であり、破壊された生産力の回復と拡大のために、人民に際限ない犠牲を強いることであり、自由な良心や信念に対する暴力であった。」
(その2)「わが祖国」サハロフ(P.148) 「わが国を不断の全般的危機状態から救いだし、それに伴う全人類への危機を根絶する為には、どのような国内改革が必要だろうか。 @重工業や主要な運輸通信機関を除いたいっさいの経済的、社会的事業の部分的非国有化。 Aサービス業(修理業・ホテル・レストランなど)小売業・教育・医療などの分野での部 分的非国有化は特別に急を要する。 B農業では、部分的非集団化と、もっとも生産的で、農村の社会的精神的健全性を回復す るのにもっとも有効な私的部分の政府による奨励が必要である。」
(その3)昭和49年6月12日付け、サンケイ新聞夕刊、レーチキン教授 「日本に来てこの国の状況を知り、そこで米国の事情も新聞・雑誌などで知識を得ることができた。これらの国では運も必要だが勤勉に働けばそれだけ評価される。しかしソ連は全くその反対だ。ソ連ではいくら努力しても認められないし、努力しなくても偉い人の子弟なら良い地位に就ける。昔はソ連も社会主義の理想があった。今はまるで封建社会だ。私は1960年、レニングラード電気工業大学を卒業後、電子工業の専門家としてある研究所に入った。そこではまじめに研究してもしなくても関係ないから、みんな遊んでいた。そんな生活にやりきれなくて、日本語研究に方向転換した。」
(その4)同上 「社会主義の理論はよい。しかし、それを現実の場に適用するとすべておかしくなる。ソ連も革命後、四半世紀くらいまでは社会主義への理想が燃えていた。だが物質的充足の現在では、支配階級が作り出され、彼らに反対するものを“社会主義に対する批判”だと言って押さえにかかる。物質的充足は一方でパンの平等より個人的自由、自由選挙を要求する市民の声の増大を招くのは必然的なのに、今の指導者は自分の権力を守ることしか考えてない。
(その5)「マルクス主義の論戦」和田善太郎(P.66〜67) 「ソ連は計画経済の国である。経済の計画化と管理は、2億5千万人の総人口のうち、わずかな経済官僚の手にまかされている。生産の規模や規格がつかみやすく、その数量や品種も限定されているような重工業機械とか軍需品などなら、計画経済も簡単にやっていけます。しかし、経済規模も拡大し、複雑な状態になっている消費物資の生産は、少人数者の企画能力だけに依存していては計画もスムーズに運用されないのが当然です。
(その6)「小泉信三全集」(P.69〜70) 「官吏或いは官僚制度に対する不平は、今日本の野に満ちている。その不平は官吏の弄権、不能率と不清簾とに対するものである。私はこれ等の不満が凡て至当であるとは思わないが、その多くの部分に理由ありと認めるものである。これに処するには如何にすべきか。極めて簡単な答えは、能う限り官吏の仕事を少なくすることであると思う。 官僚主義による弊害は、人類の将来を悲観視させるのに十分である。
(3)財務諸表を参考にして 共産主義に対する楽観論及び悲観論はこれくらいにしよう。次に最も簡単な財務諸表を参考にして共産主義経済と資本主義経済の比較を行ってみる。
@製造部門の検討 製品を製造するのに必要な一切の費用は、製造原価報告書に表示されている。費用の種類は大きく分けて、材料費・労務費・諸経費・減価償却費である。これらは共産主義であろうと資本主義であろうと、その必要性は基本的に変わるまい。即ち、「生産手段の共有」に基づく「計画経済」であっても必要な費用である。 計画性のない無政府状態では、社会的に必要以上の商品を製造してしまう、という無駄が生ずるであろう。情熱も創意工夫も無くして製造した製品は、量的には計画的に製造しても、質的には粗悪品でしかなく、結果として使いものにならないこともあろう。前者は資本主義的・自由主義経済で生じがちな無駄であり、後者は、共産主義的・全体主義経済で生じがちな無駄である。
A販売部門の検討 資本論では、この販売部門を流通部門に含めて考え、「ここでは何の価値も生じない」としている。(基本命題bR)その点はともかく、資本主義社会で現実に活用されている簡単な損益計算書で、具体的に資本主義経済の無駄を指摘してみよう。 製品を販売する為に必要な費用は、給料・諸経費・減価償却費・支払利息・棚卸減耗損等である。この内、給料には販売員給料手当、事務員給料手当、役員給料手当が含まれる。また諸経費には、販売員旅費、広告宣伝費、交際費、発送費、配達費、地代家賃、修繕費、事務用消耗品費、通信交通費、雑費等が含まれる。資本主義経済に独特の費用は、これらの内、広告宣伝費と交際費であろう。確かに計画経済がスムーズに実施されている時は、販売せんが為の広告宣伝費や交際費は不要であり、無駄な費用である。
一方、共産主義経済から生ずる無駄について考えてみよう。共産主義社会で作成された損益計算書が手もとにないため、直接それを指摘することはできない。しかし、ここに共産主義国といわれたソ連における例があるので紹介したい。 「官僚的な経営によって明白な失政が行われていることに対しての怒りがある。政治には、はるか縁遠い人でさえも、毎年収穫した野菜や果物や穀物の相当部分が腐っていくのに気づかないわけにはいかない。農場へ輸送する途中で、化学肥料のほぼ50パーセントが使い物にならなくなり云々」(「わが祖国」サハロフP.54) このような大がかりな無駄と、資本主義的自由経済における広告宣伝費や交際費等の無駄とを比べたとき、どちらが大きいのであろうか。 結局、@製造部門、A販売部門、各々の検討をしても、生産部門では、資本主義社会と共産主義社会との、どちらか一方の効率が良いとは決定できないようである。
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